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私はたくさんのレコードを所有していて家では常に音楽を流しているが、一番リラックスさせてくれるのは、クロックの音だ。カチコチという音だけではなく、私が育った農場の家にあった何十個ものクロックが奏でる機械音や15分毎のウェストミンスターのような鐘の音などだ。本当に壁一面に掛け時計があって、その数は3桁にものぼった。後年、妻のアンとミシシッピの両親を訪ねたとき、娘たちはその音に囲まれて夜も眠れないほどだったが、私はほっとして、あぁ家に帰ってきたのだなと実感したものだ。
私の父はアンティークのクロックを収集し、修理もしていたが、それは愛好家というよりも、専門家に近い域に達していた。父は独学で学んでいたが、人々は修理してもらうためにさまざまなクロックを持ち込んだ。今でいう副業のようなものだが、彼にとっては商売よりも好奇心や技術への愛情が大きかったようだ。私の記憶の中にあるその姿は、庭で椿の花を手入れしているか工房で時計をいじっているかのどちらかだった。
カーポートを挟んで家の反対側に作業場があった。あの小屋では時間が止まったような感覚になるというと言い過ぎかもしれないが、父が目指していたのはそういうことだったのだと歳を重ねて気づいた。静かに集中し目の前の作業に没頭することで、しばらくのあいだ、他のことを忘れられる。彼はもともと腕時計やクロックが好きだったが、兄のキニーが17歳のときに嚢胞性線維症で亡くなってから本格的に追求するようになったように思う。キニーと2人の姉たちは、3人とも年の近い兄姉だったが、私はそれよりもずっと後に生まれた。両親は、同じ病気の子供が生まれる確率を知っていた。私にも子供がいるが、新生児の私が退院前に嚢胞性線維症のスクリーニングをする「汗試験」に合格したとき、両親が感じたであろう大きな安堵感は想像を超える。
長男を亡くしてから、父は作業場で過ごすことが多くなった。翌年には姉たちが大学に進学し、6人暮らしだった家が急に3人暮らしになった。その空間を文字通り埋めてくれたのが時計だったのだ。この頃から時計に関する作業が本格的になってきた。振り返ってみると、作業場はコントロール可能な環境であり、予測可能な論理に従っていた。 これは彼の本業である化学者としての仕事にも似ていたのだ。たくさんの実験をするが、最終的には正確さが勝負だった。
クロックは触覚的で有限であり、すべての部品が完璧に合うように加工され動くか動かないかのどちらか―その中間はなかった。時計のネジを巻くと、24時間でも8日でも、どんなムーブメントでも同じように繰り返し動き続ける。それからの数年間、私はフットボールや野球、バンドの練習などから帰ってくると、どこに父がいるのか正確にわかった。床には削りくずが落ちたあのむし暑い小屋の中で、テーブルの上には精密ドライバーが丁寧に並べられて、ルーペを頭に装着した父が分解されたクロックを深く覗き込んでいるのだ。
修理を趣味とする多くの人がそうであるように、彼もまた収集が大好きだった。彼の専門はアーリーアメリカン・クロックで、19世紀前半に流行した木製ケースに入った装飾的なものだった。家の中にはセス・トーマスやE・ハワードがたくさんあり、それに本当にクールなJ.N.ダニング・ギャラリー・クロックもあった。マントルピースの上に何十個も並んでいたり、リビングのテレビの両脇に何列も並んでいたり、寝室に続く廊下には何個も祖父のクロックがあったり......。子どもの頃はどれも同じに見えると思っていたが、確かにその時代の時計には一貫した特徴があった。しかし、父はニュアンスや目的の微妙な違いをとても楽しんでいた。彼はコレクションを年代順に並べていた(当然ですよね?)。1836年版の次は1837年版、その次は1838年版というように。それらを巻き上げて時間を合わせるのは、自分なりの儀式だったのだろう。どれだけ時間がかかったかはわからない。本人に聞いてみたかったものだ。
家のクロックは全て動いていた。動かなければ作業場に置いてあった。時計の音がバックグラウンドノイズのようでもあったが、60分毎に家中の色んなチャイムやベルが時を告げると素晴らしい間奏曲が流れるようだった。私はこの音が大好きだった。
