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Dispatch ジュネーブに設置されている公共時計と日時計の数々(ロレックスが77年間休まず巻き続けている教会時計も)

時計界の中心地を誇るジュネーブだけに、興味深い公共時計の数々が存在する。

※本記事は2017年11月に執筆された本国版の翻訳です 。

私は10年以上にわたり、年間数回ジュネーブを訪れており、パスポートの査証スタンプのおそらく半分が“ジュネーブ”で埋め尽くされているにもかかわらず、これまでホテルや会議室、あるいは毎年1月に開催されるジュネーブサロン(SIHH、現Watches & Wonders)の会場である空港近くのパレクスポ(Palexpo)センターなどの屋内以外、街を散策する機会がなかった。しかし、先月はGPHGの日程の都合上やや時間を持て余していたこともあり、数日間ジュネーブの街を歩き回った。ジュネーブは親しみを込めてけなすのに最適な街である。保守的なことで有名なこの街は日曜日にはほとんど何もすることがなく(ありとあらゆる店が閉まっている)、ナイトライフもあまりない。銀行業、時計製造業、製薬業、国連など、非常に保守的な産業が集まっており、総じて“プロテスタントのローマ”のようなイメージで語ればわかりやすい。この街の生活習慣における厳格なことときたら、街角を曲がればしかめっ面のジャン・カルヴァン(John Calvin)が、ベルク河岸にスターバックスがあるのはいかにこの街の道徳的退廃の象徴であるか、人々に説いて回るのを出くわす場面を思い浮かべてしまうほどだ。

Geneva North Bank of the Rhone

ケ・デ・ベルク(Quai des Bergues)を挟んでローヌ川北岸を望む。

 ジュネーブには驚くほど大規模で活況を呈した赤線地帯(スイスは1942年以来売春を合法としており、2016年の時計輸出額194億スイスフランに対し年間35億スイスフランの経済規模である)の存在さえ、ジュネーブの時間厳守が重んじられ、利益が崇拝され、思慮深さが高く評価される街であることをさらに強調するだけのようである(私が赤線の存在を知ったきっかけは、初めてジュネーブを訪れたとき、友人からファラフェルのファストフード店“パルファム・ド・ベイルース”に行くよう指示されたとおりに向かったところ、“Sexショップ”と書かれた大きな赤いネオンが掲げられた、1ブロックもあろうかと思うほど大きな店の前にたどり着いたことだった)。 結局のところ、この地は水力発電所の圧力開放弁のようなものが市民の誇りであり、主要なランドマークとなっている街である。とはいえ、数多くの公共時計や日時計など歴史を感じさせる見どころなど、この街独特の厳かな魅力がないわけではない。その中でも最も重要で、最も古いもののひとつが街の中心部にある。

 地理的にも歴史的にもジュネーブ中心部は、レマン湖(ジュネーブ湖)からジュネーブを二分するように注ぎ出て、その後、南に向きを変えフランスを流れ、最後にアルル南部、マルセイユ東で地中海に注ぎ込むローヌ河の真ん中に浮かぶ小さな島である。ローヌ川は古くは重要な運河であったが、氷河の雪解け水を水源とし、春には氾濫しやすいため、波が荒く、航行が難しい川でもあった。川を渡れる場所は比較的少なかったのだ。ジュネーブは、南部を領土としていたアロブロゲス族と呼ばれるガリア民族の国境の町として歴史的記録に初めて登場する。ユリウス・カエサルが紀元前58年、アロブロゲス族のさらなる北進を防ぐため、この地の橋を解体したことは有名だ。ジュネーブは、ローマ帝国、次いでフランク王国、ブルゴーニュ王国、サヴォワ公国によって支配された。ジュネーブ司教が王子であり支配者であったが、宗教改革によって独立共和国となって以降はフランス革命でフランスに占領された一時期を除き、1814年から15年にかけてスイス連邦に組み込まれるまで、実質独立した都市国家であった。

Caesar and Dvico of the Helvetii negotiating

19世紀、カール・ジャウスリン(Karl Jauslin)が描いた、ローヌ河畔でヘルウェティイ王ディヴィコと交渉するユリウス・カエサル。

engraving of the battle of L'Escalade

1608年のエスカラードの戦いを描いた版画。

 1602年12月12日、サヴォワ公爵家の支配権がジュネーブ評議会で争われ、ひとりの公爵が奇襲攻撃によってジュネーブを奪おうとした。そして城壁をよじ登ろうとする兵士の頭に、カトリーヌ・シャイネル(Catherine Cheynel)という市民が、熱い野菜スープの入った大きな鍋をかけたおかげでこの襲撃を撃退した(この出来事を記念して、今日のジュネーブでは“エスカラード祭”と称して、各家庭の末っ子が「共和国の敵め、滅びよ!」と唱えながら、チョコレートでできた鍋のなかにキャンディを詰めて、それを叩き割るお祭りが12月12日に催されている)。

The Tour de L'Ile, located on an island in the middle of the Rhône, which divides the city.

