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今年開催されたWatches & Wondersで、エルメスは主に女性をターゲットとする機械式ムーブメントを搭載した36mm径のスポーツウォッチの新ラインを発表した。カットは“メンズ”のH08よりも小さく、丸みを帯び、ソフトな印象だ。私の第一印象は、シンプルでクリーン、そして分かりやすい(そして商業的に成功しそうな)時計であり、このカテゴリーの成長に向けて全速力で前進し続けるというブランドの意思を証明するものである。
エルメスの時計は、1970年代にジャン=ルイ・デュマ(Jean-Louis Dumas)がエルメスを改革して以来、ファッション愛好家やブルジョア消費者のあいだでは定番の存在となっている。アルソーやケープコッドのようなシグネチャーモデルの人気は大衆市場においてピークと下降を繰り返したが、純血主義的な愛好家グループ外に存在する古くからの時計愛好家や、ファッションにこだわる人たち(マルタン・マルジェラによるダブルツアーのアイデアを参照)のあいだでは不動の人気を誇っている。5000ドル前後のエントリーレベルでの成功は、これまでは馬術にインスパイアされた見栄えのするデザインと、文字盤のエルメスブランドのパワーによってもたらされるものであった。
自社製機械式ムーブメントを搭載し、エナメルや象嵌細工などの複雑な装飾を施したハイエンドモデルの増加によってエルメスの時計部門は近年成長を続けているが、これはメゾンが新たな1歩を踏み出したことを意味する。この時計分野における勢いを支えているのはH08の成功だ。H08は現代のエルメス顧客のニーズに応えるために考案された、インダストリアルな外観を持つ21世紀のスポーツウォッチである。エルメスの年次活動報告書によると、2023年の売上高に占める時計の割合は、2020年の3%に対して5%と上昇している。これは切り分けられたパイの小さなひと切れのように見えるかもしれないが、そのパイは巨大でしかも着実に成長している。2023年の連結売上高は134億ユーロに達し、2020年の64億ユーロから大幅に拡大している(成長率100%以上)。エルメス・オルロジェの売上高にはAppleWatchのブレスレットは含まれていない。高級レザー製のハンドバッグを主な商品とするエルメスにとって、時計が事業全体と同じペースで推移しているだけでなく、右肩上がりで伸びていることは大きな勝利である。
すべてのエルメスの時計が同じように作られてきたわけではない。多くの人がクォーツムーブメントの副産物だと主張するようなものからレザーグッズカテゴリの主力となるような製品に至るまで、そのリリースは長い道のりを歩んできた。そして今日ではエルメスは機械式時計の分野で正当な地位を確立している。同社は2006年にはパルミジャーニ・フルリエのヴォーシェ・マニュファクチュール(ムーブメントを製造)の株式を取得し、2012年にはラ・ショー・ド・フォンのナテベールSA(文字盤を製造)、2013年にはル・ノワルモンのジョセフ・エラールSA(ケースを製造)を買収している。2017年にはケースと文字盤の事業部門はル・ノワルモンに集められ、“Les Ateliers d'Hermès Horloger”と命名された。今年2月に発表されたモルガン・スタンレーの第7回スイス時計年次報告書では、オートオルロジュリー(平均販売価格30万ユーロ前後の時計)に力を入れ、毎年100本前後を販売することでエルメスの時計製品の位置づけを再構築し、ブランドの時計としての魅力を高めている(ハロー効果として知られる戦略)と報告しされている。
エルメスは時計市場のダイナミックな嗜好の変化を受け入れてきた。ビジネス・オブ・ファッションによると、エルメス・オルロジェのローラン・ドルデ(Laurent Dordet)CEOは、同社の売上の80%を女性が占めていると述べている(ただし、これが本数で測られているのか、売上額で測られているのかは不明)。自社製ムーブメントであるCal.H1912を搭載した“女性のため”の腕時計であるカットは、まさにメンズとレディースの中間に位置する製品である。比較的ニュートラルなデザインにとどめて直径36mmという中性的なサイズを打ち出すことで、メゾンはこの時計を分け隔てなく手に取れるように配慮している。女性向けの商品でありながら、誰が何を着用すべきかを押し付けるのではなく、消費者に判断を委ねているのだ。
