ベン・クライマーはバゲットセットされたダイヤモンドが大好物だ。2023年4月、Watches and Wondersに新作レジェップ・レジェピ クロノメーター コンテンポラン II ディアマンをつけて現れた彼は、私にそう教えてくれた。彼は世界で最も高級なモダンウォッチ、それもバゲットダイヤモンドをあしらったモデルに大きく予算を割いたのだ。しかし何が彼をジェムセットの時計に傾倒させたのだろうか?
バゲットセット仕様のものは、ジェムセットした時計の頂点に君臨する。それらのなかには趣味のいい華やかなものもあれば、奇抜で退廃的なものもある。ミッドセンチュリーのドレスウォッチに散りばめられたバゲットインデックスには、紛れもなく洗練された雰囲気が漂う。バゲットダイヤモンドは細長く高価であり、ダイヤモンドカットにおけるイングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)のようでもある。全面にバゲットセットを施したスポーツウォッチもあり、こちらもジェムセットの派手さにおいてマグニチュード10相当の破壊力がありそうだ。大胆で隙がなく、やや刺々しさを感じさせる。そう、メイ・ウエスト(Mae West)氏がLAにある中華料理の名店“Mr.Chow”に現れたとき、自然とスタンディングオベーションが起こったような感じだ。
現代的なバゲットカットの手法は1912年にカルティエによって編み出された。その後数十年間、アール・デコ期のジュエリーデザイナーたちはクリーンな直線と幾何学的なフォルムを強調するために、このタイプのストーンカットを採用した。バゲットは1930年代のレディースウォッチの装飾にも見られ、男性用の懐中時計および腕時計のダイヤルのインデックス/アワーマーカーにも使用されていた。
今日の高級時計製造において、バゲットカットは最も好まれるプレシャスストーンのスタイルとなっている。パテックやロレックスのようなスイスの老舗メーカーからジェイコブやMB&Fのような独立系時計メーカーまで、バゲットシェイプの宝石は注目の的だ。スポーツウォッチに最も多く見られるバゲットセット仕様の時計の人気は、(富裕層に限るが)時計収集界隈の上層部において特に顕著だ。宝飾品とは異なり、バゲットをあしらった時計は広大な時計の世界でもほんの一角に過ぎない。希少性や経済的な側面はさておき、バゲットカットの美しさは見る者を驚嘆させる。だから、この記事に掲載されている宝石をあしらった時計の画像をじっくりと眺め、目を眩ませることが心の逃避行となれば幸いである。
では、なぜバゲットカットがスイスの由緒ある時計ブランドに選ばれるようになったのだろうか。ラウンドストーンと比較するとバゲットは表面積が大きいので、それゆえに好まれるようになったという話もある。「表面積が大きいほど石の視認性と色の輝きが増し、石がより格調高く見えます」。こう解説するのは石のカットとセッティングを専門とし、ジュネーブに本社を置くピエール・サラニトロ(Pierre Salanitro)社である。
サラニトロ社はオーデマ ピゲやパテック フィリップを含む高級時計メーカーからジェムセッティングの依頼を受けることが多い。2022年、パテックは同社の株式40%を取得したことを発表。パテックは昨年、ダイヤル、ベゼル、ケースサイド、ブレスレットに130個のバゲットカットのダイヤモンド(8.66ct)と779個のマルチカラーのバゲットカットサファイア(45.05ct)を“インビジブルセッティング”なる技法で取り入れたアクアノート・ルーチェ 《レインボー》ミニットリピーター Ref.5260/1455Rを発表した。なぜって? その答えはパテックのみならず、同業他社にとっても超複雑機構やクラフツマンシップ、そして単に“我々はこれを作ることができる”ということを誇示するのと同列なのかもしれない。
ジェムセッティングした時計の消費主義的な側面を非難する前に、宝石のセッティングは尊敬に値する技術であることを理解することは重要だ。「バゲットストーンのセッティングは複雑で、ラウンドストーンのセッティングとは大きく異なります」とサラニトロ社は解説する。「とりわけインビジブルセッティングの技法は石を下から固定し、上から金属素材が見えないようにするため難しいのです」
それを踏まえると高級メーカーがこの技術に傾倒するのは当然だ。アフターマーケットのジェムセッティング業者には完全コピーできないクラフツマンシップを宿す時計……、たとえばロレックスのレインボーデイトナ、パテックのノーチラス Ref. 5719/10Gのようなモデルのリリースはスイスのブランドがアフターマーケットとの差別化を図るための手法のひとつなのだろうか?
