数週間前、ヨハン・ブレイク(Yohan Blake)が着用していたリシャール・ミル RM 38のプロトタイプがオークションに出品されました。この時計は、彼が2012年のロンドンオリンピックで史上最速の男ウサイン・ボルト(Usain Bolt)と争った100m決勝で実際に身につけていたものであり、非常に貴重な1本です。当時メディアの注目はウサイン・ボルトに集中していましたが、ヨハン・ブレイクはその年の世界王者でした。ボルトと競い合うだけでも並大抵のことではありませんが、それに加えて“世界王者”としての重圧がのしかかっていました。そんな舞台で、たとえ数gでも余分なものは排除するのがトップアスリートとして当然の選択でしょう。ですが、彼の手首には、あのリシャール・ミルの時計が輝いていました。まさに“常識を覆す”存在として。
ヨハン・ブレイクのリシャール・ミル RM 38 プロトタイプ。
リシャール・ミルのブランド&パートナーシップ ディレクターであるアマンダ・ミル(Amanda Mille)に、この出来事について尋ねたところ、驚くべき事実が明かされました。「当初、彼に競技中につけて欲しいという話は挙がっていなかったんです。当時はアスリートがこうしたものをレース中に身につけることは認められていませんでした。でも、彼はそれをつけて出場したのです」。少なくとも私の目には、この瞬間が、創業から10年足らずの若いブランドだったリシャール・ミルにとって、大きな転機となった出来事のように映りました。オリンピックという世界最大の舞台で、その名を世界に知らしめるきっかけになったのです。
私自身、それまでリシャール・ミルというブランドについて耳にしたことすらありませんでした。しかも当時の印象では、RM 38はかさばっていて重そうに見えました。だからこそ、なぜ彼があの大舞台で、スピードを犠牲にする可能性すらある時計をわざわざつけていたのか、理解に苦しみました。それから12年後。私がHODINKEEにジョインして間もないある日、初めてリシャール・ミルの時計を試着する機会が訪れました。価格はなんと70万ドル(当時のレートで約1億400万円)。手に汗をにじませながら腕に装着したその瞬間、すべてが腑に落ちたのです。
2012年ロンドン五輪100m決勝での決勝写真。Image via Getty Images.
アスリートと時計との結びつきは、時計史上に残る巧みなスポーツマーケティングキャンペーンの数々を生み出してきました。その最初の例とされるのが、1927年にメルセデス・グライツ(Mercedes Gleitze)がロレックスを首から下げ、ドーバー海峡を泳いで横断したエピソードです。まるで「時計は実際に身につけて使うもの」とでもいうように、アスリートとのパートナーシップの先駆けとなるような出来事でした。しかし現代においてスポーツ中に着用される時計といえば、その多くは自動車競技に関連したものが中心です。装着による重量の影響はごくわずかです。ですが、ランニング競技や、ローラン・ギャロス・スタジアムでの決勝の舞台で戦うラファエル・ナダル(Rafael Nadal)、全米女子オープンの最終18番ホールに挑むネリー・コルダ(Nelly Korda)といったアスリートたちにとっては、1gの差ですら勝負に影響を及ぼしかねません。それにもかかわらず、彼らは実際にリシャール・ミルの時計を身につけて競技に臨んでいます。さらには、数百万ドル規模の費用をかけて風洞実験を行い、ヘルメットやバイクの空力性能をミリ単位で最適化しているサイクリング界においても、世界最高峰のサイクリストであるタデイ・ポガチャル(Tadej Pogačar)が自身のシグネチャーモデルであるリシャール・ミルをツール・ド・フランスのような過酷なレース中にも着用しています。この事実を踏まえて、私からリシャール・ミルのブランド&パートナーシップ ディレクター、アマンダ・ミルに投げかけた最も大きな疑問はひとつが“なぜ世界屈指のトップアスリートたちは、競技中にリシャール・ミルをつけることを受け入れているのか”、ということでした。
彼女の答えは非常にシンプルでした。それは、アスリートたちとのあいだに築かれた“信頼関係”に尽きるということです。「私たちは“アンバサダー”ではなく“パートナー”と呼んでいます。なぜなら、私たちは人生を共に歩むパートナーであり、共に成長していく存在だからです」。アスリートに対する誠実な姿勢と、長期的な関係構築を重視するこのアプローチこそが、彼らのマーケティング戦略を成功へと導いた大きな要因です。
この“信頼関係”は、ブランドとアスリートとのあいだに確かな絆を生み出しています。アマンダはこうも語ります。「たとえば世界的な走り高跳びの選手、ムタズ・バルシム(Mutaz Barshim)のように、金メダル獲得のために何年もかけて努力してきたアスリートが、もし腕時計でバーに触れて失敗してしまったら。その4年間がすべて無駄になる可能性だってあります。それでもつけてくれるというのは、まさに信頼関係の証です」
レース中にジャージは破れ、体からは血が流れていても、ポガチャルのリシャール・ミルは無傷でした。Image via Getty Images.
