編注;本稿は6月3日にHODINKEE US版で公開された記事の翻訳です。
フィリップ・デュフォー氏の工房を訪れるのは、少なくともHODINKEEとしては、久しぶりのことだ。同僚たちが以前に立ち寄ったことがあるかどうかは定かではないが、もしそうだったとしても驚かない。デュフォー氏と知り合いになれば、ジュウ渓谷のル・ソリアにある彼の工房を訪ねることも、ずっと気軽なものになる。しかし2週間前まで、私はかつて彼の子どもたちが通った学校であり、今では工房となっている古い建物に、実際に足を踏み入れたことがなかった。
2013年、ベンは“Road to Basel”の連載の一環で工房を訪れているが、それから多くのことが変わった。いや、変わっていないのだろうか。時計師として59年以上を歩んできた今も、フィリップ・デュフォー氏の情熱はただ時計作りに注がれているようだ。そしてその場所として“複雑機構の谷”として知られるこの地ほど、時計作りにふさわしい場所があるだろうか。
前回ベンが訪れた際、デュフォー氏は約200本におよぶシンプリシティの最後の1本を納品したばかりだった。“もう2度と作ることはないだろう”とベンは記し、デュフォー氏はさらに複雑な後継モデルに取り組んでいると伝えていた。ところが、その後も彼は確かにシンプリシティを追加で製作している。チャリティオークションに出品された、アベンチュリンのダイヤルを備えるモデルもそのひとつだ。そして今もなお、作業台には製作途中の時計が並んでいる。工房で手を動かしているのは彼だけではない。娘のダニエラもまた、時計作りに取り組んでいる。
工房内の展示ケースに並べられた工具類と、数種類の懐中時計。
2022年、時計師シャルル=アンリ・メイランに関する記事の取材と撮影のため、初めてスイスのジュウ渓谷を訪れた。そして、私はすぐにこの土地が好きになった。曲がりくねった道、霧に包まれる朝、そしてそびえ立つダン・ド・ヴォリオンの背後から昇る鮮烈な赤い朝日が織りなす起伏に富んだ牧歌的な風景に心を奪われ、時計作りがなかったとしても、ここで暮らす自分を想像できると思ったほどだ。もちろん時計作りを愛する人にとっては、オーデマ ピゲ、ジャガー・ルクルト、ブレゲだけでなく、ヴァシュロン・コンスタンタン、パテック フィリップ、ブランパン、ブルガリなどが拠点を構えていることに加え、フィリップ・デュフォー氏やジュリアン・ティシエ氏、ダヴィッド・カンドー氏といった時計師たちもこの地に暮らしているのだから、なおさら魅力的な場所だ。
スイス・ジュウ渓谷のラベイにあるジュラ山脈の木々とダン・ド・ヴォリオン山の景観。
その翌年の2023年、私は地元にあるジュウ渓谷時計センター博物館、“エスパス・オルロジェ”の再オープンに合わせて、再びこの地を訪れた。そのとき初めてフィリップと会った。私たちは1時間ほど、歴史の重要性について語り合った。時計史の多くは、偉大な仕事を成し遂げながら、それを自らのブランドとしてではなく、より大きな何かの一部として捉えてきた人々によって築かれてきたという話もした。
時計業界でエタブリサージュ(編注;組み立て作業)という言葉が再び使われるようになった今、当時を代表する最高峰の時計、例えばグロス ピエスの物語も、複数の書き手によって紡がれたことを思い出したい。この話題をきっかけに、フィリップと私はすぐに意気投合した。時計業界の現状、ランゲへの愛着、忘れ去られた時計師たちの名前、そして懐中時計への思いなど、話は尽きなかった。
フィリップ・デュフォー氏が1967年に時計学校で製作した懐中時計。
明らかに学校で使うようなエボーシュで作られているものの、出来栄えと仕上げが素晴らしかった。
実際、私たちが話した時間の大半は懐中時計についてだった。エスパス・オルロジェでの展示のために何本か時計を持参していたので(この展示については、また改めて書くつもりだ)、スイスがアメリカの時計製造にどのような影響を与えてきたのかを彼に伝えたいと思っていた。そこで時計を何本か取り出した。私のものが2本、そして祖父が所有していたものが1本。フィリップは、1800年代後半にふたつの時計製造文化が交わった証を眺めていた。その後、彼は金庫へ向かい、自身の懐中時計コレクションから何本かを取り出してくれた。見事なコレクションであると同時に、全体に一貫した美意識が感じられるものだった。
