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Photos by Mark Kauzlarich and James Stacey
2年に1度、秋の1週間、アラビア半島の元漁村がその年の時計イベントカレンダーを締めくくるホットスポットになる。ベン(・クライマー)がGPHG、秋のオークション、FHHを含む、ジュネーブで過ごした怒涛の1週間のフォトダイアリーでも述べているように、この業界の秋シーズンは多忙だ。しかし、ジュネーブから遠く離れたドバイウォッチウィークは、時計業界にとって素晴らしい1年の締めくくりとなった。
ドバイウォッチ 2023は、私がHODINKEEに入社するずっと前からカレンダーに丸印をつけていた。私は大学時代、アラビア語とその地域の文化、宗教、歴史を学ぶことに専念していた。ただこれらのトピックの複雑さと同じように、中東の時計文化は“ロゴ文字盤”や、最近のインド数字(ヒンズー・アラビア数字)の流行に対する執着よりもはるかに深く、私はそれを自身で体験しなければならなかった。そして、その体験から人々、そして素晴らしい時計のすべてに至るまで、イベントは私の期待をはるかに超えていた。
経済的、観光的、技術的に強力なドバイを“元漁村”と呼ぶのが控えめな表現であるように、ドバイウォッチウィークを時計の見本市と呼ぶのは、イベントをかなり過小評価している。このイベントは、世界最大の時計小売業者のひとつであるアフメド・セディキ・アンド・サンズ社(Ahmed Seddiqi & Sons)、および複数の政府および商業パートナーの支援を受けて開催されている。実際、2015年に始まったこの小さなイベントを必ず訪れるべき催し物へと変えたのは、イベント事務局長であるヒンド・セディキ氏本人である。しかし、明らかに商業的な傾向を持つWatches & Wondersとは異なり、ドバイウォッチウィークはまったく異なる雰囲気を持っている。
ヒンド・セディキ氏は、すべての展示にアクティベーションと教育を盛り込むようブランドに働きかけ、それがようやく全員に伝わったと、彼女は誇らしげに話していた。ジラール・ペルゴにはドライビングシミュレーターがあり、ヴァン クリーフではアートの展示が、クリスティーズでは鑑定など、さまざま展開していた。スペースの需要が供給を上回ったため、プレスラウンジは、より多くのブースのためのスペースを確保するべく少し離れた場所まで押し出されていた。ほぼすべてのブランドが新作を展示していたが、ほとんどは限定モデルで、発表と同時に売り切れていた。またWatches & Wondersとは違って、小売店のバイヤーがショーを巡回していたわけでもない。
それが積み重なって、すべてが特別なものに感じられた。手首にはめられた腕時計や、展示されている腕時計に目を奪われることは予想していたが(実際そうだった)、それ以上にブランドとの会話や、ブース間を歩いて友人や業界のレジェンドに出会ったときのほうが充実していた。1日目の夜、私はデュフォー(Dufour)夫妻、カリ・ヴティライネン(Kari Voutilainen)氏、レジェップ・レジェピ(Rexhep Rexhepi)氏に遭遇したが、いずれも30フィート(約9m)以内に出くわした。
ここで重要な考えはコミュニティの形成である。私は幸運にも、同僚のジェームズ・ステイシー(以下に彼の画像と感想をいくつか掲載する)と、HODINKEEのCEOであるジェフリー・ファウラーがいるチームの一員になれた。世界でも有数の多文化都市のひとつであるドバイにて、ドバイウォッチウィークではコミュニティという考えを最大限に活用した。以下からお見せしよう。
ドバイウォッチウィークの前日譚。マックス・ブッサーとMB&F HM11とともに、砂漠にて
