スポーツの世界では“よい審判は目立たないものだ”という言葉があるが、時計の風防にも同じことがいえるかもしれない。しかし私たちが目にしているこの透明なパーツには、目に見える以上の重要な役割がある。
過去100年のうち、ダイヤルを保護するためにいくつかの素材が使われてきた。それらは主にアクリル(プラスチック)、ミネラル(ガラス)、そしてサファイア風防だ。現在、ある程度の価格帯の時計には一般的にサファイアが使用されているが、一部のコレクターのあいだでは昔ながらのアクリルへの評価が依然として根強い。風防にもスポットライトを当てるべきときが来たようだ。ここでは、風防の歴史やその製造方法、そしてなぜ一部のコレクターはアクリルをほかのものよりも好むのか、その理由について詳しく解説する。また、アクリルとサファイアの未来を見据えた風防の革新者たちにも話を聞いてみた。
プレキシガラス、またはポリメチルメタクリレート(PMMA)は、アクリルやその商標名のひとつであるヘサライト、プレキシガラス、または単に“プラスチック”として知られる素材だ。1928年に開発され、その数年後に化学メーカーのローム・アンド・ハース(Rohm and Hass)社によって“プレキシガラス”の商標で初めて商業化された。この素材はドイツ、イギリス、アメリカの企業や科学者たちによってほぼ同時期に発見・商業化されている。ヘサライトはオメガがムーンウォッチに使用したことで最も知られており、時計の風防として最適化された特性を持つプラスチックの一種である。
この新しい素材は、通常のガラスと比べて優れた特性を持ち、すぐに実用化された。具体的には、柔軟性、軽量性、高い透明度、そして耐衝撃性に優れており、さらに製造が比較的容易(つまり、コストが低い)である点が大きな利点だった。
第2次世界大戦中、アクリルガラスは潜水艦、航空機、兵器、そしてもちろん時計といったさまざまな用途で使用された。ガラス風防が割れるのを防ぐためにケージやカバーが必要だったトレンチウォッチの時代は、すでに過去のものとなっていたのだ。実際、1915年に“割れない風防”が初めて登場した時点で、これらのガラス風防はすでに置き換えられていた。この“割れない風防”は、セルロイドという初期の透明プラスチックでつくられており、成形しやすく、柔軟で安価というプラスチックの利点を持っていた。ただセルロイドには高い可燃性があり、低温で収縮するという欠点もあった。アクリルの登場は、これらの問題を大きく改善したものである。
第2次世界大戦後、アクリル風防は時計業界の標準となった。ヴィンテージのロレックス、パテック、セイコーなど、ほぼすべての時計ブランドがプレキシガラスを使用していたのだ。現在では、これこそ古い時計の魅力の一部だとさえ考えられている。
「アクリル風防は、ヴィンテージウォッチのデザインにおいて欠かせない要素です」と、ヴィンテージロレックス専門の時計師であるグレッグ・ペトロンジ(Greg Petronzi)氏は語る。「個人的には、アクリルにはサファイアにはない魅力があります」。ペトロンジ氏にとって、ヴィンテージサブマリーナーのダイヤルは当時の設計者たちの意図を反映した適切な風防の下でこそ、真にその美しさが引き立つものだという。
彼はアクリルに対する情熱からTrueDome(トゥルードーム)という会社を設立し、ヴィンテージロレックスで見られる“スーパードーム”風防を、人気のヴィンテージスポーツモデル向けに精密に再現した。愛好家にとって、これらのヴィンテージツールウォッチのドーム型プラスチック風防は、現代の時計で見られる一般的なフラットサファイア風防とは一線を画している。
この魅力の一部はアクリルが“古い”風防として持つとされる欠点からも生まれているが、これらのヴィンテージウォッチは依然として堅牢で、目的に応じた設計がなされていた。
「ヴィンテージウォッチがアイコンとなったのは、文字どおり実用的であったからであり、現代のより装飾的な時計とは異なります」と、ロリエの共同創設者であるロレンツォ・オルテガ(Lorenzo Ortega)氏は語る。この遺産へのオマージュとして、ロリエは常にヴィンテージにインスパイアされた時計にヘサライト風防を使用している。
