私たちが考えている以上に、海外の人々から見て日本というのはエキゾチックかつミステリアスな国に写る。スイスの機械式時計にクォーツの実用化と普及によって多大な打撃を被らせたのは日本のメーカーであり、いち早く機械式の魅力とレガシーとしての文脈をみいだし、歴史から産地の背景、その仕組みまで、あらゆることを知りたがったのもほかならぬ日本の時計愛好家だった。バブル期以前から令和まで長らく続く日本の機械式時計カルチャーの帰結のひとつとして、今、日本の独立時計ブランドの勃興と成熟が挙げられる。機械式時計のブームを端緒から見守った賢人たち、そしてジャパニーズインディペンデントブランドのリアルプレーヤーたちは何を思うのか? 21世紀最初の四半世紀が終わりかけようとしている現在、率直に語ってもらった。
業界の顔ぶれが皆、近かったあのころ
ザ・フォーク・クルセダーズのヒット曲『帰って来たヨッパライ』の作詞家にして、日本における時計ジャーナリストの草分けである松山猛氏。なかでもフランク・ミュラー本人とは“ウォッチランドのフランクミュラー”となる以前から交友を重ね、本人に直接製作依頼をしたという最初期のワールドタイム・ダブルフェイス・クロノグラフ(ヤヌス)は今も特別な一本として知られている。
松山氏がフランク・ミュラー本人に依頼して作られた、ブランド最初期のワールドタイム・ダブルフェイス・クロノグラフ(ヤヌス)。本来は10本のみ作られたものだが、松山氏がどうしても欲しいと頼んだところ、追加で作られることになったという希少な一本。氏は日本で最初のフランクミュラーの時計の持ち主でもある。
「香山(知子)さんがてがけていたタイム・スペック(『世界の腕時計』の前身)でフランク・ミュラーのことを知ったのが最初。その後、世界文化社の別冊の取材で1988年にスイスへ行き、ジャントゥ(現ウォッチランドがある小村)の家を訪ねたんだ。藤の花が咲いていて、まだ彼がヴィンテージウォッチの修復をしながら、コレクター向けにごく少数の時計をひとりでコツコツと作っていたころでね」クォーツショックののち、もはや絶滅したかに思われた機械式コンプリケーションウォッチを次々と発表するフランク・ミュラーと話し込みながら、松山氏はやがて来る本格的な機械式時計の復活と再生への確信を強めていったそうだ。
「当時のスイスで、時計学校に進んだヤツなんかは変わり者扱いでね。そこにわざわざ日本から古い時計好きの物書きが来たと喜んでくれたよ(笑)。フランクが最初に紹介してくれた独立時計師アカデミーのメンバーは、彼の同級生だったアントワーヌ・プレジウソ。まだフランク自身もバーゼルフェアのアカデミーのブースに出展していた。それからヴィンセント・カラブレーゼや彼らの先生だったロジェ・デュブイ、フィリップ・デュフォー、ダニエル・ロート、フランソワ=ポール・ジュルヌらとも知り合って。あのころはバーゼルの時計見本市といえば、取材はもちろんだけど、それ以上にアカデミーメンバーとの食事が楽しみだったな」
ダブルフェイスのクロノグラフ(ヤヌス)は1900年代初頭のムーブメントを改造。表側にはワールドタイマー機構を、裏面にはパルスメーター機構を組み込む。
1980年代半ばには、各時計ブランドが技術力を印象づけるために複雑機構を載せた腕時計を発表し始める。そしてそこに独立時計師が知恵やノウハウを貸す動きが、流れとしてでき始めていた。自ら時計ブランドを興すという選択をした独立時計師も少なからずおり、とりわけフランク・ミュラーの成功は目ざましかった。
「彼が時計メーカーを興すうえで、ケースを作れるアテがないのがボトルネックだったからヴァルタン・シルマケスとウォッチランドを立ち上げたんだ。彼らは組む以前は付き合いがある程度だったけど、ヴァルタンはアルメニア系(編注:日本では古くからアルメニア人は商才がある民族として知られる)で宝飾にもビジネスにも明るかったんだろうね」成功の原動力となったのは日本市場だった。初期の輸入元となった青山骨董通りの笄(こうがい)兄弟社と、仲介の労をとったのも松山氏だった。
