特選腕時計から始まったクレドールの歩み
1950年代、セイコーの技術者たちは、高精度化と薄型化という2つの難題に挑んでいた。そして1960年、薄型化技術を注ぎ込んだゴールドフェザーが誕生する。搭載するCal.60は、中3針ムーブメントとしては当時世界最薄となる2.95mm厚を実現していた。さらにその9年後には、1.98mm厚の極薄手巻きCal.6800を開発。その基本設計を受け継ぐCal.68系は、1993年の復活からクレドールの薄型メカニカルムーブメントとして多くのモデルに搭載されてきた。
クレドールは、それまであった貴金属を用いた特選腕時計シリーズを、より親しみやすく洗練するため、1974年に登場したドレスウォッチブランドである。そして今日まで人びとを魅了する究極の美しさ、日本の美意識を凝縮させたデザインを追求してきた。外装と機械の隅々にまで熟練の職人が手間ひまを惜しまず手仕事を行き渡らせることで、クレドールは生まれる。そんな匠の技が息づいたドレスウォッチブランドのもとに2023年、前述したかつてセイコーの薄型ウォッチの象徴であったゴールドフェザーの名が蘇った。新生ゴールドフェザーは、全モデルがCal.68系を搭載。そして今年、コレクションの頂点となるクレドール ゴールドフェザー トゥールビヨン限定モデルが誕生した。搭載するCal.6850は、Cal.68系の最新機である。そして鳥の群が飛翔する様子を表したダイヤルに注ぎ込んだ蒔絵、螺鈿、平文(ひょうもん)などの漆芸技術は、裏側ではブリッジとは異なる別体パーツにも施され、さらに彫金によって立体的な表情が加えられている。
複雑機構の薄さと美しさ極め、ダイヤルで日本ならではの伝統工芸美を織り成したクレドール ゴールドフェザー トゥールビヨン限定モデルは、クレドールが標榜するThe Creativity of Artisans(匠たちの探求と豊かなる創造)を体現するひとつの頂となる。
クレドールというブランドの現在地
螺鈿や平文など複数の技法を駆使した漆のダイヤルが、トゥールビヨンを中心に広がる鳥の飛翔を映し出す。
クレドールにおける薄型トゥールビヨンと漆芸の融和は、2016年発表の初作FUGAKUで試みられていた。今回のモデルで再び漆芸が採用されたのは、「漆は英語でjapanと翻訳されるほど日本を代表する工芸技術であり、長い歴史の積み重ねのなかで表現の多様性を深めてきたから」だと、商品企画を担当した神尾知宏氏は言う。
「我々は、クレドールが変わっていくことを恐れていません。むしろ常にチャレンジし、更新し続けるべきだと考えています。そのために私自身も、工芸関連の展示会を見て回り、また産地に赴き、新たな表現を探し続けています」
そうしたなかでも、FUGAKUで協業した漆芸家、田村一舟氏の技術と表現力に神尾氏は絶大なる信頼を寄せている。今回は、丸みを帯びたボンベダイヤルに平文、螺鈿、蒔絵といった異なる漆芸を複合的に組み合わせるという、新たな挑戦に臨んだ。「平文は田村先生いわく、“ものすごく難しい技術”。しかも漆の層やボンベ形状のなかで、平文や螺鈿が埋もれずに美しく見えるよう仕上げるには、きわめて繊細な調整が必要でした。まさに新たなチャレンジだったのです」
セイコーウオッチでクレドールの商品企画を担当している神尾知宏氏。
神尾氏が常に挑戦を続けるのは、「その時代時代でもっとも美しく、またワクワクする腕時計を届けたい」との想いから。ゆえに新製品の企画時には「手にした時に高揚感を覚えるような、時の豊かさを検討している」という。なるほど、クレドール ゴールドフェザー トゥールビヨン限定モデルのダイヤルで表現された色とりどりの鳥の群が飛翔する様子は実に生き生きとしており、また流れゆく時を想起させるなどさまざまに解釈でき、いつまでも見飽きない。そのデザインは、社内のデザイナーとともに検討した。「日本には昔から、見立ての文化があります。今回はトゥールビヨンを太陽に見立て、そこから溢れ出るエネルギーが、鳥の群れに姿を変えて12時位置のクレストマークに向かって空高く飛翔していく様子をデザインしました。ですから太陽にもっとも近い位置にある鳥たちは、光に輝く平文にしたかった」
こうした神尾氏の想いや意図を田村氏は受け止め、彼が想像した以上の躍動感あふれるダイヤルに仕立て上げた。さらに今回のチャレンジは、ムーブメントにも及んでいる。旧作で用いたCal.6830と同じ厚さ・大きさのままパワーリザーブを最大約37時間から約60時間にまで大幅に延長したのだ。「ユーザーのリサーチからパワーリザーブが物足りないとの声が多かったため、香箱周りの再設計をお願いしました」
