これまで発表されてきたRDシリーズの過去作は、いずれも驚くほどの革新性を秘めている。それらの技術をオーデマ ピゲは一発で終わる打ち上げ花火的存在とせず、カタログにラインナップし、あるいは他のキャリバーに応用してきた。
RD#1(ロイヤル オーク コンセプト スーパーソヌリ )で実現したスーパーソヌリは、今ではメゾンが展開するすべてのミニッツリピーターに採用されている。RD#2(ロイヤル オーク パーペチュアルカレンダー ウルトラ シン)の超薄型永久カレンダーは、後にレギュラーモデル化され、さらに2025年に登場した最新の永久カレンダーCal.7138に薄型化技術を導入。メゾン初のフライング トゥールビヨンを極薄で実現したRD#3(ロイヤル オーク フライング トゥールビヨン エクストラ シン)が積んだCal.2968は、現行モデルのさまざまなバリエーションで実装している。RD#4(CODE 11.59 バイ オーデマ ピゲ ウルトラ コンプリケーション ユニヴェルセル)は、オーデマ ピゲの腕時計史上、もっとも複雑なモデル。そのフライングトゥールビヨン機構には、RD#3の構造を受け継いだ。これも市販化されており、またプッシュボタンに組み込まれたリューズで永久カレンダーの各表示を個別調整できる仕組みは、前述した自動巻きパーペチュアルカレンダーCal.7138の“オールインワン”リューズ開発の足掛かりとなった。
そして今回の主役であるロイヤル オーク “ジャンボ” エクストラ シン フライング トゥールビヨン クロノグラフ(RD#5)もまた、RD#3で確立した技術が組み込まれている。その上で、リセット機構と駆動伝達を革新したまったく新しいクロノグラフを統合してみせた。目指したのは、自動巻きのフライング トゥールビヨン クロノグラフを“ジャンボ” エクストラ シンと同サイズのケースに実装することであり、プッシュボタンの操作感の向上。そのための創意工夫が、随所に行き渡っている。
RD#5は、2025年10月1日に正式発表された。しかしそれよりも遡ること約7カ月2週間の2月18日にその存在を知ったメディア関係者が、約50名いた。スイス本社で開催された新作発表会、APソーシャルクラブの参加者たちである。正式発表までは他言しないとの誓約書にサインした後、エリアごとにグループ分けされ、順にRD#5が披露された。前述した「“ジャンボ” エクストラ シンと同サイズのケースに実装することを目指した」とは、開発を主導したオーデマ ピゲ ウォッチ コンセプション ディレクター、ジュリオ・パピ氏のプレゼンテーションでの言葉だ。“ジャンボ”のケース径39mm、厚さ8.1mmのケースに納めるためには、薄型化は必須。フライング トゥールビヨンの薄型化は実現済みだが、問題はクロノグラフだ。
「クロノグラフ機構の薄型化を拒む要因のひとつは、積算計車にハートカムが重なる構造です。しかし誰も改善しようとしてこなかった。クロノグラフのリセットは、ハンマーでハートカムを叩くものだと決めつけていたのです」
そう語るパピ氏は、薄型化のひとつの足掛かりとしてリセット機構を抜本的に改革した。ハンマー+ハートカムに代わってラック&ピニオンを用い、レトログラードのようにリセットさせたのだ。
上下に重なった機構を横に広げるのは、薄型化の常套手段。そのためには、平面でのスペースが要る。ましてやラックギアは、歯車よりもはるかに占有面積が大きい。RD#5のケースバックから見えるのは、実はクロノグラフ機構のみ。全面にあらわになっているのは、薄型化のためにメゾン初のペリフェラルローターを採用したからだ。その巻き上げ輪列を含め、香箱からの主輪列、後述する画期的なリューズ機構のすべてが、ダイヤル側で構築されている。つまりムーブメントのケースバック側全面をクロノグラフ機構に充てることで、ラック&ピニオン機構のためのスペースを稼いだのだ。