「裏に新しいアトリエを建てたから泊まりに来いよ、なんて連絡をくれたかと思えば、すでに働く人でいっぱいになって泊まるどころじゃなくなった。フランクが思うよりも急にビジネスが拡大したんじゃないかな」青山の骨董通りにあった、元信用金庫の店舗を金庫ごと居抜きで使ったブティックでは、“カサブランカ”のような若者に手の届きやすい機械式腕時計が飛ぶように売れ始めた。世の中のそれまでの時計に対するイメージが変わりつつあることを彼は感じていた。同時に時計師以外にも、ジャン-クロード・ビバーのようにプロデュースにたけたビジネスマンが活躍し始めた時代でもあった。
松山猛氏
「ビバーはオーデマ ピゲに入社したけど、一度は時計業界を辞してテイラーに生地を卸す仕事をしていた時期があってね。でも営業に寄った先の街々で時計店のウインドーが気になって時計業界に戻ったんだ。そこで宙に浮いていたブランパンの商標を買い取った。ル・ブラッシュまで取材に行ったけど、初めて会ったのは1990年代の初めごろだったかな」
スウォッチグループに売却される直前期、ブランパンはスプリットセコンドクロノグラフやムーンフェイズ、パーペチュアルカレンダーなどの機構に特化した“シックス・マスターピース”を完成させ、それらを 1本に収めたグランドコンプリケーション、“1735”を世に送り出していた。
「作り手の顔が見えて、時計とダイレクトにつながっていた感覚があったね。日本人ってそういうところに興味を持つじゃない。ザ・フォーク・クルセダーズのときもそうだけど、世間の流れにあらがって逆コースを行っていると、それまでは壁のようだった古いものが意外ともろくなっていて、一気に崩れたあとに新しい世界が開ける。そんな経験を、機械式時計でも同じように僕は何度か経験することができた。今、独立時計師たちが注目されているのも、そうした時代の揺り戻しかもしれないね」
価値観が変わるなか、時計づくりに求められるもの
フィリップ・デュフォー氏がてがけたシンプリシティの珍しいプロトタイプ。製品版ではダイヤル6時側に“METALEM SWISS GUILLOCHE MAIN”と入るところが“SWISS”表記となっているほか、製品版はチラネジテンプ仕様のテンプが、プロトタイプではジャイロマックステンプが使用されている。
「スイスの機械式時計は、それこそお土産レベルのようなものも含めて星の数ほどありました。1970年代に入るとクォーツに押されて元気がなくなって、高級時計でも機械の作り込みや仕上げではなく、“ダイヤが何個付いてこの値段”、みたいな方向になった。だから1980年代にかけては機械式時計にとってまだ冬の時代でしたね」
そう語るのは、日本を代表する時計ディーラーとなったシェルマンの元代表、磯貝吉秀氏だ。1990年代からアカデミーの独立時計師たちの時計を日本に輸入し、今ではネオ・ヴィンテージウォッチと呼ばれるような時計も当時から数多く扱ってきた。それでも時計業界の裾野は広く、かつてのバーゼルには文字盤や針、ケース、ネジ、バネといった部品メーカーが多数出展していて、時計ブランドは外注パーツから独自にそれらを別注・調達してアッセンブリしていたと、磯貝氏は話す。
磯貝吉秀氏
そう語るのは、日本を代表する時計ディーラーとなったシェルマンの元代表、磯貝吉秀氏だ。1990年代からアカデミーの独立時計師たちの時計を日本に輸入し、今ではネオ・ヴィンテージウォッチと呼ばれるような時計も当時から数多く扱ってきた。それでも時計業界の裾野は広く、かつてのバーゼルには文字盤や針、ケース、ネジ、バネといった部品メーカーが多数出展していて、時計ブランドは外注パーツから独自にそれらを別注・調達してアッセンブリしていたと、磯貝氏は話す。
