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Photos by Anthony Traina
小さすぎるケース。難しいメンテナンス。現代では見られないスタイル。
ロレックス バブルバックの問題点を挙げればキリがない。それでも、ロレックスの防水オイスターケースと初の自動巻き機構“パーペチュアル”ムーブメントを採用した、最も歴史的に重要なヴィンテージロレックスの腕時計のひとつであることは間違いない。時計コレクターたちが80年代からこぞって集め始めていたモデルだ。
ロレックスがバブルバックを製造していたのは、1933年から1950年代半ばまでのことだ。“バブルバック”とはコレクターが付けたニックネームであり、自動巻きのローターを収納するために大きな泡(バブル)のようなケースバックを持つというややあいまいに線引きされたリファレンスを指す。
私自身、これまでずっとバブルバックに魅了されてきた。理由はその歴史的重要性だけではない。アール・デコからバウハウス、そしてその間の変遷を含め、驚くほど多様なデザインが長い生産期間を映し出しているからだ。バブルバックの包括的なカタログをつくるのは不可能に近いほど、幅広く、多様性に富んでいる。また1980年代から90年代初頭にかけての高騰期には、コレクターたちが希少なバブルバックに計り知れないほどの値をつけた。
その後、コレクターの関心が後発のプロフェッショナルモデル(いわゆるスポーツロレックス)に移ったため、バブルバックの人気はシュリンクしてしまった。しかしバブルバックは今でも少ないながら熱烈なファンを抱えている。欠点があるとしても、いや欠点があるからこそ、私はバブルバックを愛しているのだ。
もうひとりの信奉者は、The Keystoneのジャスティン・グリュエンバーグ氏だ。彼は希少なヴィンテージカルティエやパテックなどのお宝級を扱うことが多いが、数カ月前にロサンゼルスで彼を訪ねたとき、彼のお気に入りのバブルバックを見てみたいと思った。
「この時代のロレックスの挑戦にはワクワクさせられますね」。バブルバックについて、グリュエンバーグ氏はこう語る。「製造工程を統合し、すべての新作がヒットするように計画する現在のロレックスとはまるで対極です。さまざまな色、レイアウト、数字、グラフィックなどを試行錯誤していた時代です。だからこそ私は魅力を感じるのです」
この時期、ロレックスが製造していたのはバブルバックだけではなかった。グリュエンバーグ氏は当時のロレックスが何に注目していたのかを示すために、手巻きや初期のクロノグラフなどの“フラットバック”も数本見せてくれた。ロレックスは1950年代と60年代に生産を集中させたが、それに至るまでの時代は試行錯誤の時代だった。目を凝らせば、のちに定着することになるアイデアやイノベーションの数々も見えてくる。
本稿では、1930年代のバブルバックの起源から、コレクターズアイテムとして脚光を浴びた80年代、そして現在に至るまでの軌跡を紹介する。なお画像のキャプションでは、当時のロレックスの具体的な時計を紹介する。
バブルバック略史
“バブルバック”とは、初期の自動巻きロレックスの丸いドーム型のケースバックを指す。ロレックスは1931年に初の自動巻きムーブメント、“パーペチュアル”を発表した。初代バブルバックは1933年に登場し、新開発の両方向巻き上げローターのスペースを確保するためにケースバックがふくらんでいた。自動巻き腕時計の歴史全体を探ることはしないが、伝説的なデビッド・ベッチャー(David Boettcher)氏はハードウッド式自動巻き機構とロレックス パーペチュアルの前身について記事を執筆している。
バブルバックに先立つこと1926年、ロレックスは初の防水ケース“オイスター”を発表した。これが初の防水時計ではなかったが(その栄誉はデポリエに譲る)、確実にこの技術を進歩させ、商品化した。1920年代にオイスターケースの技術を確立したあと、このバブルバックは、ロレックスの創業者ハンス・ウィルスドルフ(Hans Wilsdorf)のふたつの重要な信条を組み合わせた最初の時計であり、オイスター パーペチュアルとしてブランドの核となる存在になった。“オイスター”とは防水ケース、“パーペチュアル”は自動巻きムーブメントを意味する。このふたつの言葉が、100年近く経った今日でも、ほぼすべてのロレックスのダイヤルに記されているのには理由がある。