「ヘサライトには独特の温かみと透明感があり、見た目の表面的な強さではなく機能的に頑丈で、サファイアと比べても割れにくいです」とオルテガ氏は付け加えた。現代のサファイア風防と比べても割れにくく、より柔らかい優しい印象を与える。
プラスチック風防にはいくつかの欠点がある。モース硬度は約3程度であり、指で触れると、爪(モース硬度2.5)とあまり変わらない強度しか感じられないだろう。アクリルは傷も付きやすいが、柔軟性があり、曲がることはあっても割れることはあまりない。また表面レベルの浅い傷は、ポリウォッチ(時計プラスチック風防用研磨剤)や歯磨き粉を少量使って磨くことで簡単に取り除くことができる。現代の時計メーカーはアクリル風防をサファイア風防にほとんど置き換えているが、オルテガ氏やペトロンジ氏、そして私自身も含め、アクリル風防は現代の使用にも十分耐えられると強く主張している。
「人々は、良質なアクリル風防が実際には本当に堅牢であることに気付いていない」とペトロンジ氏は述べている。「例えば、ヴィンテージのシードゥエラーやサブマリーナーの風防は、エクスプローラー 1016の風防よりもはるかに厚いのです」
アクリルは柔軟性に富んでいるため、メーカーにとっては加工が簡単でコストも抑えられる。まず大きなプラスチックシートを用意し、それを打ち抜き、形成し、磨き、形を整える。この工程はホリデーシーズンに大きなクッキー生地を使ってクッキーをつくる過程に似ている。それでも本格的なメーカーは、さまざまなポリマーを試して、その特性にどのような影響を与えるかを研究することもある。
ペトロンジ氏は「トゥルードームで、私はヴィンテージロレックスの風防の感触を再現するために、5種類か6種類のポリマーを試しました」と話した。「結果それぞれのバリエーションで光学的な透明度、弾性率、耐衝撃性に違いが生じました」。サファイアを扱うよりは安価で済むものの(これについては後述)、ペトロンジ氏は「アクリルは安くつくるのは簡単ですが、正確につくるには高くつきます」と述べている。新しい風防のリファレンスをひとつ製造するには、7桁の費用と1年の研究開発がかかることもあるという(現在トゥルードームでは、さまざまなヴィンテージロレックスモデルに対応する6つのリファレンスを所持している)。
「オリジナルロレックスの風防を測定してみると、側壁(ケース)の厚さやアーチの深さ、内径と外径にばらつきがあることが分かりました」とペトロンジ氏は言う。さらに難しいのは、古いアクリルは若干収縮するため、正確な測定が難しく、試行錯誤を繰り返す必要があるという点だ。見た目とフィット感が理想的になるまで、0.01mm単位で微調整を行う必要がある。
このような特性から、現代の時計職人たちはアクリル風防に慣れていない。サファイアとは異なり、アクリルは通常、ケースに圧入されるか、テンションリングを使用して取り付けられる。サファイア風防の場合、風防を切り出してそのまま使用しているが、アクリルはその特性上、許容範囲にばらつきが生じやすいのだ。
20世紀半ばには、より多くのブランドが時計にミネラル風防を取り入れ始めるようになった。シリカ(二酸化ケイ素)からつくられるミネラル風防は、アクリルに比べて光学的な透明度が高く、傷にも強い。しかし強い衝撃を受けるとアクリルよりも割れやすい一方で、日常的な使用程度では耐久性に優れている。
今日でもミネラル風防は中間的な位置づけであり、主に中級価格帯の時計に使用されることが多い。セイコー 5スポーツはブランド独自のハードレックスというミネラル風防を採用している。同様にカシオ、タイメックス、シチズンといった多くの時計ブランドもミネラル風防を使用している。
1970年代になるとサファイアを合成する技術が向上し、製造コストも低下したため、時計メーカーはアクリルの代替としてサファイアクリスタルを採用し始めた。70年代後半、ロレックスはまずオイスター クォーツでサファイアの使用を開始し、80年代にかけて徐々にほかのモデルにも展開していった。
