Photos by Mark Kauzlarich
イタリアのリミニ中心部に差し掛かると、私たちの1955年式ポルシェ 356 スピードスターが、赤信号で停車していた20台ほどの車を避けて対向車線に飛び出し、その前の交差点をスムーズに進入した。1954年式のメルセデス 300 SLがそのうしろに続き、私は運転席に座る男性が隣のクルマにうなずきながら「Go?」と言うのを見た。ガルウィングのドライバーはうなずき返す。
日本人の木村英智氏が乗りこなすのは、1952年式ザガート フィアット 750 ベルリネッタ。
信号が青に変わると、夕暮れが迫るなか2台のクルマが時速90km以上で旧市街の城壁にあるアウグストゥスのアーチに向かって走り出す。自分のロードブックを見ながら、あと4分の1キロで右折だと叫ぶ。私のドライバーは非常にアグレッシブなインサイドラインを取る。タイヤを鳴らしながら片側一車線の狭い道路に入ると、私たちは小さなドラッグレースを制した。到着したミッレ ミリアのパレードカーを見るべく夜遅くまで外に残っていた1000人を優に超える人々に囲まれたステージにクルマを停めると、メルセデスが私たちの隣に停車する。ドライバーが「それは何のエンジン?」と尋ねる。
イタリアのヴェローナにあるアレーナ・ディ・ヴェローナ。
「2リッターだよ」と私のドライバーは返す。そしてオリジナルのブロックを持つエンジンが1955年の仕様よりもアップグレードされていると秘密を教えてくれた。300 SLの運転手は「すごいパワーだ」と答えた。
「自分には合わないね」とドライバーは言う。とても控えめな表現だ。
1955年式ポルシェ 356 スピードスターのドライバーであるロマン・デュマ(Romain Dumas)氏。
ミッレ ミリア 2023が開催された5日間のうち4日、私はポルシェチームに所属する地球上で最高のドライバーのひとりであり、ショパールのブランドアンバサダーでもあるロマン・デュマ氏のコ・ドライバーを務めた。ニューヨークを拠点とするスクーデリア・キャメロン・グリッケンハウスが所有する3.5リッターV8 90°ツインターボ搭載のハイパーカーに乗って、ル・マン 24時間レースで自身4度目のパイロットを果たしたばかりのデュマ氏は、寝不足のままジュネーブへと帰り、ブレシア行きの列車に飛び乗った。デュマ氏はたったひと晩の休息で、“世界で最も美しいレース”と称される、イタリアの都市や田園地方を駆け抜ける生涯忘れられない旅に私を連れて行ってくれたのだ。
ミッレ ミリアは単なるレースではない。これはモータースポーツのコミュニティだけでなく、ブレシアからローマまでを往復する1000マイルのルート沿いにいるイタリア人にとっても文化的なイベントである。最初に開催された1927年から1957年まで計24回開催されたこのレースは、ドライバーにとっては危険と隣り合わせだった。1955年にイギリス人レーサーのスターリング・モス(メルセデスのファクトリードライバー)とデニス・ジェンキンソン(ジャーナリスト)が打ち立てたタイムは10時間7分48秒、平均時速は99マイル(約159km)と、私たちの小さなポルシェでは一度も到達しなかった数字だ。当時は死者が出ることも珍しくなく、悲劇的な大事故のために1957年にレースは中止され、1977年に“定期的”なレースとして復活を果たす。1988年には、メインスポンサーとしてショパールが加わった。ブランドの共同社長であるカール-フリードリッヒ・ショイフレ(Karl-Friedrich Scheufele)氏は大のカーマニアであり、ショパールは長年にわたってミッレ ミリアをテーマにした時計を製造。毎年、マシンのパイロットに贈られるレースエディションも含めて(詳しい時計の話はまた今度しよう)数多くの時計を発表してきた。
カール-フリードリッヒ・ショイフレ氏と伝説のドライバー、ジャッキー・イクス(Jacky Ickx)氏。
希少なメルセデス・ベンツ 300 SLをどうやってキューバから持ち出すのか? メルセデス・ベンツの技術者の助けを借りてクルマを完全に分解し、機体を慎重にカットしてからすべてを“金属”として出荷したという。