しかし本当の理由は基本的な経済原理に基づくものなのかもしれない。「スイスにはこの技術を取り扱えるセッター(技師)が非常に少なく、その数は増大し続ける需要を満たすには不十分なのです」とサラニトロ社は説明する。バゲットのセッターにとって課題となるのは、その工程が非常に手間のかかるものであること、そして多くのブランドは単にそのような専門家を揃えるだけの経営資源を持っていないということだ。供給を制限するもうひとつの要因は(これも経済原理だが)、必要な品質の宝石を調達するのが難しいという絶対量の不足の常態化だ。バゲットはほかのカット技法よりもファセットが少ないため、不純物が目立ちやすい。これを避けるにはより質のいい原石が必要だ。つまるところジェムセッティングは、ある匿名の業界関係者が言うところの“職人の飲み比べ合戦”のひとつに過ぎない。これも正統なマーケティング用語のリストに加えようか?
バゲットをアフターマーケットでセッティングすることは可能だが、通常の製造工程で行う技法とは異なる。「セッティングは、たとえばパヴェ(pavé)のようなものではありません。まったく別ものです」。時計ディーラーでありGIA認定宝石鑑定士、4代目宝石商のロイ・ダビドフ(Roy Davidoff)氏は言う。「バゲットをケースにセットするためには時計の構造全体を変える必要があります」。宝石のセッティングを前提としたデザインでない限り、シンメトリー(左右対称性)を実現するのはほとんど不可能に近いのだ。
おそらくアフターマーケットでの改造が原因で、宝石がセッティングされた時計は純粋主義者を自認するコレクターや愛好家のあいだで時計学的な逸脱のシンボルとなっている。ジェムセット仕様の時計は往々にして、その美的センスと莫大な値札だけでなく、アイスド・アウト(ド派手な装飾)が施されたアフターマーケットのパヴェケースやプリンセスカットのダイヤモンドがセットされたベゼルを連想させる。時計学の専門家たちによれば、製造時のものから逸脱することはその時計の格を下げる結果にしかならないという。これらは私が支持する考え方ではないが、2024年現在において広く受け入れられている教義なのである。
ハイジュエリーに精通した人々にとってバゲットカットの石は定番であり、これからもそうあり続けるだろう。「私たちが長いバゲットを愛するのは、カットの難しさを知っているからです。ことわざにもあるように“オムレツを作るにはたくさんの卵を割らなければならないし、本当に長いバゲットを作るにはたくさんのダイヤモンドを割らなければならない”のです」。 サザビーズのジュエリー部門、北米担当のフランク・エヴェレット(Frank Everett)副会長はそう説明する。「バゲットの魅力は、タイルのように使えることです。小さなラウンドダイヤモンドでセッティングするのではなく、タイルで敷き詰めるのです。小さなラウンドブリリアントで空間を埋めることは、その隙間を支えの金属で埋めることを意味します。バゲットなら100%ダイヤモンドで空間を埋めることができます。よりラグジュアリー感が増すのです」
ハイジュエリーにおけるバゲットの使用は、トレンドに左右されるものなのだろうかと私はエヴェレット氏に尋ねた。「バゲットは構成要素です。モチーフを作るのに欠かせない存在だからこそ、使われないということはないでしょう。丸い形状だけではデザインは作れません。直線でなければならないのです」
バゲットセット仕様のスポーツウォッチは、ヴァン クリーフ&アーペルのインビジブルセッティングのアールデコ調ブローチとは隔世の感がある。しかしその系譜は、50年代から60年代にかけてパテック フィリップが復活をもたらしたアール・デコのデザインにさかのぼることができる。
女性用カクテルウォッチ以外でも、パテックのカタログを見れば時計デザインにおけるバゲットストーンの使用の進化は明らかである。「バゲットカットのダイヤモンドは比較的軽いため、1930年代から男性用懐中時計や腕時計のダイヤルのインデックスやアワーマーカーとして使われ始め、1950年代から60年代にかけてますます人気が高まりました」と、Collectabilityの共同創設者であるタニア・エドワーズ(Tania Edwards)氏は説明する。そして現代のバゲットセッティングを施したスポーツウォッチの先駆けといえば、パテックのRef.3428だ。ダビドフ氏が“1972年以前のスポーツウォッチ”と表現するRef.2526の後継モデルで、自動巻きムーブメントであるCal.27-460、ボーゲル社製の防水ケース、そしてRef.3428の全体的に堅牢な質感は、パテックが実際にスポーツウォッチを作る前にスポーツウォッチを手がけていたことを物語っている。このRef.3428の究極ともいえる1本は、3時、6時、9時位置にダイヤモンドのバゲットインデックスをあしらっている。