サファイアはアクリル風防に比べてより硬く、傷が付きにくく、耐久性が高いなど、多くの機能的な利点がある。モース硬度は9であり、これはダイヤモンド(10)に次ぐ硬さである。しかしサファイアにもいくつかの欠点がある。反射率が高く、アクリルほどの透明度がないことや、その硬さゆえに加工が難しい点が挙げられる。また傷が付いた場合、アクリルのように簡単に磨き直すことはできない。ただ今日ではほとんどのブランドや消費者が、その利点が欠点を上回ると考えているようだ。
実際、アクリルとサファイアの素材自体のコストはそれほど大きな違いはない。それでもサファイアのコストが高い理由は、加工や製造にかかるツールやプロセスにある。サファイアは非常に硬い(ダイヤモンドに次ぐ硬さ)ため加工が難しく、その結果製造コストが高くなるのだ。
「サファイアはダイヤモンドでカットする必要があり、20から25個の風防をカットすると、工具を交換しなければなりません」と、ノダスウォッチの創設者であるウェスリー・クウォック(Wesley Kwok)氏は述べている。対してアクリル風防は、クリスマスクッキーを型抜きするようにプラスチックシートからすばやく切り出すことができる。
時計の風防に使用されるサファイアは、まずすりガラスのようなこぶし大の球状に合成されたあと、カットとポリッシュが施され、目的のサイズと形状へと仕上げられる。私たち消費者が目にするのは、フラット、ボックス、ダブルドームなどの最終的な形状のみであるが、製造業者にとっては、サファイア風防をカットする基本的な方法はふたつある。
「基本的な形状はフラットとボックスのふたつです」とクウォック氏。ボックス風防では、風防の内側をより削り取っている。クウォック氏はその違いを図で説明してくれた。
ボックス風防の主な利点は、風防の内側が削られているため、時計の針が風防の内側にうまく収まり、視覚的に針が風防の中央で浮いているように見える点にある。ブラックベイ 58のドーム型サファイア風防はその一例である。
「これはムーブメントの厚みの大部分が上部に集中している、言わば“重心が上にある”ムーブメントにおいて特に重要です。たとえば、ミヨタ9075のようなムーブメントがそれに該当します」とクウォック氏は話す。
しかし、これらのボックス風防はコストが高くなる。まず、使用するサファイアの量が多くなる。標準的なフラット風防は2〜3mmのサファイアを使用するが、ボックス風防ではその約2倍のサファイアが必要となる。またCNC機械を使って風防の内側を削って形状を整える必要があるため、製造コストがさらにかさむのだ。
アクリル風防と比較した場合のサファイアの機能的な欠点は、透明度が低い点である。これが理由で、通常風防の内側には反射防止(AR)コーティングが施され、またそれらは複数層にわたって塗布されることが多い。ARコーティングは、風防に反射する光の波長を“打ち消す”ことで、反射やグレア(眩しさ)を最小限に抑えるよう設計されている。
これらのARコーティングは、黄色や赤の反射を最小限に抑えるよう最適化されていることが多い。青は可視光線の反対側に位置するため、ARコーティングは通常青味を帯びている(ロレックス ミルガウス Ref.116400GVの場合は緑色)。ブルーは人間の目にとって気が散りにくい色であり、一部の人々はこの青を好むことさえある。
サファイアに対するもうひとつの一般的な批判は、非常に硬くて傷つきにくく、割れにくいものの、強く打ちつけると破損する可能性があるという点だ。
「高品質なアクリル風防を強く打ちつけると、そのエネルギーを吸収して曲がる程度ですが、サファイア風防の場合は粉々になるか、何も起こらないかのどちらかです」とトゥルードームのペトロンジ氏は言う。一方で最新のサファイア風防が破損するリスクを、過度に心配しすぎていると感じる人もいる。
「これまでに風防が割れて戻ってきたケースは1件だけで、それは硬いタイルの上に落としたときでした」とクウォック氏。「だから、私にとってそれは大した論点ではないんです」
