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Inside The Manufacture グラスヒュッテの工房で知る、A.ランゲ&ゾーネの真価

ドイツ・グラスヒュッテの地で培われたA.ランゲ&ゾーネ。その工房訪問を通じて、真の時計製造の精神に迫ります。

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ドイツとチェコの国境に近いザクセン州。エルベ川のフィレンツェと称される古都ドレスデンから車で約40分走ると、人口約7000人の小さな時計の町グラスヒュッテにたどり着きます。ここはドイツ時計産業の心臓部であり、スイスや日本とは異なる独自の伝統と美学が脈々と受け継がれてきた場所です。

 数多くのブランドが拠点を構えるこの町の中でも、とりわけ重要な存在がA.ランゲ&ゾーネです。なぜなら、この町の時計づくりの歴史は、1845年12月7日にフェルディナント・アドルフ・ランゲが時計工房を開いたその瞬間から始まったからです。

グラスヒュッテのA.ランゲ&ゾーネ本社。

 僕はA.ランゲ&ゾーネの象徴的な存在であるランゲ1を所有していることもあり、いつかはその故郷グラスヒュッテを訪れたいと願ってきました。今回ようやくその念願が叶い、ブランドにとって歴史的にも技術的にも意義深い、工房をはじめとした様々な場所を巡ることができました。実際に職人たちの手仕事を間近に見て、さらに開発責任者やエングレーバーの声に耳を傾けることで、A.ランゲ&ゾーネがいかにして唯一無二のウォッチメイキングを築き上げてきたのかを、立体的に理解することができました。工房での体験をお伝えする前に、まずはこのブランドの歴史を振り返ってみましょう。


A.ランゲ&ゾーネの歴史と復興

フェルディナント・アドルフ・ランゲ(1815—1875)

創業者フェルディナント・アドルフ・ランゲはグラスヒュッテに来る前、まずドレスデンで時計職人としての修業を積みました。1830年から1835年にかけて宮廷技師ヨハン・クリスチャン・フリードリヒ・グートケスに弟子入りし、優秀な成績で修行を終えると、1837年まで助手を務めました。

 その後、ランゲはフランスへ渡り、ブレゲの弟子であった時計師ヨゼフ・タデウス・ヴィンネルのもとで頭角を現すと、若くして工房の主任に就任。工房で働く傍らパリ大学で天文学や物理学を学び、知識を深めながら時計製造への情熱を燃やしました。

 1841年には再びドレスデンへ戻り、恩師グートケスの工房に加わります。そこで彼が携わった大きな仕事のひとつが、1838年に国王から建築家ゼンパーによって設計された歌劇場に、舞台時計を設置するよう命じられていたプロジェクトでした。ランゲも製作に協力し、「5分時計」と呼ばれるこの大時計が完成します。針ではなく数字で時刻を示す画期的な仕組みは、暗い劇場内でもどの座席からも容易に読み取れるよう工夫されたものでした。この発想は、後にランゲの象徴的なデザインとなったアウトサイズデイトや、機械式デジタル時刻表示を備えたツァイトヴェルクへと受け継がれ、ブランドの革新性を示す原点となったのです。

ランゲ1(筆者私物)

ゼンパー歌劇場の5分時計

 19世紀初頭、ザクセン州の小さな町グラスヒュッテは、鉱山資源の枯渇により経済が深刻に疲弊していました。そして、そこに暮らす人々の多くは優れた素質を備えた職人たちでした。フェルディナント・アドルフ・ランゲは彼らに時計製造の技術を授け、この町に新たな産業を根付かせようと決意します。彼は綿密な事業計画を練り、幾度も手紙を送り続けた末、ザクセン州政府から支援を獲得。1845年には見習い15人の訓練資金と工具購入のための融資を受け、同年12月7日に最初の弟子を迎え入れて工房開設に至ります。やがて1868年には息子リヒャルトが加わり、社名はA. ランゲ & シー(A. Lange & Cie)から現在のA.ランゲ&ゾーネ(A. Lange & Söhne)へと受け継がれていきます。その後、同社は高品質な懐中時計を数多く世に送り出し、名声を世界へと広げていきました。