私が最初に興味をもったのは、船のクロックだった。真鍮製のセス・トーマスで、ポーセリンダイヤル、ローマ数字の文字盤に船鐘が付いていた。30分ごとに1回、4時、8時、12時にそれぞれ8回の鐘を鳴らし、船員に見張りの終わりを知らせる。この時計は巻くのはとても格好良かった......ムーブメント用と鐘用の2つのホルダーがあって、とにかく美しい。アトランタの店にも同じような船の時計があって、その下には同じくブラックフェイスのチェルシーベークライトのものがある。2007年のオープンの際に、父が遊びに来て手伝ってくれたのだが、父がこの時計をとても気に入っていたのを覚えている。
船のクロックもいいが、父から譲り受けた私のお気に入りのひとつはジャガー・ルクルトのアトモス。気圧を利用して時を刻むので、巻き上げる必要がない。これほどクールなものはない。色んな意味で、彼のコレクションの中では異例の品だったのだろう。木ではなく金メッキされた真鍮で、実用的というよりスタイリッシュで、アメリカ製ではなくフランス製だった。私がこれを手に入れたことを、彼はきっと笑うだろう。とても洗練されていて、デザイン性も高い。信じられないくらい素晴らしい作品だ。
私は彼の古い懐中時計のコレクションも所有している。どう扱ったらいいかわからない美品たちだが、時々取り出してチェックしている。また、妻のアンがたまにつけているレザーストラップの古いハミルトンもある。私には少し小さいが、彼女が身につけているのを見るのが好きだ。
私の父はさまざまな面で素晴らしかった。今考えると、兄を亡くしたことで、父はクロックコレクターになった以上の変化があったのかもしれない。家では、週に3日は教会に行き、毎晩同じ時間に食卓につくという、典型的な南部バプティストの厳格な雰囲気があった。しかし、1969年に私たちが6人ではなく3人になってから、両親は今あるものに最大限感謝することを学んだのだと思う。考えてみると面白い話だが、父は厳格な性格にもかかわらず、私が自分らしくあることをほとんど認めてくれていた。救世軍で見つけた変わったもの(特にプロムのタキシード)や、母にジーンズの裾を絞って縫ってもらったり、シャツの襟を切ってマオカラーにしてもらったりするのを、笑いながら見ていた。彼はそんな父が大好きだった! 父の得意分野ではなかったのに大いに楽しんでいたのだ。
私がニューヨークのパーソンズ美術大学かFIT ファッション工科大学に行ってデザインを学びたいと言ったとき、それは一線を越えたようだ。彼は「息子よ、普通の学校の費用は出すから、それから先は何をやってもいいぞ」と言ってくれた。そこで、ミシシッピ大学で4年間楽しく過ごしたあと、シボレー・モンテカルロを売って、ニューヨークに移ることにした。卒業して1週間後くらいだったと思う。父は私を空港まで送ってくれた。そしてハグと握手とたくさんの愛で私を見送ってくれたのだ。
NAWCCは、私の父が入っていた同人会に最も近いものだ。全米時計蒐集協会(National Association of Watch & Clock Collectors)の呼び名だ。皆さんの中にもメンバーがいるのではないだろうか? 父はフェローだった。つまり、「時計学の分野と協会の運営に対しての貴重な貢献者 」という役割を真剣に考えていたことを意味する。コレクションの魅力のひとつは、共通の関心をもつことで得られるコミュニティ、仲間意識、親睦だ。NAWCCの仲間たちはみんな友愛に満ちていた。
父と母がクロックの会合に出かけて、私が家を独り占めする週末が大好きだったのを覚えている。私自身も最近、NAWCCの会員になった。父、ジミー・K(ジェームズ・キンケード・マッシュバーン)に敬意を表してのこともあるが、私自身がそうしたかったこともある。私はクロックが好きなのだ。だが好きになったのは、父にとって時計がどのような意味をもっていたのか理解するためでもある。父は趣味を本当の情熱に変え、それが後半の人生を切り開いていったのだと思う。父は2010年に亡くなった。毎日が寂しいが、時計の音を聞くたびに父のことを思い出すことができる。
シド・マッシュバーン氏はデザイナーであり、アトランタ、ワシントンD.C.、ダラス、ヒューストン、ロサンゼルスの5ヵ所に展開するメンズウェアショップの経営者でもある。オンラインはこちら。