クロノグラフを作動させると、各積算計車と同軸にあるピニオン(カナ)に噛み合うラックギアが移動する。その動きで、各ラックに備わるリターンスプリングに力をためる。ラックギアは、終点まで至ると始点に戻らないと動き続けられない。そこで各積算計車が1周した部分にあたるピニオンの歯をカット。ラックの終点は、その切り欠きで噛み合いが外れ、リターンスプリングの力で始点に戻り、再びピニオンに噛み合い、次の移動を始める。この仕組みと動きは、分・時積算計でも同じだ。
「これまでのクロノグラフは、積算計車の回転を安定させるために摩擦スプリングが必要でした。これはブレーキを掛けながらクロノグラフを動かしているようなものです。しかし今回の構造では常にリターンスプリングがラックを介して積算車にテンションをかけているので、摩擦スプリングは不要です」(パピ氏)。
リターンスプリングにトルクを蓄える負荷は、摩擦スプリングよりもはるかに小さいという。秒・分・時のラック形状が異なるのは、櫛歯(くしは)の反対側にそれぞれの積算計車の回転速度に最適化したカウンターウェイトが備わっているからだ。
秒ラックには分積算車の、分ラックには時積算車の各ジャンパーにつながるレバーが備わる。そして秒・分の積算車が1周してラックが戻る動きでレバーを移動させ、次の積算車を1歯分送っている。ラック&ピニオンは、分・時の各積算計車の駆動伝達も担っているのだ。
これらクロノグラフ機構の起点となる駆動車は、トゥールビヨンと同軸に設置されている。この構造は、2020年にリリースされたCal.2952と同じ。そして中間車を介して中央の秒積算車を駆動する。ムーブメントの写真では、6時位置が駆動車、その右上が中間車。この構成は水平クラッチのように見えるが、実は中間車が上下に動く垂直クラッチとなっている。中間車に板バネが重なっているのは、そのため。これは、薄い水平クラッチと、スタート時の針飛びを解消する垂直クラッチの、優れた面だけを取り入れたハイブリット版だと言えよう。
クロノグラフを作動させると、中間車が下がって秒積算計車と噛み合う。ストップ時には上昇して、噛み合いから外れる。その際、各積算計車がラックのリターンスプリングで引き戻されないように、それぞれに停止爪が掛かり、スタート時は外れる。そしてリセット時には、レバーで停止爪が押し上げられ、各ラックがピニオンに噛み合ったままリターンスプリングの力で始点に戻り、すべての積算計針を0位置に戻す。RD#5にはフライバック機構も備わるが、その場合は停止爪が外れているので、レバーが中間車を押し上げて駆動力を切断することでラックを戻している。
ムーブメントのダイヤル側
ムーブメントのケースバック側
便宜上レバーと書いたが、スタート・ストップ・リセットは秒積算車の下に設置されたリング状のベースから、秒・分・時の積算計車と各プッシュボタンにレバーを伸ばす一体成形のパーツがシーソーのように左右に傾くことで切り替えている。既存のクロノグラフのように個別のレバーやハンマーが入り組まないため、薄型化がかなった。さらにこの一体成型パーツでラック&ピニオンを規制する仕組みは、RD#5開発のもうひとつの目的であったクロノグラフの操作感の向上をかなえる。
ムーブメントのケースバック側の写真の11時位置あたりに、ブリッジの下に設置したコラムホイールが確認できる。すなわち、スタート・ストップボタンの直近に置かれている。結果、わずかなボタンストロークでコラムホイールへアクセスすることを可能とした。そもそもフライバッククロノグラフは、リセット時にはコラムホイールを経由しない。したがってスタート・ストップボタン側に寄せられたのだ。一方、これまでのフライバッククロノグラフは、リセットボタンを押す力でハンマーを動かし、ハートカムを叩いていた。回転中の積算計車を強引に逆回しするためには、長いボタンストロークと押し込む力が必要となる。対してRD#5は、一体型レバーをテコの原理で傾けるだけでリセットできる。これらの構造によって、各プッシュボタンの操作感は劇的に軽くなり、押し込むストロークもはるかに小さくなった。