ロレックスとウィルスドルフは、初期の自動巻きムーブメントを改良するために、マニュファクチュールであるエグラー社と密に協力した。最終的には、ローターによる腕時計の巻き上げを保護するために複数の特許を取得した。このため、ほかのメーカーは1950年代までフルローターの自動巻きムーブメントを量産することはなかったが、この話題についてはベンが執筆したパテック Ref.2526に関する記事を参照にして欲しい。
約20年間、ロレックスはパーペチュアルローターを独占し、驚くほど多様な時計を製造した。
1980年代: 初期のバブルバックコレクター
ロレックスの防水ケース“オイスター”と自動巻きムーブメント”パーペチュアル”を組み合わせたバブルバックの重要性に、コレクターたちが気づかなかったわけではない。1980年代から90年代にかけてのロレックス バブルバックは、2017年におけるヴィンテージデイトナや、2021年におけるスティール製のノーチラスと同じく、誰もが欲しがる時計であった
「80年代、バブルバックはヴィンテージのデイトナ、サブマリーナー、GMTを皆がこぞってつけ始めるずっと前から、最も人気のあるヴィンテージロレックスでした」とWanna Buy A Watch?(ワナ・バイ・ア・ウォッチ?)のディーラー、ケン・ジェイコブス(Ken Jacobs)氏は言う。コレクターはバブルバックの多様性に目をつけたのだ。無数のダイヤルデザイン、SS、ゴールド、コンビケース、ベゼルのバリエーション、ラグのカバーの有無、さらにはさまざまなブレスレットのタイプがあるのだ。
ジェイコブス氏が言うには、バブルバックの頂点であるピンクゴールドのコンビケースにオリジナルダイヤル、それと揃いのゲイ・フレアー社製ビーズ・オブ・ライスブレスレットなど収集性の高い個体は、9000〜1万2000ドル(日本円で約135万~180万円)で取引されるという。しかし希少なダイヤルを持つ本当に特別な個体は、さらに高値で取引されることもある。多くのヴィンテージウォッチの例に漏れず、PGケースのバブルバックもその希少性からプレミアムがつくだろう。一方、ほとんどのSS製バブルバックは、ストラップ付きで3000〜5000ドル(日本円で約45万~75万円)が相場だ。現在の市場価値で見ても、30年前と比べて(インフレ率を考慮しても)、価格があまり変動していないことが分かる。
現在では小さいと捉えられているが、80年代のバブルバックの魅力のひとつは、収集されていたほかの腕時計(アール・デコデザインやハミルトン、エルジンなど、アメリカのヴィンテージメーカーを思い浮かべて欲しい)と比べて、かなり大きく感じられた点にある。そのため、さらにケースサイズの大きいカバー付きラグのバブルバックは特に人気があった。
初期のバブルバックコレクターのひとりがジェイソン・シンガー(Jason Singer)氏で、彼はTalking Watchesのなかで驚くほど多様なバブルバックを紹介している。しかしシンガー氏のコレクターとしての軌跡は、より広い市場を反映している。彼は早くからバブルバックに目をつけていたが、その後スポーツロレックスに関心が移っていった。ジェイコブス氏によると、これらのスポーツモデルの人気が高まるにつれ、バブルバックは90年代初頭には人気が凋落したという。
「すべてがビッグでスポーティな方向に進み、バブルバックはアメリカ市場では影を潜めていきました」とジェイコブス氏は語った。
バブルバックの“モジュール”的特質と“カリフォルニア”ダイヤルの由来についてひと言
最初のバブルバックは、アプライドまたは夜光塗料が塗布されたアラビア数字またはローマ数字、あるいはアラビア数字とローマ数字がミックスされたカリフォルニアダイヤルが一般的であった。40年代には、ロレックスは“エラープルーフ”ダイヤルと呼ばれるこのデザインの特許まで取得している。
だが20世紀に入り、バブルバックがコレクターのあいだで人気を博し始めると、ダイヤルリダンメーカー、特にロサンゼルスのカーク・リッチ社は、しばしばこのミックススタイルを模倣するようになった。こうしたダイヤルが増えるにつれ、それらはカリフォルニアダイヤルとして認知されるようになった。かつては、リダンダイヤルを意味する略語のようなものだったのだ。現在ではアラビア数字とローマ数字をミックスしたスタイルの愛称となっている。