「バゲットダイヤモンドがメンズウォッチのケース装飾に使われるようになったのは、1950年代のことです。1955年にジュエラーのジルベール・アルベールがパテック フィリップに入社すると、時計の装飾に宝石をより実験的に使用するようになりました」。エドワーズ氏はこう解説する。アルベールによるバゲットダイヤモンドの使用は、Ref.3424のように60年代のアシンメトリカルコレクションの大胆で未来的なデザインをさらに際立たせたが、細長いバゲットの使用は伝統的なアール・デコの美学を踏襲していた。
1970年代を通じて、パテックはRef.3540やRef.3625に代表されるデザイン主導のバゲットセットのモデルをリリースしていた(他社も同様)。これらのデザインは、現代のように洗練されたセッティング技法が一般的になるはるか以前から行われていたものだ。ダビドフ氏は私がWhatsAppで送信した大量の画像に対する返信で次のように述べている。「Ref.3625のセッティングは1本の支えで石を留めるカクテルリングのようなもので、Ref.3540の小さなエメラルドカットはそうですね...…、ベゼル上のふたつの石が正しくセッティングされていませんね。しかしこれは当時許容されていたもので、ロレックスのRef.6270が当時としてはいかによくできていたかを語るのと同じです。クレイジーのひと言です」。ロイ、話題を広げてくれてありがとう。
ジェムセットされたスポーツウォッチの元祖といえるのがロレックス GMTマスター “SARU” Ref.16758(1980年)だ。厳密にはこの初期ロレックスのジェムセット仕様のリファレンスは、トラピーズカット(Trapeze-Cut)の石を使用している。しかしこれはバゲットと同じ系統のものだ。厳密にバゲットを語るのであれば、Ref.6270(1984年)が真の出発点である。しかし台形型の石は、2000年代初頭のロレックスによるジェムセットしたスポーツモデルの大半に使用されるようになった。まあ、その事実は本記事の進行のために棚上げしておこう。80年代にはケースと同じバケットベゼルを備えたデイデイト、なかでもバゲットのベゼルとセンターリンクを備えたさまざまなオイスタークォーツ “オクトパシー”のバリエーションを含む、ド派手な宝石三昧(ざんまい)のデザインが台頭した。
そして1990年代の自動巻きデイトナの登場後、ロレックスは宝石をちりばめたRef.6270のレシピを取り入れ、スポーツウォッチとジュエリーウォッチの融合、その基準を打ち立てる旅に出た。この試みは、ロレックスによる“プロフェッショナル”向けのツールウォッチメーカーとは真逆のラグジュアリーブランドとなるための多大な努力と相まって絶頂期に達した。ロレックス Ref.16568とその後継モデルはアワーインデックスにバーを配し、そのあいだにふたつのバゲットストーンを敷き詰めたのだった。
ベイエリアを拠点とする時計専門家であり、オンラインオークションプラットフォームLoupe Thisの共同設立者であるエリック・クー(Eric Ku)氏は、「ベゼルのバーは見栄えのためではなく、必要に迫られて使われたのでしょう」と説明する。「専門的なことを言えば、ダイヤルの円周上に石をはめ込むための必要悪だったのです。バーなしでそれを行うと、すべての石を完璧にセットするのは難しいのです。それぞれの石のカラット数にも微小なばらつきがありますし、寸法も微妙に異なります。そうすると欠点が目立つようになります。これはそれを覆い隠す方法のひとつなのでしょうね」
2004年、ロレックスはコレクターのあいだで“レオパード”として知られているコスモグラフ デイトナ Ref.116598 SACOをリリースした。ロレックス史上最もエキセントリックな時計といわれるこのモデルは、2012年、そして2018年に登場したデイトナ レインボーのカラフルな先駆けとして登場した(それ以前だと、クー氏が最近販売したという1997年に製造されたユニークピースが存在する)。
