時計の世界における最も重要な発明家を挙げるとすれば、多くの人がアブラアン-ルイ・ブレゲの名を思い浮かべるのではないでしょうか。
自動巻き機構(ペルペチュエル)、トゥールビヨン、耐衝撃吸収機構(パラシュート)など、現代の機械式時計の基礎を形づくる数々の革新は、いずれも彼の発明、あるいは彼によって完成度を高められたものです。さらに腕時計が一般化する1世紀以上も前の1810年には、ナポリ王妃カロリーヌ・ミュラのために世界初の腕時計を製作したことでも知られています。
エクスペリメンタル 1の発表の舞台となったフランス、パリのトロカデロ広場にある国立海洋博物館(Photo Courtesy: Breguet)。
そのブレゲが、2025年に創業250周年という大きな節目を迎えました。この記念すべき年を通して、ブレゲはパリを皮切りに、上海、ニューヨーク、ジュネーブ、ロンドン、ソウル、東京など世界各地で周年モデルを発表してきました。
さらに、“時計界のオスカー”とも称されるGPHG(ジュネーブ時計グランプリ)において、今年ブレゲは最高賞にあたるグランプリ〈金の針賞〉を受賞しました。
そして、その最終章として披露されたのが、ブレゲ エクスペリメンタル 1です。
250周年を祝うために登場した新作の数々。
本作が披露されたのは、パリで開催されたブレゲ創業250周年を締めくくる公式イベントの場でした。今回、僕はその最終章となる発表に招かれ、現地で実機を手に取り、開発の背景について直接話を聞く機会を得ました。
エクスペリメンタル ── ブレゲが示した、新たな研究開発の起点
エクスペリメンタル 1は、単発の特別モデルではありません。ブレゲが新たに立ち上げたR&D(研究開発)ラインである「エクスペリメンタル」コレクションの第一作に位置付けられています。
エクスペリメンタル 1に搭載されるCal. 7250(Photo Courtesy: Breguet)。
キスリング氏がブレゲに加わった際、ブレゲに蓄積されていた試作や構想の引き出しを開けるように確認していく中で、すでに10年近く研究が続けられていた磁気脱進機構の存在に行き着いたといいます。
それは磨かれていないダイヤモンドのようでした。
250周年の最後を飾るにふさわしいと、直感的に感じました
完成度は高いものの、まだ正式な製品として世に出ていなかったその技術を、250周年の最終章として提示することを決断したのです。
ブレゲの歴史を振り返ると、トゥールビヨンもコンスタントフォース機構も、最初から完成形として世に出たわけではありません。いずれも、まずは“実験的な試作”として構想され、検証と改良を重ねる中で完成度を高めていった発明でした。
ブレゲ No. 2667(1814年)、レゾナンス機構を搭載する“実験的”な懐中時計(Photo Courtesy: Christie's)。
ブレゲ No. 3168(1822年)、マリンクロノメーターの原理に基づいて作られた“実験的”なスプリットセコンド搭載のストップウォッチ(Photo Courtesy: Sotheby's)
実際、18世紀末から19世紀初頭にかけて、ブレゲは数多くの試作機や実験機、いわばプロトタイプにあたる時計を製作しています。後年オークションに登場する歴史的ピースの中には、カタログ上で「Experimental」と明記されているものも少なくありません。
エクスペリメンタルという名称は、こうしたブレゲの創業期から続く実験精神と開発姿勢を、現代において正面から引き継ぐために選ばれたものだといいます。
ブレゲ エクスペリメンタル 1とは
エクスペリメンタル 1は、外観からして従来のブレゲ像とは一線を画す存在です。ケースは直径43.5mm、厚さ13.3mm。素材にはもちろん、ブレゲが250周年を機に開発した独自合金である18Kブレゲゴールドが採用されています。
新設計のマリーンケースは、立体的に再構築されたコインエッジと、ケースサイドに配されたブルーのALD(Atomic Layer Deposition: 原子層堆積)処理が施されたインサートによって、コントラストと視覚的な奥行きを感じさせます。
ダイヤルはサファイアクリスタル製で、内部構造を透過させながら、レギュレーター表示によって情報が整理されています。6時位置に時表示、オフセットされた分表示、そして12時位置のトゥールビヨン上にスモールセコンドを配する構成です。
ダイヤルレイアウトのインスピレーション源となったマリーン・クロノメーター懐中時計No.3448。1820年に天文学者アレクシス・ブヴァールのために製作されたもの。
それぞれが独立したリングで構成され、スーパールミノバを用いたブルー発光により、暗所での視認性も確保されています。
ブレゲ数字を用いながらも、全体の印象は極めてモダンで、19世紀のマリンクロノメーターと21世紀の実験機が重なり合うような表情を見せます。
