In-Depth: 1990年代のA.ランゲ&ゾーネの知られざる8つの事実 - Hodinkee Japan (ホディンキー 日本版) trophy slideshow-left slideshow-right chevron-right chevron-light chevron-light play play-outline external-arrow pointer hodinkee-shop hodinkee-shop share-arrow share show-more-arrow watch101-hotspot instagram nav dropdown-arrow full-article-view read-more-arrow close close email facebook h image-centric-view newletter-icon pinterest search-light search thumbnail-view twitter view-image checkmark triangle-down chevron-right-circle chevron-right-circle-white lock shop live events conversation watch plus plus-circle camera comments download x heart comment default-watch-avatar overflow check-circle right-white right-black comment-bubble instagram speech-bubble shopping-bag

In-Depth 1990年代のA.ランゲ&ゾーネの知られざる8つの事実

ウォルター・ランゲとギュンター・ブリュームラインの肉声により解き明かす。

90年代ウィークへようこそ。この特集では直近10年間で最も魅力的な(そして最も過小評価されている)時計と、20世紀末を特徴付けたトレンドとイノベーションを再考していく。ダイヤルアップ接続を行い、クリスタルペプシ(無色透明のコーラ)を用意だ。

ドイツのグラスヒュッテは、世界で最も時計製造業が集約化された街であり、スイスのジュウ渓谷が国際都市に見えるほどの時計産業の町と言っても過言ではないだろう。しかし、1990年代前半にグラスヒュッテを訪れた人には、隔世の感があるかもしれない。ベルリンの壁が崩壊し、ドイツ統一が徐々に現実味を帯びてきた当時、ザクセン州の小都市グラスヒュッテは不景気で経済的に立ち行かなくなっていたからだ。

Walter Lange

生前のウォルター・ランゲ氏。

30年以上経った現在、この地域に複数の時計メーカーが繁栄しているという事実は、驚くべきことである。それは、故ウォルター・ランゲと故ギュンター・ブリュームライン氏の2人のリーダーシップと指導なくしてはあり得なかったことなのだ。

 1年少し前に、私は1990年代にA.ランゲ&ゾーネを復活させた経緯を知るべく、ウォルター・ランゲの回想録「The Revival Of Time」を手に取った。

1990年当時、グラスヒュッテの時計産業で働く従業員は約2500人だった。

ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)時代もグラスヒュッテには時計産業があったが、1951年に各社が接収され、VEB Glashütter Uhrenbetriebe(GUB)に統合された。しかし、1970年代半ばから機械式時計の生産はほとんどなくなり、クォーツ時計生産に移行したが、依然として多くの従業員を抱える強力な製造拠点が温存された。

1990年のGUBの従業員数は約2500人で、欧米企業の生産性水準から見れば、競争力もなく、生き残ることもできない状態であった。- ウォルター・ランゲ著、『The Revival Of Time』より

東西ドイツ統一後の数年間、ランゲはグラスヒュッテ経済への最大の出資者だった

 20世紀初頭に本家が消滅したあとも、ドイツ民主共和国時代を通じて、グラスヒュッテにおけるランゲの名は大きなウェイトを占めていた。冷戦のプレッシャーを感じていた多くのグラスヒュッテ市民にとって、ランゲの名前はよりよい時代を象徴する好意的なものとして受け止められていたのだ。

 1990年、ランゲとブリュームラインの小さなチームは、ドイツの財閥マンネスマンコンツェルンの資金援助を受けて、A.ランゲ&ゾーネ社の再生にすぐに着手したのである。ハルトムート・クノーテの技術指導のもと、GUBの元社員たちが引き抜かれ、ドイツ時計研究者のラインハルト・マイスが、ドイツの時計製造を近代化させるための新しい時計の設計のために呼ばれたのである。

私たちはグラスヒュッテの最大の投資家であり、私たちの会社が市場に戻ってくることで街にもたらされる目に見えない利点は、予測することさえできないほどであった。- ウォルター・ランゲ著、『The Revival Of Time』より

