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Fashion Watches シチズンとイヴ・サンローランのありそうでなかったライセンス契約の物語

20世紀で最も著名なファッションデザイナーは、1970年代にシチズンと共同で時計を製作していた。

クォーツ技術は、1970年代の時計美学の進化に大きく寄与した。これにより、パテック フィリップを含むスイスの高級時計メーカーは、新技術に直面して実験的なデザインに取り組むしかなかった。また、HODINKEEの元エディターであるジョー・トンプソンが以前“ファッションウォッチ革命”と呼んだ現象の出発点でもあった。電池式時計の登場から10年で、ウォッチメイキングの大部分は計時機能よりも外見に重点を置くようになり、ついには時間を知らせるだけのファッションアクセサリーへと進化した。

 日本から輸入されたこの技術は、大手で非常に有名なファッションブランドによる時計会社とのライセンス契約の増加を生んだ。クリスチャン・ディオール、グッチ、イヴ・サンローランといったブランドは、安価なクォーツウォッチのダイヤルに自社のロゴを付けて、大衆市場での利益を上げることができるようになった。

Saint Laurent the man

イヴ・サン=ローラン(1936年~2008年)、1982年1月にパリのスタジオにて。Image: John Downing/Getty Images.

 多くのファッションブランドがライセンサー/ライセンシーとして利益を追求するなか、イヴ・サン=ローラン(Yves Saint Laurent)を取り上げることは現代のファッション界を分析する上で最も明白な選択である。彼は既成のドレスコードに鉄槌を下した革新者であり、最終的に20世紀後半の女性ファッションを定義づけた。サンローランのメゾンは、1960年代にはパリの女性の服装を保守的で堅苦しいマンネリから解放し、“オピウム(香水)”や1970年代のセックスセールス戦略で世界を騒がせ、1980年代にはあらゆるものに自信を持ってその名を刻み込んだ。

 1983年にメトロポリタン美術館で開催された回顧展において、ファッションの女帝でありコスチューム・インスティテュートの大御所であるダイアナ・ヴリーランド(Diana Vreeland)によって“生きる天才”および“ファッション界の導師”として称えられたイヴ・サン=ローランは、ファッション界のエリートたちから“天才”やその類義語を与えられて絶えず称賛されてきた。これは現代の時計デザインの流れを変えた天才的な開拓者としてしばしば称えられる、ジェラルド・ジェンタ(Gerald Genta)に対する時計愛好家の賞賛の仕方に似ている。

Yves Saint Laurent with Diana Vreeland

1983年12月6日、ニューヨークのメトロポリタン美術館で開催されたコスチューム・インスティテュート・ガラの“イヴ・サンローラン: デザインの25年”にて、ダイアナ・ヴリーランドとイヴ・サン=ローラン。Image: Getty

 1957年にクチュリエの巨匠であるクリスチャン・ディオールが急逝したあと、若き見習いとしてキャリアをスタートさせたイヴ・サン=ローランは、わずか21歳でディオールの後継者となった。その3年後には、自身の名前を冠したブランドを設立する。その後は、モンドリアン・ドレス、ル・スモーキング、サファリ・ルック、そして1976年の“バレエ・リュス”ショーなど、多くの名作を生み出した。このショーは、「イヴ・サン=ローランが本日発表した秋のクチュールコレクションは、ファッションの流れを変えるだろう」とニューヨーク・タイムズ紙の一面を飾った。彼は1960年代から80年代にかけて、オートクチュール界の北極星となったのだ。

Yves Saint Laurent fashion show : Haute-Couture spring-summer 2002

イヴ・サンローランのオートクチュール、春夏2002コレクションにて登場したモンドリアン・ドレス。Image: Getty Images.

 イヴ・サンローランのレディ・トゥ・ウェア(プレタポルテ)レーベル、“リヴ・ゴーシュ”は1966年に設立。オートクチュールがお金を惜しまず、またオーダーメイドのワードローブのフィッティングに時間を費やせる社交界の人々のために存在する一方で、リヴ・ゴーシュはパリの若者やトレンディな人々が集まる左岸にて若者向けの既製アイテムを販売し、もう少し手ごろな価格でYSLの世界に足を踏み入れる方法を提供した。リヴ・ゴーシュの成功の原動力を理解することは、最終的に大量のライセンス契約によってその評判を確立した会社のビジネスモデルを理解する上で欠かせない。それはYSLの世界を拡大するための道筋でもあった。