A.ランゲ&ゾーネの歴史上最も複雑なムーブメントを搭載する懐中時計、グランド・コンプリケーション No.42500。

 20世紀に入ると、第二次世界大戦がドイツの時計産業に深刻な打撃を与えました。グラスヒュッテの時計工場は爆撃で壊滅的な被害を受け、戦後は東ドイツの共産主義体制下でほとんどの時計会社が国有化されます。その結果、かつて世界に名を馳せたグラスヒュッテの時計製造は事実上、歴史から姿を消してしまいました。

 しかし1990年、ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一を契機に、創業者フェルディナント・アドルフ・ランゲの曾孫であるウォルター・ランゲが立ち上がります。彼はIWCやジャガー・ルクルトを率いていた名経営者ギュンター・ブリュームラインと手を組み、「グラスヒュッテで世界最高の時計を作る」というビジョンのもと、ブランド復興に着手しました。

1994年10月24日の発表会場に並び立つ、左からギュンター・ブリュームライン、ウォルター・ランゲ、A.ランゲ&ゾーネ顧問ハートムート・クノーテ。

1994年10月24日の発表会場に並び立つ、左からギュンター・ブリュームライン、ウォルター・ランゲ、A.ランゲ&ゾーネ顧問ハートムート・クノーテ。

 そして1994年10月24日、ドレスデン王宮で行われた歴史的発表会で、新生A.ランゲ&ゾーネは4つのファーストモデルを世に送り出します。ランゲ1、アーケード、サクソニア、そしてトゥールビヨン“プール・ル・メリット”。アシメトリーなダイヤルデザインや大型日付表示「アウトサイズデイト」、さらに腕時計として初めてチェーンフュジーを搭載するなど、その独創性と圧倒的な審美性は時計業界に衝撃を与えました。A.ランゲ&ゾーネはこうして、長い空白を経て再び高級時計界の最前線へと舞い戻ったのです。

 

A.ランゲ&ゾーネのウォッチメイキング

A.ランゲ&ゾーネの腕時計は、アシンメトリーなダイヤルレイアウトやアウトサイズデイトに象徴される独自のデザインで広く知られています。しかし今回の訪問で個人的に強く印象に残ったのは、外装の意匠を超えたムーブメントへの徹底的なこだわりでした。A.ランゲ&ゾーネの年間生産本数はわずか数千本に限られています。しかし、そのすべてに高度な手作業が惜しみなく注ぎ込まれています。

 1994年の復興以来、同社は実に75ものムーブメントを自社開発してきました。そのほぼすべての部品を自社で製造しており、2003年からはヒゲゼンマイまでも内製化しています。ヒゲゼンマイは機械式時計の心臓部にあたり、歩度の安定性を左右する極めて重要なパーツです。繊細な部品を正確に製造し高度な仕上げ加工をするには非常に高い技術が求められ、完全に習得している時計ブランドは世界でもほんの一握りしか存在しません。

 


仕上げ部門

まず最初に訪れたのは、時計のムーブメントに施される様々な装飾技法を担う職人たちが集まる部屋です。A.ランゲ&ゾーネでは、グラスヒュッテストライプ、ペルラージュ、面取りをはじめ9種類もの異なる仕上げがムーブメントに施されます。仕上げ職人が様々な技法を習得するには、それぞれ約1~2年かかるのだといいます。

 A.ランゲ&ゾーネの仕上げには“等級”がありません。エントリーモデルであっても、トゥールビヨンやクロノグラフといったハイコンプリケーションであっても、同一の最高基準で仕上げられます。つまり、「どれを選んでも外れがない」のです。

