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本稿は2016年12月に執筆された本国版の翻訳です。
eBayで見つけたこのカタログは、単なるおもしろい記念品になるはずだった。ヴィンテージ愛好家が大切にする、オリジナルのダイヤルとストラップを備えた当時のままの姿の時計を掲載した古いカタログのひとつだ。しかし1936年に発行された28ページからなるこの小冊子を開いた瞬間、これはとても特別な資料だと分かった。そこに並んだ何百もの素晴らしいアイテムが、別のストーリーを語っていたのだ。キルビー・ビアード社(Kirby, Beard & Co.)はロレックス、オメガ、そしてジャガー・ルクルトを取り扱う普通の時計小売業者ではなかったのだ。実際にはパリ、いや世界中で最もクールなデパートのひとつだった。調べれば調べるほど、この忘れ去られた店がいかに重要な存在だったかが明らかになった。まさに伝統的なラグジュアリーの象徴とも言える場所だ。1743年に(小さな金属製品を製造する)ピンメーカーとして始まった会社にしては悪くなかった。
まずキルビー・ビアード社という名前自体が興味深い。パリにあるデパートにもかかわらず、明らかにフランス名ではない。1743年、ウィリアム・カウチャー(William Cowcher)という人物がイギリスのグロスターでピン製造を始めた。彼の事業は成功し、子どもたちもビジネスに参加した。1800年代初頭には、ロバート・キルビー(Robert Kirby)とジョージ・ビアード(George Beard)というパートナーを迎え、最終的に会社は創業から1世紀後にキルビー・ビアードという社名となった。
非常にイギリス的なルーツを持ちながらも、この会社は常にフランス市場にも深く関わっていた。そのため同社は1855年と1878年のパリ万国博覧会にも参加している。1878年には、パリの象徴的な住所であるリュー・オーベール通り5番地が初めて公式に記録された。オペラ座の近くという歴史的なこの場所はとても理にかなっている。パリは当時、ラグジュアリーの都であった(自慢ではなく、エルメスやカルティエ、そしてデザイナーのチャールズ・フレデリック・ワースがすべてここからスタートした時代を想像して欲しい)。もちろんオペラ座は社交の中心であり、ラグジュアリー商品を扱う重要な拠点だった。このことから、1868年にティファニーがアメリカ国外で初の店舗をこのエリアに開いた理由も説明がつく。
キルビー・ビアード社は、ピンや針だけでなく、私たちが最も興味を引かれる時計も豊富に取り扱っていた。1900年代初期のオメガは、この販売店の名前とともにダブルネームで登場しており、その後の数十年でほかの主要ブランドも次々と取り扱われるようになった。1936年のカタログには、ロレックス、オメガ、そしてジャガー・ルクルトが掲載され、そのあとコルム、モバード、ユニバーサル・ジュネーブも取り扱われるようになった。興味深いことに、ジャガー・ルクルトはキルビー・ビアード社をアトモスの優先販売店として選んでいたようだ。というのも1929年の商業展開以来、自社ブランドのみでこの革新的な時計を成功裏に販売したことがその理由と考えられる。なお、ジャガー・ルクルトは1935年にスイス人発明家ジャン=レオン・ロイター(Jean-Léon Reutter)から特許を取得したばかりだった。この事実だけでも、1930年代にイギリス人のアルフレッド・セント・ヴァレリー・テビット卿(Sir Alfred St Valery Tebbitt)がマネージングディレクターを務めたこのパリの小売店が、いかに影響力を持っていたかが分かる。
キルビー・ビアード社が取り扱っていた高品質なアイテムは、時計やクロックに限られたものではなかった。カタログにはフランス製のカミソリ(今では希少なコレクターズアイテム)から革装丁のノートまで、紳士が望むあらゆるものが揃っていたと記されている。彼らの忠実な顧客には、有名な小説家マルセル・プルースト(Marcel Proust)も含まれていた。2013年のオークションで、1906年のキルビー・ビアード社製の手帳が15万ドル(当時の相場で約1465万円)以上で落札されたのは、プルーストがその手帳を使用していたためだ。カタログのおかげで、30年後にはアジェンダ・デ・リュクス(美しい革カバー付き)が新品で45フランで販売されていたことが分かる。
