Photos by Mark Kauzlarich
イタリアのリミニ中心部に差し掛かると、私たちの1955年式ポルシェ 356 スピードスターが、赤信号で停車していた20台ほどの車を避けて対向車線に飛び出し、その前の交差点をスムーズに進入した。1954年式のメルセデス 300 SLがそのうしろに続き、私は運転席に座る男性が隣のクルマにうなずきながら「Go?」と言うのを見た。ガルウィングのドライバーはうなずき返す。
信号が青に変わると、夕暮れが迫るなか2台のクルマが時速90km以上で旧市街の城壁にあるアウグストゥスのアーチに向かって走り出す。自分のロードブックを見ながら、あと4分の1キロで右折だと叫ぶ。私のドライバーは非常にアグレッシブなインサイドラインを取る。タイヤを鳴らしながら片側一車線の狭い道路に入ると、私たちは小さなドラッグレースを制した。到着したミッレ ミリアのパレードカーを見るべく夜遅くまで外に残っていた1000人を優に超える人々に囲まれたステージにクルマを停めると、メルセデスが私たちの隣に停車する。ドライバーが「それは何のエンジン?」と尋ねる。
「2リッターだよ」と私のドライバーは返す。そしてオリジナルのブロックを持つエンジンが1955年の仕様よりもアップグレードされていると秘密を教えてくれた。300 SLの運転手は「すごいパワーだ」と答えた。
「自分には合わないね」とドライバーは言う。とても控えめな表現だ。
ミッレ ミリア 2023が開催された5日間のうち4日、私はポルシェチームに所属する地球上で最高のドライバーのひとりであり、ショパールのブランドアンバサダーでもあるロマン・デュマ氏のコ・ドライバーを務めた。ニューヨークを拠点とするスクーデリア・キャメロン・グリッケンハウスが所有する3.5リッターV8 90°ツインターボ搭載のハイパーカーに乗って、ル・マン 24時間レースで自身4度目のパイロットを果たしたばかりのデュマ氏は、寝不足のままジュネーブへと帰り、ブレシア行きの列車に飛び乗った。デュマ氏はたったひと晩の休息で、“世界で最も美しいレース”と称される、イタリアの都市や田園地方を駆け抜ける生涯忘れられない旅に私を連れて行ってくれたのだ。
ミッレ ミリアは単なるレースではない。これはモータースポーツのコミュニティだけでなく、ブレシアからローマまでを往復する1000マイルのルート沿いにいるイタリア人にとっても文化的なイベントである。最初に開催された1927年から1957年まで計24回開催されたこのレースは、ドライバーにとっては危険と隣り合わせだった。1955年にイギリス人レーサーのスターリング・モス(メルセデスのファクトリードライバー)とデニス・ジェンキンソン(ジャーナリスト)が打ち立てたタイムは10時間7分48秒、平均時速は99マイル(約159km)と、私たちの小さなポルシェでは一度も到達しなかった数字だ。当時は死者が出ることも珍しくなく、悲劇的な大事故のために1957年にレースは中止され、1977年に“定期的”なレースとして復活を果たす。1988年には、メインスポンサーとしてショパールが加わった。ブランドの共同社長であるカール-フリードリッヒ・ショイフレ(Karl-Friedrich Scheufele)氏は大のカーマニアであり、ショパールは長年にわたってミッレ ミリアをテーマにした時計を製造。毎年、マシンのパイロットに贈られるレースエディションも含めて(詳しい時計の話はまた今度しよう)数多くの時計を発表してきた。