 製造責任者のティノ・ボーべ氏は、その理由を「品質基準は一つのほうが運用も品質も安定する」と説明します。少量多品種を少人数の職人が横断して手掛ける体制では、モデルごとに基準を変えること自体がリスクだからです。価格差は仕上げの質ではなく、部品点数や工数、調整難度の違いから生まれる——これがランゲのスタンスです。

 また、ボーべ氏いわく、仕上げの目的は美観だけではないのだといいます。約90%は審美、10%は機能。面精度を上げて摩耗を抑える、微細な傷や汚れを検知しやすくする、といった“効く”仕上げが随所に施されています。

 A.ランゲ&ゾーネの時計の年間生産が数千本に限られるのは、この水準を一本一本に担保するため。仕上げは見た目を飾る最後の作業ではなく、ランゲの価値そのものを形にするものなのだと改めて実感しました。


エングレービング部門

僕が今回の工房訪問の中でも最も楽しみにしていたのが、エングレービング部門です。A.ランゲ&ゾーネでは、すべての時計に施されるテンプ受けのハンドエングレービングが、ブランドの象徴的な存在となっています。

 基本のモチーフは花柄ですが(オデュッセウスは波模様)、細部の表現は職人ごとに異なり、まるで筆跡のようにそれぞれの個性が刻まれています。時計を見れば、どのエングレーバーが手がけたかを一目で判別できるほどであり、これはまさに「署名なき署名」とも言えるものです。

 筆跡という表現は比喩ではなく、エングレーバーのチームは実際にテンプ受けの装飾を見ただけで、それが誰の作品であるかを見分けることができます。僕が所有するランゲ1はエングレービング部門を統括するピーター氏というエングレーバーが手掛けたものだと今回判明。自分の時計に込められた手仕事の温もりをさらに深く感じ取ることができました。

 しかし、そこに至るまでの道のりは決して容易ではありません。開発責任者のティノ・ボーべ氏によればエングレーバーはまず3年間にわたる研修を修了し、ようやく自らの「筆跡」を時計に残すことを許されるのだといいます。繊細な技術と強い忍耐力が求められる仕事であることが伝わってきました。在籍するエングレーバーは現在わずか5名。

エングレーバーによって異なる意匠。

 工程全体の比率で見れば、エングレービングは小さな一工程にすぎません。けれども、そのわずかな手仕事が最終的に時計を“工業製品”から“工芸作品”へと押し上げる決定打になる要素です。大量生産では決して真似できない、唯一無二の手跡こそが、A.ランゲ&ゾーネのエングレービング部門の真価なのです。

 またここではテンプ受けのエングレービングだけでなくハンドヴェルクスクンスト・エディションのための手彫り部品の作業も行われていました。下はレリーフエングレービングの作業が行われているダイヤルです。

 

ランゲ1部門

ランゲ1

組立は大まかにはコレクションごとに分かれた複数の専門部門で分担されています。僕が案内されたのは、復活の象徴にして今やブランドの顔であるランゲ1の部門。グラスヒュッテの工房でも屈指の規模で、約20名の若い時計師が集中して持ち場に臨む空気は、静けさに満ちていました。

 とりわけ印象に残ったのが、効率に背を向けるようにも見えるムーブメントの二度組みです。A.ランゲ&ゾーネのすべての時計がこのプロセスを経て完成します。これまで幾度となく耳にしてきた言葉でしたが、実際に見ることでようやく腑に落ちました。

 一次組立では、数百点に及ぶパーツを仮組みして機能と公差を徹底確認。この仮組みの段階では、グラスヒュッテストライプなどの装飾は施されていません。というのも、地板やブリッジに用いられる無処理のジャーマンシルバーは、傷や変色に繊細なためです。まずは装飾を排して歯車の噛み合わせなどを詰め、分解・洗浄を経て、装飾を施したパーツで本組みに進みます。

