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エルメスのウォッチメイキングは、時計専業メーカーはもちろん他のジュエラーやファッションメゾンによるアプローチと比べてもかなり独創性が強い。アンリ・ドリニーによる代表的なアルソーは馬具をモチーフとして1978年に登場したロングセラーシリーズだが、文字盤上を回転するふたつのダイヤルでムーンフェイズを独自に表現したアルソー ルール ドゥ ラ リュンヌや、同様の動作で巧みにワールドタイムを表示しながら文字盤上には空想の地図が幻想的に描かれた、アルソー ル タン ヴォヤジャーなど、メゾンの世界観を象徴するオブジェとなっている。
今回、そんなエルメスのウォッチメイキングに迫るために工房を訪れる機会を得た。僕はスイス・ビエンヌ地区にあるブルック(Brügg)という街にある、アッセンブリとレザー工房のアトリエにお邪魔した。エルメスは、ここから45分ほどの距離にあるル・ノアモン(Le Noirmont)という地区に構えた工房でケースとダイヤルを、25%の株式を保有するヴォーシェ・マニュファクチュール・フルーリエで主たるムーブメントを製造しており、合わせて3つのマニュファクチュールが時計製造の根幹を担っている。
エルメスの時計にまつわる歴史はおそらく皆さんのイメージよりも長く、1928年には販売を開始。1978年、アルソーが誕生した年に自社での時計製造をスタートさせ、ここブルッグのアトリエはその当時に設立された。ここには現社長であるローラン・ドルデ氏のオフィスがあるほか、コミュニケーションや企画開発の部門も配されており、まさにエルメス・ウォッチメイキングの本拠地と言える場所である。大きな見どころは、アルソー ルール ドゥ ラ リュンヌなどの他にない複雑な機構の組み上げを実践するT2のセクションと、何と言ってもレザーアトリエだ。まずは、エルメス・オルロジェ社が内部に抱える20名のウォッチメーカーたちの仕事ぶりから紹介したい。
エルメスのアッセンブリは比較的オーセンティックなアプローチで行われる。マシンやコンベアを用いてパーツや半組み立て状態の時計を、組み上げのために運ぶ装置などは存在せず、1人の職人が最初から最後の工程まで手作業で担当することが多いようだ。彼らは4〜5つのグループに分かれて、それぞれの島で異なるモデルを担当する。先にも書いたが、驚いたのはこのワークショップでアルソー ルール ドゥ ラ リュンヌやアルソー ル タン ヴォヤジャー、スリム ドゥ エルメス パーペチュアルカレンダーなど、かなり難易度の高い組み上げを内製していること。もちろん、ムーブメントはサプライヤーからエボーシュで納入されるものの、エルメスのコンプリケーションは多針のものや薄型のもの、複数の独立した小さな文字盤(しかも1枚ずつがアベンチュリンやエナメルなどデリケートなものだったりする)を持つものなどが多いわけで、クラシカルな時計に比べて慎重な扱いが求められる。
これらに対応するため、エルメスはコンピュータ制御された特別な組み上げ工具をオーダーメイドしており、例えば針付けのツールであれば針の高さを均一に保ったりムーブメントへ過度な圧力がかかるのを防いだりして、質の高いアッセンブリを実現した。このセクションで責任者を務めるパトリック氏は、よい仕事をするには「人と道具、そして的確な指示」が必要だと語り、その「指示」のために一度決めたコンピュータ制御の数値も時計師同士でコミュニケーションを取り、日々改善させているのだそうだ。なお他の例として、特別な形状をしているアルソーのケースに対応したベゼルを締めるための専用ツールや、スケルトンからパーペチュアルカレンダーまでが揃う極薄型のスリム ドゥ エルメスのために、針ごとにかける圧力を細かく制御されたツールなども使用されていた。
エルメスのT2(時計の組み立てなどを行うセクション)は、このところ近代化を遂げている時計マニュファクチュールとは異なる独自の方向性を守っており、特に衝撃を受けたことが、アッセンブリにかける目安の時間が存在していないということだった。いわゆる組み立てのノルマが存在していないのだ。できる限りの数を生産するという共通認識はあるけれど、何時間以内で組み上げを行うというよりもクオリティを優先させて、例えば文字盤上にゴミや汚れを残してしまうようなミスを排除していく。注意深く作業を続ける時計師たちの姿が印象深かった。
なお、ビジットの途中で今年の新作であるアルソー デュック・アトレ(馬車の車輪の意)について説明を受ける機会をいただけた。このモデルは3軸のセンタートゥールビヨンとミニッツリピーターを備えたハイコンプリケーションであり、エルメスがセルクル・デ・オルロジェ(Le Cercle des Horlogers)と共同開発したものだ(アッセンブリはセルクルが行う)。セルクル内で1人の職人が装飾も含めて最初から最後までを担当し、アッセンブリ自体で1ヵ月を費やすという同社内でもかなり特別なプロジェクトで、こうした作り方をしているモデルはいまのところ本機だけであるということだった。単なる複雑モデルというだけに留まらず、Hを象ったトゥールビヨンキャリッジや馬の頭部を連想させるミニッツリピーターのハンマー、そして雄々しい馬のたてがみまでが表現されたラックなど、エルメスのクリエイティブが随所に生きた仕上がりとなっている。チタン製とローズゴールド製のケース2種があり、各世界限定24本の生産かつ6288万7000円(税込予価)というだけあり、これらのパーツやネジの頭はミラーポリッシュで磨き上げられており、本格的なウォッチメイキングも体現されていた。
