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Watch of the Weekでは、HODINKEEのスタッフや友人たちを招き、ある特定の時計を愛する理由を語ってもらっている。今週のコラムニストは、ポッドキャスト『Thoughts May Vary』の共同ホストであるライターのガブリエル・ウジョア(Gabriela Ulloa)氏だ。彼女は今回、自身が所有するデイトジャストの裏に潜むストーリーを語ってくれる。
私は時々母について、その客観的な人間像に思いを巡らせてみることがあります。シルクのガウンを着て、前の晩につけた香水の残り香を漂わせながら、朝のコーヒーを飲みに降りてくる母の姿が私の脳裏を離れません。また、全身真っ白という服装でローファーを履いた母が、大学1年生だった私の寮の部屋をきれいに掃除してくれたときの映像も目に焼きついています。母はその日、染みひとつつけることなく作業をやり終えたのです。
母はエレガンスを具現化したような人で、私の幼なじみは「マイアミのベンジャミン・バトン(Benjamin Button)」などと言っていました。しかし当然のことながら、私が彼女を母親としての役割を超えた一人の女性として見始めるようになったのはつい最近のことです。これは私にとって明らかに決まり悪く感じることですが、誰もが個人として持つ社会的な条件付けのようなものでしょう。
親をひとりの人間としてみるのは、切なくもある体験です。彼らが私たちのDNAにしっかりと刻み込んで伝えようとしてくれた例え話や教訓を削ぎ落とし、紛れもなく私たちを世の中から守るために作り上げた表向きの顔を取り払い、敬意が刻まれたその台座から引きずり下ろし、彼らが親として必然的に私たちに負わせた傷があればそれを許すということです。そこに残るのは、ごくありきたりでありながら、極めて複雑でもあるひとりの人物。人生でなにをしているのかまったく考えすら及ばない、ひとりの存在となるのです。その他大勢の私たちと同じように。
だから母がここでお話しするこの時計を私に贈ってくれたとき、“どうみてもこれを受け取るには早すぎる娘”に驚くほど惜しみのない行為を示してくれた親という以上のものを見たのです。私はそこに母の過去を見ました。ある日の午後、ロレックスの店舗へと入っていき、「どれが欲しい?」と言えるようになるまでにどのような道を辿ってきたのかを。
母は1961年10月、母方の祖父母といっしょにキューバを亡命し、その1年後にプエルトリコで両親と合流しました。18年間そこで暮らし、ベネズエラに短期間滞在した後、母とその家族はマイアミに到着しました。ラテン系の人々、とりわけ故国を亡命したキューバ人がたどり着くことが多い目的地です。
キューバの歴史は長く、残念なことによく誤解されます。ここに事実を述べていきます。私の家族は亡命し、故国以外の国で生活を再建し始めました。母のように働く人を私は見たことがありません。決して時間に遅れず、「ノー」を強く言い過ぎることもなく、どんなに大きな問題も解決していきます。母は努力と忍耐を象徴するような人です。まさに私に贈ってくれたこの時計と同じように。
たぶん、そもそも私がこのブランドに引かれる理由はそこにあるのでしょう。当然ながら、ロレックスはそのエレガンスと耐久性で知られています。ロレックスの時計には時代を超えた価値があります。そしてこのモデル、41mmのデイトジャストは、まさにそうした時計です。気品がありながらもサイズが大きめなこのダイヤルが、威厳を漂わせています。今にして思えば、当時の私が人生で必死に求めていたのはこの種の威厳だったのす。
時計を手に入れるという考え自体はそれほど意外なものでもありませんでしたが、この時計になるとはまったくの予想外でした。母と私はそれまでにも時計を買うことについて語り合ったりしていましたが、ロンドンにいた私を訪れたときに、母はこのときとばかりに決断したのです。免税の恩恵が受けられるというバケーション感覚の高揚もあったのでしょう。店のなかで母と過ごした時間は忘れることができません。それまでロレックスの店舗の前を通り過ぎることはあっても、なかへ入ってみる勇気などありませんでしたから。
その日の午後に母が浮かべていた笑顔は、私の記憶に刻まれています。そしてそのあとに直行したお祝いのランチも。プライド(そして、この先しばらくは私が毎日腕につけることになるその時計の価格からくるそわそわした気分も少し)が私たちふたりを包み込み、母がほっと一息ついた特別な瞬間に感じられました。このために懸命に働いてきた未来が母にとって現実のものとなったのでした。
私をいつも魅了してきたのは、母の持つ二面性です。おそらく私自身も母の特質をたくさん受け継いでいるからなのでしょう。芯は母性的で口調は穏やかながら、積極的に自己主張する母。超男性的とか、頼りなげで女性らしいとか、世間が決めつけるこうした特質は性別とは無関係です。私たちは人を簡単に見分けられるふたつのグループ、“弱い”と“強い”に分類してきました。消化しやすいようにきちんとパッケージ化して。でも、曖昧なグレー領域というものがあり、私たちはそこで成長し、そこで自分自身を見つけるのです。私がこの時計のことを考えるとき、母やその仕事ぶりだけでなく、わかりやすいもの、簡単なものの外に立脚することを、常に忘れないようにしようという気持ちが思い浮かぶのです。
母から学んだ教訓について考えれば、それらはすべて“無から安全と尊敬を構築する”というひとつのコンセプトに集約されます。彼女の道のりは恐怖と未知にあふれたものでしたが、母は毎日それらをひとつひとつ乗り越えていくための選択をしてきました。そうした記憶が、この時計の素材のなかにまで染み込まれているのを私は見るのです。これは間違いなく美しい時計ですが、私にとってはそれ以上の意味があります。
私がこのタイプの時計を選んだのは偶然でもなんでもありません。腕につけると、リンクや面取りのひとつひとつに見られる男性的な力強さがその量感を語り、それ自体の二面性が生まれます。誰かがこれを見せてと言ってくるとき、それはだいたい男性なのですが、41mmである点を取り上げて、父親から譲り受けたに違いない、でなければ彼氏からもらったのだろう、と言ってきます。私がこれまでに受けたふたつの質問です。それに対して「いいえ」と答えると、決まって、自分で買ったのか、と詮索してきます。そして私は、母と、母に生をつないできた女性たちに対する揺るぎないプライドを胸に笑いながらこう言います。「もちろん違うわよ」と。