そう、腕時計についてはあまり話さなかったのだが、ル・ソリアからは大きなニュースが届いている。その話は最後に取っておくとして、“腕時計こそが唯一重要な時計だ”という人たちのために、あの日フィリップが着けていた時計も紹介しよう。
彼は、ヘンリー・アルフレッド・ルグランが製作したウォルサム モデル1884 クロノグラフを眺めている。その傍らには、シャルル=アンリ・メイランのモジュールを搭載したウォルサム モデル1884 5ミニッツリピーターが置かれている。
デュフォーの作業台の上には、ウォルサムのリピーターの横に、積算計付きと積算計なしのウォルサム モデル1884 クロノグラフが2本置かれている。上にあるのは何だろう? ああ、シンプリシティ用の未完成のブリッジだ。
ダニエラ・デュフォー氏は、父親がウォルサムのクロノグラフを眺めている様子をじっと見つめている。
私が立ち寄った時に彼が着けていた時計。
フィリップは今も、妻から贈られたオーデマ ピゲ ロイヤル オークの50周年記念モデル Ref. 16202を愛用している。私は「フィリップ・デュフォーがある時計に興味を持っている、と誰かが言えば、それだけで話が進みやすくなるでしょうね」と話した。彼は笑って答えた。「そうかもしれないけれど、工場に行って直接お願いするのは気が進まないんだ。少し気まずいし、そういうことをする人間にはなりたくないからね」
どういうわけか、彼は今でも時計を手に入れている。多くの場合、妻からの贈り物で、フィリップ自身が買おうとしないことを知った妻が、代わりに購入してくれるのだ。しかし、その日工房で私たちが見た腕時計はこのロイヤル オーク “ジャンボ”を含めてわずか2本だった。本当は3本あるはずだった、と彼は言う。最近、ブレゲの創業250周年を記念するクラシック スースクリプション 2025を受け取ったばかりだったが、箱は持ってきていたものの、時計本体は自宅に置いてきてしまったのだという。
フィリップのお気に入りの1本であり、彼の友人でもあるルドヴィック・バルアーによる特注時計。
彼は、私に見せるため、時計の入った箱を次々と取り出し始めた。中には比較的シンプルなものもあったが、ケースの仕上げが興味深く、軍用や技術用途を思わせる、大きな表示を備えたものもあった。
ご覧のとおり、“シンプル”な時計ではあるが、右上隅の2本はニエロ(またはニエロ銀細工)のケースを採用している。これは銀製のケースに模様を彫り込み、そこに細かく粉砕したニエロ(銀、銅、鉛、硫黄の混合物)と融剤を混ぜ合わせ、彫り込まれたくぼみに詰めていく技法だ。
英国国防省の“General Service Trade Pattern(一般勤務用の市販仕様)”規格に適合するように作られた懐中時計。こちらはダニエラ・デュフォー氏の所有物だ。
ル・ソリアにある工房。デュフォー氏は1階を使い、娘ダニエラは左側の椅子で仕事をしている。
私がデュフォーの工房を訪れたいと思った理由のひとつは、時計業界に与えてきた影響の大きさと、その仕事が生まれてきた場所を実際に見てみたいという思いにある。私にとって、独立時計師の黎明期、高級時計における仕上げへの関心、歴史的な時計製造への敬意、そしてその技術を現代の腕時計に応用するという考え方は、そのすべてがデュフォー氏から始まったように、私には思える。もちろん、異論もあるだろう。1989年にトゥールビヨン搭載のC187を発表したダニエル・ロート氏、それ以前から懐中時計に取り組んでいたデレク・プラット、あるいは1991年に最初の腕時計のプロトタイプを製作したフランソワ-ポール・ジュルヌ氏(量産モデルの登場は1999年まで待つことになる)を挙げることもできる。しかし、デュフォー氏が1992年に発表した最初の時計、グラン・プチ・ソヌリ・ミニッツリピーターが、状況を大きく変えたのだ。
ル・ソリアにある作業台に向かうフィリップ・デュフォー氏。
すべてはここから始まった。1967年、時計学校の学生時代に製作したスクールウォッチだ。数年前、デュフォー氏の工房に泥棒が入り、何本もの時計が盗まれた。そのなかには父親のゼニスも含まれていたという。私には、とりわけ悲しいことに思える。ほかに盗まれたものの多くは、ケースのない貴重なムーブメントだった。デュフォーは、転売が難しいと気づいた犯人たちがそれらをゴミとして捨ててしまったのではないかと案じている。しかし幸いにも、デュフォー氏の懐中時計は無事だった。
