カルティエ「TIME UNLIMITED」。10月1日、最終日まで大盛況のうちに幕を閉じた近年最大のカルティエ ウォッチイベントは、ファンならずともメゾンの時計の魅力を発見する機会となっただろう。ありがたいことに僕もその一役を担わせていただき、クロノス日本版編集長の広田雅将さんと実施している「コノサーズトーク」の公開動画収録を、会期最終日に江口洋品店・時計店オーナーの江口大介さんをお招きして行った。以下から動画も確認できるので、イベントのサマリーとしてもぜひご覧ください。
「TIME UNLIMITED」をとおして、カルティエのウォッチメイキングの軌道を俯瞰する
このイベントは示唆に富んだもので、大まかには4つのゾーンに分かれてカルティエ ウォッチについての理解を深めることができた。まずは歴史を体感できるムービー、代表的デザインの時計展示、4つのピラーとなるコレクション、そしてラ・ショー・ド・フォンでのウォッチメイキングを学べるコンテンツが用意されていた。僕は、やはり時計の実物展示に最も多くの時間を費やして見学したのだが、カルティエがウォッチメイキングにおいてどういう変遷を辿ってきたのか、企業としてどういう時期にどんな時計が製造されてきたのかを俯瞰することを試みた。カルティエ ウォッチは、1904年のサントスに始まり、1917年のタンクで明らかにユニークな時計づくりのスタンスを確立する。当時メゾンを率いていた3代目当主ルイ・カルティエが、自身の腕時計への熱の高まりを思いのままに表現していったのが最初期で、これは1940年ごろまで続くいわばヒストリーの序章にあたる。この時代のテーマは端的にいうと、「アール・ヌーヴォー的豪奢なものからの脱却」であり、ミニマルさを堅持しつつ、貴金属を折り曲げ、叩いて成形していくジュエラーとしてのケース加工技術がカルティエデザインを実現する要だった。当時の生産数は多くて年間100本台、現存するものとなるとさらに数が少なくなる。実は「TIME UNLIMITED」で目にできたもののなかには、オークションピース級の時計も含まれていたのだ。
さて、ルイ・カルティエ後の第二章は本当にざっくり分けると1960年代〜2000年代を指すことになるだろう(1950年代はほとんど目立った動きがなかった)。別会社として存在していたロンドン、ニューヨーク支店で独自のデザインが生まれたり、カルティエの経営権が創業家から移ろって一時大量の“安物・偽物タンク”が出回ったりと、激動の時代を迎える。
そこから1972年、ジョゼフ・カヌイ率いる投資会社の元で再建が図られ、1973〜1985年のルイ カルティエ コレクション、1998〜2008年のCPCP(コレクション プリヴェ カルティエ パリ)で、ルイ・カルティエ時代を思わせるシェイプを持った時計たちが甦った。カルティエが有する豊かなヘリテージの価値を十分に理解していた経営陣は、70年代から展開されたマスト タンクなどマス向けの商品も生み出す一方で、メゾンらしい希少なクリエイションを継承することを忘れなかったのだ。
アンディ・ウォーホルやイヴ・サンローラン、モハメド・アリらがこぞってカルティエのタンクを着用して、一気にプレミアムな時計としてのの地位を確立したのも包括的な戦略の賜物だ。便宜上、第二章としたこの半世紀近い時期は、ここだけでいくつものチャプターに分けられるのだが、本稿でお伝えしたい第三章に行き着きそうにないので今回は割愛させていただく。ともあれ、現代にカルティエ ウォッチを繋いだ激動の時代であり、アイコンであるタンクもサントスも第二章での成功なくしては失われていた時計だっただろう。
やっとたどり着いた第三章は、2001年以降のモダン・カルティエの時代。そう、メゾンがマニュファクチュールを設立した年から始まる物語は、外装の巧みな製造技術でウォッチメイキングを確立したカルティエが、ムーブメントまで内製化を図って何をなそうとしているかが軸になる。2000年代の時計業界は、ETAのエボーシュ提供問題によりムーブメントの自社製化が盛んになった時期であり、自社製=価値が高いという図式も確立された時代だ。実際は、一概にそんなことは言えないのだが、とにかくブランディングのための「インハウス」が各所で踊り、何をもって自社製とするのかは現在でも続く論争のタネにもなっている。
とはいえ、カルティエは違った。根強い開発の結果、2010年にCal.1904 MC、2015年にCal.1847 MCを生み出すのだが、それにとどまらず、2009年より「オート オルロジュリー」コレクションの展開をスタート。文字通り、ハイエンドウォッチメイキングの分野に乗り出したのだ。カルティエといえばメンズ用腕時計の始祖という印象も強いが、文字盤やムーブメントが浮遊しているように見えるつくりが特徴のミステリークロックの製作でも有名。複雑な輪冽構造を開発する技術力を、あくまでデザイン的な驚き、優美さのために費やすのがカルティエ流なのだ。