ドバイウォッチウィークは、ドバイ国際金融センター(Dubai International Finance Center、DIFC)の比較的狭いスペースにとどまることができないほど、大きなイベントへと成長した。ヒンド・セディキ氏によると、DWW(ドバイウォッチウィーク)チームはブランドや小売業者に対し、小売店を“活性化”させ、会場外の場所を探すよう促しているという。その目的は、この街を訪れる情熱的な時計愛好家たちを生かし、街の中心部や中東の広い世界に観光客を呼び込むことだった。展示会に出展しているブランドもそうでないブランドも、このことを肝に銘じているが、しかしマックス・ブッサー(Max Büsser)氏率いるMB&Fほどそれを心に留めているブランドはないだろう。
ブッサー氏はこれまで9年間ドバイに住んでいたことがあり、月に1度はドバイを往復してMB&Fのチームを指導・サポートしながら、時計とは何かについて、私たちの理解を覆し続けている。ブッサー氏はドバイウォッチウィークの開幕前日に報道陣を招待してランドクルーザーに乗り込み、母国の文化と美しさだけでなく、“アーキテクト”と呼ばれるブランドの新作、“オロロジカル・マシン11”のお披露目を祝った。
全国から集まった約14人のジャーナリストたちは、“ザ・ネスト”と呼ばれる砂漠の砂丘に佇む、美しい恒久的な宿泊施設にたどり着いた。そこはまるで映画『スター・ウォーズ』に出てくるワンシーン、惑星タトゥイーンにあるデューン・シー(砂丘海)のようで(サルラックとふたつの太陽は除いて)、そこでは素晴らしい料理や首長国の文化を味わえた(火回しが首長国の伝統芸術かどうかはわからないが)。私はそこで(ハヤブサの)イワンという新しい友人に会うことができた。そして砂丘の上に熱気球が昇る美しい日の出で目を覚まし、朝のコーヒーを楽しんだあと3頭のラクダのチームが背中に乗せてくれた。
そのすべてが素晴らしく、マックスが説明したように、それはドバイウォッチウィークの熱狂的な様相の前に中東の雰囲気になじむための穏やかな方法として意図していたものだったが、そこでは見るべき時計もあった。その詳細については、私のHands-On記事をチェックして欲しい。
1日目: ドバイウォッチウィーク初日
ドバイウォッチウィーク初日の朝は静かだった。多くの人が前日の夜に到着し、14時間半のフライトと9時間もの時差ボケが多くのアメリカ人旅行者を苦しめたようだ。新しいタイムゾーンには比較的慣れていると思っていたが、ジェームズ・ステイシー(同じく時差ボケしていたHODINKEEのリードエディター)に会うまで、自分がどれだけ時差ボケしているかに気づかなかった。コーヒーを求めて会場を歩き回っていたとき(会場準備が進むなか、何か気分転換になるものはないか探していたのだ)、私たちはチューダーのブースに立ち寄り、冷たいジュースを提供してもらった。気分をリフレッシュさせたあと、HODINKEEの長年の友人であるイタリア人時計ディーラー、マックス・ベルナルディーニ(Max Bernardini)氏からまたもやエネルギーをもらった。彼はいつものように賑やかなトーンで挨拶し、早々に“ダーク・キリー”を披露してくれた。
マックス氏お気に入りの“納屋で見つけた”1本であり、私のお気に入りのロレックスのひとつでもあるこのジャン=クロード・キリーは、今まで見たことのないようなパティーナをしていた。マックス氏はDIFCの敷地内にブースを構え、DWWから少し離れた場所にオフィスを構えていたクリスティーズのパネルディスカッションに参加していた。クリスティーズブースでは、オークションでの販売が間近に迫っている“The OAK Collection”を展示していた。数日中に両方の情報をお見せできるだろう。チューダーのグリーンジュースにしろマックスの素晴らしい時計にしろ、何かが私の背中を押してくれて、ドバイウォッチウィークを探検するキッカケを与えてくれた。ジェームズはすぐに、コーヒーを飲みながらリシャール・ミルの“ル・マン”、アラビア数字のプラチナデイデイト、そして中東マーケットの時計(F.P.ジュルヌ)を身につけた3人組のアラブ人を発見した。これらの時計は、私たちが頭を整理するために必要としていたものであり、ほんの始まりに過ぎなかった。