フィリップ・デュフォー氏のスクールウォッチ。
そのスクールウォッチのムーブメントは、彼自身によって完成されたものだ。
オーデマ ピゲから初めて依頼を受けたグラン・プチ・ソヌリの懐中時計と、それが彼を独立・ブランド設立へと導いた経緯については、すでに多くの人が語っている。どれほど工夫を凝らしても、このきわめて複雑な機構を簡略化し、商業的で手ごろな価格帯のものにしようとしても不可能だ。繊細で、気まぐれで、途方もなく複雑だからだ。それでも6年間で5本目の懐中時計を製作してから4年後、彼はその機構を小型化し、腕時計へと転換したのだ。
「時計を小型化するために、コンピューターの使い方を独学で覚えなければならなかったんだ」と、彼は私に話した。「単に一定量だけ縮小すればいい、という話ではなかった。幅を縮めることはできても、地板の厚みを少し薄くするたびに、ほかの計算がすべて狂ってしまったんだ」
彼が最初に作った時計、ソヌリ懐中時計の物語。5本はオーデマ ピゲのために作られ、6本目はダイヤルに彼の名前が刻まれており、現在は私の大切なコレクター仲間が所有している。
続いて彼が見せてくれたのは、デュアリティのデモンストレーションモデルだった。2つのテンプとディファレンシャル機構を備えた次作となるものだ。着想のもとになったのは、彼が、イリノイ州ロックフォードにかつて存在したタイムミュージアムのセス・アトウッド・コレクションを記録した本のなかで見つけたスクールウォッチの実例だった。1932年から1934年にかけて、ル・サンティエの時計学校で6人の生徒がこの時計を製作していたという事実には、ただただ驚かされる。アルベール・ピゲが製作した個体は数年前に25万スイスフラン(当時のレートで約2700万円)で落札されたが、今となっては破格に思える。
実は数年前、その時計を2本のデュアリティと並べて見たことがあり、デザインの類似性は明らかだった。彼によれば、デュアリティは確かに10本しか製作していないと、デュフォー氏は語った。オンラインでは、より大きなシリアル番号の個体を見たという理由から、実際にはもっと多く作られたとする人もいる。しかしそれは当初20本を製作する予定で、その範囲内で希望された番号を割り当てていたためだという。また注文の申し出を踏まえれば、あと15〜20本は販売できるとも話してくれたが、彼にはその時間がない。さらに、ディファレンシャル機構を改良した、より優れたバージョンも完成させている。デュアリティ Mk. IIと呼ぶべきモデルかもしれない。しかし限られた時間でより多くの時計を作らなければならない彼にとって、現状のデュアリティは複雑すぎるのだ。
デュアリティムーブメントのデモンストレーター。この時計を見たことがない方のために説明すると、2つのテンプが差分によって歩度誤差が均等になるように調整されているが、時計を調整するには、一度にひとつのテンプを調整する必要がある。その結果、彼自身も予想していなかったことだが、スモールセコンドが1回転するのに2分かかる。
ディファレンシャル機構の分解図(手作業で着色)。
ディファレンシャル機構をマッチ棒と比較した写真。
工房内を歩き回ると、機器のテストに使われたムーブメントが脇に置かれていたり、時計の面取りを磨くために使うことで知られるリンドウの木の山が積まれていたりするのを目にするだろう。
ここで、うれしいニュースをお知らせする。すでにご存じかもしれないが、デュフォー氏は今もシンプリシティを製作し、納品し続けている。これは、おそらく彼の作品のなかで最も有名な時計だろう。その理由には比較的多くの本数が作られたこと、優雅でクラシックなデザイン、そして多彩なバリエーションがある。彼によれば、現在はウェイティングリストを設けているのではなく、時間と製作の余裕があるときに注文を受けているという。ダイヤルデザインに小さな変更を加えたり、ケース素材を変えたりすることもあるが、彼にとって最も重要なのは、デザインをさらに大きく変えて欲しいという要望があっても、ひと目でシンプリシティとわかる37mmケースの時計であり続けることだ。現在は6つのムーブメントを製作中で、そのうち2つは完成しているそうだ。