「当時、人々はただクールなダイヤルを求めていただけでした」とジェイコブス氏は語る。「ヴィンテージウォッチやロレックス人気が浸透し始めた初期のころで、アメリカは間違いなくファッション市場の範疇でした。それほど重要視されていなかったのでしょうね」。ジェイコブス氏は、ヴィンテージファッションの人気が高まり、彼も含めヴィンテージショップがウェスト・ハリウッドのメルローズ・アベニューにオープンし始めた時期だったと説明した。ヴィンテージのリーバイス、ハワイアンシャツ、ロレックスのバブルバック...それらはすべてファッションの一部だったのだ。
一般的に、オリジナルのカリフォルニアダイヤルまたはエラープルーフダイヤルは、単色にラジウム夜光のアラビア数字インデックスがあしらわれる。豊富なカラーコンビネーション、夜光のない数字インデックスが多い修復された個体とは対照的である。これはバブルバックの本質に迫るのにいい着眼点となる。
「これらはほぼモジュール式に組み立てられた時計なのです」と、グリュエンバーグ氏は解説する。「多くのパーツが入れ替えられていて、それこそがパテックとは異なる、ロレックス特有のデザインの本質なのです」。彼は特定のダイヤルとケースの組み合わせが正しいのか、オリジナルなのかを確かめるのは難しいことが多いと言う。あまりに多くのバリエーションがあるだけに、たまに新しい発見があることも少なくない。
コレクターがバブルバックを買い漁り始めたころ、パーツを交換する習慣がどれほど受け入れられていたかを振り返ろう。ジェイコブス氏によると、バブルバックが最盛期を迎えていた時代、Wanna Buy A Watch?は“自分だけのバブルバックをつくろう”というプログラムを企画していたという。基本的には、顧客がカタログからケース、ダイヤル、ブレスレット/ストラップを選び、同社がその時計を組み立てるというものだった。WBAWがこのプログラムを提供することはなかったが、バブルバックがいかに需要の高いモデルであったか、またよりいい時計を作るためにパーツを交換することがいかに受け入れられていたかを物語っている。
バブルバックは製造期間も長かった。一般的には、新世代のムーブメントがスリムなケースを可能にしたため、ロレックスは1950年代半ばに製造を中止したと考えられているが、ジェイコブス氏によれば、60年代初頭になってもバブルバックが販売され続けていたという。
しかしこうした後期型のバブルバックは、シンプルなスティックマーカーとリーフ針であることが多かった。つまり、“バブルバック然”としていなかったのだ。特に80年代には、コレクターが求める古きよき時代の美的感覚に合うように、販売店は勝手にそれらを交換したり再仕上げしたりした。また進取の気性に富んだ改造業者たちが、ダイヤルの外観に合うようにメルセデス針をアフターマーケットで生産し始めた時期でもある。少なくともアメリカではそれが一般的に受け入れられていた。クールに見えればよかったのだ。
「今やバブルバックのダイヤルの99%は、加工や仕上げが施されたものと言っていいでしょう」とグリュエンベルク氏。とはいえこうしたダイヤルの多くは、収集ブームの初期に仕上げ直されたものであり、かなり素朴で見分けがつきやすい。リダンされたかどうかがすぐに見分けがつかない場合、プリントの質がいまいちなことが多い。グリュエンバーグ氏によれば、特にダイヤルのROLEXの“R”や6時位置の下にある“Swiss Made”の表記に注目してみるようにと言う。出自のはっきりした(この記事にあるような)オリジナルダイヤルと比べてみると、それが揃っていなかったり、荒くに見えたりすることが多い。
ダイヤルのリダンやレストアは一般的だったが、ジェイコブス氏はディーラーが度を越した改造を施すのを忌み嫌っていた。その最たるものが、チューダーのダイヤルをハーフローマンハーフアラビア風にリダンすることだった。オリジナルのチューダーダイヤルにはこのスタイルは採用されておらず、チューダーをロレックスに偽装しようとしているように感じられた。さらに悪いのは、チューダーのダイヤルをロレックスとして仕上げ直したり、単にロレックスのサインを入れたりすることだった。ロレックスのダイヤルをリファインしたものがそれ以外のものと誤認されることはなかったが、このやり方はチューダーをロレックスに偽装して高く売りつけようと目論んでいるように感じられた。
