午前9時過ぎのジュネーブ旧市街。私は写真家で友人のJames K./@waitlistedとともに、グラン・リュにあるアクリヴィアの工房にちょうど足を踏み入れた。しかし我々はアクリヴィアの35歳の創業者で、世界で最も才能ある若手時計職人のひとりであるレジェップ・レジェピ氏に会いに来たのではない。そう、今回は2019年末に2度目の引退を経て、レジェピの変革に貢献してきた80代のケース職人、ジャン-ピエール・ハグマン氏の仕事を観察することに専念したかったのだ。
アクリヴィアのメインの時計製造アトリエの真向かいに工房を構える81歳のハグマン氏は、3人の職人チームを率いて、昔ながらの機械を使って同社のケースをひとつひとつ手作業で作り上げている。ハイエンドな時計の伝統的なケース製造は、最近では忘れ去られた技術といっていい。スイスには素晴らしい時計ケースがいくつもあるが、それらはコンピューターベースの設計とCNCマシンを組み合わせた製造方法抜きでは語れない。
しかし、ハグマン氏はいずれの手段に拠らない。最近発表されたクロノメーター コンテンポランIIのときと同様、彼はコンピューターに触れることなく、鉛筆と方眼紙だけを使って、使用する個々の部品をスケッチし、設計することを好むのだ。彼の専門知識と能力は、まさに伝説級だ。彼の個性も、それに負けず劣らずといったところである。私がハグマン氏に会ったとき、彼はまったく英語を話さず、身の丈も160cm足らずだろうか、ペイズリー柄のシャツにネイビーのベストを纏い、胸にスクルージ・マクダックのピンバッジをつけたファンタジックな装いで登場した。旋盤から旋盤へ、工房内を歩き回る姿は家父長的な保守性を感じさせながら、職人としての自信に満ちていた。
レジェピ氏はハグマン氏の日々の業務や工程プロセスの視察に同行し、通訳まで務めてくれたとことに加え、彼の伝統的なアプローチがレジェピ自身の時計師としての進化にいかに貢献しているかを説明してくれた。この体験を通して、レジェピ氏が彼に対してどれほどの敬意を抱いているか、そして彼と一緒に仕事ができることをどれほど誇りに思っているかが、はっきりと伝わってきた。
レジェピ氏は「ハグマン氏と仕事ができるのは幸運で、感謝しています」と言う。「彼がいなければ、この仕事を始めるのに10年はかかったでしょう。それがたった2年で(多くのことを)達成することができたのです」
パテック フィリップで見習いとしてキャリアをスタートさせたレジェピ氏は、ハグマン氏の作品にまつわる敬愛の念をずっと意識してきた。「15歳のとき、いつか彼のケースを手に入れたいと夢見ていました」と彼は笑う。「その夢は、2012年に(アクリヴィアを)始めた後も忘れられず、友人たちにその話をすることもありました。2019年、そのうちのひとりが『なんで今まで連絡取らなかったの? いつも彼のことを話しているじゃないか』と言われました」
そこで彼は連絡を取ることに。そして、彼の売り込みは成功した。ふたりの最初のコラボレーションは同年末のOnlyWatch 2019で実現し、ハグマンケースを採用した初のアクリヴィアウォッチは2年に1度のチャリティオークションへのレジェピ氏の初出品を飾った。
それ以来、レジェピ氏、ハグマン氏、そして13人のアクリヴィアチームは実験と進化に多くの時間を費やして、新しいプロセスを確立し、ついに先月末に待望のクロノメーター コンテンポランIIをリリースすることに成功した。
RRCCIIは、ファーストエディションと比較して、ケースに改良が加えられている。従来の7点から15点に部品数が変更され、38mm×8.75mm(ドーム型サファイアクリスタルを除く)とわずかに薄く、ラグも長くなり、リューズも大型化された。
レジェピ氏は「これは従来とは、まったく異なるプロセスなのです」と語る。「例えば、アングルがよりシャープになったでしょう? より薄く、より見やすくなりました」
この新しいケースにたどり着くまでの道のりは長く、ほとんどハグマン氏が中心となって進めた。デザインは常に彼のドローイングから始まり、それをほぼ最初から最後まで彼自身の手でひとつのプロトタイプに仕上げていった。「5、10、20、30ケースと機械で製造できるように工程を整えていきますが、最初の1個は彼が製作します」とレジェピ氏は言う。「ラグの形状も含めて、すべて彼がやるのです。大変な仕事です。その後、すべてがOKになれば、次に進むことができます」
RRCCIIのケースデザインで最も興味深いのは、その側面部だ。ケースはミッドセンチュリーのオフィサーウォッチのように丸くクラシカルだが、実はベゼルが微妙に伸びて楕円形となり、ケース側面から下向きになったラグとシームレスにつながるよう、時計の上部と下部が薄くなっているのが特徴だ。
「時計製造では、ムーブメントの部品をすべて組み合わせると、必ず平らな面の下に平らな面ができるものです」とレジュピは言う。「部品が平らであれば、地板の上で組み立てると簡単です。しかしケースの場合は、ラグをほかの部分と一緒に組み立てる必要があります。まったく違う仕事だとご理解できるでしょうか? ハグマンや彼らのような職人がいなければ、すべて台無しになってしまうわけです」
未来は、どうやら明るいようだ。レジェピ氏は長期にわたってここにいるし、ハグマン氏も当面は辞めるつもりはないようだが、81歳になる彼のことだから、いずれは引退を考えているのかもしれない(なにしろ3度目の正直だ)。
そこでハグマン氏が2人の弟子を育て、彼のケース製造の手法を積極的に取り入れるというのは、素晴らしいことだ。彼らは今後、RRCCIIのケースの大部分と、アクリヴィア/レジェップ・レジェピ氏の新作のケース製造を担うことになるだろう。
私たちは通常、特にダイヤルの美しさや時計のなかのムーブメントと比較して、時計のケースがどこから来たのかあまり深く考えることはない。それも今後は変わるかもしれない。ケースは常に私たちの肌に触れている部分でもあるからだ。手仕事と心のこもったデザインを尊ぶべきこの業界で、ケース製造がいかに自動化されているかを知ることは、少しばかり恐ろしいことだ。もし、ハグマン氏がアンコールに応えてアクリヴィアに戻らなかったら、手作業でケースを作るという技術は永遠に置き去りにされていたかもしれないのだ。
「今日、私たちが実践したい時計づくりは、まず人、人間からです」とレジェピ氏は言う。「ここに来た人には、工芸の持つ人の温かみを感じてもらいたいのです」
多忙ななか、工房を開放し案内してくれたレジェピ氏、アナベル・ロック氏、ジャン-ピエール・ハグマン氏にこの場を借りて感謝したい。
話題の記事
Breaking News パテック フィリップ Ref.5711 ノーチラスがチャリティのための1点ものとして復活
日本の時計収集を支えた機械式時計ブームと、市場を牽引した時計ディーラーたち
Four + One カントリー歌手の時計コレクションが描く音楽キャリアの軌跡