カットはエレガンスのなかにもスポーティさがある。このモデルはエルメス流のスポーツウォッチでありながら、そのデザインはエルメスそのものであり、現在市場に出回っているスポーツウォッチの派生モデルとは一線を画している。より無骨でインダストリアルなH08よりも主張しすぎないシルエットで、スリムで身につけやすい。現在この時計には36mm径のなかでバリエーションを用意しており、交換可能なラバーストラップにはメゾンのレザーコレクションをイメージしたカラーも見られる。もっとも手に取りやすいモデルが93万8300円(税込)で、ステンレススティールとローズゴールドのコンビにダイヤモンドをあしらったモデルが226万6000円(税込)となっている。
H08の成功を踏まえれば、より幅広いスポーツウォッチファンの需要に応えるためになぜH08を縮小しなかったのだろうか、という疑問も湧くかもしれない。SS製スポーツウォッチが飽和状態にあるのは事実だろう。“ジェラルド・ジェンタがてがけた”以外のブランドにとって、新しい“女性向け”スポーツウォッチ(この市場での成功は非常に難しいことで知られている)の展開は困難なものであることは間違いない。画一的であることが正解だとは必ずしも限らないのだ。
「大きなモデルを縮小して小さなサイズにすることが、必ずしも正しいアプローチとなるわけではありません」と、エルメスウォッチのクリエイティブ・ディレクターであるフィリップ・デロタル(Philippe Delhotal)氏は言う。「仮にH08を小さいサイズで作ったとしても、プロポーションが適切なものになったかはわかりません。だからまったく新しいデザインにしたのです」
カットをラインナップに加えることは、双方向へのアプローチによって成功の可能性が高まることを意味する。H08が現在、女性の一部で受け入れられているようにカットは間違いなく多くの男性顧客に支持されるだろう。
デザインはエルメス・オルロジェ(特に中価格帯の製品群)において非常に重要であり、かつうまく機能する方程式に則っている。それによって競合する中堅どころの機械式スポーツウォッチとは一線を画しているのだ。時計はスイスで製造されているかもしれないが、エルメスはフランスの規範を持つフランスのメゾンである。
「メゾンの価値観、グラフィックチャート、そしてメチエ(専門技術)を横断する多くのクリエーションにどっぷりと浸かってきました」と、このメゾンで16年間勤務しているデロタル氏は語る。「時計であれ、あるいはまったく別のものであれ、何かをデザインする前には必ずエルメス的な感覚、フランス的な味付け、ひいてはパリ的なニュアンスが入り込んでくるものなのです」
カットのケース形状とそのなかに見られる図形(クッションケースのなかにサークルがある)は、エルズワース・ケリー(Ellsworth Kelly)氏と彼の幾何学的な抽象画、あるいはソフィー・タウバー・アルプ(Sophie Taeuber-Arp)氏の完璧な円形と長方形からなるフォルムを思い起こさせる。実はカットのアイデアは、2015年にエルメスがポンピドゥー・センター・メスで開催した 『Formes Simples』という展覧会を元にしているという。
「10年前、私たちはエルメスのクリエイションとアウトプットを振り返りました」とドルデCEOは説明する。「最終的に私たちは常に時代を超越したシンプルな形、つまりギリシャ彫刻からブランクーシ(Constantin Brâncuşi)やジャン・アルプ(Jean Arp)のような近代芸術家、さらにはアニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)が生み出した先史時代から存在する人工的なシンプルな形に焦点を当てるという結論に達しました。シンプルに見えて、決してシンプルではないもの。そのアイデンティティはディテールから引き出されます」
そしてこの場合のディテールとは、蹴り出された時計のエッジにある。そう、 カットだ。