“ジャパニーズ・コンディション”とは
アメリカのコレクター、特に南カリフォルニアのコレクターが1980年代にロレックスのバブルバックに注目し始めたが、彼らが最初というわけではない。
「私たちよりずっと前から、日本人はバブルバックのコレクターであり、愛好家でした」とジェイコブス氏は言う。アメリカのコレクターとは違い、彼らは常にダイヤルのオリジナリティを大切にしていた。ジェイコブス氏によると、彼やほかのアメリカ人ディーラーが特に状態のいいバブルバックを引き取ったとき、彼らはそれを“ジャパニーズ・コンディション”と呼んでいた。
「アメリカのディーラーは、日本のコレクターのために素晴らしいコンディションのオリジナルダイヤルをストックしていました」とジェイコブス氏は言う。「ただそのハードルは非常に高かったのです」。オリジナリティだけでなく、時計全体が10点満点中9点以上でなければならなかったほどだ。バブルバックはアメリカのコレクターにはほとんど人気がなくなったが、日本には当てはまらない。
「イタリアでも日本でも、彼らはまだ(バブルバックを)収集しています」とグリュエンバーグ氏。「バブルバックは決して廃れてはいません」。彼は、プロのディーラーとして活動を始めた2008年と2009年に日本に赴いたが、状態のいいバブルバックの需要は相変わらず強かったと振り返った。バブルバックの市場は巨大というわけではないが、歴史的なコレクターやディーラーは、どんな高品質のバブルバックでも買い求める。今日でも、最高のバブルバックの多くは日本のコレクターの手元にあると言っていい。
「ですが、アメリカでは最近まで小型の時計はほとんど見向きもされませんでした」とグリュエンバーグ氏は言う。カルティエからピアジェ、そしてパテック カラトラバ Ref.96に至るまで、あらゆる時計が近年のトレンドに乗りつつあるにもかかわらず、バブルバックに再び注目が集まっているわけではない。
(私はHODINKEE Japanの同僚であるマサにバブルバックについて少し触れ、日本のコレクターの視点からこの記事の続編にしようと話し合った。“かつてバブルバックの人気に火をつけたのが日本のコレクターでした”と彼は言う。“コレクターの多くは、バブルバックが国際的に人気になったあと買うのをやめてしまいました”。続編に乞うご期待!)
パーペチュアルムーブメントに関するマニア向けネタ
ロレックスは1931年に初の自動巻きパーペチュアル、Cal.620を発表し、新しい自動巻きの特許を商品化した。そのあとロレックスはRef.1858を皮切りに、1935年まで製造された第1世代のバブルバックにCal.620を採用することになる。年月をかけて、ロレックスは600系に新しいムーブメントを追加し、パーペチュアルの精度、信頼性、耐久性を向上させた。
Cal.600系以外にも、ロレックスはバブルバック時代にほかのサイズの自動巻きムーブメントを製造していた。Cal.410と420を含む400系は、一般的に小型のバブルバックに搭載されている。
1940年代後半から50年代にかけて、ロレックスはよりスリムなCal.500系を発表。これらのムーブメントは、ロレックスがいかに自動巻きムーブメントを洗練させてスリムなケースを実現し、無骨なバブルバックのデザインから移行していったかを示している。
ロレックスは40年代にCal.700系も発表している。このムーブメントもまた、先代よりも薄く洗練されており巻き上げ効率も向上した。これにより、ロレックスはよりスリムで現代的なケースのモデルを発表することができるようになった。たとえば、ロレックスは1945年に発表した最初のデイトジャストにCal.710を採用している。また、ロレックスが伝統的なバブルバックよりもはるかに大きな36mm径の時計を発表したのもこの時期であり、イタリアのコレクターからは“オヴェトーネ(英語で“ビッグエッグ”)の愛称で親しまれている。初期のデイトジャストとオヴェトーネはケースバックがわずかにせり出ているため、“セミバブルバック”と呼ばれることもある。これは、ロレックスの時計がより大きく、よりスリムで、よりスポーティな時計へと移行するきっかけとなったモデルだ。
1950年代初頭には、ロレックスはより薄いケースと薄いケースバックを可能にしたCal.1000系を発表し、バブルバック時代は終焉を迎えた。
現在のロレックス バブルバック収集事情
