グラスヒュッテにおけるドイツ時計産業の歴史を語る際、A.ランゲ&ゾーネ創業者のフェルディナント・アドルフ・ランゲ、そして彼の師である時計師ヨハン・クリスチャン・フリードリッヒ・グートケスの名がよく挙がるが、もうひとり欠かすことのできない人物がいる。カール・モリッツ・グロスマンだ。
1826年、ドレスデンに生まれたグロスマンは、近代ドイツ時計産業の父とされるフェルディナント・アドルフ・ランゲと同じ時代を生きた時計師であり、よき友人であったと言われている(わずかな期間、ランゲと同じ工房でも働いていた)。時計師として研鑽を積んでいくなかで、彼はロンドン、パリ、スイス、北欧と、ヨーロッパ各地を巡り、最先端の時計技術を吸収。1854年にグロスマンは再びドイツに戻り、グラスヒュッテに自身の工房を興した。
グロスマンの真の偉大さは、何よりもグラスヒュッテの時計産業の発展に寄与した点にある。彼は1878年にドイツ時計学校(German School of Watchmaking)を創設し、後進の育成に心血を注いだ。また、技術著者としても評価されており、精密計測機器や脱進機に関する論文を執筆するなど、時計学の体系化に多大な貢献を果たした人物として知られる。しかし1885年にグロスマンが急逝すると、後継者がいなかったことから彼の工房は解散。その後、彼の名は技術書や時計史の注釈としてのみ登場することとなった。これが100年以上ものあいだ、その名が歴史に埋もれていた大きな理由だが、ひとりの女性時計師の手によりよみがえった。それが現代のモリッツ・グロスマンである。
名工の名を受け継ぐ、現代グラスヒュッテの良心
ベヌー パワーリザーブ
Ref.MG-000628 1210万円(税込)
モリッツ・グロスマン復活当初からコレクションを飾る、パワーリザーブインジケーターを備えたアイコニックなモデル。プラチナケース。ケース径41mm×ケース厚11.65mm。日常生活防水。手巻き Cal.100.2:26石、1万8000振動/時、約42時間パワーリザーブ。
2008年に復活を遂げたのが、現在のモリッツ・グロスマンだ。主導したのは、クリスティーネ・フッター氏。かつてグラスヒュッテ・オリジナルやA.ランゲ&ゾーネでマーケティングや販売の経験を積んだ時計師である。彼女はモリッツ・グロスマンの名に秘められた価値と可能性を見いだし、家族の協力を得てブランドの権利を取得。再びこの伝説的な時計師の名と、それにふさわしい時計づくりを始動させた。
フッター氏が掲げた指針は、“最も美しいドイツの手仕事(Schönstes deutsches Handwerk)”。単なる懐古主義ではなく、19世紀のグロスマンが追求した“簡潔にして完璧な時計”という哲学を、21世紀の最新技術と融合させることを目指した。そして2010年には、復活後第1号モデルとなるベヌー(BENU)を発表。2013年にはグラスヒュッテのウーファー通り1番地に最新の自社マニュファクチュールを設立し、わずか5年足らずでムーブメントの設計から部品製造、仕上げに至るまで、その90%以上を内製化する体制を構築した。
モリッツ・グロスマンの時計が、他と一線を画すのは、製造過程における“非”工業的なアプローチだ。同ブランドでは、大量生産を目的とした自動化システムをあえて排除し、熟練の職人による手作業に重きを置く。年間生産本数は、ブランドの独占性とクオリティを維持するために現状350本程度に制限されており、この希少性が時計愛好家を惹きつける要因のひとつになっている。
“手づくり”を理念にするブランドの思想
モリッツ・グロスマンの時計づくりで、最も象徴的なパーツは針である。現代において、針まで自社、しかも手作業で製作するメーカーは世界でも数えるほどしか存在しない。同社の針は、スティールから1本1本削り出され、職人が手作業でブラウンバイオレットと呼ばれる独特の色彩に焼き上げる。これは一般的なブルー(青焼き)よりもわずかに低い温度で処理される必要があり、その色調を均一に保つには熟練の勘と極めて繊細な技術が要求される。
主に小径スモールセコンドモデルが採用するCal.102.1。テフヌートや37mm径の37 アラビックなどに搭載されるムーブメントだ。