時計のエッジは丸みを帯び、左右のケースの側面にはまるで丸石に切り込んだかのような(あるいはなめらかに浸食したかのような?)カットが施されている。またリューズは1時30分の位置にあり、両側のカットラインを邪魔しないようになっている。コンセプチュアルであり、アイデンティティを表現する形状というやや高尚なアイデアに加えて、エルメスの小さなシグネチャーもあちこちに散りばめられている。Hのエングレービングにラッカー仕上げが施されたリューズ、グレーとオレンジのアクセントが効いたミニッツトラックと、SS製モデルにおいてその上を流れるエルメスオレンジの小さなドットが光る秒針、そしてH08とは異なるデザイン性の高いタイポグラフィなど、カットは独自のデザイン言語によって生み出されている。
時計の文字盤にグラフィカルなタイポグラフィを用いるのはエルメスならではの感覚だ。
「時計製造の世界では、タイポグラフィを優先することはあまりありません」と、デロタル氏。「タイポグラフィはそれ自体がメチエであり、文字盤のデザインに取り入れるにはリスクが伴います。伝統的なインデックスを採用すれば、そのようなリスクはありません。しかし完全なシンメトリーではなく、少し風変わりな12の数字をデザインする場合、自分の仕事を増やすことになります。それはそう簡単なことではありません」
しかしそれこそがエルメスの素晴らしさであり、彼らは時計製造において、またそれ以外においても伝統とモダニティのバランスを取る方法を心得ているのだ。
エルメスのビジネスが好調であることは明らかであり、その時計部門はCovid以降に見られた急成長の一翼を担っている。H08は従来の中価格帯のエルメスウォッチの概念を覆しただけでなく、ブランドのファン層を“シリアス”な時計愛好家と位置づけられる層にまで拡大した。現在、カットはH08年の成功とエルメスのオート・オルロジュリーに対する評価の高まりという追い風に乗っている。しかし中世のスイスをルーツとしない新しいSS製スポーツウォッチを、私たちは喜んで受け入れることができるだろうか? 文字盤からエルメスを外し、JLCを加えれば、おそらくコメント欄は万人からの賞賛で埋め尽くされるのではないだろうか?
マルタン・マルジェラの90年代風の脱構築的テイストに乗ったケープコッドが発売されたときのように、このスポーツウォッチは今の時代にマッチしており、女性(そしてもちろん男性も)にとって手に取りやすく理解しやすいものとなっている。今日、私たちはアスレジャーの時代に生きている。アスレジャーとは、快適であることを大前提に素材にこだわったハイテク製品の総称だ。アスレジャーはもはやそれ自体がファッションステートメントではなく、アパレル業界の隅々にまで浸透している。
同じことがSS製スポーツウォッチにも言える。もはや当たり前の存在になってきているのだ。最近の高級ファッション界隈においては、ロゴや モノグラムよりも糸番手やカシミア混率が重要視されるようになり、アスレジャータイプのアイテムに熱狂する消費者が増えている。現代において成功を示す本当の指標はあまりに普遍的すぎて気に留められなくなるような商品となることなのかもしれない。ロロ・ピアーナのセーターとか、ザ・ロウのハンドバッグとか、あるいはルルレモンの黒いレギンスとか。(ケリーやバーキンのバッグは別として)エルメスは控えめながらもしっかりとブランドをアピールする巧みな舵取りを行っている。メゾンはブランディングを最小限にとどめ、セレブを起用したプロモーションもない。エルメスは自らの価値を熟知しているのだ。
カットはエルメス流のスポーツウォッチで、エレガントかつデザイン性に優れ随所にオレンジのニュアンスが散りばめられている。時計の本質そのものはシンプルだが、シンプルであることを正しく表現するのは至難の業だ。商業的にわかりやすく消費するために作られた時計であることは明確で、このことについて問われてもブランドは少しも動じなかった。エルメス・オルロジェは、(香水と同様に)卸売りも行っている唯一の高級宝飾ブランドであることを忘れてはならない。
今のところ、エルメスのビジネスは揺るぎない。おそらくどんな時計を発表しても収益が伸びるほど事業は好調なのだろう。エルメスが真の時計メーカーであるかどうかはともかく、カットは今日の消費者の要求にきちんと応えたものであり、このモデルはエルメスを時計も作るラグジュアリーメゾンではなくウォッチブランドとして位置づける一助となるはずだ。