パテック フィリップにおけるバゲットダイヤモンドの最も早い導入は、レディースモデルのノーチラス Ref.4700/6(1984年)とされる。1980年代から1990年代初頭にかけて、パテックは特別注文で紳士用ノーチラスにバゲットダイヤモンドをあしらっていたが、通常生産の紳士用ノーチラスにバゲットダイヤモンドがあしらわれたのは1997年に発表された18KWGまたはPt製Ref.3800/130が初となる。これもまた、明らかなコスト上昇と低需要という事情からごく少量だけ生産されたものだ。
今日においてパテック フィリップはアクアノート・ルーチェを、バゲットセッティングを施した多くの大胆なモデルのキャンバスとして使用している。グレネード柄のダイヤルはこの種のセッティングに適しているが、複雑なジェムセッティングを誇示するためにその主な存在意義である防水性を無視するというのは、まったく表面的な試みに成り下がっていると言えるかもしれない。
オーデマ ピゲがロイヤル オークにバゲットを使用し始めたのは1982年のことだ。初の完全アイスド・アウトモデルであるロイヤル オーク Ref.25688は、1989年にユニークピースとして特注された。39mm径のPt製ケースにバゲットカットダイヤモンドが敷き詰められ、MOP(マザー・オブ・パール)のダイヤルにはデイ/デイト表示とムーンフェイズ表示が備わっている。
Ref.25688のような完全なアイスド・アウトモデルは、おそらく仕様変更の結果の産物なのだろう。ダイヤルのシンプルな3・6・9のインデックスから始まり、ベゼルの複雑なセッティング、そしてケース、ブレスレットのセンターリンクへと広がり、最終的には時計全体がバゲットで飾られるようになる。最も極端なケースでは、ムーブメントのブリッジにまで宝石がセッティングされていた。
ダビドフ氏はヴァシュロン・コンスタンタンのカリスタ、ピアジェのオーラをアイスド・アウトウォッチの美の先駆者として挙げている。「バゲットの物語は、カリスタなしでは語れません。これは初のフル“バケット”のアイスド・アウトウォッチなのです」と彼は言う。1kgのゴールド無垢のインゴットから削り出され、118個のダイヤモンド(合計130ct)をセッティングしたカリスタ(ギリシャ語で“最も美しい”の意)はカットと組み立てに5年を要した。完成までに費やされた作業時間は実に6000時間を超える。
「バゲットカットダイヤモンドの採用は、21世紀を迎えると特定のモデルでますます頻繁に見られるようになりました」と、オーデマ ピゲの元複雑機構部門責任者であり、待望の新ブランドであるパターン レコグニション(Pattern Recognition)の創設者であるマイケル・フリードマン(Michael Friedman)氏は説明する。「より大きなジュエリーを求める幅広いトレンドが復活し、アール・デコの美に対する永遠の憧憬が消えることはありませんでした。大型の時計と大型のベゼルは、バゲットカットダイヤモンドに適した余分なスペースを提供することになりました」。Ref.5071は異例なほど幅広のフラットベゼルを備え、パテックによるアイスド・アウトされた量産シリーズ、スポーツウォッチの初期の試みのひとつだった。2000年代のパテックのようなブランドにとってカタログのなかで最も魅力的なモデルは、典型的なクラシックスタイルの複雑時計であった。レアなケース素材やレアなダイヤルの個体を入手することがステータスであるなら、ジェムセット仕様のバリエーションを手に入れるのはさらに大きなステータスとなる(Ref.5071とRef.5971をご覧いただきたい)。おそらくこれらの時計は、アフターマーケットの熱狂に対するアンチテーゼとして作られた部分もあったのではないだろうか。工場でダイヤモンドセッティングを施したコンプリケーションウォッチは、確かにジェムセット仕様の時計における究極のステータスではある。
今日、私たちの周りはバゲットであふれ、豪華に装飾されたロレックスのカタログ非掲載モデルを身につけたセレブリティの画像に囲まれている。それらは好奇心と欲望に満ちた目で消費される準備をと整えているポケモンのように、ソーシャルメディア上に現れる。「ハイエンドな消費者の増大する欲求が、カタログ非掲載モデルの誕生につながったのです」とクー氏は説明する。こうしたカタログ非掲載モデルはもちろん一般には販売されていない。生産数も価格も不透明だ。「ある意味、それは意図されたものです。購入する資格がある人しか知らないような仕組みになっているのです」とクー氏は言う。謎に包まれているからこそ、より魅力的に映るのだろうか?