ドバイウォッチウィークを1周してみると、知っている人たちにたくさん出会えた。ダビドフ兄弟のひとりサシャ・ダビドフ(Sacha Davidoff)氏はゴールドスピードマスターを身につけていた。時計業界の誰よりもスピードマスターに精通している2人組にふさわしかった(ジェームズ注記:その日のうちに、サシャの相棒であるロイに出くわしたが、彼もまた実にワイルドな時計をつけていた。以下のギャラリーにその時計を掲載している)。セディキ・ホールディングの最高商業責任者であるモハメド・セディキ(Mohammed Seddiqi)氏は、彼の家族がデザインしたヴィンテージ・オロロジーの時計を着用していた。私はMB&F M.A.D.Galleryのディスプレイに立ち寄り、展示されているアートワークをチェックしたあと、さらにもう1周して時計を探し(アメリカからはるばるやってきたRGMを含む)、数分離れた場所に向かった。
DIFCのDWWからほんの数分のところにあるパーペチュアル・ギャラリー(Perpétuel Gallery)に立ち寄った。ハムダン・ビン・ハマド(Hamdan bin Humaid)氏が運営する同ギャラリーでは、ニバダ・グレンヒェン、エクセルシオパーク、バルチック(私が翌日記事にした時計のような)など、小規模かつ手頃な価格のマイクロブランドの販売に焦点を当てている。しかし、ハムダン氏は熱心なインディペンデントコレクターなので、ギャラリーに入ってベルナルド・レデラー(Bernhard Lederer)氏、サイモン・ブレット(Simon Brette)氏、ロジャー・スミス(Roger Smith)氏が何気なくたむろしているのを見ても、何も驚くことはなかった。ハムダン氏は、インディペンデントコレクターのコミュニティのために、講演会やミートアップを企画している。
2日目: 雨天による一時中断と新しい友人
雨でドバイウォッチウィークが遅れるとは誰が思っただろうか。予想していなかったのか、一晩中降り続いた豪雨は午前中の予定に水を差した。多くのブースには屋根がなかったが、屋根があるブースが倒壊したのに比べれば問題は少なかった。ホテルからドバイウォッチウィークまでの通りは、1フィート(約30cm)以上の水が溜まっていた。午後のちょっとした気晴らしに、数人のアメリカ人ジャーナリストがホテルの18階から、ランボルギーニやフェラーリ、さらにはロールス・ロイスがオレゴントレイル(アメリカ初の教育用ゲーム)のように川を渡ろうとしているのを見ながら、いくつかのカースポッティングをした。
ホテルのレストランでフィリップ・デュフォー(Philippe Dufour)氏に偶然出会い、腕時計とポートレート撮影のために彼を呼び止めた。彼はいつものようにノリがよく、ドバイウォッチウィークが再開(少なくともスケジュールは変更される)されたことを確認して私たちは別れた。
パーペチュアルを離れたあとも、ドバイウォッチウィークの会場では独立時計師や業界の大物たちのパレードが続いていた。私は香港でWristcheckを創設したオースティン・チュウ(Austen Chu)氏に話を聞いた。彼はユニークなオープンワークを持つオーデマ ピゲのジュール オーデマ グランドソヌリを着用していた。おもしろいことに、デュフォー氏の誕生日で初めて彼と会ったとき、同じ時計の別のピースをつけていた。
オーデマ ピゲのブースでは、ブランドのコンプリケーションの歴史とジェムセッティングに関する専門知識を紹介する、時計セレクションが展示されていた。“コンプリケーション”セクションの主役は、建前上は、専用の部屋が用意されていたロイヤル オーク コンセプト スプリットセコンド クロノグラフ GMTだったかもしれない。しかし、ブランド(とその顧客)は古い懐中時計からワイルドなRD#4まで、あらゆるものを披露していた。ジェムセット側では、壁一面がロイヤル オーク“レインボー”セットに捧げられた。41mmサイズの50周年記念モデルは友人デイブのものだ。私はジェムセットされたロイヤル オークのパーペチュアルカレンダーを身につけながら、展示されている自身の時計を撮影している彼を見つけた。