パオロ氏はヴィンテージスピリットにのめり込んでいた。
ゴールドとルーセントスティール™製のショパール ミッレ ミリア 2022 レースエディション。
ショパールから今年初めに発売されたばかりの新しいミッレ ミリア クラシック クロノグラフ。40mmと小振りだ。
ミッレ ミリアが開催される日、子どもたちは休みのようだった。子どもたちはスタート当日、ブレシアの“自動車封鎖”と書かれたすぐ隣の通りに座っていた。
多くのドライバーにとってミッレ ミリアとは、昔にタイムスリップして、イタリアの美しい風景を楽しみながら何千人もの観客に喜びをもたらし、ほとんど何からも影響を受けずに全力で駆け抜けられるレースである。誰が彼らを責めることができるだろうか? 小さな子どもからオールドノンナ(イタリアの口語で、おばあちゃんという愛称)まで、誰もが小さな町の狭い通りをどんどん速く走ろうとするのを応援してくれる。まるで観客が自分のために出てきてくれたかのように、道端にいるみんなに手を振ることが不可欠だと感じるほどに。ほかの地元の人たちは(非公式ではあるが)ボランティアで曲がり角に立っていて、ルートを説明した分厚く詳細なロードブックで見逃してしまいそうなわかりにくい風景の曲がり角を指さしてくれる。助けになるのは確かだし、彼らもまたレースの一員であることを実感する機会にもなる。
イタリア・レカナーティにて、この旅のなかで最も気に入ったノンナのひとり。
この1947年式チシタリア 202S MM スパイダーは、オリジナルのミッレ ミリアを2度走ったあと、2001年に再スタートした。
一方、このクルマは大陸を何度も横断している。
アメリカチームがフィールドに出したのは、1953年式375 MM スパイダー ピニンファリーナ。900万ドル(日本円で約12億9150万円)以下で手に入れることができればラッキーだ。残念なことにスタートラインに立って以降、このチームと再会することはなかった。
ミッレ ミリアに出場するすべてのクルマは、オリジナルの24時間レースに出場したものと同じ年式、メーカー、モデルでなければならない。しかし珍しいクルマたちがひっそりと鎮座して鑑賞されるコンクール・デレガンスとは異なり、ここにあるクルマは数百万ドルもある価値に関係なく、しばしば故障寸前になりつつその人生をまっとうしている。これらのクルマの多くは、実際に当時のオリジナルレースに出場し、参加した年号を名誉のバッジとして身につけているものも少なくない。
ほとんどのほかのレースと異なり、このレースは一般道で行われる。ドライバーは渋滞のなかを縫うように走って通勤者や地元の人たちの前を追い越していくが、それでも彼らはおおむね笑顔で手を振っている。道路や環状道路に人がいない状態で無謀にも近い運転ができるよう、クルマの後ろで控えるバイク警察のライトの点滅や、鳴り響くサイレンといった合図が祝福のようにも感じられる。デュマ氏は(安全に走れる場合)使うべき最適なレーンは道路の第3車線、つまりセンターラインの真上にあるレーンだと教えてくれた。
この地元の人は、クルマに対してあまり忍耐力がなかった。
末尾が3097と3168というふたつのナンバープレートが忘れられない。私たちが渋滞に巻き込まれないよう、20分以上も道路を確保してくれたのは、このふたりの白バイ警官だった。後ろに優秀な白バイ警官の姿が見えると安心した。何人かはもっと早く行けと手を振っていた。
昨年、同僚のジェームス・ステイシーがミッレ ミリア 2022の会場の雰囲気と、彼がフィアット・ミレチェント1100/103TVベルリーナに乗ってスタートラインに立つ姿を見事に捉えてくれたが、残念ながら途中でクルマが故障してしまった。この(燃料問題)原因にはとても同情する。その代わりに、運転そのものとその過程での体験に焦点を当てることにしてほとんどの写真を助手席から撮影していたようだ。モス(Moss)とジェンキンソン(Jenkinson)のペア以来、ジャーナリストとファクトリーチームのドライバーによるペアが、レース全体で“競い合った”例はほとんどないため、特別なレースになるだろうと思っていた。しかし自分よりもはるかにモータースポーツに精通している見知らぬ人と、クルマのなかで5日間(過酷な日々だと聞かされていた)も過ごすことに漠然とした不安を感じていた。どうすれば私たちは仲よくやっていけるだろうか? どうすれば自分の価値を証明できるだろうか? 6フィート7インチ(約201cm)もある私がどうやってこんな小さなクルマに乗り込んで、15時間の日々を生き延びられるだろうか? この体験について詳細に記述されたものはほとんどないので、何を期待していいのか、また何を期待されるのかもわからなかった。
