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オメガは1957年にスピードマスターを世に送り出した。この腕時計は当初レース用のクロノグラフとして販売された。しかし時計を作り上げたスイスの時計師の想定を超えて、やがて月にさえ到達するほどにあらゆる場面で重用されるようになった。20世紀後半にかけて、スピードマスターには多くのバリエーションが生まれた。同時に、それら選択肢の中から好みのものをひとつ選ぶという作業も困難を極めるようになった。もっとも、「ムーンウォッチ」と呼ばれるこの腕時計の形態は初期からさほど変わっていない。NASA、宇宙、月といったキーワードと関連付けられるようになる前から、一貫して存在しているのだ。今日でもオメガの正規代理店に行って同じようなスピードマスターを買うことができる。その場合、モデルとしては 311.30.42.30.01.005になる。このモデルはヘサライト風防の採用など多くの点で、歴史を作った「ムーンウォッチ」とほとんど変わっていない。
ヘサライトとは素材的な意味ではプレキシガラス(アクリル)を意味する。しかしオメガではヘサライトという呼称を用いている。ところで、今売られているスピードマスターには、往事のモデルと比べて変わっている点もいくつかある。ブレスレットは時代と共に工作精度が増し、ケースの寸法もごくわずかではあるが変わっている。当然だが、その他のディテールも年々豪華になっている。現行のムーンウォッチにはディテールを鑑賞するためのルーペが付属するほどである。結局、スピードマスターという腕時計で重要なのは微細なディテールといえる。嘘だと思うなら、ベゼルの「ドットオーバー90」に限りない物欲を抱いたことがあるコレクターに聞いてみて欲しい。
物事は変わっていく。これがこの世で変わらない唯一の真理だ。由緒あるスピードマスターでさえこの真理から逃れることはできない。ヘサライト風防の「ムーンウォッチ」と平行して、数々の型番が世に送りだされた。そうしたモデルのひとつに、風防と裏蓋がサファイアクリスタルになっているものがある。それ以外の部分はヘサライト風防のモデルと同等で、ただ、ムーブメントの仕上げがほんの少しだけ違っているモデルだ。このモデルの現行版は収集家から「サファイア サンドイッチ」と呼ばれており、型番は 311.30.42.30.01.006となる。スピードマスターの長い歴史の中では、風防がヘサライトで裏蓋がサファイアクリスタルというモデルもいくつか登場している。
ムーンウォッチを購入する決心をしたとしても、ディテールの世界で遊べるようになる前に、ひとつ大きな選択をしなければならない。風防をヘサライトにするかサファイアクリスタルにするかという選択だ。
ヘサライトとサファイアクリスタルでは素材の物理的性質が違うのは明らかだが、そうしたフィジカルな違いの他に、リスペクトというメンタルな部分でも違いが存在する。なぜかというと、月に行ったスピードマスターはすべてヘサライト風防なのだ。危機的な状況に陥ったアポロ13号で14秒間の逆噴射を行うのに、スピードマスターを使って時間を計ったエピソードは有名だが(オメガはこの功績により、NASAから有人宇宙飛行ミッションの成功に大きく貢献した人や団体に贈られる「シルバースヌーピー賞」を受けた)、そのモデルにもヘサライト風防が付いていた。
一方、サファイアクリスタルの風防は現代の腕時計市場において圧倒的に普及しているが、それには理由がある。傷が付きにくく、極めて透明度が高く、ヘサライトであれば痕が残ってしまうような衝撃やへこみにも強い。スピードマスターでは、型番BA 345.0802とBA 145.0039で初めてサファイアクリスタルの裏蓋が登場した。これらは限定モデルで、スピードマスターが有人宇宙飛行での使用に適するとNASAから1978年に再認定されたのを記念して発売された。裏蓋ははめ込み式だ。1980年代初頭のドイツ市場でその多くが販売された。