トゥール・ド・リル(Tour de L'Ile)は、街を分断するローヌ川の真ん中の島にある。

 現在ジュネーブと呼ばれる地には、少なくとも2200年前からローヌ川に架かる橋があり、その間、島は要塞化されていた。特徴的な“帽子”をかぶったトゥール・ド・リル(“島の塔”を意味する)は、かつてこの島にあった城の名残りで、当時のジュネーブ司教エイメ・ド・グランソン(Aymé de Grandson)によって1215年から1219年にかけて建てられた。ホテルからローヌ川を渡って旧市街に向かい、サン・ピエール大聖堂に向かう途中でこの塔の前を通り過ぎたとき、実はこの塔は、ヴァシュロン・コンスタンタンのかつての社屋とまったく同じ建物であることを思い出した。英文で入手できる資料はあまり多くないが、ジュネーブの友人(ジュネーブで生まれ育ち、ジュネーブが“世界最高の都市”であることを極めて声高に語る人物)の助言を通じて、市の図書館からいくつかの情報を得ることができた。

 ジュネーブ市内の建造物・展示品目録によると、“この塔は、1215年から1219年にかけて、ローヌ川の通行とジュネーブの防衛のために司教エイメ・ド・グランソンによって建てられた城の名残である。(中略)しかし、1682年に釣鐘(つりがね)の改造と時計の設置、そして最近では建物の保存に賛成する一般投票の結果、1898年にエドモン・ファシオが修復するなど、数世紀にわたってオリジナルから大きく姿を変えてきた”。

 また、1937年のジュネーブ誌に掲載されたルイ・ブロンデル(Louis Blondel)の記名記事、『塔と城の島』にはこう記されている。“4階はもともと城壁のあるテラスだった。これは1670年以前のすべての古い版画と同時代の平面図から確認できる。1680年、現在も残る尖塔と時計を設置するために、嵩上げされたのだ”。

tour a l'ile, tower and clock, Geneva

 塔は現在ジュネーブ市の所有となっている。入り口は東側にあり、右側には1519年にサヴォワ公の支配に反旗を翻して斬首刑に処されたジュネーブの愛国者、フィリベール・ベルテリエ(Philibert Berthelier)の記念碑がある。そのしかめっ面(斬首されたのだから気分も晴れないのだろう)の像の角を曲がったところに、紀元前58年にユリウス・カエサルが訪れたことを記念するプレートが埋め込まれている。塔の頂上にある時計は、塔そのものと同様、何度か姿かたちを変えている。

 この画像は、1858年にジュネーブ、パリ、ベルンの現地時間を表示するように変更されたあとの時計である。この変更にはいくつかの理由がある。第1にジュネーブ~リヨン間の鉄道を管理するパリ・リヨン地中海鉄道会社(P-L-M)が採用する標準時はパリの現地時間だった。ベルンの現地時間は電信や電報の通信に必要であり、P-L-M以外のスイスの鉄道路線の標準時でもあった。中央の大きな時計は、1852年からジュネーブ天文台が発信する信号を受信していた。この時計は、早くとも1875年(ヴァシュロンが塔から通りを挟んだ向かいのビルに製造拠点を移したとき)以降、ふたつの小さな文字盤が取り外された姿で、1879年以前までここに展示されている(看板には、ヴァシュロン・コンスタンタンがケ・ド・リルとムーラン通りの角地に移転したことが記されている)。

 現在の時計は、1680年当時の姿に復元されている。時計の下、ベルテリエ像のすぐ上には、ちょっと謎めいた日時計が設置されている。

berthelier noon mark dial tour de l'ile geneva

 トゥール・ド・リルの脇には、少なくとも18世紀半ばから日時計があり、ジュネーブの時計職人にとって便利な時刻の基準となっていたようだ。1870年代の写真にはないが、1822年の別の版画にははっきりと描かれているため、一時期、日時計は姿を消していたようだ。

トゥール・ド・リルとその日時計の存在を示す1822年作の版画。

 現在の日時計は、1898年の塔の改修時に設置されたもので、当初はどの種類の日時計なのか見当もつかなかった。レンガに刻まれた8の字はわかったが、明らかに従来のものとは異なる。これは実はアナレンマ(analemma)と呼ばれるもので、1年のあいだに、太陽が正午の空を占める位置の変化を表している。均時差を図式化したと言えば理解しやすいだろうか。実際、アナレンマを長軸に沿って二等分してできた放物線で円を囲むと、理論的には時計に使われる均時差カムの形状が表れる。結局、いろいろ探し回ってこれがいわゆる“正午合わせ”の日時計であることがわかった。この日時計は、1年をとおして真太陽時の正午の瞬間を示し、各日の真太陽の正午の瞬間におけるアナレンマの中心をとおる垂直線から水平方向への変位で、均時差を示している。私がジュネーブに滞在していたときは運悪くずっと雨が降っていたので、当然ながら日時計を見るには最適な状況ではなかったのだが、基本的な考え方はご理解いただけたことだろう。