Lange manufactory

グラスヒュッテのA.ランゲ&ゾーネのマニュファクチュール(2015年頃)。

ランゲが初めて広告を掲載したのは、最初の時計を発表した翌日だった

 4年の歳月を経て、1994年10月24日、A.ランゲ&ゾーネの最初の時計が、ドイツ、オーストリア、スイスの欧州の高級時計店12社と報道陣の前で発表された。最初のコレクションはたった4モデルであった。ランゲ1、懐かしのアーケード、トゥールビヨン“プール・ル・メリット”、そしてシンプルで気品漂うサクソニアである。

 翌日、ドイツの日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングに、カラー見開き2ページの広告が掲載された。文章にはこうあった。

ドイツ東部の経済が突然、異なる動きを見せ始めている。A.ランゲ&ゾーネが帰ってきた-伝説が帰ってきたのだ。

 あなたはどうかわからないが、私は鳥肌が立った。

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ギュンター・ブリュームラインは、もともとGUBと手を組もうとしていた

 ドイツ統一が実現したとき、西欧の実業家たちはザクセン州にどんなビジネスチャンスがあるのか、躍起になって探した。ブリュームライン氏もそのひとりであった。

そこで、西側の経営者たちが、人里離れたミュグリッツ渓谷を訪れ、この地の可能性と潜在性を探ったのである。そのなかには、IWCとジャガー・ルクルトを所有するLMHグループのマネージングディレクター、ギュンター・ブリュームラインの姿もあった。1989年、当時VDOの会長であったアルベルト・ケック上院議員とともに、ギュンター・ブルムラインはすでにGUBと話し合いを持ち、共同経営と合弁事業の可能性を探っていた。しかし、のちに分かったことだが、この話し合いは難航し、結局のところ成果はなかった。当時、GUBはまだドイツ民主共和国の負の遺産を背負っており、市場経済化のなかでの会社のあり方について、経営者の考えはあまりに漠然としていたのである。東ドイツの人々は、市場経済という条件のもとで自分たちの力を発揮したいという希望を抱きつつも、ギュンター・ブリュームラインとケック上院議員を追い出したのである。- ウォルター・ランゲ著、『The Revival Of Time』より

Günther Blümlein

生前のギュンター・ブリュームライン。

ウォルター・ランゲはランゲ復活の精神的支柱であり、それは彼が長いあいだ望んでいたことだが、IWCの経営陣なしには実現しなかった

 A.ランゲ&ゾーネの復活の原動力はウォルター・ランゲだと私は思っていたが、彼自身の言葉を借りれば、最初のアクションはほとんどすべてIWCのエグゼクティブチームによってもたらされたものだった。その経緯について、彼の見解をご紹介しよう。

1989年の冬、グラスヒュッテの時計製造の歴史について、当時IWCのマーケティングチーフだったハネス・パントリも交えて、居心地のよい炉辺での談話が交わされた。突然、グラスヒュッテの伝統的な時計製造の象徴であるA.ランゲ&ゾーネの名が、新しい高級時計でこの偉大な名とグラスヒュッテ全体を復活させるというアイデアとともに語られたのだ。そして、創業者アドルフ・ランゲのひ孫である私が西部に住んでいること、IWCの開発責任者であるユルゲン・キングが私を知っていることを思い出したのだ。私は妻とコーヒーを飲んでいたのだが、その数日後、ユルゲン・キングがプフォルツハイムの自宅に電話をかけてきて、ギュンター・ブリュームラインと連絡を取るように仕向けてくれたのだ。そのことが、グラスヒュッテにランゲの工場を構えるための第一歩となった- ウォルター・ランゲ著、『The Revival Of Time』より