 パートナーであり共同創業者、そして後に社長となったピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)は、60年代と70年代にイヴ・サンローランというブランドのイメージを築き上げた。ベルジェは、YSLが代表するライフスタイルを顧客に受け入れさせるという点で、時代を先取りしていた。パリのファッション界の舞台裏にある陰謀を利用し、ベルジェはクチュリエであるサン=ローランを中心に立て、ブランドの魅力的かつ強力な象徴に仕立て上げた。サン=ローラン自身も広告キャンペーンに登場しており、男性用香水のYSLプールオムの発売時にヌードで登場したことは有名な話だ。

Halston, Loulou de la Falaise, Potassa, Yves St Laurent, and Nan Kempner at the Opium party at Studio 54 on September 20, 1978 in New York City

1978年9月20日、ニューヨークのスタジオ54で開催されたオピウムパーティにて、左からホルストン(Halston)、ルル・ド・ラ・ファレーズ(Loulou de la Falaise)、ポタッサ(Potassa)、イヴ・サン=ローラン、ナン・ケンプナー(Nan Kempner)。Image: Getty.

化粧品とフレグランスは、さらに広範なグローバルライセンス契約の前兆に過ぎなかった。1975年には、シチズンが日本市場向けに限定してYSL(イヴ・サンローラン)とライセンスを結び、時計を製造・販売し始めた。YSLがデザインを担当し、シチズンが製造を行っていたのだ。最初の製品ラインは手巻きの2針式で、薄型の正装時計に対する需要に基づいてつくられた。初期のデザインは、YSLのエレガントな美学に緩やかに沿ったものであり、このコラボレーションの結果、スマートにデザインされ、金メッキが施された高品質のクォーツウォッチ(いくつかの機械式も含む)が誕生したのである。

YSL WATCH

YSL×シチズンのクォーツウォッチ。80年代頃に製造されたモデル。Image: Courtesy of Beverlyna Indonesia

 スリムで洗練されたデザインは、リッチなブラウンやパープル、またはシンプルでクリーンなブラックのパレットで彩られ、正確に配置されたラインが実験的なテクスチャー(スネークスキン!)とカラーを引き立てていた。1970年代という“何でもあり”の時代にあっても、これら初期のシチズンYSLモデルはスムーズかつ控えめで洗練されていたのだ。時計に刻まれたファッションの影響は魅力的であり、威圧的ではなかった。

Citizen YSL

 今日、シチズンは豪華さや華やかさのイメージを強く喚起しないかもしれないが、初期のシチズンYSLコラボレーションはデザインが優れており、品質もかなりよかった。70年代半ば、すべての日本の時計メーカーがこぞってクォーツ技術を採用し、手ごろな価格と高級感の融合を試みた。誰もが認めるリーダーはセイコーだったが、同じく東京のライバルであるシチズン(当時はセイコーの売上の約4分の1に過ぎなかった)もクォーツ美学革命の最前線に立っていた。それは大いなる実験の時代であり、時計を比較的安価につくることができたため、ひとつの正しい美学的解答は存在しなかったのだ。

Citizen watch ad

社内向けのヴィンテージシチズンカタログ。Image: Courtesy of Citizen.

 コラボレーションの開始当初と初期の数年は、YSLの世界観と、ある程度計算された美学的なクロスオーバーが少なからずあった。これらの時計はスリムでセクシーであり、1970年代の誘惑的な享楽主義(オピウムの香り)に満ちたサン=ローランの世界観と見事に一致していた。イヴ・サンローランのクチュール全体ではなく、手ごろな価格でYSLの一部分を楽しむことができたのだ。

YSL reverse watch

1970年代の機械式YSL、“レベルソ”。Image: Courtesy of C4C Vintage Watch Store. 

YSL reversos

機械式とクォーツの“レベルソ”。Image: Courtesy of a Portuguese watch collector.  

 それでは、なぜオートクチュール、グラマー、カトリーヌ・ドヌーヴのようなフランスのイットガールたちで構成される世界観を持つ、グローバルに評価されるパリのメゾンであるYSLが、低価格帯の大衆市場向けウォッチを販売するライセンス契約に自らの名前を付けることを望んだのか? ベルジェは皮肉にも会社を宣伝することに成功した。彼は社長として単なるファッションハウスだけでなく、YSLロゴの力を利用し、グローバルなマスマーケット向け企業としても運営する。80年代から90年代にかけていたロゴマニアのはるか前から、同ロゴには販売力があったのだ。1998年のFIFAワールドカップ決勝戦(世界中17億人の視聴者が生中継を見ていた)前に、イヴ・サンローランはスタッド・ド・フランスで大規模なファッションショーを開催し、300人のモデルがピッチ上で巨大なYSLロゴを形成した。