「スイス一強の安定した時計づくりが続くなかでクォーツが登場して、精度で引けを取る機械式時計を軸としていた多くのメーカーは混乱して一部は廃業しました。そしてそのようななかで、機械式の時計づくりにこだわりを持つ一部の人たちはメーカーから離れて独立していきました」
初期のアカデミーの重鎮たちが生活のために時計の修理をてがけていたのはそうした背景もあったが、それは新たな発見ももたらした。
「修理となると、インハウスの商品以外に懐中時計やさまざまな機構に触れて、それが啓発になる。“昔はこんなにすごいものをつくっていたのか”とね。のちのアカデミーの隆盛につながるポイントでした」
スイスの時計業界に訪れた市場の縮小と危機が、逆に機械式時計の技術的ルネサンスを引き起こし、時計師たちが修理の合間につくりたいものをつくる、独自の腕時計をてがけることに繋がったというのだ。
独立時計師のひとり、スヴェン・アンデルセンがてがけるアンデルセン・ジュネーブ銘で製作されたワールドタイムクロノグラフ。ベースムーブメントには手巻きのレマニアが使われている。
ミニッツリピーター・パーペチュアルカレンダーはアンデルセンがカナダのヘンリー・バークスからの特別注文でつくった作品だ。
「アカデミーは基本的に営業がうまくない人たちも多くて、自分がどうやって工夫して作り上げたとか、こんなところにこだわったんだって、一生懸命にうれしそうな顔をして話すのが、最初のころの雰囲気でしたね。売れない時代のほうが家族的で、一体感があった気がします」
個人だからこそ、そして大量に作って大量に売ることができないがゆえに、ひとクセもふたクセもあるおもしろい機構の時計が生まれた。ヴィンテージウォッチを扱っていたこともあり、独立時計師たちの手がける唯一無二の機構や高品位な仕上げに磯貝氏は目を見張った。
「当時のアカデミーが金銭的にはあまり豊かではなかったので、時計づくりが続けられるようにと、日本からみんなで寄付を送ったこともありました。1年に1本も作れない寡作な独立時計師もいましたから。そういう状況から、マス向けのものもあっていいのではということで、フィリップ・デュフォーさんもシンプリシティをつくった訳です。ただし、あまりにもこだわりが強すぎてなかなか時計が出来上がらなかった(笑)。催促するためではないですが、どんなにこだわってつくっているかを見るのが楽しみで、ジュウ渓谷まで何度も家庭問訪に行ったりしましたね」
ユニークピースであるスヴェン・アンデルセンのスモーレストカレンダーウォッチ。のちにベイヤー時計博物館からの依頼で同タイプのものも作られた。
昔のように1本の時計を使い続けるという世の中ではなく、多くの人が何本も所有する時代になって時計に対する見方もずいぶん変わった。それに伴いアカデミーも華やかになった。そして日本からも独立時計師や独立ブランドが発信される時代になって、磯貝氏はこう述べる。
「いい時代が来たと思います。世界中の多くの人たちが時計を愛して、日本人も果敢に時計づくりにチャレンジする。それぞれの感性、こだわり、信念を大事にして。そしてそのなかには美術工芸品と呼ぶにふさわしい作品も生まれてきている。本当に素晴らしいことだと思います」
ひとりの道を選んだ独立時計師・菊野昌宏氏
ともに菊野昌宏氏による試作品。右はすべて手作業でパーツを作成したレトログラードウォッチ。左はまさに試作中だというコンプリケーション。通常、菊野氏は作品づくりにおいてCNCマシンを用いることはないが、これはその使い方を生徒に教える目的でCNCマシンで試作したパーツを使用する珍しいものだ。
時計雑誌で独立時計師の存在を知った当初、修理技術は修めていたもののスイスと環境の差は埋めがたいものだと、菊野昌宏氏は感じていた。だが江戸時代の和時計を解体調査するドキュメンタリー番組で、設備も情報もない当時の職人が素晴らしい仕事をしていたことを知り、現代の自分のほうが恵まれていると認識を改めた。それが制作に踏み出すきっかけとなったという。2008年ごろのことだ。