その後、1985年になり、サファイアクリスタルのシースルーバックを採用した型番ST 345.0808が登場した。このモデルは表の風防にはヘサライトを、裏蓋にはサファイアクリスタルを採用していた。有人宇宙飛行での使用に適するとNASAに認定されてから20年が経過したのを記念して発売された、これもまた限定モデルだった。スピードマスターの標準モデルでサファイアクリスタルの裏蓋を初めて採用した型番は3592.50だ。コレクターにとって垂涎の的となる多くの特徴を備えていた。このモデルは「ヘサライト サンドイッチ」と呼ばれることがある。トリチウムを塗布した文字盤を使っており、時を経ると共にそれがクリーム色を帯びてくる。文字盤はヘサライトの風防に覆われている。2003年、オメガはスピードマスターのコレクターやファンの要望を受け入れる形で、サファイアクリスタルの風防を採用したモデルを発売した。それまではサファイアクリスタルのシースルーバックを採用したモデルが存在していただけだった。しかしついに表側の風防にもボックス型サファイアクリスタルを使ったモデルが登場した。型番は3573.50となる。最近のモデルでは「オメガ スピードマスター キャリバー321 'エド・ホワイト'イン ステンレススティール」も風防と裏蓋の両方にサファイアクリスタルを採用している。
2種類の風防のうちどちらを選ぶべきか。決めるのは非常に難しい。難しいという点では月に行く難しさも並大抵ではない。ところが、月着陸のミッションは無事に成功している。風防選びの問題も必ずや解決できるはずだ。
ムーンウォッチを作る
地球を離れて宇宙に飛び出した最初のスピードマスターは、ウォルター(ウォリー)・シラーが手首にはめていたRef.CK 2998だった。シラーはマーキュリー計画の一員としてマーキュリー・アトラス8号に乗り込み、地球を周回した。1962年のことだ。その3年後、オメガ スピードマスターは厳しい審査に合格し、NASAに制式採用された。このときに得た称号が「プロフェッショナル(PROFESSIONAL)」だ。今日でも文字盤にそのワードが刻まれている。また、ヘサライト風防のモデルは裏蓋に「すべての有人宇宙飛行計画で使用可能であるとNASAが認定(FLIGHT-QUALIFIED BY NASA FOR ALL MANNED SPACE MISSIONS)」と刻印されている。この文言はサファイアクリスタルのモデルには書かれていない。というのは、サファイア版はNASAの認定を受けていないからだ。ジェミニ計画、マーキュリー計画、アポロ計画といった有人宇宙飛行計画に使われていた頃のスピードマスターには、すべてヘサライト風防が付いていた。
1965年、NASAはスピードマスターを有人宇宙飛行で使用するのにふさわしい腕時計に認定したが、1965年はまた、アメリカ人宇宙飛行士が初めて船外活動(EVA)を行った年でもある。エド・ホワイト(ED WHITE)がジェミニ4号宇宙船に命綱1本でつながって宇宙遊泳をしたとき、その腕にはスピードマスターの型Ref.105.003がはまっていた。ホワイトは宇宙遊泳をいたく気に入り、船内に戻るように指令を受けたときに、「これから戻ります……人生で最もつらい瞬間です」と嘆いた。ホワイトのスピードマスターは、予想されていた通り、宇宙の真空中でも何の問題もなく動き続けた。
やがて1969年となり、アポロ11号が月面着陸に成功し、歴史的な快挙を達成。ニール・アームストロング(NEIL ARMSTRONG)が月面に足を踏み出した最初の人類となった。しかしその瞬間には、アームストロングは月着陸船の中にスピードマスターを置いてきてしまっていた。一方、バズ・オルドリン(BUZZ ALDRIN)はスピードマスターを装着していた。オルドリンはRef.ST105.012を右の手首にはめて月面に降り立ち、これがムーンウォッチとなったのだ。この記念すべきシーンは「スピードマスター アポロ11号50周年記念限定エディション」の9時位置にあるサブダイヤルに描かれている。
この特別な瞬間に使われていたことでどれほどスピードマスターの人気が高まったか。腕時計の宣伝効果としては、空前絶後のイベントだったといえる。スピードマスターの個体は月面着陸を境に2つに分かれることになる。「月面以前」のスピードマスターと、それ以降に作られたスピードマスターだ。「月面以前」のスピードマスターにはすべてヘサライト風防が付いている。
ヘサライト対サファイアクリスタル