幸運なことに、私はいい仲間に恵まれた。1988年、ドイツのニュルブルクリンクでカール-フリードリッヒ・ショイフレ氏が伝説のドライバーでありル・マンで6勝を挙げたジャッキー・イクス氏と出会ったとき、それは運命のように思えた。イクス氏の妻の宝石が“ある問題”を抱えており、ショイフレ氏はそれを解決すると約束した。のちにイクス氏がそれを受け取りに訪れた際、ショイフレ氏は彼に、今年乗っていたのとまったく同じ300 SLでミッレ ミリアに出場したいかと尋ねた。そのあいだふたちは口を利かなかったし、イクス氏がイタリアに現れてからショイフレ氏が運転すると告げて彼を驚かせるまで、本当に話すこともなかったという。
ブレシア近郊のホテル外に並んでいた、ショパールのチームカー。
ふたりの仲は良好なようで、ローマに到着する頃にイクス氏は助手席でぐっすり眠っていたという。「景色を見てリラックスするのが好きなんです」とイクス氏は私に言った。一生を運転に費やしてきた彼を誰が責めることができるだろう?
ロマン・デュマ氏は私と同じくらい、時間を簡単に作ってくれた。私がエンジンのことをあまり話せないのと同じように彼は明らかに“時計マニア”ではないのだが、彼に時計のムーブメントを見せたあと、私にエンジンの話をしてくれたので、私たちは共通の話題を見つけることができた。ほとんどの“レギュレーション”テストをスキップし、風景を眺めながら少しでも睡眠時間を確保するために、毎晩できるだけ早くゴールすることに集中した。彼は特段“レース”をしていたわけではないが、私たちがゆったりとクルージングを楽しんでいたときから、クルマの操作技術の高さを証明し、無言のうちにどんな隙もついて(そのほとんどはほかの誰にもナビゲーションを任せられない)彼の本当の才能を思い知らされることがあった。一方で私はロードブックの管理を任されていた(世界記録を達成した1955年のレースから生まれた発明であり、そのチームの成功の秘訣でもある)。
ミッレ ミリアの停留所でデュマ氏に話しかけるコメンテーター。この紳士は、デュマ氏のル・マンでのクラス優勝(総合優勝2回、ポルシェ2013でのクラス優勝1回)ごとに指を一本ずつ立てているようだっった。
それでもデュマ氏は、私がInstagramへの投稿や風景写真の撮影に気を取られていたときを正確に把握しているようだった。「隊長、次はどうする?」。彼は私を軌道に戻すために、ロードブックを見ながらそう尋ねてきた。4度の故障(クラッチを交換したのが1回、キャブレターの調子が悪くてどんな傾斜でもエンジンが止まってしまったのが1回、それと給油を忘れて近くのガソリンスタンドまで下り坂を“サーフィン”したのが2回)、集中豪雨、過酷な暑さに見舞われながらも、デュマ氏は気持ちを高めてくれた。彼はアメリカのフレーズを真似するのが好きだった(これを見て! と鼻にかかったアメリカ訛りで話していた)。立ち寄った先のイタリア人コメンテーターたちは、リストから私たちのクルマのナンバーを読み上げてから、突然自分たちがル・マンチャンピオンの前にいることに気づくということがよくあった。あるコメンテーターは興奮のあまり声がどんどん速くなり、ついには“ロマン・デュマ、ロマン・デュマ、ロマン・デュマ!”と叫んでいた。最終的にはデュマ氏も数マイル先の公道でそれを叫んでおもしろがっていた。