21世紀のスイスレバー脱進機という提案
しかし、エクスペリメンタル 1の真の核心は、その外観以上にムーブメントにあります。搭載されるのは、新開発の手巻きムーブメント、Cal.7250。最大の特徴は、10Hz(7万2000振動/時)という超高振動で駆動するトゥールビヨンと、コンスタントフォース・マグネティック脱進機を組み合わせた点にあります。
キスリング氏はプレゼンテーションの中で、精度というテーマについてこう語りました。
精度という問いは、ひとつの解決策では答えられません。エネルギー、重力、衝撃。そのすべてを同時に解く必要があるのです
– グレゴリー・キスリング、ブレゲCEOブレゲが提示したのは、「精度を乱す要因そのものを分解し、同時に解決する」というアプローチです。具体的には、以下の三要素が設定されました。
- 主ゼンマイのトルク低下に左右されない安定した振幅
- 重力による姿勢差の影響
- 衝撃への耐性
Cal.7250の10Hzという超高振動は、外部から衝撃を受けた際にも振幅が素早く安定するという大きな利点を持ちます。一方で、エネルギー消費が大きく、振幅を一定に保つことが難しいという課題も抱えています。この相反する条件を同時に解決するために、ブレゲが選んだ答えが、磁力を利用した定力脱進機でした。
アンクルと二重構造になっているマグネティック・ガンギ車を備えたコンスタントフォース・マグネティック脱進機。
マグネティック脱進機の展開図。上下に配置されたガンギ車と中央に配置されたストップホイールが確認できる。
キスリング氏は、このマグネティック脱進機を「21世紀のスイスレバー脱進機」と表現しています。構成自体は意外なほどシンプルで、従来のスイスレバー脱進機に対して追加された要素は、もう1枚のガンギ車とストップホイールのみです。
この脱進機では、グレード2チタン製の2枚のガンギ車にサマリウム・コバルト磁石が組み込まれています。これらのガンギ車には、磁力の強弱を段階的に変化させるため、幅が連続的に変化する形状の磁気トラックが外周部に設けられています。従来のスイスレバー脱進機のように、ガンギ車とパレットが直接接触してエネルギーを伝達するのではなく、磁力による反発を利用してインパルスを与える点が最大の特徴です。
マグネティック・コンスタントフォース脱進機とトゥールビヨンが組み込まれたキャリッジ。
アンクルと接触するほぼ唯一の部品はストップホイールです。インパルスの際には磁力による非接触動作が行われる一方、停止時のみ最小限の機械的接触が発生します。これにより、摩耗とエネルギーロスを極限まで抑える設計が実現されているというわけです。
10Hzトゥールビヨンという極めて過酷な条件でありながら、パワーリザーブはなんと72時間が確保されています。これはCal.7250がダブルバレル仕様で、さらに内部にはそれぞれ2個の主ゼンマイが収められているため。
また、磁気を積極的に利用しながらも、ムーブメント全体は600ガウス(≒4万8000A/m)の耐磁性能をクリア。シリコン製ヒゲゼンマイ、ニッケルリン製の輪列、ニヴァガウス製の天真など、非磁性素材が要所に用いられることで実現されています。なお、これほど高度な複雑機構を備えながら、防水性能が100m確保されている点も特筆すべきでしょう。
実験的でありながら日常の時計でもあるということ
実機を手に取り、実際に腕に載せてみると、エクスペリメンタル 1に対する印象は大きく変わります。ケース径は43.5mmと決して小さくはありませんが、新設計のマリーンケースはラグが下方向に向かって強く傾斜しており、ケース全体が手首を包み込むように収まります。
15.5cmと細めの手首の僕でも、数値から想像するほどの大きさは感じられず、重量バランスも良好です。見た目の迫力とは裏腹に、装着感は快適でした。
僕の15.5cmの手首に装着したエクスペリメンタル 1。
16.5cmの友人の手首の上ではかなり安定して見える。
視認性については、正直に言えば決して「一目で時刻が読み取れる」タイプの時計ではありません。サファイアダイヤル越しにムーブメントの構造が大胆に露出しており、情報量は多め。しかし、レギュレーター表示を採用することで、時・分・秒の役割が明確に分離されているため、慣れてしまえば実用上の不便さはそこまで感じませんでした。
6時位置の時表示、オフセットされた分表示、そしてトゥールビヨン上に配置されたスモールセコンドという構成は、視覚的な情報整理と機構の見せ方を高い次元で両立しています。しかも、こうしたレギュレーター表示の発想そのものが、約200年前のブレゲの懐中時計にすでに存在していたと考えると、その先見性には改めて驚かされます。
6時位置の時間表示の両脇に主ゼンマイが確認できる。