ヘサライトはプラスチックの一種だ。強度があり光学的に優れた性質を持つ、剛性の高いプラスチックで、眼鏡のレンズや産業機械、ショーケース、自動車のヘッドライトユニットなどに使用するのに適している。もちろん、腕時計の風防もそうした用途のひとつだ。耐候性もかなりあるが、適切な研磨材を使って磨き上げられる程度の柔らかさも備えている。磨けば最高の光透過性を発揮する。20世紀初頭、「プラスチック」という言葉は単に変形が可能な性質という意味で使われていた。当時は金も「プラスチック」的な特性を持つといわれていた。金は打ち延ばすことができ、任意のフォルムへと容易に成形できる。ところが1907年、最初の合成高分子が誕生した。それが世界初の工業用プラスチックへと発展していった。この工業用プラスチックは「ベークライト」と呼ばれた。これが今日私たちが知っている「プラスチック」の第一号となった。
アクリル製安全ガラスはプラスチックの一種だが、第二次世界大戦の開始直前に大量生産が可能となった。すると、フロントガラスや潜望鏡、飛行機の風防といった軍事用途で威力を発揮することが分かった。ヘサライトの物理的性質は、衝撃を受けると、割れて飛散するのではなく亀裂が入るというものだ。公式にそうと認めたことは一度もないが、これがNASAがヘサライトを好む理由ではないかと世の中ではまことしやかに語られている。つまり、もし腕時計の風防が宇宙で砕け散ったとしたら、鋭利で危険な微粒子が無数に発生して宇宙船内を浮遊することになり、搭載機器類を傷つけ誤作動を引き起こすリスクがある。ところがヘサライトならば、亀裂が入るだけで飛散することはない。
一方、サファイアクリスタルの風防は、わざわざ紹介する必要のないほど普及している。ジャガー・ルクルトが1929年製のデュオプランで初めて腕時計に用いた。現代の腕時計は多くがサファイアクリスタルの風防を採用している。物理的性質が優秀だからだ。強度があり、透明で、これが最も重要なのだが、アクリル製の風防と比較して極めて傷が付きにくい。しかしひとたび傷が付いた場合、ヘサライトのようなアクリル風防とは異なり磨き上げて傷を消すことが難しくなる。風防全体の交換が必要になることも多い。ヘサライト風防の付いたスピードマスターオーナーの中には、傷を消すために風防を磨き上げる作業を儀式のように思い、魅力を感じる人もいる。ヘサライト風防にはサファイアクリスタルにはない、固有の光沢があるのも事実だ。柔らかく、優しい雰囲気に光る。特定の角度から眺めると、ヘサライトの曲面によって文字盤の周縁にある秒目盛りがひずんで見えるのだが、こうした味わいは現代のほとんどの腕時計から消えてしまった。
しかし、サファイアクリスタルのモデルにも特有のビジュアル的な魅力が存在する。サファイアクリスタルの風防はドーム型をしていない。ケースと接する部分はほとんど直角に落ち込んでいる。風防の厚みによって、文字盤の周囲に乳白色の光のリングが浮かび上がる。文字盤の漆黒との対比が鮮明で、日食を思わせる視覚的効果が生み出される。文字盤を真上から見下ろしたときに見える乳白色のリングにちなみ、「ハロー(後光)」効果と呼ばれている。コレを好ましく思うコレクターもいるし、スピードマスターの文字盤らしい整然と無駄を排した雰囲気を損なうと考えるコレクターもいる。
どちらの風防を選んでも、日常的に使用するうえでは何の問題もない。繰り返しになるが、ヘサライトはNASAの基準を満たすのだから、日常程度であればいかなる場面にも対応できる。どちらが技術的に優れているかといった議論は、大部分が現実味に欠ける。思うに、もしNASAがサファイアクリスタルのスピードマスターをヘサライトと同様の方法で審査したとしたら、やはり有人宇宙飛行計画の基準を満たすと認定されるはずだ。しかしその栄に浴したとしても、認定第一号には決してなることができない。その地位はあくまでもヘサライト風防のスピードマスターのものだ。
見た目の微妙な相違点を除けば、両モデルの違いは大部分が考え方の違いから来る。月に行った腕時計にできるだけ近いモデルを選ぶか。現代の工業製品にふさわしい材質のモデルを選ぶか。そちらを選べば、クロノグラフのムーブメントという究極の精密機械が作動するさまを眺めることもできる。2つの考え方の間で迷うと、勢いで1つを選ぶ場合に比べてかなりの心労を味わうことになる。しかしこれには良い面もある。つまり、どちらを選んでも失敗はあり得ないのだから。
スピードマスター プロフェッショナルについてさらに理解を深めたい場合は、「オメガ スピードマスター プロフェッショナルを理解する」を一読されることをお勧めする。