それから時計だ。すべてのドライバーには、エントリーの一環としてショパールのミッレ ミリア クロノグラフが贈られる。路上で過ごした時間を記念する素晴らしい方法だ。この年の時計はミッレ ミリア GTS クロノ イタリア限定で、サイズは昨年のモデルと同様44mm径で展開。今回はクリームカラーの文字盤に、グリーンとレッドのアクセントを施している。コ・ドライバーは割引料金で購入できるが、一部のコ・ドライバーから時計はすぐに売り切れたという情報を聞いた。400人分をドライバー用に、40本の時計をイタリアの小売店に卸し、そして60本をコ・ドライバーに提供。合計500本の時計を生産したと思われる。この時計の収益の一部は、つい最近洪水災害により地域の大部分が荒廃してしまった、エミリア=ロマーニャ州の被災者に寄付される。
ショパールの新作ミッレ ミリア GTS クロノ イタリア限定といえば、ジャッキー・イクス氏をおいてほかにいないだろう。
2023年モデルの売り上げの一部は、先のイタリアのエミリア=ロマーニャ州洪水被害の被災者に寄付される。
道端で故障したとき、別のドライバーの電話を見つけ、昼食時にその持ち主と奇跡的に再会したという奇妙な出来事など、この5日間の旅で語り尽くせないほど多くのエピソードが生まれた。さらにミッレ ミリアのウェブサイトで私たちのマシンを追跡していた、ドイツのHODINKEE読者と道端で遭遇もした。最高の瞬間のひとつは、フィリップスで自身2度目となる時計の販売記録を樹立したばかりのロジャー・スミス氏(そう、あのロジャー・スミスだ)に出くわしたことだ。彼は2度目のミッレ ミリアで、1932年式のアルファロメオ 6C 1750 GSスパイダー・ザガートのコ・ドライバーとして座っていた。実際、私が初めて彼を見たとき、彼はシエナのカンポ広場からクルマを急発進させるところだった。
ドライバーのキース・ロバーツ(Keith Roberts)氏がアクセルを踏み込んだ瞬間、手を振るロジャー・スミス氏。
この5日間で、優に100枚を超える写真を収めることができた。一部の人にとっては退屈かもしれないが、しかしこれはほかでは味わえない経験であり、滅多にできることではない。私の仕事は、いいことも悪いこともその経験を運よく自分でできないかもしれないみんなに届けることだと思っている。この話をきっかけに、人生の1週間を保留にして、運がよければイタリアの道を走るという人がなかにはいるかもしれない。
イタリアでいう“レッツゴー”(andiamo)だ!
はじめに、健康診断書や負債証明書といった各書類を、各自提出するプロセスがある。メインスポンサーでありショパールの共同社長であるカール-フリードリッヒ・ショイフレ氏や、6度のル・マン優勝経験を持つジャッキー・イクス氏ももちろん含まれている。
次にカラビニエリ(イタリアの国家憲兵)で運転免許証をチェック。私のニューヨークの運転免許証には、それに合う国際AAA免許証が追加で必要。一方ロマン・デュマ氏は182人のプロドライバーだけが持っているFIAドライバー分類のプラチナが必要だった。
レース前日、ショパールのブランドアンバサダーを務める朱一龍(Zhu Yilong)氏が、ポルシェ スピードスターをフィッティングしている様子を、ジャッキー・イクス氏が見守っている。朱一龍氏はショパールのプロモーションと写真撮影のためにロマン氏とともに最初の30分間を走り、あとは私にコ・ドライバーを任せた。
ミッレ ミリア GTS。
そしてもうひとつは、長年にわたって多くの愛情を注いできた、“燃料計”と呼ばれるパワーリザーブインジケーターを備えたモデル。
ショパール ミッレ ミリア クラシック クロノグラフ 42mm 1000本限定生産モデル。
ミッレ ミリア 2018 レース エディション。
ホテルを出るとき、Googleマップが一方通行の道を案内してくれたので、すでに少し遅れていた。
クルマを封印するべくブレシアに入る。
クルマが“封印”されたブレシアエリアは人々でごった返していた。これについては、ジェームス・ステイシーの昨年の記事でうまく取り上げている。
ブレシアに到着したクルマたち。
みんな立ち止まり、通り過ぎていくクルマを見ているようだった。
そのあいだに警察は準備を進めていた。どうやらクラシックカーか...
