Watches & Wonders 2024が幕を閉じた後、僕はスイス滞在を延長しました。それは、スウォッチグループのCEO、ニック・ハイエック・ジュニア氏(Nick Hayek, Jr.)とのインタビューに加え、システム51とバイオセラミックの製造工場を取材する貴重な機会を得たためで、今回の取材では、ムーンスウォッチやスキューバ フィフティ ファゾムスの挑戦と成功、そしてそれを支える製造プロセスなど、プロダクトの裏側にもスポットを当てました。
ムーンスウォッチとスキューバ フィフティ ファゾムスの成功
ムーンスウォッチは、ご存知のとおりオメガのスピードマスターデザインのクォーツウォッチです。2022年3月に発売され、太陽と月、太陽系の惑星や準惑星をモチーフにした計11種類の色で展開されるバイオセラミックケースを備えています。オンラインでの販売が無いため、発売日当日には100を超える世界各地のスウォッチブティックに長蛇の列ができ、全世界で社会現象となりました。その後も満月の日に合わせて1日限定で販売するミッション トゥ ムーンシャインゴールドやブランパンとのコラボレーションによるスキューバ フィフティファゾムスも大きな反響を呼びました。
これらのプロジェクトを率いるのは、スウォッチ グループCEO、ニック・ハイエック・ジュニア氏です。「ムーンスウォッチの企画はまさにこのオフィスで行われています」そう言うと同氏は一冊のノートを取り出しました。そこにはつい最近発売されたばかりのスヌーピーとコラボしたムーンスウォッチの新聞プロモーションのためのラフスケッチが描かれています。巨大な時計グループのCEO自らがこの企画を発案し、推進しているとは、全く予想していませんでした。すべてを熟知するハイエック氏に、僕はこれらの成功の秘訣について伺ってみることにしました。
「品質の高いプロダクトであることは大前提です。その上でこのプロジェクトの成功の重要な要素となったのは、発表のタイミング。サプライズが挙げられるでしょう」。実は一番最初のムーンスウォッチの発売日は、2022年の5月に予定していたそうです。結局、当初の予定よりも2ヵ月も早い3月、ジュネーブで開催されるWatches & Wondersの直前にあえて変更したのだといいます。「時計ブランドとそれに関連するジャーナリストや小売業者が集まって消費者を参加させずに新製品を祝っている。その一方で、ムーンスウォッチを全世界に一般公開するやり方は最もスウォッチらしいと考えました」
スウォッチにとって主人公は、
製品と消費者です。
– ニック・ハイエック・ジュニアスウォッチグループはバーゼルワールドが消滅したあともWatches & Wondersには参加しておらず、今後もそうすることはないだろうと言います。「Watches & Wondersはエリート主義の集まりであり、私たち業界人にとって最も重要な要素である世界中の消費者を排除しています。ジャーナリストや小売業者が一堂に会するのは確かに快適なことですが、真のイノベーションは破壊的な環境のなかでこそ起こるのであって、体制側が好む保護された環境のなかで起こるものではありません」
僕がこれらのプロジェクトで驚いたことのひとつは、その秘密保持の徹底ぶりです。もしプロジェクトの詳細が事前に漏れていたならば、メディアや業界関係者からの批判や否定的な意見が出たかもしれません。しかし、一切情報が漏れなかった結果、発表時には大きな驚きとともに受け入れられました。一体どのように管理されていたのでしょうか。
「ムーンスウォッチの企画が2021年の春に始まったとき、最初に関わったのはスウォッチ、オメガ、そしてETAのほんの数人だけでした。最終的には多くの人々がプロジェクトに関わるようになりましたが、情報漏洩が一切なかったのは、すべての関係者がこの仕事に誇りを持っていたからです。関与した全ての人々が、この新しい製品が市場に与える影響を理解しており、その成功を心から期待していました」
この秘密保持の徹底は、ムーンスウォッチだけでなくスキューバ フィフティ ファゾムスのプロジェクトでも同様でした。僕は回答を聞きながら、用意していたリストにあった「ブランパンの次にコラボレーションするプロジェクトは?」という質問をそっと消しました。
