コレクション名は、英語で“前衛”の意。──ヴァンガードは2014年に登場するやいなや、人気コレクションとなった。元来はクラシカルなトノウ型を、大きく厚くすることでモダナイズ。両サイドを複雑な曲線でカットアウトして金属製の別体パーツを組み込み、横顔をツートーンに仕立て上げた2層のケースが特徴だ。さらにストラップを裏蓋に取り付ける構造でラグをなくし、力強いフォルムをさらに純化している。3次曲面で織り成したトノウ カーベックスとは異なり、ヴァンガードはロングアイランドと同じ6~12時方向だけの2次元曲面であり、大型であっても抜群のフィット感が得られる。針は極太のスケルトンで、インデックスは、ビザン数字をよりダイナミックに再解釈した。
何もかもが新しいヴァンガードは、まさにメゾンの“前衛”として生まれた。翌年には小ぶりなレディスモデルも登場。2017年には、既存モデルよりもケースを約3mm薄型化したヴァンガード スリムがリリースされた。ケース製造の巧者であるフランク ミュラーは、サイズ感の操作で、印象をガラリと変えてみせたのである。また、同メゾンはダイヤル製造にも長ける。その技術が、ヴァンガード スリムの新たなる境地を開いた。それまでのモデルはスケルトン仕様を除き、初作と同じアウトラインで構成した新しいデザインの数字を用いてきた。しかし2025年にリリースされたヴァンガード スリム スフマートは、メゾン全体を俯瞰しても異例となる、アプライド(植字)のバーインデックスを採用。そしてたっぷりの余白をサンレイ仕上げのグラデーションで華やがせたのだ。
この新たなダイヤル表現は、ヴァンガードがメゾンを象徴するひとつとして周知されたとの自信の表れであろう。アイコニックなビザン数字がなくても、フランク ミュラーの時計だとわかる。クラシカルとモダン、いずれの表現であっても湾曲したトノウケースはメゾンのシグネチャーとして認知された結果、ダイヤルデザインの自由度は無限に広がった。
時の表現。その探求の末にたどり着いた“スフマート”技法
ヴァンガード スリム スフマート オリーブダイヤル
Ref.V43SS6ATFOSFUMATO ACOL 209万円(税込)
「私の目が見たものを、私の手がそのまま描く」。ルネサンス期のイタリアが生んだ万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチは、自然の本質を探るために絵を描き始めたのだという。そして彼は「自然のなかに直線は存在しない。すべては連続し、境界は静かに溶け合っている」との考えに至った。それを絵画として具現化したひとつが、大傑作『モナ・リザ』である。
キャンバスに描かれた肖像と背景のいずれにも直線と輪郭線は一切なく、さまざまな色調やその濃淡の変化で陰影を表すことで、極めて写実的な立体感・遠近感が、完璧に表現されている。この絵画技法は、のちに“スフマート”と呼ばれるようになった。
ヴァンガード スリム スフマート サーモンダイヤル
Ref.V43SS6ATFOSFUMATO ACSM 209万円(税込)
複雑機構とデザインの両面で優れた創造性を発揮してきた時計師フランク ミュラーもまた、自然界の造形にならい、直線と平面が一切ないトノウ カーベックスを創造した。2次元曲面構成であるヴァンガードは上下に直線を有するが、平面は存在しない。そしてイタリア人であった母のDNAに導かれたかのように、天才時計師はダ・ヴィンチのスフマート技法に魅せられた。それをダイヤル表現として用いたのが、ヴァンガード スリム スフマートだった。
2025年、ピンクゴールドケースで展開されたスフマートダイヤルに続き、今年はステンレススティールケースを採用したオリーブ、サーモン、グレーの3色が加わった。そのいずれもが前述したようにサンレイ加工を下地としていることで、光の具合によって各色のグラデーションがより強調される。同時に12~6時方向の曲面が光を複雑に反射して、視覚的奥行き感も生じさせている。
ヴァンガード スリム スフマート ブラックダイヤル