 ジュネーブには、ご想像のとおり公共の場に時計がたくさんあるが、日時計もたくさんある。トゥール・ド・リルの時計と日時計は、それ自体の歴史、塔の歴史の両方が非常に興味深いものだが、特に旧市街では、何らかの計時装置を見ずに通りを横切ることはまずない。

geneva flower clock english garden

ジュネーブのイングリッシュガーデンにある花時計、ロルロージュ・フルール。

 ロルロージュ・フルール(L'Horloge Fleurie)は、ローヌ川西岸のイングリッシュガーデンにある花時計である。時計の文字盤と斜面には約6500本の花や低木が植えられており、時計の秒針は2.5mと世界中にある公共時計のなかで最も長い。この時計は1955年に建設され、現在でも毎年神のみぞ知るおびただしい数のセルフィーの背景を飾るという崇高なる役割を果たしている。

 ロレックスファンなら、イングリッシュガーデンの対岸にも見どころがある。ローヌ川から2ブロック離れたモンブラン通りの三位一体英国教会である。

English Church of the Holy Trinity Geneva

 英国教会の塔時計はかなり控えめだが、ジュネーブの公共時計の中では、おそらく、いや、どこの公共時計よりもユニークな特徴を持つ。著名な時計ライター、アラン・ダウニング(Alan Downing)氏が2013年から2014年にかけて『Watch Around』に掲載した記事によると、この時計はウィルスドルフ本人の遺志を受け、ハンス・ウィルスドルフ財団によって管理されていることが判明したのだ。この記事(もともとは2016年に取り上げた記事)では、同財団の秘書が筆者に「英国教会の時計がロレックスによって管理されているのは、ハンス・ウィルスドルフの個人的な意向に沿ったものです」と説明している。「いつまでですか?」とダウニング氏は尋ねると秘書は 「永遠に、でしょうね」と答えた。教会の記録によれば、教会は1940年に時計のゼンマイの巻き上げを外注するのを止め、それ以来、ハンス・ウィルスドルフ財団が週に1度、ゼンマイを巻く職員を派遣し、それ以外にも時計のメンテナンスを行っている。 その理由について、財団はダウニング氏に「残念ながら、今回の取材には家族やプライベートな内容は含まれていません」と述べているが、もともとウィルスドルフ氏は1905年にロンドンで最初の会社であるウィルスドルフ&デイヴィスを設立し、イギリス人女性と結婚してイギリス国籍を取得し、1944年には妻の葬儀をイギリスの教会で行っていることから、教会と時計に対して個人的な思い入れがあっても不思議ではない。

 サン・ピエール大聖堂の近くには、15世紀に建てられた、小さいが非常に古いゴシック様式の教会がある(4世紀にキリスト教初期のバシリカ聖堂が建てられたときから、そこには教会があった)。これがサン・ジェルマン・ド・ジュネーブ教会(Église Saint-Germain de Genève)である。現在のゴシック様式の建物は、1500年代の火災で大きな被害を受けたロマネスク様式の教会を改築したもの。ここはジュネーブで最も古い地区のひとつで、建築様式や通りの配置の多くが中世にまでさかのぼり、当時を偲ばせるのだ。ここには思いがけない路地や脇道がいろいろある。そして建物の裏にあるのが日時計である。

 これは文字盤の向きが水平面ではなく垂直になっている、垂直式日時計と呼ばれる一種の日時計だ。垂直式日時計は、文字盤が真北を向いていないと1日中太陽の光を浴びることができず、こちらの日時計は東を向いているので、朝の時間帯しか表示することができない。デザインも極めてミステリアスなものとなっていて、半透明の骸骨のような幽霊が、ロバに乗ってヒナギク畑を横切っているように見え、背景にはオーストラリアのエアーズロックのような山が描かれている。たぶん、「オーストラリアの奥地を横断するときは、朝の時間帯にロバの機嫌を損ねるな。さもないといつの間にか死んでしまうぞ(編注:ヒナギクは墓の上に咲く花のイメージがあるため)」という意味なのだろう。筆者も読者と同じくわけがわからない。

 今月初めにジュネーブの街を散策して見つけた最後の日時計は、市庁舎の向かい側、オテル・ド・ヴィル通りにあるジュネーブ市公文書館の壁にあった。公文書館の1階はオープンな中庭になっており、大きな大砲(共和国の敵に敗北をもたらすため)と、ローマ時代、中世、および16世紀にジュネーブにユグノー難民が到着した街の3つの時代を描いた大きなモザイク画が飾られていた。

 この日時計も縦型だが、南東を向いているため、ジュネーブのサン・ジェルマン・ド・ジュネーブ教会にある日時計よりも長い時間、時刻を知ることができる。

 この記事で紹介したのは、ジュネーブの日時計と公共の場に設置された時計のごく一部に過ぎない。ジュネーブに日時計や公共時計が数多く存在することに驚きはしないが、これほど多くの日時計があるとは思っていなかったし、街中にどれくらいの数が点在しているのか気になるところだ。前述したように、現在のジュネーブには2000年以上前からローヌ川に架かる橋があり、日時計(後に公共時計)はいつからジュネーブの生活の一部になっていたのか、そして現在もどれだけの数が残っているのか、興味が尽きない。