多くのドライバーにとってミッレ ミリアとは、昔にタイムスリップして、イタリアの美しい風景を楽しみながら何千人もの観客に喜びをもたらし、ほとんど何からも影響を受けずに全力で駆け抜けられるレースである。誰が彼らを責めることができるだろうか? 小さな子どもからオールドノンナ(イタリアの口語で、おばあちゃんという愛称)まで、誰もが小さな町の狭い通りをどんどん速く走ろうとするのを応援してくれる。まるで観客が自分のために出てきてくれたかのように、道端にいるみんなに手を振ることが不可欠だと感じるほどに。ほかの地元の人たちは(非公式ではあるが)ボランティアで曲がり角に立っていて、ルートを説明した分厚く詳細なロードブックで見逃してしまいそうなわかりにくい風景の曲がり角を指さしてくれる。助けになるのは確かだし、彼らもまたレースの一員であることを実感する機会にもなる。
ミッレ ミリアに出場するすべてのクルマは、オリジナルの24時間レースに出場したものと同じ年式、メーカー、モデルでなければならない。しかし珍しいクルマたちがひっそりと鎮座して鑑賞されるコンクール・デレガンスとは異なり、ここにあるクルマは数百万ドルもある価値に関係なく、しばしば故障寸前になりつつその人生をまっとうしている。これらのクルマの多くは、実際に当時のオリジナルレースに出場し、参加した年号を名誉のバッジとして身につけているものも少なくない。
ほとんどのほかのレースと異なり、このレースは一般道で行われる。ドライバーは渋滞のなかを縫うように走って通勤者や地元の人たちの前を追い越していくが、それでも彼らはおおむね笑顔で手を振っている。道路や環状道路に人がいない状態で無謀にも近い運転ができるよう、クルマの後ろで控えるバイク警察のライトの点滅や、鳴り響くサイレンといった合図が祝福のようにも感じられる。デュマ氏は(安全に走れる場合)使うべき最適なレーンは道路の第3車線、つまりセンターラインの真上にあるレーンだと教えてくれた。
昨年、同僚のジェームス・ステイシーがミッレ ミリア 2022の会場の雰囲気と、彼がフィアット・ミレチェント1100/103TVベルリーナに乗ってスタートラインに立つ姿を見事に捉えてくれたが、残念ながら途中でクルマが故障してしまった。この(燃料問題)原因にはとても同情する。その代わりに、運転そのものとその過程での体験に焦点を当てることにしてほとんどの写真を助手席から撮影していたようだ。モス(Moss)とジェンキンソン(Jenkinson)のペア以来、ジャーナリストとファクトリーチームのドライバーによるペアが、レース全体で“競い合った”例はほとんどないため、特別なレースになるだろうと思っていた。しかし自分よりもはるかにモータースポーツに精通している見知らぬ人と、クルマのなかで5日間(過酷な日々だと聞かされていた)も過ごすことに漠然とした不安を感じていた。どうすれば私たちは仲よくやっていけるだろうか? どうすれば自分の価値を証明できるだろうか? 6フィート7インチ(約201cm)もある私がどうやってこんな小さなクルマに乗り込んで、15時間の日々を生き延びられるだろうか? この体験について詳細に記述されたものはほとんどないので、何を期待していいのか、また何を期待されるのかもわからなかった。
幸運なことに、私はいい仲間に恵まれた。1988年、ドイツのニュルブルクリンクでカール-フリードリッヒ・ショイフレ氏が伝説のドライバーでありル・マンで6勝を挙げたジャッキー・イクス氏と出会ったとき、それは運命のように思えた。イクス氏の妻の宝石が“ある問題”を抱えており、ショイフレ氏はそれを解決すると約束した。のちにイクス氏がそれを受け取りに訪れた際、ショイフレ氏は彼に、今年乗っていたのとまったく同じ300 SLでミッレ ミリアに出場したいかと尋ねた。そのあいだふたちは口を利かなかったし、イクス氏がイタリアに現れてからショイフレ氏が運転すると告げて彼を驚かせるまで、本当に話すこともなかったという。
ふたりの仲は良好なようで、ローマに到着する頃にイクス氏は助手席でぐっすり眠っていたという。「景色を見てリラックスするのが好きなんです」とイクス氏は私に言った。一生を運転に費やしてきた彼を誰が責めることができるだろう?