もう少し現代的なものかの選択だったようだ。
もちろん、ロマン・デュマ氏がもうひとりのル・マンドライバーである、マッテオ・クレッソーニ(Matteo Cressoni)氏とバッタリ出くわしたのは数分の出来事だった。
ミッレ ミリア GTS クロノグラフ。
ひと回り小さい40mmモデルの、新型ミッレ ミリア クロノグラフ。
私たちは広場を後にした。
そしてクルマの出発地点である、ブレシアのミッレミリア・ミュージアムへ。
この日はちょうど、イタリア空軍創設100周年の記念日でもあったので、このあと空軍基地をいくつも訪れることになる。
1952年式ジャガーXK 120 OTSロードスターに乗って準備をする。
そしてそれ以上のことは語らずに彼らは出発していく。今回は1931年式アルファロメオ 8C 2600 MMスパイダー・ザガート“SF”だ。
残念ながらこのポルシェは遠くには行けなかったが、ピエトロ・テンコーニ(Pietro Tenconi)氏は心配していないようだった。彼はクラシックカー・チャーターズのオーナーであり、今年のミッレ ミリアに出場する14台すべてに配属された、20人のテクニカルアシスタンスチームの責任者でもある。
クルマはこのイタリア人宅の外で故障し、グループはクルマの名前を調べながら修理の様子を見守り、同時にル・マン優勝者や中国の有名俳優が自宅の庭先にいることに驚いていた。
ミッレ ミリア GTS クロノ 2023限定モデルを手に巻くロマン・デュマ氏。
自分のミッレ ミリア クロノグラフを身につけた、ピエトロ・テンコーニ氏。
最初のレギュレーションテストは空軍基地で行われ、興奮したサポーターが出迎えてくれた。
さらに先へと進むと、イグニッション(エンジンの点火装置)の問題だけでなく、ガスゲージの不足も問題だと気づき、それほど遠くには行けなかった。私たちは干からびていて、ジャンプ・スタート(バッテリが上がってしまったときに電気を給電する方法)が必須だった。
最終的には道路に戻った。すると信じられないほど珍しい、1955年式のピエール・フェリーF 750ルノーとすれ違った。
どの町にいるのか、すぐにはわからなくなった。ここでは、1957年式オースチン・ヒーリー 100-6に遅れをとっていた。
日が沈み始めたので、私たちは初日の仕事を終えようとしていたが、まだやり遂げていなかった。
最終的には、有名なイモラ・サーキットの渋滞に合流した。イモラではあまり写真が撮れなかった。ロマン氏は何度かこのマシンを運転したことがあるので、フラットアウトで走りながらコーナーやシケイン(サーキットに設けられた障害物)を高速ですり抜けていった。私はただ我慢した。
これが夜の最終目的地に着いた瞬間だった。明るい照明と高いステージは、このショーが私たちのためであると同時に、ほかのすべての人のためでもあることをはっきりと示す。
次の日は、トンネルを抜けてイタリアの田園地帯がある標高の高いところを走り始めるところからスタート。
1949年式O.S.C.A. MT4 1100 シルロに乗ったイタリア人のマッシモ・ディ・リジオ(Massimo Di Risio)氏やジョバンナ・チャンフラーニ(Giovanna Cianfrani)氏のように、軽食のために立ち寄る人もいた。
道はすぐにサンマリノへと入った。ショパールのチームレーサーであるマルク=ユリアン・シーヴェルト(Marc-Julian Siewert)氏とモリッツ・ハーディック(Moritz Hardieck)氏が、1950年式ジャガー XK 120 OTS ロードスター・ライトウェイトに乗っていたので写真に収めた。ふたりはこの1週間ずっと、雨と風が吹く状況のなかオープンコックピットで耐え、笑顔でそれをこなしていた。
私たちがクルマから降りて写真を撮ったのは、このときだけだった。厳密にはイタリアを離れたのもこのときだけだった。サンマリノには素晴らしい景色がある。
後ろには1953年のアストンマーティン DB 2 ヴァンテージが。
イタリアのアルベルト・ペラニョーリ(Alberto Peragnoli)氏とカルロ・ペラニョーリ(Carlo Peragnoli)氏は、1952年式ジャガー XK120 OTS ロードスターでドライブをしながら、ロマン氏にかなりの苦戦を強いていた。立ち止まってファンと話すのが自慢のル・マンドライバーなら、誰もがあなたのことを知っている。