37mmのシンプリシティ用メインプレート。
上の写真に写っているのは、主ゼンマイバレルとラチェットホイールを覆うブリッジだ。仕上げの異なる段階にあるものが並んでいる。また、面取りを施す際に角度が正しいかを確認するため、ブリッジのテスト用サンプルも用意されていた。この日78歳を迎えたデュフォー氏だが、今も時計作りを行っている様子を見られるのは楽しい(編注;本稿は6月3日にHODINKEE US版で公開された記事の翻訳です)。彼によれば、月曜から金曜まで働き、土曜日も仕事をすることが多いという。「時々日曜日もね」と彼が言うと、娘のダニエラが「日曜日働くのはいつものことよ」と言った。
工房中に工具が散乱している。
AHCI会員のフロリアン・シュルンプフ(Florian Schlumpf)氏によるクロック。
一緒に過ごすうち、私は彼の作業台の周りをあれこれと見て回り始めた、とでも言えばいいだろう。そして話題は、彼が設計したソヌリの懐中時計に戻り、そこから腕時計へと移っていった。彼は腕時計のモックアップを見せてくれた。デモンストレーション用のケースに収められた、プロトタイプのムーブメントだ。彼はゼンマイを巻き、時刻を合わせると、時計を脇に置いた。その後も話をしている間、少し離れたところから時を告げる音が聞こえてきた。彼がこの時計を初めて作ったときと、まったく同じように。
未完成のグラン・プチ・ソヌリ・ミニッツリピーターを搭載した腕時計のプロトタイプ。
そのプロトタイプのダイヤル側の機構。
フィリップ・デュフォーの懐中時計
フィリップに連絡した際、私は懐中時計を見るためにこの街を訪れていると伝えた。実際には、ロイヤル ポップの発表もあり、懐中時計のことが以前にも増して頭から離れなくなっていた。とはいえこれは、私たちふたりが関心を寄せるテーマについて話す、絶好の機会だと感じたのだ。そこで彼はいくつかの時計を取り出してくれた。すべてを撮影したわけではないが、ここではそのなかから特に印象的だったものを紹介しよう。
彼はこの時計のプッシャーを操作するために工具を使わなければならなかった。この時計には完全な懐中時計ケースは付いていなかったが、デモンストレーション用のケースが装着されていたからだ。
それはアミ・ルクルトのスプリットセコンド腕時計で、フドロワイヤント(ジャンピングセコンド)機能を備えていた。彼は、スタート、ストップ、キャッチアップ、そしてリセット(フドロワイヤントも完全にリセットされる)の操作方法を実演してくれた。現代のジャンピングセコンドとは異なり、この時計はクロノグラフ作動中にも動作し、より短い時間間隔(この2Hzのテンプでは最小1/4秒)を明確に計測できる。
アミ・ルクルトのムーブメント。これを見ると、アミ・ルクルトには彼自身の物語があってもいいと思う。これは彼が得意としたデザインのひとつだ。
何年も前のこと、友人が地元のゴミ捨て場で見つけた箱を持ってフィリップの店にやってきた。彼らはゴミを捨てに行ったところ、古い時計職人の箱がたくさん置いてあるのに気づいた。そのうちのひとつに“18分リピーター”と書いてあったので、友人は箱を開けて彼の店に持って来たという。彼はそれを約100フラン(約1万9000円)で買い取ったという。「クォーツショックのあと、谷にあったあらゆるブランドの時計が、みんな捨てられていたんだ」。友人らがもっと時計がないか見に行ったときには、すでに誰かがほかの箱を全部持って行ってしまっていた。
ルクルト設計のエボーシュを搭載した、初期のクォーターリピーター式の懐中時計。
パイプと機械部品。工房で使われる道具一式だ。
これは面白いアイデアだった。1950年代の時計学校の学生だったと想像してほしい。学校の課題がパーペチュアルカレンダー、ミニッツリピーター、クロノグラフ機能を備えた懐中時計だったらどうだろう? もちろん、いいだろう。
やはり学生の作品としては、仕上がりが実に素晴らしい。
ル・ソリアからは以上だ。デュフォー氏、お誕生日おめでとう。
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