小径のCal.102.1は直径26mm、厚さ4mmのコンパクトな設計でありながら、特徴的な5分の3プレート構造を採用。ほかにも盛り上がったゴールドシャトン、ブラウンバイオレットに焼き戻した平ネジ、さらにプレートやテンプ受けのハンドエングレービングなど、見てすぐに“グロスマンらしい”とわかる要素を押さえている。
ムーブメントの設計においても、同ブランドは19世紀のグラスヒュッテの伝統を継承しつつ、モリッツ・グロスマンが遺した独自の特徴を受け継いでいる。その中心となるのが“3分の2プレート”だ。ドイツ時計の多くに見られる4分の3プレートより大きな開口部を備えており、ムーブメントの堅牢性と安定性を損なうことなく、より広い範囲のパーツの仕上げを見せることができるこの構造は、洋銀(ジャーマンシルバー)の美しさを際立たせるキャンバスとなる。支柱構造を持つプレートには、手彫りのエングレービングが施されたテンプ受けや、ネジ留め式のゴールドシャトン、そして鏡面仕上げ(ブラックポリッシュ)が施された各種ネジや歯車が配される。
グロスマンのムーブメントの大きな特徴である、プッシャー付き手巻き機構。ユニット単位で取り外しができるようにすることで、メンテナンス性に配慮している。
また、技術的な独自性として“グロスマン製プッシャー付き手巻き機構”を忘れてはならない。多くの時計ではリューズを引いて時刻を合わせた後、押し戻す際に針が微妙に動いてしまう“針飛び”が起こるが、同ブランドはこの問題を解決するために独自のプッシャーを採用した。リューズを引くと時刻設定モードに切り替わり、同時にムーブメントはハック(停止)状態になる。調整後、リューズの下にある小さなプッシャーを一度押すだけで、針飛びを起こさず正確に時計を再始動させることができる。このシンプルで合理的な解決策こそ、モリッツ・グロスマンの真骨頂と言っても過言ではないだろう。
少量生産に宿る、日本市場への特別なまなざし
モリッツ・グロスマンが復活第1号のべヌーを世に送り出してからわずか5年。2015年にブランド初の直営ブティックを東京・小石川にオープンさせた。一般的に、高級時計ブランドの多くは銀座や表参道に拠点を構えるが、フッター氏と日本法人代表の工藤光一氏は、歴史と伝統が息づく地として、あえて閑静な小石川の住宅街を選んだ。
2019年に東京で発表されたブランド初のレクタンギュラーモデルとなった、コーナーストーン(Corner Stone)。
日本市場との結びつきは、単なる物理的な拠点というだけにとどまらない。日本の時計愛好家の優れた審美眼は世界的にも認められているが、この要求水準の高い日本市場で受け入れられることは、ブランドにとって世界的な成功、品質保証と同義だった。実際、日本からのフィードバックは本国の製品開発に多大な影響を与えており、数多くの日本限定モデルの誕生へと繋がっている。
それを象徴するひとつが、2019年に発表されたコーナーストーン(Corner Stone)だ。この時計は東京で初お披露目となったが、誕生のきっかけは日本ブティックを通じた提案だった。当時の公式プレスリリースではコーナーストーンの意匠が“日本で人気のあるデザイン”であること、そしてレクタンギュラーケースならではの4つの“角(コーナー)”は日本の四季を意味することを明言しており、日本を強く意識したモデルであったことがわかる。
ベヌー・ピュア ジャパンリミテッド(2016年)
モリッツ・グロスマンが日本市場をいかに特別視しているかは、これまでに発表された日本限定モデルを知れば自ずと理解できよう。日本限定モデル、ベヌー・ピュア ジャパンリミテッド(2016年)は、日本限定20本として展開された少量生産モデルで、初代ベヌーの意匠を復刻しつつ、ブランド初のブラックダイヤルを採用。ダイヤル素材は通常のピュアシリーズとは異なるソリッドシルバーが用いられ、針にはゴールドモデル同様の量感ある仕上げが与えられた。外装もケーストップをサテン、サイドをポリッシュとするなど、全体の佇まいをていねいに編集し直した。
37 アラビック ジャパンリミテッド
ローズゴールド仕様は935万円、ステンレススティール仕様は638万円(共に税込)
RGモデルは15本、SSモデルは18本限定。通常の37 アラビックにはない針やレイルウェイトラック、ブランドロゴを採用し、より一層端正な顔付きになっている。ケース径37mm×ケース厚9.2mm。日常生活防水。手巻き Cal.102.1:22石、2万1600振動/時、約48時間パワーリザーブ。シルバー無垢製ダイヤル、片面反射防止加工をしたサファイアクリスタル風防、手縫いブラウンアリゲーターストラップ。