「2010年に“和時計”のプロトタイプが完成し、フランスで通訳をしている坂田由鯉子さんが“おもしろい時計をつくっているね”と、フィリップ・デュフォーさんに紹介してくれたんです。それを契機に独立時計師アカデミーに推薦してもらえることになりました」
当時の菊野氏は、自身が研究生だったヒコ・みづのジュエリーカレッジで教える側に回りながらも、時計づくりを続けていた。旋盤や糸鋸、ヤスリ、自作の工具を使いながら試行錯誤を続けたが、まだ時計が売れるレベルに達していると思えず独立までは見えていなかった。そんな矢先に道が開けるとは想像もしていなかったという。
「今でも新しい時計を発表するときには、不安な気持ちがあります。でも本当に自分のつくりたい時計を、のびのびとできる環境でやれていると思います。ここ数年、独立時計師や独立系の時計メーカーが注目され、海外ではある程度の本数を作ろうという動きもあるようですが、私はチームで動くよりもひとりで自由に仕事をしたいという気持ち、本当に心が動いたときにつくりたいという衝動を大切にしています」つくり始めた当時と現在で大きく違うのは、SNSの存在だという。
「ウェブサイトは比較的早くから立ち上げていますが、2018年ごろから受注はストップしています。今後少しずつ受注を再開するとすれば、 SNS経由が多い気がしますね」
ひとりで、かつ手作業に重きをおきつつも、「現代においてはいわゆる加工クオリティを追求する意味での手作業は死んだ」とすら、菊野氏は言い切る。ではなぜ、それをやめないのだろうか?
「できる限り手作業にこだわるのは、それが自分にとって人生に意味をもたらすものだからです。人間の仕事は細分化されるほど単純になり、機械やコンピュータで置換しやすく、効率よくクオリティの高いプロダクトもできます。でもその工程すべてを私自身が行うことで、まぎれもない個性を持った作品になる。作り手の充足感や喜びが作品を通じて伝わること、限りある人生のなかでしか交わされることのないきらめきやはかなさが、貴重であり魅力だと考えます。ですから、同じ時代を生きるからこその出会いというか、自分の持てる技能でパーソナライズされた時計をつくることは、一期一会のおもてなしだと思うのです」
日本の時計師として、日本的にしようと選んでいるデザインや装飾が特にあるわけではない。しかし素材や色については日本のものを使うと自然にそういう色合いや雰囲気をまとってくると考えている。
「赤銅(しゃくどう)や黒四分一(くろしぶいち)など日本独自の合金もありますし、昔の印籠時計のイメージで角型のケースを作ったこともありますね。日本人が時計を作れば、図らずとも日本ならではのものになっていくと考えています。ブランドは人が作り、人は大地が作りますから。クリエイターとして生まれ育った文化圏の価値観から影響を受けることは避けられません。大切にすべきは、従来のスイス高級時計の文脈にない日本的な新しい価値、説得力あるストーリーを描けるか、だと考えています」
巧みなバランス感覚が際立つNHウォッチ
熟練職人による手作業と最新の工作機械による加工を組み合わせたヴィンテージスタイルを完遂した現代の時計と呼ぶにふさわしいモデル。銀製ダイヤルに、ブレゲ数字インデックスは手彫りで仕上げられる。このモデルは2024年から2025年にかけて20本程度を生産予定。
セールスマーケティングの専門家である飛田直哉氏と時計師の藤田耕介氏、そして彫金師の加納圭介氏との出会いがNHウォッチの始まりとなった。飛田氏はF.P.ジュルヌやラルフローレンウォッチアンドジュエリーの日本代表を務め、藤田氏は国産メーカー勤務後、時計修理の傍らクロックなどを自作、加納氏は彫金と、みな異なる仕事をしていたが、すぐに意気投合。そのうち藤田氏が古い工作機械をしつらえた工房を立ち上げ、徐々に時計づくりプロジェクトがカタチを取りだした。