夜が更ける前に、モメンタム・ドバイ(Momentum Dubai)を運営するもう一人の友人、ターリク・マリク(Tariq Malik)氏に会いに行った。モメンタムはDIFCの中心にあり、中東で唯一となるヴィンテージ専門店だ。マリク氏はデイデイトなどのヴィンテージに関しては世界で最も詳しい人物のひとりであり、ドバイの時計シーンでもとても愛されている人物だ。移転後のギャラリーのグランドオープンには、王族から“時計の王族”まで、すべての人がマリク氏を祝福するために駆けつけた。
私はすぐにジャンニ・ヴィオラ氏と、彼の妻アントネラ(Antonella)氏に出会った。ヴィオラ氏は、カルティエが今ほど大きくなる前の時代に、最も影響力のあったヴィンテージカルティエのコレクター兼ディーラーだったようだ。本当に、ヴィオラの影響なくして今のカルティエの地位はありえないし、ずっと彼に会いたくてたまらなかったのだ。そのすぐあとにもうひとりのコレクターアイコンであるクロード・スフェール(Claude Sfeir)氏も訪れた。スフェール氏や彼のコレクションに長年影響を受け、支えてきた何十人もの人々に囲まれながら、私は初めて彼と話をすることができた。
3日目: 再び軌道に乗る
多分時差に完全に適応していなかった私は、午前6時に目が覚め(自宅じゃ考えられない)、それから朝食を食べに行った。ブルガリのプロダクト・クリエイション・エグゼクティブ・ディレクターであるファブリツィオ・ボナマッサ・スティリアーニ(Fabrizio Buonamassa Stigliani)氏が近くに椅子を持ってきてもいいかと尋ねてきた。誰がノーと言えるんだ? ファブリツィオ氏は前日、雨に降られてすべてのミーティングがキャンセルされたため、ホテルからクルマに乗ってドバイマーケットを探索していた。Instagramで彼の写真を見て、クリエイティブなプロセス、直感を止めるような方法で、インスピレーションと他人からの影響をどのように分けるかについて話をした。結局、私たちは荷物をまとめてDWWまで一緒に歩いた。私は彼をつかまえて素早くポートレートを撮り、会場の探索へと戻った。
1週間をとおして、クリスティーズは美術品から時計まで、あらゆる分野の専門家による講演会を開催した。マックス・ベルナルディーニ氏とTomini Classicsのミゲル・ローレンテ(Miguel Lorente)氏が、修復に関して時計の世界がクルマの世界に何を学べるかという、ホットな話題について話しているのをキャッチした。ブースにはプライベートコレクションの素晴らしい時計がいくつか展示されていた。
DWWのすぐ近くにあるクリスティーズオフィスの近くでは、オークションハウスが今度開催するオークコレクション(OAK Collection)用の時計を展示していた。しかし、いくつかのロットをチェックするためになかに入ると、コレクションが展示されているだけでなく、コレクターも展示されていることがわかった。パトリック・ゲトライデ(Patrick Getreide)氏が何気なくカウンターのうしろに座り、今度のカタログに目をとおしていた。彼はオフィス内を歩き回り、いくつかの時計(彼の父親のロレックスも含む)を見せてくれ、自身のコレクション観について話をしてくれた。
ドバイウォッチウィークでは、ヴァン クリーフ&アーペルの巨大な体験型スペースなど、ブランドブースなどに出入りをした。DWWで発表された限定版のほとんどがすでに売り切れていたため、公式ミーティングにはあまり参加しなかった。その代わり廊下でばったり会った業界の人たちや、講演やイベントの合間を歩いている人たちと、座って話をする時間を十分取るようにした。見覚えのある顔や手首も見えるかもしれない。まずはほとんどの人がすでに知っているであろう人物から始めよう。