控えめながら上質で洗練されたロロ・ピアーナのベージュのカシミアが広く普及し、クワイエットラグジュアリーブームを巻き起こす前、ジェムセット仕様の時計が“大流行”していた。パンデミックは派手さを控えるニーズに拍車をかけ、より落ち着いた美的感覚の復権への序曲となった。これはパンデミック後の経済的低迷の明白な結果である。ファッションは通常、経済的現実を反映する。しかし2010年代半ばに思いを馳せれば、ディオールのモノグラムサドルバッグの復活、バレンシアガの巨大なブランドパーカーに対するティーンエイジャーの渇望、グッチにおけるアレッサンドロ・ミケーレ(Alesseandro Michele)のバロック的世界観など、時計の美学にも“モア・イズ・モア”の真言が当てはまるかもしれない。2019年、バゲットセッティングはエバーローズゴールドのレインボーデイトナ Ref.116595 RBOWで頂点に達した。ロレックスはベゼルのサファイアのレインボーグラデーションを完成させただけでなく、アワーマーカーをラウンドブリリアントからバゲットに変更した。バゲットをセットしたスポーツウォッチの伝道師、ジョン・メイヤー(John Mayer)の貢献ももちろん忘れてはならない。
高級スポーツウォッチにおける今日のバゲットセッティングの普及は、ロレックス、AP、パテックの3大ブランドにとどまらない。バゲットセッティングが施されたウブロのさまざまなモデル、レインボーやブルーサファイアのバゲットを全体にあしらったH.モーザー ストリームライナー ・トゥールビヨン、オメガ シーマスター ダイバー 300M ジェームズ・ボンド60周年記念モデル(ボンドを記念してジャマイカの国旗の色に対応するバゲットで装飾されている)、ゼニス クロノマスター スポーツ(奇妙だが、許せる)、ショパール アルパイン イーグル 41 XPフローズン サミットなど枚挙にいとまがない。これらの鮮やかな宝石をあしらったモダンウォッチのなかには見るだけで頭痛を催すものもあるが、どれも派手な宝石をセットし、レインボーを彷彿とさせる美意識の飽和点を示しているようだ。
ニューヨークを拠点とするジュエラー、グレッグ・ユナ(Greg Yuna)氏は私たちが2010年代に華美さを置いてきたと主張している。「当時のシャンデリア(バゲットをセットしたアフターマーケットの時計)は、誰が1番大きくて、誰が1番ワルかを主張するような、チャンキーな感じでしたね」と彼は言う。「今はサイズもなにもかもが少し小さくなっていて、誰もがプレーン・ジェーン(平凡な女性)を目指しています。今僕は36mm径の時計をつけていますしね」
“プレーン・ジェーン(平凡な女性)”への回帰は、今やヒップホップコミュニティの多くにとって洗練の証となっている。時計のコンテンツ消費に大きな変化が起きているのだ。InstagramやTikTokにとどまらない。ジェムセットされた時計は、メーカーが少し商業的な(あるいは少なくとも目に見える)レベルでそれを行っていることを考慮しても過剰な露出になっている可能性が高い。かつてはユニコーン(希少)とされたプロダクトが、今では見慣れたものになりすぎている。そして当然のことながら、消費者の嗜好はトレンドのサイクルのなかでいつもそうであるように揺れ動くものだ。タイラー・ザ・クリエイター(Tyler The Creator)氏は、カルティエの小ぶりなヴィンテージモデルを身につけることでシンプルな美学に回帰した最初の人物のひとりである。
この変化は年代にも起因するものかもしれない。「ヒップホップは今、ラグジュアリーの流行を静かに迎えています」と、『Ice Cold:ヒップホップ・ジュエリーの歴史(原題:Ice Cold: A Hip-Hop Jewelry History)』の著者、ヴィッキー・トバック(Vikki Tobak)氏はこのように説明する。「時計もまたより成熟した美学を体現しています。時計はヒップホップの世界では少し上級者向けのものです。彼らはもうダイヤモンドのネームプレートチェーンをオーダーすることはないでしょうが、時計は買うでしょう」。そこにあるのはもはや “成り上がり”の物語ではなく、「俺はここでさらなる成功を掴み、役員室での会話をリードする俺を見ていろ」という筋書きなのだ。
