ADVERTISEMENT
かつてアジアの時計と言えば、スイスブランドのオマージュや手ごろなマイクロブランドを思い浮かべる人が多かったのではないだろうか。近年、その勢力図は劇的に変化している。
近年アジア各地で産声を上げた新鋭ブランドは、もはやこれまでのようなスイス時計の安価な代替品ではない。複雑機構、建築や数学に根ざした造形、自国の工芸や歴史の再解釈を武器に、数十万円台から数百万円台の価格帯で勝負し始めている。成熟したコミュニティと越境的な生産体制が、こうした動きを後押ししていると言えそうだ。
香港、中国、ベトナム。それぞれの地域が持つ文化や技術が、どのように時計というプロダクトへ落とし込まれているのか。いま注目すべきアジア発インディペンデントウォッチブランドの現在地を探っていく。
世界有数の時計コレクターがひしめく香港
世界的なオークションハウスが拠点を構え、目の肥えたコレクターが密なネットワークを築く香港の時計コミュニティは成熟している。彼らが求めるのは単なる実用品ではなく、知性や美意識を伴ったプロダクトだ。ここで注目したいのが、企画・デザイン、そして製造の拠点を戦略的に分けるアプローチである。
テンポラル・ワークス シリーズ A フォーチュン・ウォッチ Source Temporal Works
2025年に登場したテンポラル・ワークス(Temporal Works)はその好例だ。香港とニューヨークに店舗を構えるアーモリーのマーク・チョー氏とエリオット・ハマー氏が手がける同ブランドは、“時計界のネイビーブレザー”を掲げる。つまり、変わったデザインや機構で目を引くのではなく、長く着け続けられる普遍性を目指すということだ。そして企画は香港、製造は日本という分業体制をとっているのもポイント。公式サイトには、フォルムと仕上げを重視しており、日本の生産パートナーの品質を高く評価していると説明している。代表モデルであるシリーズ A フォーチュン・ウォッチは、37mm径、厚さ10mmの316Lステンレススティール製モノブロックケースに、手巻きのセリタ製SW210-1を搭載。レッドラッカーダイヤルはあえてインデックスを置かず、ファウンテンペン(万年筆)のペン先に着想を得たニブハンドやザラツ仕上げのケースで、静かなデザインのなかに質感の差をつくり込む。価格は2500ドル(日本円で約40万円)。
テンポラル・ワークスの公式サイトはこちら
ネクテレ オーダー フロム カオス
一方、よりアート寄りのアプローチを見せるのがネクテレ(Nectere)だ。香港のコレクターであるジェームズ・ウォン氏とトニー・イップ氏が立ち上げたこのブランドは、貝殻のランダムな線から発想を広げつつ、数学のカオス理論と“バタフライエフェクト”をコンセプトに据える。代表作オーダー フロム カオスは、38mm径、厚さ8.5mm、40.5mmのラグトゥラグという非対称のケースに、手巻きのシーガル製ST17を搭載。ステップベゼルや4時位置のリューズ、左右に揺れる輪郭が、秩序と不規則さが共存するテーマをそのまま造形へ落とし込んでいる。各色175本限定で、価格は720ドル(日本円で約11万3000円)。
ネクテレの公式サイトはこちら
テンポラル・ワークスが普遍性と仕上げの完成度で魅せるのに対し、ネクテレは思想を小さなオブジェへと変える。方向性は対照的だが、どちらも香港という都市で育まれた審美眼と、地域をまたいだものづくりを背景にしている。香港のブランドが示しているのは、時計を単なる日用品でもステータス記号でもなく、視点そのものを身に着けるプロダクトとして成立させる力だ。
中国発ハイコンプリケーションの覚醒と技術力の飛躍
中国の独立時計を語るうえで、1992年にアジア人として初めてAHCIの会員となった故・矯大羽(キュー・タイ・ユー)の存在は外せない。1991年に自身初のトゥールビヨン腕時計を完成させ、のちにミステリー・トゥールビヨンでも知られた彼は、中国独立時計の原点のひとりである。現在の新世代は、その精神を受け継ぎながら、メイド・イン・チャイナ=廉価な量産品という固定観念を更新しつつある。彼らの武器は、独自機構を設計し、仕上げまで含めて自らの言葉で時計を組み立てる技術力だ。
ファム・アル・ハット メビウス Source Fam Al Hut
そのなかで際立つのが、重慶発のファム・アル・ハット(Fam Al Hut)である。代表作メビウスは、42.2×24.3mmのラグレスケースに自社製手巻きCal.M-01Tを収め、2軸トゥールビヨン、ダブルレトログラード表示、ジャンピングアワーを組み合わせた。トゥールビヨンケージ自体をメビウスの輪のような造形に仕立て、時間と空間の無限循環というテーマを視覚化しているのも特徴だ。しかもこの構成を、36〜38mm級の装着感に近いコンパクトなフォルムへ収めた点がおもしろい。2025-2026年のルイ・ヴィトン ウォッチ プライズ フォー インディペンデント クリエイティブズでファイナリストに選出されたことも、その技術力の高さを物語る。価格は2万6620スイスフラン(日本円で約540万円)。
ファム・アル・ハット メビウスの公式サイトはこちら
ローガン・クアン・ラオ ウーウェイ Source Logan Kuan Rao
ローガン・クアン・ラオ オルカ Source Logan Kuan Rao