システム51
スウォッチのシステム51は、生産ラインが完全自動化された世界初の機械式ムーブメントです。この革新的なムーブメントは、ブランド創設30周年を記念して、2013年のバーゼルワールドで発表されました。システム51の名前が示す通り、ムーブメントを構成する部品点数はわずか51個です。従来の機械式時計のムーブメントが少なくとも100個以上の部品から成り立っているのに対し、システム51はその複雑さを大幅に削減しています。
実は、この「51」という数字は、1983年に発表されたスウォッチの最初のクォーツムーブメントにも関連しています。当時、スウォッチは標準的な部品数を91個から51個に減らし、生産の完全自動化を実現しました。システム51では、これを機械式ムーブメントで実現しています。ハイエック氏は「自動化された組立ラインは製造時間を短縮するだけでなく、品質を飛躍的に向上させ、大量生産を可能にします。もちろん、これは消費者に興味深い水準の時計を提供することにもつながります」と話します。
システム51の51個の部品は、組み立て済みの5つのモジュールで構成されています。それぞれ、ローターを備えた自動巻き装置モジュール、巻真モジュール、脱進機モジュール、輪列モジュール、そして針、日付表示モジュールです。「ムーブメントにローターを固定するネジはたった1本です。これはよく誤って表記されることがあるのですが、それぞれのモジュールはレーザーで溶接されています。ネジ一本ですべてが固定されているわけではありません」。後ほど解説する製造工程で、このモジュール式にしていることがいかに自動化に貢献しているのかがわかります。
僕はスキューバ フィフティ ファゾムス オーシャン・オブ・ストームのレビュー動画のなかで、ブランパンが海洋保護への取り組みを重要視していることに触れました。その流れで、オーバーホールができないシステム51を採用するにあたり、スウォッチがさらにできることがあればいいのに、とも言及しましたが、この環境への配慮について直接ハイエック氏に伺うことにしました。
「システム51は、多くのスイスメイドの時計のなかでも最も環境に配慮されたムーブメントのひとつだと言えるでしょう。少ない部品数と自動化された製造プロセスにより、エネルギー消費が大幅に削減されます。それに部品の数が少ないため、資源の使用も最小限に抑えられ、製造廃棄物の削減にも寄与しています」ハイエック氏は深く座っていた椅子から少し身を乗り出して、熱っぽく語りました。
オーバーホールができる時計は確かに長く使うことができ、環境に優しいというイメージがあるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。システム51には、それらの時計よりも優れた部分が多くあります。
– ニック・ハイエック・ジュニアオーバーホールがもたらす環境負荷について、ハイエック氏は次のように述べています。「オーバーホールのためには、多くのスペアパーツを長期間ストックしておく必要があります。これは各地域のカスタマーサービスセンターに大量の部品を保管する必要があるため、製造と保管の両面で多くのエネルギーと資源を消費するのです。さらに、これらの部品が実際に使用されるかどうかは不確実であり、無駄が生じる可能性もあるのです。」
これは僕にとって目から鱗が落ちる体験でした。スマートウォッチなどはOSのサポートが5年ほどで終了してしまうことが多く、それらと比較して機械式時計が環境に優しいプロダクトであるという認識は一般的です。しかし、システム51が従来の機械式時計と比べていかに環境に優しいかという点については、十分に理解していなかったのです。
僕は実際に3つのシステム51を愛用しており、最初に手に入れたものは約6年前のものですが、今でも精度を保っています。「システム51は最低でも7〜8年間、最大で約10年間メンテナンスなしで稼働するように設計されています。これは、製品のライフサイクル全体での環境負荷をさらに軽減し、長期的な持続可能性を実現しています」また、スウォッチでは壊れてしまった時計をブティックに持ち込むと基本的にパーツ交換での修理対応となりますが、回収されたパーツはリサイクルされ、新たな製品の製造に再利用されるそうです。