こうした関係性の積み重ねが、この10年間で最も効果的かつ静かな影響力を持つマーケティングキャンペーンを築き上げました。リュクスコンサルトおよびモルガン・スタンレーのリサーチによると、リシャール・ミルは現在、売上規模において業界第6位の時計ブランドとなっています。2001年創業という新興ブランドであることを考えれば、この快挙の背景にアスリートとのパートナーシップ戦略が大きく貢献しているのは明らかです。
もちろんリシャール・ミルの高価格帯については、誰もが知るところであり、そのごく一部ですら私には手が届きません。ですが、それでもなお、このブランドには強く引かれてしまう魅力があります。これまでリシャール・ミルの広告を目にした記憶はほとんどありません。もしかしたらどこかで見たことがあるのかもしれませんが、もし印象に残っていないのだとすれば、その広告は成功していなかったということなのでしょう。ですが、2012年のロンドンオリンピックでヨハン・ブレイクがつけていたリシャール・ミルの姿は今もはっきりと覚えていますし、ラファエル・ナダルがローラン・ギャロスでつけていたあの瞬間も記憶に焼きついています。それこそが、この記事を書くきっかけとなった強烈な体験だったのです。
全米女子オープンでのネリー・コルダのチッピング。Image via Getty Images.
スポーツ側の視点を得るために、私はCitius Mag(陸上競技界の有力メディア)の創設者であり、同競技における影響力のある声のひとつであるクリス・チャベス(Chris Chavez)に話を聞きました。彼はリシャール・ミルの戦略が、陸上競技界全体に広がりつつあると指摘します。「オリンピックのサイクルごとに、ラグジュアリーウォッチが陸上競技のなかで存在感を強めているのがはっきりとわかります。2016年にはウェイド・バンニーキルク(Wade van Niekerk)が400mの世界記録を更新した際にもリシャール・ミルをつけていましたし、シェリー=アン・フレーザー=プライス(Shelly-Ann Fraser-Pryce、史上最高の女子スプリンターのひとり)もリシャール・ミルのパートナーで、実際にレースで着用しています」。チャベスはまた、この取り組みがブランドにもたらす価値についても言及しました。「リシャール・ミルのようなブランドにとって、公式スポンサーではない国際的なスポーツイベントへ投資する方法のひとつなのです。ダイヤモンドリーグ(世界的な陸上競技大会シリーズ)の公式タイムキーパーはセイコーで、オリンピックはオメガです。これらのロゴはスタジアム中に掲示されていますが、実際に観客の目を引くのはロゴではなくアスリートたちなのです」
高級時計の価格が急騰している現在、それらはより貴重で慎重に扱われるべきものとなっています。しかし皮肉なことに、これは時計本来の目的(極限の環境下で身につけられる実用品であるという考え)とは相反するものです。これはロレックスが何十年もかけて築いてきたマーケティング戦略の核心でもあります。現代では、タイムキーピングという機能はその他の最新技術に置き換えられており、スポーツ中に腕時計を必要とする場面はほとんどありません。それでも、トップアスリートたちは競技中に時計を着用しています。テニス選手が試合中に時間を確認することはなく、スプリンターが自分でタイムを計ることもありません。それでも時計は手首に残っています。この現象は、古くからある“競技中に装身具を身につける”という伝統、まるで精神的なお守りや戦における鎧のような役割とつながっているのかもしれません。「見た目が整い、気分が上がれば、結果にも表れる」のです。現代スポーツの最高峰の舞台において、アスリートの手首に時計があるとすれば、それがリシャール・ミルである確率は非常に高いです。リシャール・ミルのアプローチが特筆すべき点は、それらの時計がアスリートに競技的な優位性をもたらすわけではないにもかかわらず、“行動を共にする時計”という本来のスピリットを復活させている点にあります。観賞用ではなく、実際に使用される道具としての時計。それをトップレベルの競技の場で、たとえ象徴的な意味であっても見せていることは非常に興味深いです。
2010年、全仏オープンでのラファエル・ナダル。Image via Getty Images.