ロマン・デュマ氏は私と同じくらい、時間を簡単に作ってくれた。私がエンジンのことをあまり話せないのと同じように彼は明らかに“時計マニア”ではないのだが、彼に時計のムーブメントを見せたあと、私にエンジンの話をしてくれたので、私たちは共通の話題を見つけることができた。ほとんどの“レギュレーション”テストをスキップし、風景を眺めながら少しでも睡眠時間を確保するために、毎晩できるだけ早くゴールすることに集中した。彼は特段“レース”をしていたわけではないが、私たちがゆったりとクルージングを楽しんでいたときから、クルマの操作技術の高さを証明し、無言のうちにどんな隙もついて(そのほとんどはほかの誰にもナビゲーションを任せられない)彼の本当の才能を思い知らされることがあった。一方で私はロードブックの管理を任されていた(世界記録を達成した1955年のレースから生まれた発明であり、そのチームの成功の秘訣でもある)。
それでもデュマ氏は、私がInstagramへの投稿や風景写真の撮影に気を取られていたときを正確に把握しているようだった。「隊長、次はどうする?」。彼は私を軌道に戻すために、ロードブックを見ながらそう尋ねてきた。4度の故障(クラッチを交換したのが1回、キャブレターの調子が悪くてどんな傾斜でもエンジンが止まってしまったのが1回、それと給油を忘れて近くのガソリンスタンドまで下り坂を“サーフィン”したのが2回)、集中豪雨、過酷な暑さに見舞われながらも、デュマ氏は気持ちを高めてくれた。彼はアメリカのフレーズを真似するのが好きだった(これを見て! と鼻にかかったアメリカ訛りで話していた)。立ち寄った先のイタリア人コメンテーターたちは、リストから私たちのクルマのナンバーを読み上げてから、突然自分たちがル・マンチャンピオンの前にいることに気づくということがよくあった。あるコメンテーターは興奮のあまり声がどんどん速くなり、ついには“ロマン・デュマ、ロマン・デュマ、ロマン・デュマ!”と叫んでいた。最終的にはデュマ氏も数マイル先の公道でそれを叫んでおもしろがっていた。
それから時計だ。すべてのドライバーには、エントリーの一環としてショパールのミッレ ミリア クロノグラフが贈られる。路上で過ごした時間を記念する素晴らしい方法だ。この年の時計はミッレ ミリア GTS クロノ イタリア限定で、サイズは昨年のモデルと同様44mm径で展開。今回はクリームカラーの文字盤に、グリーンとレッドのアクセントを施している。コ・ドライバーは割引料金で購入できるが、一部のコ・ドライバーから時計はすぐに売り切れたという情報を聞いた。400人分をドライバー用に、40本の時計をイタリアの小売店に卸し、そして60本をコ・ドライバーに提供。合計500本の時計を生産したと思われる。この時計の収益の一部は、つい最近洪水災害により地域の大部分が荒廃してしまった、エミリア=ロマーニャ州の被災者に寄付される。
道端で故障したとき、別のドライバーの電話を見つけ、昼食時にその持ち主と奇跡的に再会したという奇妙な出来事など、この5日間の旅で語り尽くせないほど多くのエピソードが生まれた。さらにミッレ ミリアのウェブサイトで私たちのマシンを追跡していた、ドイツのHODINKEE読者と道端で遭遇もした。最高の瞬間のひとつは、フィリップスで自身2度目となる時計の販売記録を樹立したばかりのロジャー・スミス氏(そう、あのロジャー・スミスだ)に出くわしたことだ。彼は2度目のミッレ ミリアで、1932年式のアルファロメオ 6C 1750 GSスパイダー・ザガートのコ・ドライバーとして座っていた。実際、私が初めて彼を見たとき、彼はシエナのカンポ広場からクルマを急発進させるところだった。
この5日間で、優に100枚を超える写真を収めることができた。一部の人にとっては退屈かもしれないが、しかしこれはほかでは味わえない経験であり、滅多にできることではない。私の仕事は、いいことも悪いこともその経験を運よく自分でできないかもしれないみんなに届けることだと思っている。この話をきっかけに、人生の1週間を保留にして、運がよければイタリアの道を走るという人がなかにはいるかもしれない。
イタリアでいう“レッツゴー”(andiamo)だ!
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