本作には、パワーリザーブインジケーターは搭載されていません。その代わりに、エクスペリメンタル 1では香箱がダイヤル側から見える構造になっており、ALDコーティングによってブルーに彩られた主ゼンマイの巻き上がり具合を視覚的に確認することができます。
ケースバックから見えるムーブメントにはブレゲ・シールが誇らしげに刻印されている。
ここまで内部構造を開示し、機構の動きを包み隠さず見せながら、なおかつこの時計がブレゲ・シールを取得しているという事実は、特に印象的です。
ブレゲ・シールは、単なる精度認定ではありません。仕上げの品質、素材選定、耐磁性能、防水性能、さらには長期にわたる修理体制や製造倫理までを含め、ブレゲが定める厳格な基準をすべて満たした時計にのみ与えられる認証です。《エクスペリメンタル 1》は「科学(Scientific)」カテゴリーに分類され、日差±1秒という高い精度基準をクリアしています。
ブレゲ・シールが担保するのは性能だけではありません。面取りや表面処理といった伝統的な仕上げの美しさもまた、この時計の重要な価値です。ALDコーティングによるモダンな色調と、手作業による仕上げが同居する様子は、実際に近くで眺めるほどにこの時計が伝統を受け継ぎながら今のブレゲでもあるのだということを実感させます。
終わりではなく、始まり ── 次の250年へ
(Photo Courtesy: Breguet)
エクスペリメンタル 1は、ブレゲの既存コレクションの延長線上に置かれる特別な派生モデルではありません。マリーン、クラシック、トラディション、タイプ XXといった既存ラインとは並列に存在する、新たなR&Dラインとして構想されたシリーズです。ここで生まれた技術や思想は、この1本限りのものではなく、将来的に他のコレクションへと受け継がれていく可能性も明確に示唆されています。
確かにエクスペリメンタル 1は、“実験的”な時計です。しかしそれは、ラボの中に閉じ込められた試作機という意味ではありません。100m防水、優れた耐磁性能、±1秒/日という高い精度基準を備え、実際に日常の中で身に着けることができる時計として成立している。その事実からは、ブレゲが「実験」と「実用」を対立する概念としてではなく、同時に成立させるべきものとして捉えている姿勢がはっきりと伝わってきます。
(Photo Courtesy: Breguet)
250周年を締めくくるこのタイミングで、ブレゲが示したのは過去の再解釈ではありませんでした。創業者アブラアン-ルイ・ブレゲが生涯をかけて追い求めた精度、科学、そして実験精神を、現代の技術と素材によっていかに更新できるのか。その問いに対する、極めて明確なひとつの答えが、このエクスペリメンタル 1なのだと感じます。
記事の最後に、発表の場でグレゴリー・キスリングCEOが語った言葉を、そのまま記して締めくくりたいと思います。
ブレゲのアプローチは、デザインだけではありません。
科学、物理現象の研究、そして芸術を通じて、精度を追求し続ける姿勢こそが、創業者の精神です。
私たちは過去をコピーするのではなく、その精神を21世紀の技術で実現しているのです。
パリではじまったブレゲの歩み。250周年はパリから始まり、パリへと還った。そして、ここからまた新たな時間が動き出す。
基本情報
ブランド: ブレゲ(Breguet)
モデル名: エクスペリメンタル 1(Experimental 1)
型番:E001BH/S9/5ZV
直径: 43.5mm
厚さ: 13.3mm
ラグ幅: 22mm
ケース素材: 18Kブレゲゴールド
文字盤色: サファイア文字盤
インデックス: ブレゲ数字
夜光: あり、アワーリング、ミニッツトラック、セコンドトラック、時分針
防水性能: 10気圧
ストラップ/ブレスレット: クイックチェンジ機構つきのネイビーのラバーストラップ、交換可能な18Kブレゲゴールド製ピンバックル付き。
ムーブメント情報
キャリバー: Cal.7250
機構: スモールアワー、レギュレーターミニッツ、スモールセコンド、トゥールビヨン
直径: 33.8mm
厚さ: 6.3mm
パワーリザーブ: 72時間
巻き上げ方式: 手巻き式
振動数: 7万2000振動/時(10Hz)
石数: 37石
クロノメーター認定: ブレゲシール(日差±1秒)
追加情報: 世界初のマグネティック脱進機を搭載。固定された四番車はLIGAプロセスで製造。その他の部品にはチタンまたはニヴァガウスが用いられている。
価格 & 発売時期
価格: 5383万4000円(税込)
発売時期: 要問合せ
限定:世界限定75本、シリアルナンバー入り
詳細は、ブレゲ公式サイトへ。
Photographs by Masaharu Wada
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