パピ氏によれば「これまでのクロノグラフのプッシュボタンのストロークは1mm以上あり、約1.5kgの力が必要だった」という。それがRD#5ではストローク0.3mm、押す力は約300gというスマートフォンのサイドボタンと同等の操作感がかなえられた。リューズ上下に備わるプッシュボタンの存在にすぐに気づけないほど小さいのは、そのためだ。またオーデマ ピゲ チーフ インダストリアル オフィサーのルカス・ラッジ氏は、「的確かつ快適な押し心地をかなえるため、専用のシミュレーターを開発し、検証を重ねました」と完成までの経緯を明かしてくれた。
またRD#5は、リューズ機構にもメスを入れている。ヘッドを押すと赤いラインが入ったボタンが突き出て針合わせに、ボタンを押し戻すと巻き上げに、それぞれ切り替わるのだ。ムーブメントの写真のダイヤル側3時半位置に、2層の星車とレバーが確認できるが、リューズを押す度に星車が回ってレバーが動き、巻き上げ輪列と針合わせ輪列が切り替わる。これでカンヌキバネやキチ車が不要となり、厚さが削られた。また香箱も吊り下げ式とし、さらには香箱蓋自体を角穴車とすることで薄型化を図っている。クロノグラフ機構以外でも、薄型化を図る工夫が盛り込まれているのだ。
かくして自動巻きフライング トゥールビヨン クロノグラフのCal.8100は4mm厚という極薄となり、39mm×8.1mmの“ジャンボ”ケースへの実装をかなえたのである。
革新的かつ見た目が斬新なクロノグラフ機構に注目が集まるが、RD#5の薄さにはオーデマ ピゲの地道な研究・開発の成果が支えていることを忘れてはならない。そして多くの時計ファンはRD#1~3がそうであったように、RD#5のクロノグラフ機構が他のモデルへ応用されることを願っているであろう。事実上、クロノグラフ機構はモジュールのように独立している。全体のレイアウト変更などは必要だが、基本原理を変えることなく他のベースムーブメントに重ねることはできるはず。ラッジ氏に「今後、他のモデルに応用されるのか?」と訊ねたところ、返事は「すぐには難しい」──全否定でなかったことに、希望が残る。
2015年以来、時計関係者とファンをわくわくさせてきたRDシリーズは2025年、フィナーレを迎えた。RD#5は、その集大成としてまさにふさわしい。何故ならこれまで以上に抜本的にメカニズムを革新したからだ。さらに良好な操作感で顧客体験を向上させるという、複雑機構の新たな価値を創出したからでもある。RDシリーズの終焉を創業150周年にぶつけてきたのは、オーデマ ピゲが今後目指すのは、より上質な顧客体験と複雑機構の両立だというメッセージなのかもしれない。新たな名、新たなアプローチで、“研究・開発”の卓越した成果を形にしたシリーズが今後登場することを期待したい。
創業150周年を記念した「ハウス オブ ワンダーズ展」が東京・銀座で開催中
さらにオーデマ ピゲの歴史を探りたいという方は、東京・銀座の並木通りで開催中の「ハウス オブ ワンダーズ展」へ。5つのエリアで構成された同展示は「時のギャラリー」、アーカイブピースから最新コレクションまでを紹介する「デザインの金庫室」、そしてメゾンのクリエイティビティをVRで体験できる「アイデアの旅」など、来場者を過去・現在・未来へと誘う内容になっている。
【展示会詳細】
オーデマ ピゲ 150周年記念「ハウス オブ ワンダーズ展」
開催期間: 2025年11月10日(月)~ 2026年4月30日(木)
時間: 11:30~19:30 (最終入場18:30)
住所: 東京都中央区銀座6-7-12
入場料: 無料(予約優先)
お問い合わせ: 特別展事務局 03-6830-0025
予約ページ: こちら
*予告なく開館時間・休館日が変更になる場合があります。
Words : Norio Takagi Photos : Jun Udagawa Illustrations : Arthur Junier