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ボンド「他に何ができるんだい?」
Q「時刻が分かるよ」
-スペクター,2015
小説版、映画版ともジェームズ・ボンドの腕時計は研究され、真似され、書籍にまとめられ、議論され尽くされてきた。このジャンルだけで、博物館が建ち、専門のサイトがある程で、世界で最も有名なスパイの名を冠した無数のナイロンストラップについてはもはや言うまでもない。しかし、腕時計と007にまつわる、あらゆることをフォローする私たちのような人間はいつまで経っても報われることはない。来年公開される新作「ノー・タイム・トゥ・ダイ」に登場するオメガの新作発表は、このヒーローの時計と、我々の関心をとらえて離さない秘密を検証する絶好の機会となる。
キャラクターづくりに余念がなかった創作者イアン・フレミングが設定したボンドの嗜好から映画の小道具として即席で用意した腕時計に至るまで、その後50年で数千本の腕時計を販売する程マーケティング的に成功した。
架空のアクションヒーローのラグジュアリーアイテムへの偏愛について、バカげていると一蹴するのは簡単ではあるが、この奇妙な(時代遅れともいうべきか)御輿を担ぐ我々時計愛好家にとって、ジェームズ・ボンドとは腕時計の模範的な愛用者であるのだ。この長寿映画シリーズに首尾一貫するものがあるとすれば、それは主人公の手首に巻かれた時計なのである。
この愛すべきスパイが、時計愛好家の世界を豊かにしたのは1962年以降とするか、イアン・フレミングの小説シリーズを考慮するとそれ以前とも捉えることができる。ジェームズ・ボンド映画のシリーズ第一作「ドクター・ノオ」の劇中、007は放射線量の測定のためロレックスの文字盤にガイガーカウンターをかざした。その後のシリーズ劇中では、彼は腕時計を使ってあらゆる危険を切り抜けて見せた。例えば「サンダーボール作戦」では、ブライトリングがガイガーカウンター機能を内蔵していた。「死ぬのは奴らだ」ではロレックスの回転ベゼルが丸鋸になったり、時計そのものが弾丸を避ける強力な磁石となったりした(もちろんジッパーを開くことも可能だ)。
20年後、我々はボンドのオメガから脱出用のロープが射出され、爆発物の起爆装置として使用されるのを目撃した。そして、「スペクター」に登場したシーマスターが悪役・ブロフェルドの手から逃げるために爆発したとき、それは単に時刻を知る以上の貢献を果たした。
アプリで作動する、どこでも使える咳止めドロップのような形の、通信機能を備えたヘルストラッキングまで行えるウェラブルデバイスのような、新世代に脅かされながらも、ボンドのアナログ主義は揺るぎない。もちろん、アンチはこれをマーケティング上の契約だからと揶揄するだろうが、Apple Watchを着けたボンドを見て興醒めしないだろうか? これこそ、ボンドのキャラクターを真っ向から冒涜するものである:ドライで冷静でありながら、ウィットに富み、創意工夫に満ち、知略を巡らす男性像がそれだ。
Qの変わった秘密機器やジャケットの幅広なラペルを別とすれば、ボンドは普遍的な存在であり、戦争でも宇宙でも、どんな国のリーダーと対面しようとも、その存在は変わることはない。それは我々時計愛好家が機械式時計に求めている普遍性と本質的に同じではないだろうか。
アプリで作動する咳止めドロップのような
ウェアラブルデバイスに
支配された現代でも、
ボンドは機械式時計の
模範的な愛用者であり続ける。
イアン・フレミング版ボンド
原作の007では、ボンドはもちろん趣味の良い男として描かれているが、比較的控えめにいっても倹約家として描かれてもいる。イアン・フレミングが創り上げたボンドについての研究によると、彼は多くを持たないが、質の高い品を厳選する傾向にある。ボンドの車はベントレーではあるものの、スクラップ工場から引き取ったものをレストアしたものである。頻繁に旅や外食をしているが、彼の部屋は至って簡素だ。シルク地のテイラードジャケットやシーアイランドのシャツ、サヴィル・ローのスーツを纏いながらも、荷物を軽くしたい男が、さまざまな気候や社交場に耐えうる質の高い汎用性に優れたワードローブを選んでいるような印象を受けるのだ。
さて、ジェームズ・ボンドの時計といえばどうなのか? フレミングの小説に手がかりを求めると、そこには「重厚なロレックス オイスター」の記述があり、夜光塗料がペイントされた文字盤と、エクステンション機構のあるブレスレットが備わっていることが推察できる。恐らくは、その時計は著者自身が、ジャマイカにある別荘から素潜り漁に出かける際に身に着けていたに違いないエクスプローラーだ。1950年代はスティール製のスポーツロレックスの黎明期にあり、ボンドはそれを現在のような高価なアクセサリーやステータスシンボルとしてではなく、ツールとして扱った。小説「女王陛下の007」の中で、ボンドは時計を拳に巻きつけて“メリケンサック”として繰り出し、山頂のアジトのスキー場で敵の手下をダウンさせた。後の描写で、ボンドはボロボロになったロレックスをMI-6からの給料で買い替えるくだりがある。ボンドにとって、それは特別な思い入れがあるものではなく、頑丈で視認性が優れているから選んだにすぎないわけだ。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