このスタンスは、オート オルロジュリーコレクションでも遺憾なく発揮され、ミステリークロックを腕時計で実現したロトンド ドゥ カルティエ アストロミステリアス(2016年)や、昨年大きな話題呼んだマス ミステリユーズなどはその最たる例と言える。そして、その一方で近年のカルティエが注力するムーブメントのスケルトナイズこそが、マニュファクチュールを設立して以降のカルティエがたどり着いたお家芸なのではないかと考えている。僕がいま、何より熱狂しているのも、カルティエのスケルトンモデルであったりもする。
カルティエが自らのクリエイティビティを具現化するために、あらゆる分野のサヴォアフェールを内製化したことは自明だ。何しろ、およそ1200人の従業員が働く、ラ・ショー・ド・フォンのマニュファクチュールはスイスでも最大級で、ここではケースや文字盤、各パーツの製造、なかでも針の青焼きや風防の製造まで、とにかくウォッチメイキングにまつわるほとんどのことを担っている。ムーブメントの設計もここで行うことができ、さらにはメゾン・ド・メティエダールという60人前後からなる専門部隊が宝飾のセッティングやエングレービング、エナメル装飾に至るまでを担い、ハイエンドウォッチメイキングを実現する機能までを備える。古くからマニュファクチュールの付近にあった適し的な建物をカルティエが買い取り、2014年にリノベーションしたところに居を構えている。
カルティエのような大企業で、これほどまでに内製化率の高いウォッチメーカーはスイスでも異色の存在だろう。何しろ、デザイン部門とハイエンドまで揃えた時計師たちが一箇所に集まることで、緻密なやりとりが可能になる。それも、何度もコミュニケーションを繰り返すことで、現在のカルティエが理想とするデザインを体現していくのだ。ムーブメントの構造がその審美性に多大な影響を与えるスケルトンムーブメントの場合は、なおさらこのプロセスがクオリティに大きな影響を与えている。
カルティエは、ムーブメントのスケルトン化には積極的で、2014年ごろから商品化も増やしてきた。当初はサントスやタンク、クラッシュなどメゾンのアイコンモデルから始まり、時計業界全体のスケルトンブームも牽引してきたほどである。いまでこそ、市場には汎用ムーブを用いたスケルトンモデルも存在しておりある程度一般化したジャンルであるが、専用にムーブメントのデザインを起こして、必要とあらば構造まで変えるメーカーはほぼ皆無と言っていい(数えても片手で足りる)。今年、何度かプロダクトのデザイン担当者と話をしたが、サントス デュモンのスケルトンモデルで採用されたマイクロローターは、かつてアルベルト・サントス=デュモンが乗った飛行機であるドゥモワゼル号をムーブメント上に浮かべるというアイデアから開発が進んだ。パリの街を思わせるブリッジのデザインは、審美性の観点から数十枚のスケッチを描いた末にようやくたどり着いたものであるという。決して、この時計のサイズで技術的に競争力のあるマイクロロータームーブメントを開発しよう、という着想ではなく、サントス デュモンというルーツとイメージが原動力なのだ。実は、カルティエにとって初となるマイクロローターだったのだが、それ自体を特別なこととせずにデザインを具現化するためのプロセスとして、粛々と開発がなされたというのがなんともこのメゾンらしい。
思えば、ここ10年弱のあいだに発表されたカルティエ プリヴェコレクションは、往年のルイ カルティエ コレクション、CPCPに続く、現代カルティエにおける高級ラインの第3弾である(今年のサントス デュモンのように、明確にプリヴェに属さないけれど明らかにその輪にいるものもある)。それはまだ継続中であるが、過去の2コレクションと大きく違うのは、毎年必ずメインモデルのスケルトンバージョンがリリースされていることだ。これにはカルティエの確かな意思を感じる。
かつて、文字盤の装飾はラッカーやギヨシェくらいの選択肢しかなかったものが、現在ではムーブメントの設計まで行ったものをスケルトン化して匠の技で最大限に仕上げることができるからだ。それは、普段隠れている時計の心臓部を、最高峰ジュエラーとしての審美眼に叶うレベルで見せられると判断したことに相違ない。ムーブメントを「自社製」としただけではない、カルティエ流のマニュファクチュールとしての矜持がそこに表現されていると強く思うのだ。
Words:Yu Sekiguchi Photos:Yuji Kawata Styled: Eiji Ishikawa(TRS)