直径25.6mm、厚さ3.98mmという限られたスペースの中で1.6倍以上もパワーリザーブを伸ばすのは、技術者にとってかなりチャレンジングであったことは想像に難くない。「変わることを恐れていませんが、継続の大切さも理解しています。極薄トゥールビヨンというもっとも難しいムーブメントの進化と組み立て技術の継承は、クレドールだからこそ出来る使命。これからも複雑機構と工芸の両面で、より高みと深みを目指していきたいですね」
極薄トゥールビヨンを託された手
8.6mmの薄型ケースに収まるCal.6850は、香箱を拡大しながら精緻な仕上げを施し、裏側にも螺鈿を取り入れた。
クレドール ゴールドフェザー トゥールビヨン限定モデルの製作は、盛岡セイコー工業の雫石高級時計工房に委ねられている。そのムーブメントの組み立てと調整、ダイヤル・針付け、ケーシングまでのすべてを、齋藤勝雄氏が一人で担っている。2004年からCal.68系の組み立てに向き合ってきた同工房が誇る現代の名工の技術力をもってしても、その製作は極めて難しいという。インタビュー中、齋藤氏が本当に大変だと何度も口にするほどに。「極薄ムーブメントはCal.68系で長く経験を積んでいますし、トゥールビヨンはCal.6830で経験しました。しかし今回のCal.6850は、香箱を大きくするため輪列の位置が変更されたので、新たに経験値を積むことになりました」
特に難しいのは、やはりトゥールビヨンのキャリッジだ。100を超えるパーツのうち、およそ3分の1がこの小さな機構に集中している。その上、テンプの下にガンギ車が入り込む設計であるうえに薄型なため、調整具合が見える部分が限られてしまい確認がしづらい。そのため、組み上がってから動作確認をし、不具合を見付けては分解して組み直すを繰り返すしかないのだ。
さらにアンクルは一般的な錨状ではなくバー状で、一方の終端近くに2つのツメ石がはめ込まれ、他方の終端にクワガタが形成される。この形状のアンクルは、スイスブランドの複数の極薄トゥールビヨンでも試みられている。
「アンクルの調整は特に大変ですね。爪石の噛み合い具合や剣先の高さ(反り調整)がほんのわずかでもズレただけで、動いてくれません。だからアンクルの調整時とヒゲゼンマイの調整時は、周りの音が聞こえなくなるほど集中して行います。すぐ横で名前を呼ばれても、気付きません」
組立師の斎藤勝雄氏。
キャリッジはチタン製。軽量である一方で、テンプと脱進機を内蔵しているためピンセットで摘まみ上げる際にはバランスを取るのが難しく、先端にキャリッジの回転軸と同じ直径のくぼみを自身で施した専用のピンセットを用意した。各歯車とカナも当然極薄であり、縦アガキを完璧にしなければならないが、これもキャリッジと大型の香箱に視界が妨げられる。また彫金されたブリッジ、漆芸を駆使したダイヤルの扱いも特に慎重さが求められる。
「田村先生と彫金師の素晴らしい仕事を、私が台無しにすることがあってはならない」と語る齋藤氏の作業台には、Cal.6850専用に自身で幅や厚みを調整したドライバーのセットと、パーツを傷つけないよう内側を砥石で鏡面仕上げした、大きさや形が異なるピンセットのセットが待機している。
こうして工具にまで気を配り、組み立てとダイヤル・針付けを終えた後にも、難関が待つ。8.6mm厚という極薄を実現するため、ケースが2ピース構造になっているからだ。つまりムーブメントは、ダイヤル側からしか収めることができない。「表側からケーシングするのは、私自身初めての経験。いかにして漆ダイヤルに触れないでケースに収めるのか、いろいろと考察しました」
また2ピース構造は、ケーシング後の調整を拒む。裏蓋側からムーブメントにアプローチできないため、取り出すしかないのだ。その際も巻き上がったゼンマイをリリースできないから、動いている状態でダイヤル側からムーブメントを抜くことになる。
「初期設計の段階で、2ピースケースによって組み立て・ケーシングが難しくなるということは進言していました。しかしゴールドフェザーの伝統を守るために、なんとかゴールドフェザーらしい薄さを実現しようということで、組立師の視点で可能な限り設計に助言をしました。またノウハウはアフターサービス部門と共有し、私が調整したCal.6850専用のドライバーやピンセットと同様のツールをアフターサービス部門も準備しています」