GUBがウォルター・ランゲとギュンター・ブリュームラインにA.ランゲ&ゾーネのブランド名の使用権を寄贈した

 GUBはA.ランゲ&ゾーネの名称を時計に使用する権利を有していたが、幸いにも1951年の収用から1990年代までのあいだ、ランゲ家の名称はほとんど眠っていた。GUBはランゲとブリュームラインが率いる新しい資本主義企業に対する誠意の証として、その権利を放棄し、今日のA.ランゲ&ゾーネの組織編成への門戸を開いたのであった。

GUBはすでにA.ランゲ&ゾーネ・グラスヒュッテ/SAの名前でドイツ特許庁に登録していたが、私のために好意からそれを返上し、名高いブランド名の法的権利を放棄したのである。- ウォルター・ランゲ著、『The Revival Of Time』より

1994年10月24日、ランゲとブリュームラインがランゲ1、アーケード、プール・ル・メリット・トゥールビヨン、サクソニアを世界に発表したときの写真だ。

1991年、グラスヒュッテの新入社員はシャフハウゼンに派遣され、研修を受けた

 1980年代にグラスヒュッテで行われていた時計製造は、ウォルター・ランゲやギュンター・ブリュームラインが興味を持っていた時計とはまったく異なり、非常に基本的な機械式ムーブメントやクォーツが中心となっていた。そこで、新しい研修生を教育するために、彼らはスイスのシャフハウゼンに派遣され、IWC監修のもと学ぶことになった。

高品質の機械式時計を製造するには、非常に近代的で電子制御された機械と、何よりもその操作方法に関する知識が必要だった-VEBの熟達した職人たちにとって、それは未知の領域だった。このため、当初は十数名の新入社員が、新しい技術に関する教育と機械に関するトレーニングを受ける必要があった。この任務は、シャフハウゼンのIWCが引き継いだ。1991年からは、ミュグリッツ渓谷とスイスを結ぶ未舗装路が開通した。ザクセン人は、IWCで高級時計製造のトップ技術を学ぶために、満員のトラビ(旧東ドイツの大衆車“トラバント”の愛称)やヴァルトブルク(旧東ドイツの小型車)、あるいは列車で、約700km離れたシャフハウゼンに向けて出発したのだ。- ウォルター・ランゲ著、『The Revival Of Time』より

1990年代、A.ランゲ&ゾーネのムーブメントを時代遅れと考える知識豊富なコレクターがいた

 1999年にTimeZoneで行われたブリュームラインとピーター・チョン(シンガポールのコレクターで、のちにDeployantを設立したジャーナリスト)の対談で、次のような質問がなされた。

ランゲのムーブメントは時代遅れだというコメントやフィードバックがあるが、どう考えていますか(もちろん、すべての機械式時計はある意味時代遅れだが)?

  • 4分の3プレートデザインはメンテナンス性に劣る
  • ジャイロマックステンプより劣るテラネジ式テンプ
  • 微調整機構やビートエラー調整機構は基本的に古い設計であり、現代的な設計のような精度やバックラッシュ防止を提供することはできない
Caliber L901.0, found inside the original Lange 1 from 1994.

1994年の初代ランゲ1に採用されたCal.L901.0。

ブリュームラインによる回答

私たちの目的は、ザクセン地方の時計製造の伝統の道を辿ることです。当然、それはときに“時代遅れ”な解決策につながります。私たちは、生産効率やSAVプロセスの「代償」を払ってでも、顧客の目に美しく映るタイムピースを製造するよう心がけています。機能は時代遅れかもしれませんが、美しさは普遍的なものであり、4分の3プレートも素敵だと思いませんか?  私たちは、他社とは違うことを目指しているのです。例えば、今お話に出たテンプですが、これは、他社でも大量に使われています。技術的にはあまり複雑ではないかもしれませんが、結果的にはよりエレガントなのではないでしょうか?

正直なところ、私たちのムーブメントのように愛らしいものであれば、時代錯誤も愛すべきものだと思います。しかし、時代錯誤が必ずしも技術の進歩や革新を妨げないことは、1994年以来A.ランゲ&ゾーネが証明していることです。

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