さらに興味深いのは、ブランド側が“使用による傷や損耗”をむしろ歓迎している点です。この件についてリシャール・ミルはこう語ります。「おもしろいことに、アスリートたちはたいてい時計に傷をつけたり壊したりすることをとても恐れています。でも私たちは“どんどん使ってください! 思いきり楽しんで、ぜひフィードバックを聞かせてください。なぜなら、そもそもそのために作られているのですから”と伝えているのです」
また、リシャール・ミルのこの独特な姿勢は、パートナー選びの手法にも表れています。単に有名選手を起用するのではなく、自然発生的な関係性を重視しているのです。「私たちは、“誰も知らないころから共にいる”というのが大好きなのです。才能ある若い選手たちが自分の力でトップにたどりつけるよう、少しでも自由を与えて支えることが私たちの喜びです」。F1ドライバーのシャルル・ルクレール(Charles Leclerc)もその一例です。「彼がカートをやっていたころから私たちは共にありました。まだ誰にも知られていない時代です。そしていまや、彼はフェラーリのドライバーになっています。これは“有名な人の手首にただ時計を乗せる”という行為とはまったく異なるものです。そんなことは誰にでもできますし、意味がありません」
3月10日にイタリアで開催されたステージレース、ティレーノ〜アドリアティコに出場する世界屈指のサイクリスト、マチュー・ファンデルプール(Mathieu van der Poel)。 Image via Getty Images.
競技中にラグジュアリーウォッチを身につけるという、一見矛盾した行為についてチャベスに尋ねたところ、興味深い視点を提示してくれました。「確かに、“重さがパフォーマンスに影響するのでは?”という指摘もあるでしょう。でも実際のところ、彼らはスタートラインでネックレスを何本もつけていたりします。もし空気抵抗を最小限にしたいのであれば、皆スキンヘッドにするはずです。実際のタイムに与える影響は、そこまで大きなものではないのです」
また、陸上競技における経済的な現実についても触れました。「陸上選手たちは、ルイス・ハミルトン(Lewis Hamilton)やラファエル・ナダルのようなレベルの報酬は得られていません。だからこそ、オリンピックのサイクルごとに巡ってくるこうした高額なスポンサーシップのチャンスは、簡単に断れるものではないのです」。さらにチャベスは、ときには「決勝写真で最初にフィニッシュラインを越えるのが、選手の体よりもその腕時計であることさえある」と語りました。もしそれを生かせば、極上のマーケティングキャンペーンになるかもしれません。
東京オリンピックでリシャール・ミルを着用したバルシムが、金メダルを獲得しました。 Image via Getty. Image
私がなぜ、こんな話を持ち出したのか? 「このタイトル、釣りなのでは?」と思った方もいらっしゃるかもしれません。そして「これは一体何が言いたいのか?」、「そもそもブレイクはスプリンターだってわかっているのか?」といった疑問を抱かれた方もいるでしょう。もっともなご意見です。タイトルが“釣り”かどうかについて言えば、それは“半分だけ”と答えておきましょう。リシャール・ミルをつけてマラソンを走ることができるか? その答えは、「望むなら、可能である」です。では、私自身がつけて走ることができるのか? まずは1本入手する必要があるでしょうし、あるいはクロスカントリー経験者の警備担当を探す必要もあります。とはいえ、決して不可能な話ではありません。もしこの企画を実現すべきだと思った方がいらっしゃれば、ぜひコメント欄で教えてください。
来週のWatches & Wondersでは、HODINKEEのページに数々の新作時計が登場することでしょう。私自身、もちろん新作には大いに期待しています。しかしそれと同じくらい楽しみにしているのは、それらの時計を人々が“どのように身につけるのか”を見ることです。
なぜなら、アマンダ・ミルの言葉を借りれば、「一緒に美しいことを成し遂げるには、それが唯一の方法」なのですから。