「私はもはやバブルバックの友人ではありません」とジェイコブス氏は語った。「少なくとも、私にとって友人ではありませんね」。彼はヴィンテージのバブルバックをメンテナンスすることが大きな難題だと説明した。バブルバックのムーブメント用部品を調達するのはほとんど不可能で、たとえ調達できたとしても、その仕事に適した時計職人を見つけるのは難しい。
「そして、たとえ動作するバブルバックを購入したとしても、それが動作し続ける保証はないですし、実用的なパワーリザーブがある保証もありません」。販売する時計すべてに保証をつける小売業者として、ジェイコブス氏はバブルバックを販売用として扱うのはほぼ不可能だと言う。
これにはグリュエンバーグ氏も同意見だった。
「私を知っている人なら、私がバブルバックの時刻合わせすらしていないのを知っているでしょう。純粋にデザインだけを気に入っているのです」。小さめの時計に慣れている人にとって、ケースの大きさはちょうどいい。
それ以上に、コンディションの問題がある。ほとんどのダイヤルは修復またはリダンが施されている。同様に、多くのケースも長年にわたって研磨痩せしていることが多い。グリュエンバーグ氏は、ケースのサテン仕上げ部分にとくに注意を払うべきだと言う。
「ケースのサテン仕上げはバブルバック特有のものです。修復師は実は仕上げをやり直すことはできません。そのためベゼルのシャープさ、サテンの筋目に注意を払うべきです」
バブルバックがすべてではない
「1940年代から50年代にかけての時計は、非常に手ごろな価格で入手できるものがたくさんあります」とグリュエンバーグ氏は言う。彼は、トノー型のロレックス バイセロイや、eBayで1000〜2000ドル(日本円で約15~30万円)で手に入る初期の手巻きオイスターなどを例に挙げた。
またもっと歴史的意義のある、相対的にお買い得と感じられる時計もある。その一例として、グリュエンバーグ氏がゼログラフを見せてくれた。ゼログラフは、ロレックスがオイスターケースで製造した最初のクロノグラフで、コレクターは十数本しか存在しないと考えている。最近、コレクターのフィル・トレダノ(Phil Toledano)氏が、掘り出し物だとしてオークションにて5万ドル(日本円で約745万円)ほどで落札したゼログラフを見せてくれた。
ジェイコブス氏は、この時代のロレックスにはバブルバック以上の魅力があることに同意した。
「80年代にはボーイズサイズのロレックスも非常に人気がありました」と彼は言う。ロレックスの存在がアメリカで本格的に認知され始めたのは第2次世界大戦後であるため、特別な時計としてラレー(Raleigh)、ビクトリー(Victory)、スカイロケット(Sky-Rocket)といったカナダ市場向けのモデルにも注目して欲しいと彼は言った。
グリュエンバーグ氏はまた、バブルバック以前のロレックスの時代、つまりレクタンギュラーケースのロレックス プリンスの名を挙げた。
「カルティエのタンクが人気なのに対し、なぜレクタンギュラーケースのパテックやロレックスには人気がないのか理解できません」と、グリュエンバーグ氏は語った。しかしその考察はまた別の機会に譲ろう。
とはいえ、この時代のバブルバックやロレックスの時計の多くは、ジミー・カーター(Jimmy Carter)のように100歳まで優雅に歳をとっていることをお忘れなく。まともなコンディションのものを見つけるのは、不可能ではないにしても難しい。そして、見つけたとしても、調子よく動く保証はない。
もっと広く言えば、この時代のロレックスは、スポーティさとエレガンスの完璧な融合を常に感じさせた。1950年代初頭にはサブマリーナー、GMTマスター、エクスプローラーなど、ロレックスのカタログを構成するプロフェッショナルモデルが揃った。しかしそれ以前は、複雑機構やデザインにおける実験と革新に満ちた驚くべき時代だった。トリプルカレンダー Ref.6062については以前紹介したが、ジャン=クロード・キリーやギャラクシーなど、ほかにも例はある。
グリュエンバーグ氏が語ったように、デザインがすべてなのだ。80年代の南カリフォルニアのコレクターがバブルバックをそのルックスと多様性、そしてファッション性の高さを高く評価したのと同様に、現代のコレクターにとってもそれは同じだ。だが初代“オイスター パーペチュアル”という歴史的重要性を忘れてはならないのである。