 そのロゴはやがて、薄れた栄光の遺物ともいえる一抹の絶望を帯びるようになった。サンローランはサングラスから寝具、さらにはタバコに至るまで、あらゆるものに名前を署名することで、強くフランスらしさを象徴するブランドイメージを消耗させ始めた。1997年、シチズン ウォッチ カンパニー オブ アメリカは、アメリカとカナダで販売するためのイヴ・サンローランウォッチコレクションを開発し、販売するライセンスを取得した。実際、YSLのライセンスは、時計、ジュエリー、レザーグッズ、ペンなど、YSLアクセサリーの世界的なマスターライセンシーであるカルティエがシチズンに与えたものである。

90s Citizen watch for YSL

90年代のシチズン×YSLモデル。

 高価格帯ブランドカテゴリのライセンス製品の流入が増加するなか、百貨店や小売店の消費者は有名ブランドをますます好むようになった。これにより、ほかの製品カテゴリから非常に魅力的で有名なレーベル(ライセンスブランド)が、時計メーカーの独自ブランドと並んで参入できる絶好の環境が整ったのである。この期間中、YSLウォッチの製品開発はアメリカチームが主導し、フランスYSLの承認を得て進められたが、製品ラインナップは北米市場向けに限定されていた。コレクションは1997年4月に、ジュネーブとバーゼルで開催された高級宝飾品と時計の見本市でデビューを飾る。百貨店や高級宝飾店を対象とし、“スポーティエレガンス”をコンセプトにしていた。ラインナップは主にペアウォッチに焦点を当てており、価格帯は150ドルから500ドル(当時の相場で約1万8000~6万2000円)の範囲であった。

 Carla Bruni (L) and Karen Mulder (R) kiss fashion designer Yves Saint Laurent after the Saint Laurent Haute Couture Spring/Summer 1996

1996年の春夏オートクチュールショーのあと、イヴ・サン=ローランを囲むカーラ・ブルーニ(Carla Bruni、左)とカレン・マルダー(Karen Mulder、右)。Image: Getty.

 これらの時計は、せいぜいかつての活力に満ちたイヴ・サン=ローランのスタイルを薄めただけに過ぎなかった。80年代から90年代にかけて、あらゆる製品に自信満々に名を刻んだブランドにとってこれは避けられない結果であった。YSLは1999年に、プレタポルテ事業をグッチに約10億ドル(当時の相場で約1139億円)で売却し、2002年にサン=ローランが引退した際にはクチュールハウスを閉鎖した。

 グッチのトム・フォード(Tom Ford)がイヴ・サンローランの指揮を執り、フランスの名門ファッションハウスを支えていたライセンス契約を終了させ一掃した。「ファッション製品に自分の名前を刻むことは、かつては金儲けの手段だった。今や賢いデザイナーは、殺しのライセンス(不要なライセンス契約を排除するための決断)を求める」と、ジャーナリストのスージー・メンケス(Suzy Menkes)は2000年7月のニューヨーク・タイムズ紙で発表した。「理論としては、クライアントにより優れたサービスを提供し、デザイナーが自分の店舗でより大きな利益率を享受できる、無駄のない洗練された高級世界を創り出すことだ」

YSL watch

 真の美的革命は容易に起こるものではない。そしてここで言う革命とは、大規模で時代を定義し、古いシルエットを覆し、新しいシルエットを押し付けるサルトリアの世界的浸透を意味する。20世紀後半、イヴ・サン=ローランはファッションの反乱を先導し、見事に勝利を収め、ファッション界で最も尊敬されるメゾンのひとつを創り上げると同時に、リヴ・ゴーシュで事実上プレタポルテを発明した。ファッションウォッチも同様、革命的な道を歩んだものの、その華やかさははるかに劣っていた。日本の先見性と技術は、時計業界の現状を一変させたのだ。

 今日、ライセンス契約による時計はフレグランスやサングラスと並んで、ミドルラグジュアリーの高級品に位置づけられている。2024年、“ファッションウォッチ”は再定義されており、大手メゾン(ディオール、エルメス、シャネル、ルイ・ヴィトンなど)は自社独自の機械式時計製造施設を追求するか、有名なスイスのサプライヤーとの提携を進めている。しかし、クォーツ革命やYSLとシチズンのような初期のライセンス契約がなければ、ルイ・ヴィトンがタンブールをつくることも、シャネルがJ12をつくることもなかったかもしれないと言えるのではないだろうか。