ベルギーから参戦した、エディ・デュケンヌ(Eddy Duquenne)氏とジョス・デ・ヴイスト(Jos De Vuyst)氏は、私が今週最も気に入ったクルマのひとつで、非常に珍しい1951年式ハーシャム・アンド・ウォルトン・モータース アルタ・ジャガーに乗っていた。
ミッレ ミリアの一団が走り抜けると、ヒーローともいえる警察と交通警察が道路を封鎖していった。
この1951年式パガネッリ ランチア・アウレリア B20 2000 スポーツは、リセットポイント地点で停車してオイルを補充することにしたようだ。町へ向かう途中、後ろから黒い煙がたくさん出ているのに気づいたのでおそらくいい判断だ。
ジャッキー・イクス氏とカール-フリードリッヒ・ショイフレ氏。リセットポイントで私たちの隣に停車した。ドアが開いた瞬間、カメラはふたりに群がっていった。
この女性は、今回の旅で私が気に入ったもうひとりのノンナだ。フェラーリの傘を持った手でピザも手にしていた彼女は、集団とすれ違うためにスピードを落とした私に手を差し伸べて数秒間、私の手を握り、出発する前に私たちの無事を祈ってくれた。
毎日、おいしい食事が提供される昼休みと、全員が再集合して決められた時間に再び出発するチャンスがあった。
毎日、エスプレッソ・ドッピオを1杯(または2杯)飲んでから道へと戻った。
昼食後まもなく雨が降り出した。私たちはレインジャケットを羽織ったが、トップを上げることはしなかった。それでも1時間ほどしか続かず、それ以上ずぶ濡れになるのを避けるためにこの道を選んだ。
この1945年式D.B.シトロエン・スパイダーに乗る人々に、そんな選択肢はない。なおこのクルマは1950年にもミッレ ミリアを走っている。
1949年式フィアット 1100 B ベルリーナ。
1939年式MG TB。
この1951年式パガネッリ ランチア・アウレリア B20 2000 スポーツの未完成の外観が好きだ。でも私がそう思う頃、ふたりは屋根があればいいのにと思っていたのだろう。
たびたび、全区間を走破したことを証明するスタンプを押してもらう小休憩があった。そうしないとペナルティーを受けるのだ。勝利を狙っているのなら重要なポイントである。以下ネタバレ、私たちは優勝しなかった。
雨のなか、エンジントラブルに見舞われた。
1951年式ハーシャム・アンド・ウォルトン・モータース アルタ・ジャガーは、雨のなかだとさらに映える。
1949年にレースを走った、1948年式チシタリア 202 SC ベルリネッタ・ピニンファリーナ。
1929年式クライスラー 75。
1947年式チシタリア 202S MM スパイダー。
1929年式アルファロメオ 6C 1750 SS ザガート。
やがてローマに到着し、国境を越えたところで、ホテルまでのコースを計画した。
そのコースでは思いがけず、見慣れたこの建造物を通り過ぎてしまった。
ローマはまだ中間地点だったので、3日目には帰路についた。
たぶん、このレースで私がいちばん気に入ったクルマは1953年式フェラーリ250 MM ベルリネッタ・ピニンファリーナだ。自分用にも欲しい? その場合750万~900万ドル(日本円で約10億7780万円~12億9150万円)を手元に用意しておいたほうがいい。後ろにいる1953年式フィアット 1100/103 ベルリーナもおもしろい。
1952年式フィアット 8V ベルリネッタ。
それから、この旅のなかで私がいちばん気に入った停留所に立ち寄った。通りは狭く、ロマン氏は信じられないような場所だと言っていたが、私は何を期待していいのかわからなかった。
ようこそ。
シエナのカンポ広場へ。
ロジャー・スミス氏と、ドライバーのキース・ロバーツ氏は楽しんでいるように見えた。
ロジャー・スミス氏の手首にはスピードマスターが巻かれていた。
悲しいことに、私たちの1日がまもなく終わる。クルマが道路脇で故障したため、テクニカルチームの大型自動車が迎えに来てくれた。そのあいだにフラットベッド(トラック)が夜間に修理すべく、クルマをトリノまで牽引してくれた。
1970年に、非公式ながら15人の仲間たちとミッレ ミリアルートの走行をスタートさせたピエトロ氏の父で、今回のテクニカルアシスタントを務めたエドゥアルド・テンコーニ(Eduardo Tenconi)氏と話すロマン・デュマ氏。
正確にはミッレ ミリアではないが、4日目にこの1971年式シェルビー・コブラと何度かすれ違った……? 何日目だったかな、4日だったと思う。
今週のもうひとつの愛車、1955年式マセラティ A6 GCS/53 ファントゥッツィ。誰か一緒に参加しないだろうか?