「2012年から3人でデザインやブランドの方針は決めていました。最初に独立する可能性が高かったのは私(飛田氏)で、最終的な方向性や決定は私の判断ですが、もしほかのメンバーが“こういう時計をつくりたい”というときはNHウォッチとは別に“ケイスケ・カノウ”や“コースケ・フジタ”といったブランドを立ち上げることになるかもしれません。合議制で時計のデザインを決めるとうまくいかないことが多いんですよ」
熟練職人の手作業と最先端の微細な加工や切削を組み合わせ、誰も見たことがない時計を作ろうというコンセプトは、過去の時計デザインをリスペクトしつつ、コンテンポラリーな時計づくりの存り方を示した。初めて時計を発表したのは2019年。折しもコロナ禍の直前だったが、以前からSNSによる反響と手応えは得ていたからこそ、独立と立ち上げに迷いはなかったという。
「当初は購買層の平均年齢は50代以上かと予想していたのですが、本当に驚くようなスピードで支持が得られて、若い世代が瞬く間に増えまNH TYPE 1D。した。コロナ禍ではあちこちに行って時計を見るのが難しかったので、 SNSが発見のきっかけになったんでしょうね」
海外の顧客から“和のテイスト”を感じると言われることも増えてきた。京都出身の飛田氏は、特に日本風を意識しているわけではないと、にべもなく述べる。
「“日本市場向け限定モデル”を複数のブランドでてがけていた分、自分の理想とするものを生み出したい。それがコンセプトというか、きっかけですからね。デザイン上、和は意識していませんが、比較的“空白が多い”ことや、文字盤にビーズブラストをかけたザラッとした質感がそう解釈されるんでしょう。侘び寂びとも言われることがありますが、自分でも理解したいぐらいです(笑)。日本やアジアではオールドスクールな時計デザインが強いんでしょうね。海外ではあまり見かけないですが、日本では若い人でもそういうテイストが好きで、シャトンやウルフティースまでにもこだわりたいという傾向を感じることがあります」
NHウォッチが好むのは懐中時計の時代から1930年代、あるいは50 ~60年代で、アールデコやミッドセンチュリーに手彫りのインデックスや高精細のエッチングを組み合わせるのが楽しいという。
「ビジネスで考えたら同じタイプ、型式の時計を100本作るほうが楽で、利益率も圧倒的に改善されます。でも、そうすると自分の好きなものにリソースが割けないんです。作りたいものがたくさんあること、飽きられないようにすること。だから意図的に少量・多品種で作り続けていきます。私たちは独立時計師ではなく、マイクロ時計会社ですからね」
独自ムーブメントの夢を実現したマサズパスタイム
2024年にリリースされたマサズパスタイムのオリジナルウォッチ。右は凪、左は蒼黒の名を与えられたモデル。前者はどこまでも広がる水平線のように、柔らかな膨らみを持った大きなダイヤルを特徴とし、後者は彫金師の辻本氏が日本古来の伝統工芸、赤銅の黒染めの技法をダイヤルで再現。ムーブメントは完全オリジナル。
1990年に創業し、ヴィンテージウォッチの修理やカスタマイズで知られていた吉祥寺のマサズパスタイム。テンワや歯車の軸など、必ず摩耗するが供給が途切れて久しい、そんなさまざまなパーツを本格的にワンオフ製作しては加工する設備や技術を持つ。そうしたことを20年、25年と続けているうちに、代表の中島正晴氏は“これなら時計を作れるんじゃないか”という手応えを得たという。
「いつか独自の時計を作ってみたい」という漠然とした思いがカタチを取り始めたのは10年以上前、2013年ごろのこと。スイス人のエンジニアを迎え入れ、設計図面から起こして作りかけていた時計を来日したフィリップ・デュフォー氏に見てもらう機会があった。
