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※本記事は2016年7月に執筆された本国版の翻訳です 。
何がコレクションを構成するかについては、コレクターの数と同じほど多様な考えがあることだろう。2本限りのコレクションの最初の記事では、信じ難いほど豊かで長い歴史をもち、想像されるほぼ全ての状況でどちらかが対応できる、機能と汎用性を備えた2本の時計を紹介した(まあ、ブラックタイ指定の状況は含まないかもしれないが)。その2本とは、セイコー5とカシオ Gショック タフソーラーだった。今回はほぼ正反対の方向へ向かうことにする。グランドセイコーのSBGW033とサクソニア・フラッハ37mmはどちらも、多くの類似点や相違点をもつ、ある種偏狂的で絞り込まれた表現を示しているが、時計製造に関する共通の哲学が、どのように異なる、しかし互いに補完する表現を生み出すかを示すものだ。
一般的に、これら2本の時計の類似性は明らかだ。どちらもシンプルに時間のみを表示する時計であり、デザイナーたちが念頭に置いていたのは明らかに、シンプルな時計の基本的要素を取り入れて、品質面でどこまで追及できるかということだった。これは非常に難しい作業である。機能や複雑さの面で何かを付け加えてゆくという仕事ではないからだ。そうではなく、モノづくりの規範が表現されるように、本質的機能へと削ぎ落としていったのだ。最も極端な場合、削減的アプローチであるにも関わらず、これは極めて費用のかかる方法になる可能性がある。なぜなら、少なくとも理論上は、時間や費用をいくらでもつぎ込めるということだからだ。実用的な観点から言えば、シリーズ生産の時計でこのことを行うのは難しい。なぜなら時計を手にするまで無限の忍耐力をもつ、たった1人の極めて裕福な顧客のために計画するわけでない限り、妥協はつきものだからだ。2本限りのコレクションとしてこれらの時計で重要なのは、何に焦点を合わせるかの選択であり、それはつまり、目的を明確にすることである。
これら2本の時計が、どんなものを表現しているか見ていこう。
さて、この2本はいくつかの点で、サクソニアの方が理解しやすい。古典的な高級ドレスウォッチというコンセプトの実現を追求している場合、その改善に役立つ何かを見つけるのは難しい。ダイヤルには、2本の針があり夜光はなく、バトンマーカーで、あとはブランドロゴと伝統的なMade In Germanyの表記以外はほとんど何もない。秘訣は、全てを可能な限り最高のレベルにまで高めながらも、やり過ぎないことだが、ランゲはそれを非常にうまくやったと思う。全体的に控えめで、オーダーメイドの輝きがあるが、全く気取りがない。このデザインをまとめて、与える印象を計算したランゲの目標は、華々しい注目を避けることだったようである。ラグジュアリーでありながらも、基本を放棄せず、装飾品ではなく、時計のままなのだ。美しいが、美を追求しているわけではなく、むしろよくできたものから自然とにじみ出る種類の美しさをもつ。偉大な芸術ではないが、素晴らしいデザインであり、芸術品にはない、目的を達するモノの尊厳がある。
グランドセイコーに見られるアプローチは、ランゲのそれとほぼ同じに見える。もちろん、ケース素材は異なるし、センター秒針で、ダイヤルにはA.ランゲ&ゾーネではなくセイコーと書かれていると、あなたは言うかもしれない。だが、そこにはさらに、Diashock 24 Jewelsとも書かれており、これはちょっとした興味深い時代遅れなものである。現代の時計において、耐衝撃機構を搭載していることを宣伝する人など誰もいない。それは当たり前のことであり、ダイヤルにそれを書くことはこの時計のノスタルジーの追求を示し、ランゲは(明らかに)そうではない。ランゲは、少なくともダイヤルを見ると、1920年から今日までのほぼどの時代にでも製造された普遍性があるように見え、特定の一年や年代を念頭に置いたデザインは、ほとんど何も見当たらない。
一方、グランドセイコーは、時計製造におけるシャーロック・ホームズたちが、少なくともクォーツ危機後に作られたものだと推理することができる時計だ(これはランゲとグランドセイコーの両方にとって、一般的には意図的に行われていることだが、グランドセイコーの場合、1960年代に製造されたオリジナルのグランドセイコー 3180と非常によく似た形でデザインされている)。最初は、Diashockの文字に惑わされ、1950年代後半か1960年代あたりから推理するかもしれないが、その後、全体の品質に注目し、もっと最近に作られたものだと気づく。ほんの少しばかり、良すぎるのだ。全く汚れのないダイヤル、不気味なまでに鋭いマーカー、見るからに自分の手を切ってしまいそうな針、これらは現代の工場で、極めて現代的な技術で製造される以外にはない、あまりにも鮮明な仕上がりをしている。これは、20世紀半ばに製造された時計というよりも、最新の高精度なツールと品質管理手法で実現できるものを用いてその時計がどのように仕上がるかを示したものだ。ヴィンテージウォッチの文字通りの復刻ではなく、ヴィンテージウォッチの背後にあるデザインビジョンと、現代の機械によるほぼ完璧な製造結果、そして執拗なまでの完璧主義が結びつけられたときに得られるものを表現しているのである。