1950年式フィアット 1000 ES ベルリネッタ・ピニンファリーナと、1953年式ジャガー XK120 OTSロードスター。
カーゼ・ボスケッティの丘を越えたところで故障したが、このメルセデス 300 SLには何の問題もなかった。
昼食をとると、これまで見たなかで最も素晴らしいフェラーリの群れを目にした。少なくとも50台はあり、ほとんどが異なるモデルだった。
ジャッロモデナ イエローのF40はあまり見かけない。
偉大なフェラーリといえば、こちらの1951年式340 アメリカ スパイダー ヴィニャーレをご覧あれ。
このレースは元の時代よりはるかに安全だが、それでも事故は起こる。ここで何が起こったかは知らないが、ドライバーが必要以上に接近して割り込んでくるのを見たことがあるため、もしトラクターが道をあけようとハンドルを切って衝突したとしても驚かないだろう。
2日目は雨に見舞われたが、4日目は雲ひとつない暖かい天候に恵まれた。
1945年式D.B.シトロエン・スパイダー。
1950年式アストンマーティン DB2 ドロップヘッド・クーペ。
1946年式エルミニ フィアット 1100 スポーツ。
1952年式フィアット AR51 カンパニョーラ。
スタイリッシュにクルージングしたいのであれば、1935年製のベントレー 3.5リッターをおすすめする。
ミラノの交通は混乱を極めていた。都市外の道路はカラビニエリが管理しているが、一方で大都市のほとんどの交通は地元警察が管理している。ミラノでは、すでに交通法規を破っているのなら、バスやタクシーのレーンを利用してはどうかということに気づくまでは、誰もが自由奔放だったのだ。
その甲斐あってか、街の中心にあるドゥオーモまで行くことができた。
ドゥオーモ広場にいる観光客。
彼らは、ロマン氏がリーダーボード(上位プレーヤーの名前とスコアを載せるボード)のトップに立つためにもっと努力するべきだと言っていたが、速いクルマほど多くのポイントを獲得できるため、本当にトップを走っているのは最も古くて信頼性の高いクルマだけなのだ。
ミラノでも1日が終わり、ロマン・デュマ氏に別れを告げるときが来た。彼はパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムに出場するべく、ミラノからニースまでクルマで移動し、アメリカ行きの飛行機に乗る。
翌日、私はピエトロ・テンコーニ氏とドライブをした。彼は会社のクルマ14台(それと20人の従業員)を今年のレースに参加させたり、サポートをしていた。
ピエトロ氏が着用していたのは、この記事で紹介した、2019年モデルのショパール ミッレ ミリア クラシック クロノグラフ ザガート100周年記念だ。
最終日のスタート時の顔ぶれは、特に混沌としていた。
今週のお気に入りの時計は、1997年製のショパール ミッレ ミリア 70周年記念モデルだ。
ピエトロ氏は近道をしようと決めたが誤って先に第2ステージへ行ってしまい、244台のクルマが先行したため、途中で停車してアペロール スプリッツを飲んだ。
フィニッシュに近づいている。
スタンプを押す終着駅のひとつ!
ピエトロ氏は、多くの主催者や自動車クラブの人らととても親しいため、短時間のあいだに十数人に呼び止められた。
お忘れかもしれないが、今年のメインスポンサーは誰だったかな。
ゴールラインまで来たら、通過するのを待つしかない。
1948年年式チシタリア 204 スパイダー スポーツ。
ついに、ミッレ ミリア完走のためのメダルを受け取るときが来た。この時点で私は友人たちにメールを送り、 再び参加する方法を探していた。
レースの最後には、フィアット AR51 カンパニョーラに乗ったジュリオ(Giulio)氏やグレゴリー・ゲルシ(Gregorio Ghersi)氏らのスタイルに負けないよう、ベストを尽くすことが大切だ。
しかしあなたは、この(汚れてしまった)ラゴンダのグリルのようだと感じるだろう。ただいずれにせよ、それだけの価値はある。
HODINKEEはショパールの正規販売店です。詳しくはこちらをご覧ください。