Ref.V43SS6ATFOSFUMATO 5NTT 385万円(税込)
スフマートダイヤルは、フランク ミュラーの美の新境地……というだけに留まらない。ダ・ヴィンチが自然の本質を探求した結果、スフマート技法に行き着いたのと同じ。時の本質を深く思索し続けてきたフランク ミュラーは、色の境界がないまま濃淡が複雑に変化するこのダイヤルで、夜明けから正午、そして黄昏へと移ろう時間を視覚化しようと試みたのだ。さらには感覚的な時の流れる速度の変化を生じさせる人の感情のゆらぎまでも、スフマートはダイヤルに留める。これは“時の感情”の表現とも呼べるだろう。
搭載する自社製自動巻きCal.FM708は、2針+スモールセコンドというシンプルなタイムオンリーであるが、本作はこのダイヤル表現にこそ、天才時計師の“時の哲学”が息づいている。
メゾンの“貌(かたち)”を支える、腕利き専門メーカー
ヴァンガード スリム スフマートを特徴付けるサンレイ加工とグラデーションの組み合わせは、時計の歴史上でも試みられている。しかし同コレクションのような強いカーブを2次元曲面で実現しているのは異例だ。なぜなら、製作がきわめて難しいからである。そのダイヤル製作を一手に担うのが、スイス・ジュラ州レ・ボワに拠点を置くダイヤルメーカー、フィル・ダーノルド・リンデール社(Les Fils d’Arnold Linder SA)だ。
1974年にル・ロックルで創業したダイヤルメーカーである同社は、1999年にフランク ミュラー ウォッチランド傘下となり、翌年、現在地に移転した。そのアトリエは、人里から遠く離れた丘陵地に建つ。辺鄙(へんぴ)な場所である理由は、地下工房に行けば明らかだ。そこには巨大な3つのプーリー(滑車)が備わるマシンが並び、操作するたびに“ドスン”という地響きをとどろかせている。これらは、プーリーの作用で金型の打力を180トンまで増幅するプレス機。操作時の爆音と振動が、周囲の住民へ悪影響を及ぼさない場所にアトリエを構えたというわけだ。
フィル・ダーノルド・リンデール社(Les Fils d’Arnold Linder SA)
同社がフランク ミュラーのダイヤルを手がけるようになったのは、1996年から。そして30年のあいだ、同メゾンの多様な表現を実現してきた。トノウ カーベックスの3次元曲面ダイヤル、インデックスの色が個々に異なるカラードリーム、多様なギヨシェパターンなど。例を挙げれば、枚挙にいとまがない。
地下にある年代物の超高圧プレス機は、立体的な模様付けに多用されてきた。ベースとなる真ちゅう板を円形にくり抜き、マシンにセット。180トンの打力で金型の模様を写したあと、熱処理して内部応力を抜き、再びスタンピングするという工程を繰り返すことで、伝統的な手動彫り機に比肩するほどエッジがシャープで、明確なギヨシェパターンが得られる。またヴァンガード スリム スフマートのダイヤルの下地となるサンレイ装飾のために、メゾンの審美眼にかなう繊細な放射状の装飾が実現できる専用マシンも導入された。
コイル状に巻かれた真ちゅう板が専用のマシンに送り込まれ、円形に打ち抜かれていく。
円形の真ちゅうプレートをプレス機にセットし、ギヨシェ模様などをスタンピングする。
模様付けが終わると、各ダイヤル形状にカット。その後は、フランク ミュラーならではの加工が待つ。トノウ カーベックスは3次元、ロングアイランドとヴァンガードは2次元の各曲面加工だ。各ダイヤル曲面に造作した金型のあいだで、クッションとなる樹脂を介してプレスする。その専用プレス機のレバーは人の手で操られ、曲がり具合を確認しながら、ゆっくりと慎重に圧力をかけていく。この曲げ加工で、ギヨシェ模様の明確さが損なわれることは一切ない。フランク ミュラーならではのダイヤルの造形美と装飾美は、職人技術の賜物なのである。また、あまりに繊細で傷つきやすいスフマートダイヤルのサンレイ仕上げは、メッキ処理と曲げ加工のあいだに行われている。放射装飾の均一性を保ちながら手作業で曲げていくことが、いかに難しいか想像できるだろうか?