時計を裏返してみると、ストーリーの興味深いひねりに気づくはずだ。ランゲのダイヤルからは、腕時計の歴史上の特定の年代を指し示すことはできないが(500年以上におよぶヨーロッパとアジアの機械時計製造について、そして約130年程度しかないブレスレットウォッチについての議論は別にして)、ムーブメントには、これが現代的な、つまりクォーツ危機後の、機械式時計製造のルネッサンス時代の腕時計である紛れもない証拠がある。
構造の詳細を見ると、一見、懐中時計のムーブメントだと簡単に考えてしまうかもしれない。だが、腕時計サイズのムーブメントにねじ込まれたシャトンは、腕時計の歴史を通じてまず目にしたことのないものだ。それらは性能の向上には何ら役に立たず、そんなことをするのは粋狂な時計職人か、何か特別な点を作ろうとする時計職人だけだからだ。そしてこれこそ、秘密を知る手がかりなのだ。もちろん、特別な点とは実際には、製造技術のデモンストレーション、伝統とのつながりなどである。テンプ受けの刻印についても同じことがいえる。繰り返すが、古風で、美しく、そしてメッセージ性がある。そして、グランドセイコーのダイヤルと同じように、全体的に良すぎるのだ。これは本質的に(他のライターたち、特にウォルト・オデッツ<Walt Odets>とジョン・デイビス<John Davis> が指摘しているように)19世紀後半の懐中時計ムーブメントではなく、最新で高精度な製造技術と品質管理手法を用いる、執拗なまでの完璧主義によって作られる時計の1つの実例なのだ。
グランドセイコーの裏蓋の魅力は、そのメッセージがダイヤルが発するメッセージと大きく異なるだけでなく、ランゲの裏蓋のメッセージとも全く異なっていることだ。ダイヤルとは違い、グランドセイコーの裏蓋には製造された年代に関する手がかりは全くない。裏側から見ると、その詳細全てを考慮すると、1930年代後半から今日までのどこかの時代に製造された可能性があるように見えるが、何も例示していない。SS製時計の閉じた裏蓋であり、基本的にはみんな、何も見るものはないと言っている。
皮肉なのは、言うまでもなく、グランドセイコーには常に見どころがあるということだ。もちろん、ランゲのような美しく緻密な手仕上げはないが、他では見られないような高精度な機械加工が施されている。それは確かに、ランゲから受ける印象の一部でもあるから、少なくともこの点においては2本の時計は似ている。では、どうなっているのだろうか? もう一度表側からこれらの時計を見てみよう。
答えは、この時計が、そしてダイヤルが既に語りかけているように、ノスタルジーを追求した時計であるということだ。現代の高級時計において、ムーブメントに目を奪われないようにすることは、あまり意味がないが、高品質で日常的に使える、必要とされる唯一の腕時計にノスタルジーな魅力を求めるというのであれば、全く理にかなっている。ランゲのムーブメントにあるゴールドのシャトン同様、トランスパレントではない閉じた裏蓋は、特別な何かを作る1つの方法といえる。
完璧さは、明らかに、物理的なものではなく理想的なものだ。時間と費用の制約による妥協は避けられず、完璧さを追求する秘訣は妥協点を可能な限り減らすことである。これらの時計は両方とも、その基準に見事に達している。しかし、それはこれらを2本限りのコレクションにする理由ではない。その理由とは、どちらも最初はあるものに見え、再び見ると別のものに見えることだ。どちらも最初は特定の時間や場所の枠外にある普遍的な時計に見えるが、どちらも特定の時間と場所を指し示している。ランゲがドイツ以外のどこかで製造されるのを想像することはできないし、セイコーが日本製であることの手がかりは、ジャーマンシルバーの4分の3プレートと、バロック調の装飾がエングレーブされたテンプ受けよりはいくらか目立たないとはいえ、信じ難いほどの幾何学的精度と、針とダイヤルのまばゆいほど非の打ちどころのない鏡面仕上げは、少なくとも強力なヒントである。
そして、全体として見ると2本とも現代的な起源の手がかりを示すが、場所が異なっている。セイコーはダイヤル、ランゲはムーブメントだ。セイコーのダイヤルもランゲのムーブメントも、本質的には愛好家の存在を、あるいは少なくとも時計をよく知る人物の存在を示唆しているし、さらに言えば、ノスタルジックな愛好家の存在を示している。ちなみに、これはどちらの時計にとっても悪いことではない。これらは共に、200年以上にわたってそのメーカーが行ってきたことの延長線上にある。事実、これらの時計がノスタルジックな愛好家に訴えかける仕方が、その興味深いところなのだ。単に極めて作りの良い時計の場合より、はるかに興味深いものになっている。映画から似た例を挙げるとすれば、アラビアのロレンスは、それがロレンスによる砂漠での戦闘を描いたものだという理由で、悪い映画にはなったりはしない。(当然、実際の戦闘はおそらく映画よりずっと悲惨で、間違いなくより長く、不快なものだっただろう)
時計製造は芸術ではないが、ときに、ある時計(あるいはここでは2本の時計)が与える影響が芸術のレベルに達することもある。それが、これら2本の時計を魅力的な2本限りのコレクションにしているものなのだ。