1930年代に店が最盛期を迎えたことは、このカタログを見れば容易に理解できる。当時、キルビー・ビアード社は依然として一部の製品をイギリスで製造しており(とくに銀製品が代表的)、そのほかのアイテムは最高のサプライヤーから仕入れていた。時計ではロレックス、オメガ、ジャガー・ルクルト、そしてほかのアイテムではアール・デコを代表する銀細工職人として有名なピュイフォルカ(Puiforcat)を扱っていた。また彼らの精緻な革製品が、エルメスやほかのフランスの高名なメーカーから供給されていたことも驚くべきことではない。イギリスの工場は第2次世界大戦中に破壊されたが、パリの店舗はその威厳と評判を維持していた。未来のフランス大統領シャルル・ド・ゴール(Charles de Gaulle)は、公務での外遊前に外交用の贈り物をここで購入していた。また1950年代までの、多くの時計やクロックにはキルビー・ビアード社のサインが残っている。会社は1950年代後半に競合会社に買収されたようで、そのあとパリの店舗も閉店に至った。正確な閉店日は不明だが、現在その場所にはごく平凡的な銀行が入っている。
1936年のカタログは、時計の重要性を物語っている。順にロレックス、オメガ、ジャガー・ルクルトがブックレットの中央に配置され、それぞれ見開きの2ページで大きく紹介されている。だがキルビー・ビアード社と最も強く結びついているのはオメガだ。1900年代初頭から40年以上にわたり、オメガの主要な販売店だった。カタログに掲載されたロレックスの時計は、当時のスイスブランドのなかでも最も高価なもので、金無垢のプリンスが1250フラン以上、同じ金属のオイスター パーペチュアルは2950フランで販売されていた。一方で、オメガの男性用腕時計は(“生涯正確な時を刻む”というキャッチフレーズのもと)貴金属製ケースではないため、手ごろな価格であることを強調していた。
ジャガー・ルクルトは、レベルソやユニプランといった腕時計をはじめ、アトモス(1500フラン)やアドスなどさまざまなクロックをラインナップ。その多様な創造力を示し、旅する紳士向けにさまざまなサイズで提供されていた。また興味深いことに、ジャガーはすべての時計に対し2年間の保証を付け、その期間中の修理を無料で行っていた。
80年経った今でも、この店が提供した商品セレクションには感動させられる。キルビー・ビアード社は、洗練された生活に必要なすべてを提供していたのだ。多くのアイテムにはブランド名が付いていなかったが、“後悔しない贈り物を”というキルビー・ビアード社のキャッチフレーズのひとつが示しているように、顧客はそのセンスのよさと品質に対して絶大な信頼を寄せていた。さらに、一見シンプルだが巧妙に設計されたティーポットや、まさに永久的なアトモスクロックなど、多くの製品はその革新性と使いやすさで有名だった。この流れは1936年のウォッチラインナップにも表れている。懐中時計の数が減少し、代わりに新たに採用された腕時計が登場。とくにオメガやジャガー・ルクルトに関しては、腕時計のほうがかなり安価で提供されていた。
また驚くべきことに、1936年に提供されていた3ブランドは、いずれも自社で製造を行うマニュファクチュールだった。当時はこれが顧客にとって重要な基準でもなければ、マーケティング上の売り文句でもなかった。しかしこれらのブランドが20世紀のクォーツショックを乗り越え、現在に至るまでそれぞれのブランドとしての地位を維持してきたのは偶然ではないかもしれない。カタログに掲載されているレベルソやオイスター パーペチュアルといったモデルは、今でも高い知名度を誇っている。同カタログはアヴァンギャルドとまでは言わないまでも、非常にモダンなものと言える。この時代、フランスでこうした革新的なアイテムが認知され成功するためには、この店の推薦が不可欠だったことは間違いない。
この古びた小冊子を眺めているうちに、これはおそらく自分がこれまでに使った30ドルのなかで最も価値のあるものだったという結論に至った。たった1度のeBayでの買い物で、私の国におけるラグジュアリーの歴史や、自分の情熱の進化についてこれほど多くのことを教えてくれるとはまったく予想していなかった。