原作からボンドを取り巻く状況を考慮すると、次の結論が導き出される。彼は見せかけの男ではなく、ファッション性より機能性を好み、ミニマリストであることだ。この性格は現代のボンド映画で描かれる、空港でリモワのスーツケースを引きずっていないにもかかわらず、装いや時計を頻繁に変えるそのキャラクターとは正反対といっていいだろう。
ダニエル・クレイグが最も有名なスパイの役を引き継いでから、少なくとも6つ以上のオメガを我々は目撃しており、作品によっては劇中で時計が変わる程である。「カジノ・ロワイヤル」で、彼は工事現場で爆弾犯を追うのにラバーストラップのプラネットオーシャンを着用したと思いきや、カジノではキラキラ光るブレスレットの上品なシーマスター プロフェッショナルを腕に巻いていた。ダニエル演じるボンドはHODIKEEの読者で、ロンドンのアパートにはオメガのダイバーズが6台のウォッチワインダーに収められているとでもいうのだろうか? そんなバカな。
ロレックスかオメガか? それが問題だ
こうしたことをフォローしている人々の間で、ロレックスとオメガのどちらが“真の”ボンドウォッチか議論が白熱することがある。
ボンドが50年代ではなく、60年代に誕生していたら、我々はロレックスではなく、オメガを腕にしたボンドに慣れ親しんだだろう。オメガは英王立海軍の公式サプライヤーを委託されていたことがあり、剣型の針や狭いベゼルを含む時計の寸法は国防省の標準仕様にすらなった。1995年にピアース・ブロスナンをボンド役としてシリーズを復活させたとき、コスチュームデザイナーのリンディ・ヘミングは知り合いの王立海軍の軍人がシーマスターを身に着けていたことを思い出し、オメガをこのヒーローに与えることにした。これがきっかけで、ジャン-クロード・ビバー氏指揮のもとマーケティング界の大成功ともいうべき、今日に至るオメガとの蜜月関係が生まれた。
今世紀のボンドが時計好きで、
ロンドンのアパートにはオメガの
ダイバーズが6台のウォッチワインダーに収められているとでもいうのだろうか?
そんなバカな。
オメガの最新作、シーマスター ダイバー 300M 007エディションは2006年作「カジノ・ロワイヤル」からボンド役を務めるダニエル・クレイグの意見を吸い上げて企画化された。時計愛好家であるクレイグは、スパイのための時計が満たすべき理想的基準を共有したところから判断すると、007としての自らの役をとても大切にしていることが窺える。ボンドウォッチとしては初のチタニウム製であるが、その軽量さ、耐腐食性、耐磁性能は水の中で多くの時間を過ごし、繊細なエレクトロニクス製品に囲まれる男のには最適といえる。また、クレイグは時計がヴィンテージ風に見えるようにアドバイスしたそうだ:褪色の蓄光塗料、マットなアルミニウム文字盤、そして、MoD(国防省)官給を示す小槍、通称“ブロードアロー”マークである。MoD認証を受けていない時計に対するケースバックの刻印とダイヤルへのマーキングには難癖がつきそうなものだが、本質的に市販もされる映画の小道具というのが、(非難をかわす)重要なポイントだ。
このモデルは「カジノ・ロワイヤル」に登場した無骨なラバーストラップのプラネットオーシャン以来、最も“ボンドらしい”時計だろう。ボンドの荒々しくも流れるような振る舞いによく似合い、輝きを放つセラミック製ウェーブ状の文字盤より“鈍器”ともいうべき風格を備えている。国防省やMI-6が9000ドルもする官給品を渋々支給するのかは別問題ではあるが、それを持ち出すなら、ボンドがしょっちゅう破壊するアストン・マーティンを引き合いに出さねばなるまい。
ジェームズ・ボンドの実生活(適切ではないかもしれないが)は派手でなく、実用を重んじているという主張に対して、私はボンドがブランドの威光を利用していたと反論したい。我々は彼が特定の葉巻、装い、クルマ、シャンパンを固有名詞で呼ぶことを知っている。フレミングはこの点については原作でも事細かく描写しており、映画版ボンドにもこの所作は持ち込まれた。コネリーがジム・ビームのバーボン、ジョージ・レイゼンビーがマルボロなど、タイアップ広告はボンド映画の初期から存在していた。いやむしろ、穿った見方をすれば、ジェームズ・ボンドは、商品の陳列をマーケティングの基礎とする資本主義と民主主義のために戦っているのではないだろうか?