2024年にブランド日本上陸10周年、そして2025年に小石川ブティックが10周年を迎えることを祝して製作された37 アラビック ジャパンリミテッドは、より一層、日本的な感性を先鋭化させた限定モデルと言えよう。ブランドの原点であるファースト・ベヌーの意匠を37mmのケースで再構築。19世紀のグロスマンが製作した懐中時計に使用されていた“M. GROSSMANN”の筆記体ロゴをあしらうほか、ブラウンのアラビア数字、すっきりしたレイルウェイのミニッツスケール、そして洋ナシ型の繊細な針など、そのディテールはモリッツ・グロスマンが手がけた19世紀の懐中時計へのオマージュとして統一されている。
37 アラビック トレンブラージュ ISHIDAリミテッド
RG仕様、ホワイトゴールド仕様ともに1067万円(税込)
世界限定各3本、再販予定のないまさに希少なリミテッドモデル。精巧なトレンブラージュ模様が彫られたダイヤルが特徴。RGモデルには同色のゴールド針、WGモデルには徹底的に磨き上げたSS針を合わせる。ケース径37mm×ケース厚9.2mm。日常生活防水。手巻き Cal.102.1:22石、2万1600振動/時、約48時間パワーリザーブ。ジャーマンシルバー製ダイヤル。片面反射防止加工をしたサファイアクリスタル風防、手縫いのアリゲーターストラップ(RG仕様はダークブラウン、WG仕様はブラック)。
また37 アラビック トレンブラージュ ISHIDAリミテッドは、37 アラビックの端正さに加えて、職人の手作業により表現が可能な“揺らぎ”と“温もり”を追求したモデルだ。
本作のジャーマンシルバー製ダイヤルには、“トレンブラージュ(フランス語で震えを意味する)”と名付けられた、複数の専用工具を使い分けて仕上げる伝統的なエングレービングが施されている。これは、ごく限られた職人が一点一点、手作業で仕上げるため、量産は不可能。だが、そうして得られたレリーフ状の高低差を持つ細やかな彫金を施したダイヤルは、光の加減によって単なるテクスチャーとは異なる表情とマットな質感を与え、ブラッシュ仕上げが施されたインデックスや目盛り、ブランドロゴの存在を強調する。
また、表面にはブラック・オーアールと呼ばれるアンスラサイトカラーのガルバニックコーティングが施されており、通常の37アラビックよりもずっと陰影が深く、静かで濃密な印象を生み出す。遠目には落ち着いて見えるが、近くで見るときわめて手の込んだ工芸的な魅力を感じさせる。これはまさに最先端の技術と伝統的な装飾技法を組み合わせた時計づくりを信条とするモリッツ・グロスマンの理念を体現している。
静かな美意識と緻密な手仕事が、愛好家を惹きつける
モリッツ・グロスマンが日本と共鳴する理由は、その価値が“見せる”よりも“感じ取る”ものに近いからだろう。遠目に一瞬でわかる記号性ではなく、手に取って初めてわかる質感、光の当たり方で表情を変える針、ルーペ越しに見えてくる仕上げの精度、操作したときに伝わる機構の感触。そうした価値は、工業的に作られる腕時計ではなく、工芸品のそれに近い。特に日本の時計愛好家は、かつて独立時計師の作品にいち早く注目するなど、以前から細部に宿る作り手のこだわりや美意識を好む土壌があったことも大きく影響しているだろう。
一方でモリッツ・グロスマンは、単に日本的な感受性に迎合するわけではなく、自らの哲学を崩さない。決して日本で支持されるために変わったわけではないが、日本で理解されることで、その価値がよりはっきりと立ち上がったというのが適切だろう。
モリッツ・グロスマンとはどんなブランドか。グラスヒュッテの伝統を現代に継承する独立系マニュファクチュール、手仕事の美しさを誇るブランド。いずれもモリッツ・グロスマンの魅力だが、その説明だけでは足りない。伝統的な意匠や時計づくり、手仕事を単なる製法としてではなく、アイデンティティ、信念として掲げて、機構と意匠を高次元で形にしようという思いがブランドの根底にある。そうした価値を早くから深く受け止めた市場のひとつが日本であり、日本市場との対話を通じて、その本質を明らかにし、磨き上げてきたことが、今のモリッツ・グロスマンをより魅力的な存在にしている。
Photographs by Keita Takahashi