ムーンスウォッチとスキューバ フィフティ ファゾムスの生産は、スウォッチグループが保有するETAが担っています。ETAの工場はスイス国内各地に17ヵ所点在しており、僕が訪れたふたつのうち最初の施設は、スウォッチの本社があるビールから車で約1時間ほどのボンクールにあるムーブメントの生産拠点です。
この施設はETAとニヴァロックス・ファー社によって共有されています。ETAはプレート、ブリッジ、コンポーネントの製造、および調整を含むムーブメントの組み立てを担当し、ニヴァロックス・ファー社は脱進機モジュールの組み立てに至るまでコンポーネントを製造しています。
システム51の解説でよく目にする「生産が完全にオートメーション化された最初の、そして現在でも唯一の機械式ムーブメント」が一体どんな魔法で作られているのか、ワクワクしながら施設に入りました。
内部に入って感じた印象は、これまで見てきたチューダーやIWCなどスウォッチよりも高価格帯ブランドの製造現場とそれほど大きく変わらないということです。案内されるなかで気づいた大きな違いは、これまで見てきたなかで最も自動化が進んだ製造ラインであるということです。フロアにいる従業員はそれほど多くない印象でしたが、実際には約400人が製造を担当し、管理を行っているとのことでした。基本的に人間は、製造機械の設定や不具合の解消、メンテナンスなど、アシストのために配置されていました。
システム51を構成するモジュールに使われるメイン素材はニッケルシルバーです。この素材が選ばれている理由は、調達が容易であり、溶接による繋ぎ合わせが可能であるためだそうです。空気圧のプレス機に供給されると、次々と打ち出されていきます。
各工程を夢中になってカメラで撮影していると、ツアーガイドがこう言いました。「この工場では毎日約80万枚の写真が撮影されているんですよ」。この施設では、組み立てプロセスの各段階で部品の写真が撮影され、規格に合わないものは自動で弾かれています。これはモジュール同士を溶接するという構造上、初期段階から不良品を見抜いて排除する必要があるためです。
製造の効率化のためにはさまざまな工夫が施されていました。僕が最も感心したことのひとつが、プラスチックのロールに入れられたパーツです。これらのパーツは組み立て機械に装填されると、自動で取り付けが行われ、あっという間にモジュールが完成します。
人間が介在しないことは、時間の短縮だけでなくムーブメントの信頼性向上にもつながります。17の特許を有するシステム51の2万1600振動/時、90時間のパワーリザーブ、日差約±10秒という驚異的なスペックは、こうした一連の自動化システムによって実現されています。不純物やホコリも排除されながら製造されるため、長期間オーバーホールを必要とせずに稼働できるムーブメントを大量に生産することができるのです。
ハイエック氏によると、スウォッチグループがシステム51を開発した背景には、自社で高品質なムーブメントを製造できることを証明する意図がありました。これは、スイスの時計業界において長年議論されていたムーブメントの自社製造の重要性に対する答えでした。「現在でも、資本力のあるグループは自分たちのムーブメントを作りたがりません。標準的なムーブメントを購入し、まるで自分たちで作ったかのようにパーソナライズすることを好むのです。なぜそんなことをするのか? それは単に利益を上げるためです」とハイエック氏は語っています。
ダイヤル、そしてバイオセラミック
ムーブメントの製造現場を見学した後、再び1時間ほどかけてビールに戻り、そこからさらに20分ほどの場所にあるグレンヘンへと移動しました。増床工事中のこの建物に入るとすぐに大きな会議室へ案内され、工場長に歓迎されました。「ようこそ! ここに置いてあるものが、私たちのやっていることのほとんどすべてを表しています」と彼は言いました。
テーブルには、各製造段階に分かれたムーンスウォッチとスキューバ フィフティファゾムスのダイヤル、ケース、ベゼルなどが並べられています。ここは、ダイヤルやケースなどの外装パーツの製造施設です。先に訪問したボンクールで作られたムーブメントや、グレンヘンで製造された外装パーツは、スイスのさらに南にあるETAのアッセンブリー施設で組み立てられるとのことです。