ローガン・クアン・ラオ(Logan Kuan Rao)は、さらに個人的なスケールで中国の可能性を押し広げる。中国・広州を拠点とする彼は、設計から製造、仕上げ、組み立てまでをひとりで担う文字通りの独立時計師だ。出世作であるオルカは、クジラが海面を破って現れる姿をムーブメントの輪郭と仕上げで表現し、面取りやジュネーブストライプ、ペルラージュで波や飛沫まで描き分けた。続く37.5mmケースのウーウェイ(老子の無為/むいという意)は、複雑機構や過剰な装飾に頼らず、地板と受けの形や奥行き、比率そのもので美しさを見せる作品だ。彼が特許を取得したイコールプッシュ脱進機はジョージ・ダニエルズのコーアクシャルを発展させ、テンプに力を与える押し方をより均一に、ムラなくしようとした研究成果で、試作機アイスバーグに実装された。量産モデルのウーウェイ自体はスイスレバー脱進機を採るが、その探究の過程が彼の時計全体の説得力を高めている。オルカの当初価格は約1万9000ドル(日本円で約300万円)であり、ほかのモデルの価格は要問い合わせだ。
ローガン・クアン・ラオの公式サイトはこちら
こうした中国発の動きは、スイスの伝統への単なる対抗ではない。先人が切り開いた独立時計の土壌のうえで、新世代が独自機構の研究、手作業による仕上げ、そして一貫製作の体制を積み上げている。チャイニーズ・オートオルロジュリーは、もはや意外性だけで語る段階を抜けつつある。
工芸と物語を文字盤に宿すベトナム
ベトナム発の新興ブランドに共通しているのは、工芸性と物語性を前面に押し出す姿勢だ。神話や歴史、手仕事の痕跡を文字盤に宿し、単なる装飾ではなく、背景ごと時計に封じ込めようとしている。
オアン・ジオ ギンコー Source Oan.Gio
オアン・ジオ(Oan.Gio)のギンコーは好例だ。同ブランドは、現地の工芸技法を機械式時計の表現へと置き換えることに重きを置いている。装飾として伝統を借りるのではなく、手彫りや素材の表情そのものを時計の主役に据えている。ニッケルコーティングを施した真鍮ダイヤルに、銀杏の葉を思わせる幾何学模様を職人が手彫りで刻み込み、機械では再現しにくい立体感と陰影をつくり出す。ケースは40mm径、厚さ10.7mmの316LSS製で、ムーブメントはETA/Unitas 6498-2をベースに仕立てた手巻きキャリバー。彫金の表情だけでなく、裏からのぞく4分の3ブリッジや面取りまで含めて見せるつくりとなっている。価格は仕様によって1995〜2690ドル(日本円で約30万〜42万円)程度だ。
オアン・ジオの公式サイトはこちら
マーク・レ バーチェウ ライディング エレファント Source MarkLE
一方のマーク・レ(MarkLE)は、ベトナムの歴史や民間美術を文字盤上の物語として再構成するブランドである。歴史的人物や伝統的な図像を、七宝焼きなどの工芸技法を通して身に着けられる物語へ翻訳しているのが特徴で、より直接的にベトナムの歴史を物語へ変える。今回取り上げるバーチエウ ライディング エレファントは、侵略者に抗した英雄バーチエウが象にまたがる姿を、東湖版画に着想を得た七宝焼き文字盤で表現したモデルだ。39mmケースに自動巻きのセリタ製SW300-1bを搭載し、色線の仕切りや焼成を何度も繰り返すことで、絵画のような奥行きを獲得している。価格は4500ドル(日本円で約70万円台)前後で、マーク・レのラインナップ全体では1490〜6000ドル(日本円で約23万〜95万円)ほど。
マーク・レの公式サイトはこちら
ベトナムのクリエイターたちは、スイスのトレンドを追うのではなく、手彫りや七宝焼きといった工芸と、自国の歴史や文化のモチーフを前景化している。だからこそ彼らの時計は、単に“雰囲気がいい”のではなく、何を描き、どの技法で形にしたのかがわかる。ベトナム発の時計づくりは、文化の翻訳装置としておもしろい段階に入ってきた。
スイス一極集中からの脱却となるか?
アジア発インディペンデントウォッチブランドに共通するのは、価格の上昇そのものではなく、その価格を支える理由が明確になっていることだ。香港は企画と生産体制の設計で、中国は機構開発と一貫製作で、ベトナムは工芸と物語性で、それぞれ独自の強みを打ち出している。
アジアは長らくスイス高級時計にとって巨大な消費市場として語られてきた。しかし、ここで取り上げたブランドを見れば、いまや企画し、設計し、仕上げ、語る側としての存在感も着実に強まっていることがわかる。香港では越境的な生産体制が洗練され、中国では複雑機構の研究が進み、ベトナムでは文化や工芸を前面に出した表現が形になっているのだ。
もちろん、時計づくりの重心がただちにスイスから移るわけではない。だが、優れた時計の価値を決める基準が、もはやアルプスの谷間だけで完結しなくなっているのは確かだ。アジア発の新鋭たちは、価格競争の担い手ではなく、文化や技術、そして美意識を携えた新たなつくり手として、時計愛好家の選択肢そのものを書き換え始めている。
価格に見合う品質と、ヨーロッパとは異なる文化的ルーツを併せ持つアジアの新鋭ブランドたちは、決して一時的なブームではない。誰かの背中を追うのではなく、自らのアイデンティティを文字盤やムーブメントに刻み込む。その姿勢こそが、これからの時計愛好家を惹きつけるいちばん大きな引力になっていくはずだ。
話題の記事
アジア発インディペンデントウォッチブランド最前線。香港、中国、ベトナムの注目作を追う
大谷翔平選手がグランドセイコーのグローバルアンバサダーに就任
ベルナルド・レデラー&ラウル・パジェス ― いま世界が最も注目する独立時計師