「“素晴らしいけど全然日本らしくないね”と、痛いところを突かれた思いでした。実は自分でも気にかかっていたところで、設計担当者に謝って、このプロジェクトは中断しました」(中島氏)
時計づくりに集中すると本業の修理が滞ってしまうが、3年前にヒコ・みづのの研究生でA.ランゲ&ゾーネ主催のコンクールで金賞を獲った篠原那由他氏が時計師としてマサズパスタイムに加入。かくしてオリジナルウォッチプロジェクトが再び動きだした。
「Masa&Co. MPシリーズと那由他モデルでは、ムーブメントは別物です。前者はルビー、ひげゼンマイ、そしてメインスプリングのゼンマイ以外はすべて自社製で、後者は脱進機の一部にスイス製のパーツを使いながらも、設計もデザインも完全オリジナルです。スイスやドイツの独立時計師も規格品を流用してPCで設計するケースが多い印象なので、それと比べると相当にインハウス率が高いですね」(中島氏)
完全な手作業にこだわるより、機械のほうが効率のいい部分は機械にまかせ、むしろ仕上げなどは最終的に人間が手を尽くしたものが美しく結果的にいいものが得られるという。日本発の時計を自分たちの名で世に送り出す際、彼らが大切にしたのは、“長く使えること”だ。
「現行モデルの時計はデザインがきれいでおもしろいものも多いですが、ムーブメントの一部はユニット交換が前提のものもあります。ヴィンテージを長く扱ってきた身としては、“こうすれば何百年も直しながら使い続けられる”という考え方が基本なんです。今の時計の巻き芯受けは、真鍮やニッケルに鋼鉄のシャフトが当たるつくり。これではムーブメント全体を交換することになる。ヴィンテージのコピーはしませんが、昔の高級時計は受け側にも焼き入れされた鋼鉄が使われていて、減るとしても100年200年単位。その部分だけ交換すれば再び使えるようになる。そういう長く使うこを考えられたつくりを大切にしたいですね」
オリジナルウォッチはまずは完成させようという思いが先行して、ターゲット層や販売経路といったことはほぼ念頭になかったとか。だが、折しもSNSが発達してバーゼルワールドのような見本市が縮小しつつあった時期。オリジナルウォッチを世界中のコレクターに発信するチャンスが相対的に広がっていたという。今では9割以上のオーダーがSNS 経由だそうだ。篠原氏はこう続ける。
「学生時代の作品から期待してくれていた方が、オーダーしてくれるケースもあります。個人の表現を評価してくれる土壌が、世界的に広がりつつあることを感じますね」
時計として実用性は大事にしつつ、日本発の時計として“和のテイスト”を、意識して取り入れていることはあるのだろうか。
「ウチの時計は、彫金師の辻本啓が伝統工芸の技で文字盤を彫り込んだモデルもありますが、特に意識していないモデルでも日本人らしさは自然に出ていると思うんです。真面目さ、表面的に見えているもの以外でも大切にするものがある、それが日本的な感覚だと思います。長く付き合っているうちにジワジワとわかってくるというか。具体的なモチーフじゃなくても“これは日本的だな”と伝わるところがあります。逆にいえば、つくりたくないものをつくることはしません。今後、より複雑てらな時計もてがけるかもしれないですが、必要以上に奇を衒ったり複雑化することはないでしょう。寿命が短くなるのは本末転倒ですから」
泰然自若とした時計づくりは、まだ始まったばかりである。
今、世界が注目する日本の独立時計ブランド
菊野昌宏氏が初めてCNCを用いて製作した蒼(SOU)と名付けられた作品で、セイコーのNH34ムーブメントをベースにした天体表示機構が組み込まれている。