 二度目の組立が完了したあとは、72時間の部門内検査に続き、約2週間に及ぶ専門部門での最終検査が待っています。いわゆる「二度組み」はあくまで最低ラインであり、必要とあれば再分解と再組立が何度でも繰り返されます。商品開発責任者のアントニー・デ・ハス氏が語る通り、開発と組立は常に往復し、最終的に美観と性能を“固定化”していくプロセスなのです。

左が筆者所有のランゲ1、右が撮影用にお借りした新品のランゲ1。経年変化によって左の方がムーブメントの全体に温かみのあるカラーになっている。

 

クロノグラフ部門

A.ランゲ&ゾーネの魅力はタイムオンリーの時計だけに留まりません。実際、1994年の復活コレクションの第一弾で発表された4本のなかには、トゥールビヨン“プール・ル・メリット”が含まれていました。チェーンフュジー機構を搭載したこのモデルは、ブランドが再興直後から最高峰の複雑機構に挑む姿勢を明確に示した存在でした。

 今日、グラスヒュッテの工房を歩くと、その姿勢が現在でも脈々と受け継がれていることを実感します。クロノグラフを扱う部門は熟練の時計師だけが集う特別な空間で、静寂の中で組立やオーバーホールが行われています。

 ブランドの複雑機構を象徴する一本が、1999年発表のダトグラフです。手巻きクロノグラフという難題に真正面から挑んだこのモデルは、各社が開発競争を繰り広げた後に一時は傍流化しつつあった分野で、審美性を備えた高級機構として鮮烈に再登場しました。そのタイミングも相まって、発表は大きな衝撃と話題を呼びました。

ダトグラフ・アップ/ダウン

 さらに、フライバック機能とアウトサイズデイトを組み合わせたA.ランゲ&ゾーネらしい独創的な設計により、ダトグラフは瞬く間に愛好家の心をつかみ、その評価を不動のものとしました。

 裏蓋越しに広がるムーブメントは、層状に組み上げられたレバーや歯車が複雑に絡み合い、まるで建築物のような立体美を放ちます。

 アントニー・デ・ハス氏はインタビューで「複雑機構の開発には5年から6年、場合によっては8年以上を要する。一つの部品を修正すると他の部位に6つの問題が生まれることもある」と語りました。効率化よりも品質を優先し、マーケティング以上に開発部門に資源を投じる姿勢は、ランゲが妥協を許さないブランドであることを物語っています。

 さらに、ウォルター・ランゲの言葉「Never stand still(決して立ち止まらない)」も今なお受け継がれています。リスクを恐れず200%の努力で新たな地平を切り拓く姿勢が、トゥールビヨン“プール・ル・メリット”からダトグラフ、そして今日の複雑機構へと脈々とつながっているのです。

 A.ランゲ&ゾーネのコンプリケーションは単なる技巧の誇示ではありません。精度と信頼性、そして審美性を完璧に融合させた、ドイツ時計の矜持そのものなのです。

 A.ランゲ&ゾーネは復興から間もない1997年、工房のすぐ近くに自らの時計学校を設立しました。毎年およそ20名の若者が入学し、3年間にわたる研修を経てランゲの技術を受け継いでいきます。その背景には、グラスヒュッテを未来にわたってドイツ時計製造の中心地として存続させたいという強い思いがあります。

 こうして生み出される時計の魅力は、美しい外観や緻密な仕上げだけにとどまりません。開発、製造、装飾、そして二度組みに象徴される独自の組立工程に至るまで、すべてが今なおグラスヒュッテの地で行われているという事実こそ、オーナーにとって最大の喜びのひとつと言えるでしょう。伝統と革新、そして地域の未来への責任感が結晶化したA.ランゲ&ゾーネの時計は、単なる計時道具を超え、受け継ぐべき文化そのものとして輝き続けているのです。

 

Photos & Videos:Carsten Beier & Keita Takahashi