こうしてダイヤルの下地の模様・形状などを整えたのち、カラーリングを行う。フィル・ダーノルド・リンデール社はメッキも自社で行い、またラッカー、それを幾層にも重ねながら低温で焼き付けるコールドエナメル、さらにPVDまで可能にする設備と技術を有し、フランク ミュラーの多品種少量生産に応えてきた。ヴァンガード スリム スフマートで同社初の試みとなったグラデーション塗装も、長年培ってきた薄く均等に吹き付けるラッカー塗装技術の応用で、極めて滑らかな色の濃淡の移り変わりを織り成してみせた。
インデックスの転写は、手動のタンポ印刷機による。そして驚くことにカラードリームの多色インデックスは、すべて手描きでそれぞれの色を載せている。その専用ペンはスポイト状になっていて、表面張力を利用して厚手の色載せを実現しているのは、同社独自の技法だ。
フランク ミュラーは、メカニズムとともに美も探求してきた。ダイヤルに対する要求は厳しいかつ多く、それゆえ多くの手作業が介在する。求められる美をかなえるためにコストと手間を惜しまないフィル・ダーノルド・リンデール社。その技術力と多様性はスイスでも屈指であり、フランク ミュラーが生み出す無限の創造性に応えるため、情熱とその技術を磨き続けている。
“時間を描く”スフマート技法で広がる新たな選択肢
Photo by Marc Piasecki/Getty Images
早熟の天才フランク ミュラーは1992年のブランド創設以前、顧客の要望に応じた時計を製作していた。そう、オーダーメイドが、メゾンの原点なのだ。だからだろうか? 同じモデルでも、他社よりも圧倒的に多彩なダイヤルカラーや仕上げ、ケースサイズ違いなどを当然のように展開してきた。多品種少量生産は、1992年からのメゾンの伝統なのだ。加えて驚くべきは、入荷ロットごとにストラップも変えているということ。ゆえに同じ時計を探すことは難しく、量産でありながらも一期一会の出合いを提供する。ヴァンガード スリム スフマートも、昨年の初登場に続き、今年はケース素材とダイヤルカラーのバリエーションを増やしている。
豊富なバリエーションは、まるでオーダーメイドのような自分にぴったりな1本に出合える機会を増やす。伝統的な複雑機構を腕時計で実現し、かつ自在に組み合わせることで世に出た天才時計師は、その後もクレイジー アワーズのような独創的な機構の数々を生み出してきた。それと同時に、シンプルなモデルにおいては、その外装で時の概念を思索し、他社にはない表現をファンに届けるのである。
ヴァンガード スリム スフマートコレクション
ヴァンガード スリム スフマート オリーブダイヤル
Ref.V43SS6ATFOSFUMATO ACOL 209万円(税込)
ステンレススティールケース、カーフ×ラバーストラップ。ケースサイズ縦52.3mm、横42.5mm、厚さ約9.8mm。日常生活防水。自動巻き(Cal.FM708)。約35時間パワーリザーブ、2万1600振動/時
ヴァンガード スリム スフマート サーモンダイヤル
Ref.V43SS6ATFOSFUMATO ACSM 209万円(税込)
ステンレススティールケース、カーフ×ラバーストラップ。ケースサイズ縦52.3mm、横42.5mm、厚さ約9.8mm。日常生活防水。自動巻き(Cal.FM708)。約35時間パワーリザーブ、2万1600振動/時
ヴァンガード スリム スフマート ブラックダイヤル
Ref.V43SS6ATFOSFUMATO 5NTT 385万円(税込)
18Kピンクゴールドケース、カーフ×ラバーストラップ。ケースサイズ縦52.3mm、横42.5mm、厚さ約9.8mm。日常生活防水。自動巻き(Cal.FM708)。約35時間パワーリザーブ、2万1600振動/時
Photos:Takeshi Hoshi(estrellas) Styled:Eiji Ishikawa(TRS) Words:Norio Takagi
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