私が約束していた数少ないアポイントメントのひとつがF.P.ジュルヌだった。この独立系時計師はセディキ家を含む中東で、長いあいだ多くの支持者を得ている。実際、私が初めてアブドゥル・ハミード・セディキ氏に会ったとき、彼はApple Watch UltraとF.P.ジュルヌ エレガントをダブルリスティングしていた。今回彼はF.P.ジュルヌと、前日のモハメド・セディキがつけていたのと同じく、UAEエンブレムを持つロレックス Ref.6263を着用していた。
F.P.ジュルヌのアポイントメントを終えたあと、いくつかの驚くべき時計を目にし、ドバイのウォッチスポッティングはほかのどことも違うことを思い知らされた。ドバイの犯罪は厳しく処罰されるので、窃盗は基本的に存在しない。つまり、以下のような宝石をセットした腕時計やレアなアイテムはほかのどこでも見かけない(モナコを除く)ように、ここでは身につけることができるのだ。
ドバイウォッチウィークから少し離れて、ドバイのより巨大な時計シーンを見てみたいと思い、何十年も時計ディーラーをしていて、私の知る誰よりも多くの時計を扱っている友人のジェフ・ハリス(Jeff Harris)氏の助けを借りた。彼は私をドバイのゴールド・スーク(市場)に連れて行ってくれた。私たちが到着すると、友人のように出迎えてくれた何人ものディーラーを紹介してくれたが、彼らは“HODINKEE”が何であるかまったく知らなかったので、ハリスは大いに楽しんでいた。彼らは世界一熱いミルクティーを出し、私が想像もしなかったレベルのグレーマーケットでの取引を見せてくれた。47番街(ゴールド・スーク)のデイトジャストを忘れよう。ターコイズダイヤルを備えた新品のロイヤル オーク、ロイヤル オーク コンセプト、ヒストリカルピース、カスタムダイヤルなどなど。記事にするのに十分な画像を撮ってきたので、ご覧になりたい方はコメントでお知らせを。
スークで何も買わなかった私は、パーティが始まったばかりのドバイウォッチウィークに戻った。即興の音楽ゲストやブランドのパーティに、地元の人も外国人も集まり、毎晩会場は満員となり大盛り上がりだった。
4日目: もうすぐお別れ
4日目には、ドバイ・ウォッチ・ウィークともあと2年でお別れなのだと実感した。ヒンド・セディキ氏は、チームがオロロジーフォーラムが(昨年ニューヨークで行ったように)路上で開催する予定であることを当然のように私に思い出させるだろう。ドバイウォッチウィークが商業的なものよりも教育的なものであること、そしてこのイベントが中東の首長国だけではなく、はるか遠くまで広がっていることを示す完璧な例だ。それまでは、最後にもう1度人々に会いに行き、写真やインタビューを集め、別れを告げるために巡回した。しかし、まだすべてが終わったわけではなかった。
ドバイウォッチウィークがいかに素晴らしいものだったか、振り返らずにはいられない。私は幸運なことに、この1年で多くの旅行をし、業界最高の優秀な人たちに会い、本当に素晴らしい時計の数々を見ることができた。私はそれが当たり前だとは思わないようにしているが、しかしこれほど多くの素晴らしい時計、コレクター、タレント、業界の人々を集めて、誰もが対等に集うことができる場所にいた記憶はない。HODINKEEファミリーを代表して、招待してくれたセディキ氏、またフェアに来てくれてそれを特別なものにしてくれたすべての人に心からの感謝をする。
ドバイ空港でぼんやりしていると、友人からメールが来た。“ジョンが空港にいる”。どこの空港? 私のいる空港ではないことは確かだ。私たちの友人であり、Talking Watchesを2回卒業したジョン・ゴールドバーガー(John Goldberger)氏はドバイウォッチウィークにはいなかったのだ。その夜すでに遅かったがジョンにメールをした。彼は道順を教えてくれた。数分もしないうちに、ドバイ経由の香港行きの乗り継ぎを待つ彼とおしゃべりに花が咲いた。時計の話から写真の話、人生全般の話までいろいろと話をしているうちに、搭乗時間に遅れそうになった。私はドバイでカメラを取り出し、最後2枚の写真を撮った。アメリカから中東、イタリア、そして香港まで。とにかくそれがすべてだ。確かにドバイ・ウォッチ・ウィークは時計に関するものだが、それ以上に時計は人々に関するイベントなのだ。