現代の製造方法により、サファイア風防もアクリル風防も、キーボードを叩く日常での使用や毎年恒例のターキートロットランニング(編注;マイペースに走るレース)において十分に実用的であることをほとんどの人が認めている。アクリル風防を支持する人々のなかには、サファイアがプラスチックよりもそれほど優れているかどうかについて懐疑的な人さえいる。
「正直なところ、今では現実というよりもマーケティングの要素が強いと感じます」とペトロンジ氏は述べた。「実際のところ、サファイアがそれほど優れているかどうかは分かりません」。サファイアを扱うための初期の工具やコストは高額だが、その後のメリットもある。サファイアは1度カットしてしまえば、プラスチックのように収縮や屈曲が生じることがなく、適切なフィット感を見つけるのが難しくなることもないため、それで作業は完了する。これにより、品質管理の際の不良率も低くなる傾向がある。ペトロンジ氏は、ロレックスの熟練の時計師と話をした際、彼らは同じリファレンスでも3つの異なる風防があり、どれが作業台の時計にフィットするのかを毎回試さなければならなかったと言われたと明かしている。コスト削減や効率性が重視される現代では、これは通用しないかもしれない。
それでも現代のサファイアの利点は確かであり、ポリウォッチをストックする必要もない。結局のところ、風防の好みも時計そのものと同様、個人の選択に依存するのだ。
「個人的には、時計を粗雑に扱うことが多いのでサファイア風防を好みますが、これはあくまで好みの問題です」とノダスのクウォック氏は話す。時計に対する好みがこれほど多様化している現在、トゥルードーム、ノダス、ロリエといったブランドが証明しているように、アクリル風防とサファイア風防のどちらも十分な選択肢がある。
多くのメジャーウォッチブランドはサファイア風防を使い続けているが、オメガ スピードマスター ムーンウォッチとそのヘサライト風防は、おそらく最も顕著な例外だろう(もちろんサファイア風防のムーンウォッチオプションも存在する)。
しかし風防というジャンルはアクリルとサファイアの両方を試みている小規模なブランドや企業にとって、興味深い開発分野となっている。たとえばペトロンジ氏は、ヴィンテージのプラスチック風防の温かみを好む愛好家にとって、魅力的かつ手ごろな選択肢として、スイスのブランドであるラヴァンチュールやバルチック、ロリエが注目されていると挙げた。とはいえ、これらの取り組みは主に小規模で独立したブランドに限られている。
「大手ブランドからもう少し実験的な試みが見られるとうれしいですね」とペトロンジ氏は続けた。
一方で、ペトロンジ氏にとってトゥルードームの設立は、別の重要なニーズから生まれたものであるが、それはヴィンテージコレクターにとっても同様に重要なニーズだ。それはオリジナルのプラスチック風防の供給が減少していることである。ロレックスのような大手ブランドは、サービスパーツの入手に対してますます厳格になっている。ヴィンテージロレックスの交換用風防が必要なコレクターにとってはこれが大きな障害となっているのだ。彼はこれがニッチな問題であると認めつつも、熱心なコレクターコミュニティにとっては重要な問題であるとしている。
「多くの愛好家は、オリジナルの風防が時計のデザインに与える影響を理解しています」と彼は述べている。「だからこそ、私は彼らのために風防をつくるつもりです」
一方でクウォック氏は、ノダスの時計のサファイアベゼルインサートに刻印を施し、それを夜光物質で埋める方法を模索していると述べている。これにより現在の方法よりも強力な夜光効果を提供できるようになるという。古い素材やよく知られた素材に応用されるこうしたアイデアこそが、時計を魅力的なものにし続けるのだ。
“見た目の微妙な相違点を除けば、両モデルの違いは大部分が考え方の違いから来る”と、かつてのエディターであるコール・ペニントンがサファイアとヘサライトのスピーディを比較した際に述べている。“ふたつの考え方のあいだで迷うと、勢いでひとつを選ぶ場合に比べてかなりの心労を味わうことになる”。
最終的な決断は個人の好みによるものであり、どちらを選んでも間違いはないのだ。
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