カルチャーの原型として
ジェームズ・ボンドが時間を確認する仕草を同じストライプのNATOストラップを着けて行い、コネリーがライターを閉じて左腕を上げるシーンの度に一時停止してきた私たちにとって、それ以外に関心を抱き続けさせるものは何だろうか? 何故架空の主人公の身に着けた時代遅れのラグジュアリーアイテムについて2000字もの記事を書いたり(読んだり)してきたのだろうか? それはボンドがカルチャーの原型として、映画のプロットや役者の服飾の仕立てのよさ以上に力を持っているからだ。若い世代程、ジェームズ・ボンドに関心が薄く、ボンドの女性への扱いがひどく時代遅れなものだという意見があるものの、キャラクターの芯の部分には現代の美徳ともいえる、男らしい優雅さ、重圧下における冷静さ、混沌の中にあっての落ち着きが残されているのだ。
彼は部屋を脱出する間一髪のところで、ブドウを摘み食いしたり、爆発まであと数秒のところで爆弾を止めたり、死の苦痛にあっても言いたいことを言う余裕を持っている。これこそ、我々がストレスの多い会議や、飛行機に飛び乗る、地下鉄の客同士のトラブルの際に持つべき資質ではないか?
広く信じられている意見とは反対に、ボンドの“プレッシャー下における冷静さ”は男性だけの資質ではないことに、制作側も気付き始めている。ここ数作では、強い女性にもスポットライトを当てており、新作「ノー・タイム・トゥ・ダイ」でもラシャナ・リンチ扮する新ダブルOエージェント“ノミ”が彼女専用のオメガを着用している。クレイグの“任期”が終了したら、次の007は彼女なのだろうか? その答えはもう少し待とう。
ボンドが劇中、この機械式ダイバーズを身に着けているという事実は、どういうわけか品質の高さを象徴していると考えられている。同時に、このことはダイビングのための道具としては既に時代遅れとなった現代でも人気を保っている要因だろう。ビッグクラウンのサブマリーナーが登場してわずか8年後に007が着用し、ダイバーに60年間も愛されてきたことを考えれば、ダイバーズウォッチの人気は「ボンド効果」だといっても過言ではない。頑丈なケースの内部で静かに鼓動し続け、外の過酷な環境の影響を受けない精密機構はボンドにぴったりであり、ボンド自身の縮図でもある。我々がそれを身に着けることは、そうした本質のかけらを自らに取り入れることで、分断され、混沌とした世界を生き抜くよりどころとなるのだ。
以前同じ話をしたかも知れないが、我慢して聞いて欲しい。高校生の頃、貯金をしてショッピングモールで85ドルのセイコー機械式ダイバーズウォッチを購入した。その時計には長いラバーストラップが付属していて、明るい蓄光塗料と、どうやって使って良いのか分からない青と赤の回転ベゼルが付いていた。ところが、一度それを腕に巻くと、私は内なる変革を遂げた気分になった。私はジェームズ・ボンドのことはあまり知らなかったが(ティモシー・ダルトンを覚えている読者はいるだろうか?)、そのセイコーは、幾分か私に大人の階段を上らせることとなった(高校生だったので、大目に見て欲しい)。その感覚は今でも鮮明で、その証拠に私はダイバーズウォッチの不滅のファンでもあり、後にジェームズ・ボンドの映画、小説ともに熱心な信徒となった。偶然かと問われれば、そうだろう。しかし、この一見時代遅れの安っぽいものが持つ、目に見えない魅力は、実体的、経済的価値を大きく上回るほど大きいのだ。
ダイバーズウォッチの人気が
「ボンド効果」だといっても
過言ではない。
数ヵ月ほど前、友人と腕時計の魅力について論じた。友人が言うには、人は時計の見栄えや、着けたときの気分の良さに魅力を見出していることを認めたくないので、あえてリセールバリュー、内部機械の複雑さ、精度、耐候性等を褒めることで、(自分や他人に)その魅力を、合理性にすり替えるよう自分に強いているのだそうだ。この分析には確かに頷ける部分がある。さらには、ボンドウォッチとはまさにその好例といえるだろう。
ゴツいダイバーズウォッチを腕に巻くことで、少しでも勇気、自信を感じ、マティーニのグラスを一気に飲み干して世界を救うような男に近づけると感じられるならば、それを手に入れて身に着けると良い。そのことを誰に対しても正当化する必要はない。つまるところ、私たちはボンドとは違い、一度きりの人生を歩んでいるのだから。