松山猛氏における機械式時計の原風景は幼少のころ。ウォルサムの懐中時計を所有していた父と一緒に、京都・九条の橋から旧国鉄の線路を見下ろしては、往来する列車の運行の正確さを測って楽しんでいたという。実用一辺倒でもなく、身を飾るためだけに携えるだけでもない。どこか懐かしく尊いアイテムという、今の機械式時計の在り方に重なる部分が多々あるといえるだろう。一方、磯貝吉秀氏が指摘するとおり、機械式時計は昔のような“一生モノの実用品”というステイタスを降りてしまって久しいが、だからこそ工芸的な仕上げの部分で、単なるアクセサリーであることを超えて、コツコツと積み上げられたノウハウや手仕事の結晶として結果的に価値を帯びる存在となった。
NHウォッチのTYPE1D-2。これをベースにケースバックに落札者が好みのデザインをカスタマイズで彫金できる。
スイス時計産業が大打撃を受けたクォーツショックの影響たけなわの時代から、ふたりはそれぞれスイスに足を運んでは、古い機械式時計や独立時計師たちの仕事ぶりに向き合ってきた。そして投機目的ではないところで独自の慧眼でもって、本質的な価値を日本にいち早く紹介した。ともすれば人々の目には古めかしく映るもの、新しく市場や消費文化のなかに出現したものであっても、あえてオールドスクールな要素を含んだ機械式時計に対する日本的な“偏愛”は、シンガポールのアワーグラスなどを経由して、英語圏や東南アジア地域に波及した。
クォーツショックから回復するスイスの時計づくりを再評価し続けたのも日本的感性だった。その伝統的な機構や仕上げを、それまでの正確さや複雑さだけではない角度から、審美性や感受性によって再発見するフォーマットを先駆けたのは、日本の時計業界なのだ。有名なスイスの独立時計師のひとり、フィリップ・デュフォー氏が2000年代に来日したとき、本国では考えられないほど多くの時計愛好家に囲まれて質問攻めに遭い、「日本の時計文化はスイスより進んでいる」と驚いたというエピソードは有名である。これまで日本のインディペンデントブランドや時計づくりは、国内を中心に盛り上がっていたイメージだが、「最近ようやくグローバルなものとなり、高級時計を買うときに日本の時計が選択肢に入るようになってきたと感じる」と、菊野昌宏氏は証言する。インバウンド観光が伸び、ある程度、日本の文化を知る人々が増えたという外的要因もあるが、内的要因によるところが大きいだろう。
マサズパスタイムに所属する篠原那由他氏がてがける那由他モデル A 刻。通常モデルをベースに、彫金師の辻本啓氏が特別にハンドエングレービングの唐草模様を施した。
ディテールや仕上げに並々ならぬこだわりと情熱を注ぐ日本的な時計への偏愛は、いまや国内のみならず海外のコレクターたちも一目置くに至った。ヴィンテージウォッチにおいて、日本の時計愛好家が所有していたコレクションは“ジャパニーズクオリティ”として高品質の同義語として世界的に受け入れられており、本稿で取材をした独立時計師・独立時計ブランドの顧客もその多くは海外のコレクターたちである。そうした日本市場の世界的な評価の高まりは著名なオークションハウスであるフィリップスをも動かし、2024年11月には日本をテーマにした史上初のテーマオークション、TOK(I 刻)が開催されるほど海外のコレクターたちの関心を集める。同オークションでは、菊野昌宏氏、NHウォッチ、そしてマサズパスタイムが特別な時計を製作したが、右に掲載した時計はいずれもそこで出品された時計たちだ。本稿はオークション開催前に執筆したものであるため、その結果については知る由もない。だが、間違いなくひとつ言えることは、日本の独立時計師・独立時計ブランドの歴史における重要な1ページとなったということであろう。
Words by Kazuhiro Nanyo, Photographs by Keita Takahashi
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