長いあいだ、時計におけるジェムセッティングはロレックス Ref.6270の残響のようにアイスド・アウトとレインボーの美学という幅広い文化の一端として見られてきた。完全にアイスド・アウトされた時計について話すとき、人生の唯一の目的が終わりなき余暇であるかのような人物、あるいはリベラーチェ(Liberace、編注:ド派手な衣装で知られる米ピアニスト)氏に精神面で共感するような層(時計コレクターのごく一部の特権階級)を思い浮かべるだろう。ジェムセッティングは(事実上も物理的にも)着実に浸透してきたが、マニア層のなかでは下火になってきている。これは間違いなく経済的現実の反映だ。また、ケース径の大きなものから小さくシンプルなドレスウォッチへと変化したのも、“派手さを抑えたい”という同じ願望を反映したものだとも言えるかもしれない。
よりトーンダウンした外観へと向かうという美的感覚の兆候がこれほどあるにもかかわらず、ウォッチメイキングにおけるバゲットの普及は21世紀に入ってから増加の一途をたどっている。ウォッチメイキングにおけるジェムセッティングに明確な道筋はないが、エキセントリックなレインボーモデルからの脱却は傾向として明確なようだ。メーカー各社は細かくカットされ、巧みにセッティングされた上質な石を控えめに散りばめる“古典的”な手法に回帰しつつある。しかしレインボーブームをもたらしたアイスド・アウトウォッチの台頭により、新時代のコレクターは宝石、特にバゲットダイヤモンドを大切な時計に使用することを受け入れるようになった。ジェイコブとロレックスのレインボーデイトナがなければ、ベン・クライマーはレジェップにそういったダイヤルを注文しなかっただろうし、サイモン・ブレット(Simon Brette)氏も彼の最初の作品にバゲットセットのバリエーションを依頼されることはなかっただろう。
おそらく、やり過ぎの宝石セッティングも“控えめな”宝石セッティングも、どちらも受け入れる余地が残されているのではないだろうか? 私はその両方を評価できる。クリーンなテーラリングやザ・ロウの細いスパゲッティストラップのスリップドレス(あえてたとえるならパテック Ref.5004P-032)が好きなのと同じように、スキャパレリの宝石で覆われたゴールドロブスターのクチュール(こちらをたとえるならロレックス レインボーデイトナ)も好きだ。バゲットは、華やかさの尺度において幅広い解釈のうえに存在し得るのである。
もちろん時計とファッションのあいだには明確な二項対立がある。ファッションの場合、変化のスピードは常に速い。反面で時計業界の場合はゆっくりとした粘性のある這うようなスピード感だ。ジェムセットされた時計は市場のごく一部を占めるに過ぎず、その製作には膨大な時間と費用がかかるため、ほかのトレンドと比較して分析するのは難しい。しかしそこには魅力的なエキセントリックさがある。ロレックスやパテックのカタログ非掲載モデルがもたらす曖昧な霞の下でブランドは独自の価値を際立たせ、最後には笑う立場にある。世界で最も厳粛な業界において、ブランドは同質性の海のなかで斬新な対抗策を生み出すことができるのだ。
結局のところブランドはこのように製品のなかで職人技を披露し、デザインのリスクを取っているのだろう。実際に作られるのはほんのひと握りの個体であることを考えれば、その結果も知れている。このようなジェムセットされたピースを購入するコレクターは、明確に特別なものを所有していると誇示することができる。そしてHODINKEEのようなサイトに掲載される画像を通じて、皮肉にもとりわけ理解に苦しむ時計を広く人々が目にすることができるようになる。その一方でジェムセット仕様は時計の世界でより広く受け入れられるようになってきており、ダイヤル上の繊細なバゲットダイヤモンドはかつてのように“色モノ”として扱われなくなっているのである。