文字盤は、他のマニュファクチュールでも見られるラッカー塗装で作られているが、ETAは独自の色と配合を自社で製造されています。また、興味深いデジタルプリントの工程を見学することもできました。ムーンスウォッチでは、この技術は電池カバーの惑星部分に使用されていますが、スキューバ フィフティファゾムスでは、ローターに描かれたウミウシのイラストだけでなく、文字盤のグラデーションの表現にも使用され、最終的には組み立てられたムーブメント全体が装飾されています。
パッド印刷による印字では、細部のディテールを表現するためにムーンスウォッチには9種類、スキューバ フィフティ ファゾムスには7種類のパッドが採用されています。印刷する際には厚みを出すために最大6回スタンプする場合もあり、スウォッチのポップでカラフルなデザインの腕時計は、こうした異なるテクニックや手間が組み合わさることで細部に至るまで実現されています。
バイオセラミックの製造工程は、僕がこのツアーで最も楽しみにしていた部分のひとつでした。なぜなら、ハイエック氏とのインタビューで彼が「我々の工場で見られるバイオセラミックの製造は、まるで素晴らしいパスタを作るようなものなんだ」と笑いながら教えてくれたからです。
バイオセラミックは、3分の2の酸化ジルコニウム・セラミック・パウダー(上の写真の右から2番目)と3分の1のヒマシ油(上の写真の右端)で構成されています。そこに顔料(右から3番目の素材)が加わることで、独自の色彩表現が可能になります。
製造工程では、まずこれらの原材料を加熱しながらふたつのスクリューで混ぜ合わせます。この段階で液体状になった素材は、特定の温度に保たれ、脱ガス処理が施されます。
次に、その粘土状の素材が押し出されて形作られます。この工程がパスタ生地を押し出して形を作る工程に似ているのです。押し出された材料は最終的にカットされてチップに変わります。ここで、チップのサイズが正確かどうかフィルタリングが行われます。正確なサイズ調整は、次のケース成形の工程において非常に重要です。
ケースなどのパーツは射出成形(インジェクションモールド)で作られます。バイオセラミックのチップを再度温めて液状に溶かし、金型内に加圧注入し、一気に冷却して固化させます。バイオセラミックは、ケースだけでなくベゼル、バッテリーハッチ、ベルトループといったさまざまなパーツに使用されており、それぞれに対応する金型が用意されています。
今回の取材で知ったのですが、風防やローターのスケルトン部分も透明なポリアミドを使って作られています。スキューバ フィフティ ファゾムスのケースバックは薄くする必要があるためサファイア製ですが、文字盤側のポリアミド製の風防の表と裏にはサファイア風防と同様に無反射コーティングが施されているそうです。
バイオセラミックの素材の生成から成形までのほとんどは自動化されていますが、同じカラーに合わせるための目視チェックなど、人の手が必要な工程もあります。これにより、外装の高い品質が保たれています。
取材を終えて
スウォッチは、カジュアルウォッチの分野で独自の創造性を発揮し続けてきたパイオニア的なブランドです。1983年に、わずか51個のパーツで構成されたプラスチック製のクォーツウォッチを発表し、それまで高級なイメージが強かったスイス・メイドの腕時計を身近なものに変えました。さらに、2013年に発表されたシステム51によって、機械式時計を誰もが手に取れるものに再定義しています。
ムーンスウォッチとスキューバ フィフティ ファゾムスは、オメガのスピードマスターやブランパンのフィフティ ファゾムスの魅力をより手頃な価格で幅広い層に提供するために誕生しました。見た目は楽しいプロダクトに見え、そのまま楽しんでつけるだけでも十分です。
しかし、スウォッチが環境への配慮と持続可能な製品開発を推進しながら、時計業界全体に新たな価値を提供するために挑戦を続けていることも知っておくべきです。彼らの次のプロジェクトは何でしょうか? きっとまた僕たちを驚かせてくれることでしょう。
詳細はスウォッチ公式サイトへ。