齋藤氏はクレドール ゴールドフェザー トゥールビヨン限定モデルを「工芸品を身に着けるようなイメージ」だと表現する。そして「それを普段使い出来るように作り上げることに悦びを感じる」と、力強く語った。「極薄時計は、後世に受け継ぐべき大切な時計文化のひとつです。ですから後進を育てることも、私の大切な役割だと自負しています。そして若い技術者には、Cal.68系を組み立てられることを、誇りとしてほしいのです」
ダイヤルに蒔かれた日本の美
漆芸家の田村一舟氏。
クレドール ゴールドフェザー トゥールビヨン限定モデルのダイヤルに、生き生きとした飛翔する鳥の群を漆芸で表わしたのは、前述したように田村一舟氏である。加賀蒔絵の第一人者である彼にとって今回のダイヤルは、「これまでに手掛けたダイヤルの中で一番難易度の高い作品だった」という。
なにしろ鳥の群を色とりどりにするために、螺鈿だけで3種類、そして金の板を鳥の形に切って漆の上に貼り付ける平文を組み合わせているのだ。またトゥールビヨンの開口部周囲には、金属を摩り下ろした平目粉(ひらめふん、平らで厚みのある金の粒)が詰められている。3種類の螺鈿、平文、平目粉はそれぞれ厚みが異なるため、すべて綺麗な色味を出すには各手法・各材料によって微細な漆の塗り厚みの調整を行わなければならない。なおかつダイヤル表面が曲面のため、それに沿わせて螺鈿や平文を施す必要があり、磨きすぎると螺鈿が部分的に剥がれて欠損が発生してしまうため、さらに難易度は高くなる。「漆の乾燥後に塗り研ぎを繰り返しますが、均一に研がないと色ムラが発生し、きれいになりません。螺鈿・金の上の漆の残り具合により印象が大きく変わってしまいます。丁度いいバランスの色味を残すことが大変難しく、何度も納得のいくまで調整を行いました」
またダイヤルのクレストマークと“Goldfeather”のロゴは、高蒔絵による田村氏の手描きである。「紅柄の顔料の量を調整して丁度いい硬さの漆を作らないと、太い部分と細い部分が流れるように連続させて描くことが出来ません。また、筆の長さ太さを調整しながら滑らかなアールを描けるように工夫が必要でした」
苦労するのは各手法・技術に合わせた漆や研ぎなどの調整だけに留まらない。腕時計のダイヤルとして機能させるべく厳密に厚さが規定されているのだ。「この厚みでないと機能面で問題になるポイントが多々あり、またあまりにも工程が多いため、レイヤーごとに塗り厚・研ぎ磨きによる厚みの上下の動きが最終段階を想定しながら、厚みが丁度納まるポイントを探していくという点が、これまでにない最大の難しいところでした」
今回のダイヤルの製作は、「普段の手仕事のなかでは経験できない程の息の詰まるような工程の連続」だったという。それでも「最高峰の腕時計の製作に携われたことには、やりがいを感じました」と、振り返る。「この腕時計を通じて国内外の方々に千年を超える日本独自の漆・蒔絵の世界を身近に感じていただき、子供さんからお孫さんへと未来へと繋がれていくことを心より願っています」
クレドールが見つめる、美の頂とその先へ
クレドール ゴールドフェザー トゥールビヨン限定モデルは、企画を担当した神尾氏が語ったチャレンジの産物である。困難に挑んだのは、組み立てを担当した齋藤氏、漆芸家の田村氏に留まらず、極薄のパーツや難加工材であるチタン製のキャリッジなどの製造、それらの仕上げ、そして彫金師といった製作に携わったすべての人たちであった。そして極めて大変だったと度々口にした齋藤氏、難易度の一番高い作品と語った田村氏が、最終的に携われたことへ対する“誇りや悦び”を感じているのも、すべての技術者に共通しているだろう。
クレドールを象徴するクレストマークの3つの頂が表しているのは、感性、技術、技能。日本人の感性と価値観で“美”への飽くなき探求を続けてきたクレドールだからこそ、それら3つの最高峰が集結し、機構と外装の頂点となるモデルが作り上げられた。しかしこれはゴールではない。クレドールの挑戦は、これからも続く。
クレドール ゴールドフェザー トゥールビヨン限定モデル。Ref.GBCF999。2530万円(税込)
プラチナケース、レザーストラップ。ケース径38.6mm、ケース厚8.6mm。3気圧(日常生活用)防水。手巻き。Cal.6850:22石、2万1600振動 / 時、約60時間パワーリザーブ。世界限定10本。
Photos:Yoshinori Eto, Keita Takahashi Styled:Eiji Ishikawa(TRS) Words:Norio Takagi