ブルックのエルメスアトリエで特筆すべきもうひとつの点は、地下に位置するレザーワークショップだ。エルメスの出自といえばレザークラフトであり、ここでは時計のストラップ製作はもちろん、レザーを用いたマルケトリやモザイク技法による文字盤の制作も行われている。案内を担当してくれたイザベルさんは30年以上エルメスに勤める大ベテランで、以前はバッグ職人をしており、銀座ブティックでアトリエ長をされていたこともあるそうだ。ブルックのアトリエには9年前に異動されたということで、エルメスウォッチにレザーによる表現を加えるべくクラフトを続けてきたプロ中のプロである。
エルメスでレザーを文字盤に用い始めたのは2017年以降のこと。現クリエイティブ・ディレクターのフィリップ・デロタルによる発案で、それまでいろいろな素材を用いていたマルケトリにレザーでチャレンジすることになったそうだ。エルメスのスカーフや動物などモチーフは様々で、それらの繊細なシェイプを形の変わりやすいレザーで表現していくことが当初はとても困難だったとイザベルさんは語る。処女作は完成するまで1年がかりだったそうだ。
マルケトリ文字盤に用いられるレザーはバッグやストラップに用いるのと同じものを使い、表面を残して裏面を漉いて薄く仕上げる。0.4mmほどまで薄く漉いたものを、ジュネーブのパートナー企業へ送りマルケトリのパーツ毎にカットを行う。レザーは生きている素材であり、これほど薄く加工したものはピンセットでつまんだだけでも変形してしまうこともあるという。イザベルさんはこの表現方法を地道に発展させ続け、より大量の小さなパーツを扱うことも可能にしていく。2019年に発表された「ゼブラ ドゥ タンザニ」はスカーフの柄をモチーフとしたもので、シャンルベエナメルで描かれたゼブラの周囲に色とりどりのレザーを精密に組み合わせて再現。エナメルの厚みとレザーの高さを揃えることに苦心したそうだ。
一方で、当初は実現不可能だと考えられていた、レザーでのモザイク技法も1年がかりで発明される。その処女作は、フローランス・マンリクが描いた「t」のスカーフ柄を、圧巻の2200ピースのレザーを用いて表現。この職人技はエルメスが時計業界で初めて生み出した技法で2018ジュネーブ・ウォッチメイキング・グランプリにて、アーティスティック・クラフト・ウォッチ賞を受賞している。マルケトリと異なり、レザーモザイクはそのすべての工程が社内で行われるという。また、マルケトリでは貼り付けを失敗してもそのパーツだけを修正することが可能だが、モザイクではそれ以上に細かなレザーを用いるため一部だけを直すことができない。3週間かかって手掛けたものが、最後の瞬間に使い物にならなくなることもあるそうで、エルメスのレザークラフトにおいても最上級に繊細であると言えそうだ。現在のところ、アトリエ内にはマルケトリを手掛ける職人は5人、そのうちの2人がレザーモザイクも習得しているとのこと。
文字盤にレザーを用いることは、メジャーな時計ブランドでは珍しいことで、それもエナメル装飾の最高峰であるミニチュアペインティングに勝るとも劣らないほど繊細な作品へと、エルメスを駆り立てたものは一体何だったのだろう。イザベルさんは、「元々は、バック製作から異動してきて、時計のストラップづくりは2年もやれば終わるような簡単な仕事だと考えていました。けれど、実際はより細密な仕事でありドンドン興味を持っていく自分を発見したのです。思えばバックを作っているときも細かい部分に楽しさを感じていたし、似ているようで違う時計のためのレザークラフトは新しい挑戦へと変化していきました。バックづくりと時計におけるレザーを扱うスキルは、実はまったく違うもので似ていないのです。私は技術を理解することが好きなので、早いうちにバックづくりのスキルを時計に合わせることは止め、ストラップや文字盤づくりに必要なスキルを身につけていくことにしました。スキルが先にあるわけではなく、デザインやモチーフが先にあって、どのようなやり方でアプローチできるかを考えることが大切なのです」。
エルメスのアトリエで一貫して感じたことは、ここはいわゆる“ファクトリー”ではなくあくまで“アトリエ”であるということ。職人たちには時間のゆとりがあり、創造性や技術を発揮するためのアプローチが優先されている。だからこそ、エルメスの時計には他にない独自性があり、ストーリーを語りかけるのだ。取材の最後、イザベルさんに「エルメスがレザー文字盤手掛けることになったのは必然だったか?」という質問をした。「スイス時計とエルメスのレザーを合体させることは私たちにしかできないこと。技術的には他のメゾンでもメーカーでも可能なことだと思いますが、やる意義があるかどうかにおいてエルメスはそれにふさわしいと考えています」
その他、詳細はエルメス公式サイトへ。