怒涛の工房見学。HODINKEEに勤めて数年という短いあいだに、私は幸運にも世界トップクラスの時計メーカー数社の舞台裏をのぞくことができた。ほかのメーカーは、複雑機構、デザイン、精度、手作業、あるいは生産量に重点を置いているかもしれないが、少なくとも私にとって、グランドセイコーほどそのすべてを兼ね備えているブランドは存在しない。日本から帰国したばかりの私は、この1週間の旅で目にしたあらゆることに興奮冷めやらぬままでいる。
セイコーは2000年代初頭から“メディア向けの見学会”を実施しており、ジャーナリストたちをセイコーおよびグランドセイコーの工場に案内してきた。2010年のGSブランドの世界展開に伴い、同社は個別のツアーを開始した。HODINKEEは2015年の取材とその前後にも数回訪れているが、2020年のパンデミックを受けた渡航の休止に伴い、グランドセイコーへの取材旅行は休止していた。とはいえこれはほかのメディアも同じような経験をしているかもしれない。取材にあたって、現在のグランドセイコーを形作ってきた最も影響力のある人たちに対して、私の個人的な視点と、可能であればひと味違ったクリエイティブな質問をぶつけようと決めていた。
ブランドは私たちの取材に最大限協力してくれたものの、いくつかの場面で機密上の理由で撮影が許可されなかった。時計に無関係なことはほぼ割愛するつもりだが、実はグランドセイコーの取材旅行では時計以外の体験も重要な役目を担っている。今回の取材の目的は、ブランドの背後にある作品と、その作品に影響を与えている日本の文化を理解することだった。また初めて日本に来たというだけでも有意義な経験だった、実は私の父が子どものころ、日本に数年間住んでいたことがあり、この取材旅行のおかげで父が住んでいた街を訪れることができ、父が最初に住んだホテルにも泊まることができた。当時から日本は大きく変わったが、昔と変わらないものもある。
これまでの取材からグランドセイコーが大きく変わったのは、グランドセイコーの機械式時計のすべてを手がけるグランドセイコースタジオ 雫石が開設されたことだ。2021年にはSLGH005“白樺”でGPHGメンズ賞を、2022年にはKodo “鼓動”でGPHGクロノメーター賞を受賞している。この2モデル、のみならずもっと多くのモデルを、日本各地の取材旅行で見ることができるだろう。もしあなたがグランドセイコーファンで日本に渡航する予定があるなら、これはまたとないガイド記事になるかもしれない(ただし、本取材ツアーの多くの部分は一般公開されていない)。それ以外の人は、かつての私がそうであったように同社の時計がどのようにつくられているのか、そして存在自体知らなかったモデルを垣間見ることができるかもしれない。
1日目: 東京にてセイコーハウス、和光本店、Kodoの設計者川内谷卓磨氏との面会ほか
セイコーハウスに到着したのは月曜のこと。1932年に建てられたこの建物(旧服部時計店)は、日本を代表する商業施設のひとつとなっている。ビルの最上部にあるセイコーの4面時計は、天気予報から『ゴジラ-1.0』劇中の“破壊シーン”まで、あらゆる場面で登場する。1945年1月27日、B29スーパーフォートレス爆撃機が銀座の大部分を爆撃した。奇跡的に服部時計店の建物は軽微な被害で生き残り、後に連合国軍最高司令官総司令部がPX(軍駐屯地の売店)として接収した。このビルは1952年にセイコーに返還され、セイコーの店舗兼オフィススペースとして使用された(通常オフィスは徒歩10分の距離にある)。
GSグローバル本部長兼執行役員である柴﨑宗久氏(セイコーウオッチ事業部の元米国CEOとしてご存じの方もいらっしゃるだろう)の挨拶とブランドの歴史のレクチャーを受けたあと、エレベーターで7階に上がってアトリエ銀座を訪れた。左側の窓際にガラスの箱が見えること以外は、巨大なブリーフィングルームのような空間となっている。ガラス越しに見えるのは湿度と温度が管理されたクリーンルームで、ここではブランドのトップクラスの時計師たちが最も複雑な製品に取り組んでいる。
私はすぐに有名な川内谷卓磨氏を見つけた。音楽活動についてはいざ知らず、GPHGクロノメトリー賞を受賞したKodoに結実したコンセプトモデル「T0 コンスタントフォース・トゥールビヨン」の考案者として、時計ファンにはつとに知られている。川内谷氏をガラス越しに撮影しても作業に集中しているためかまったくこちらに気付かないため、セイコーの社員が白衣を着てクリーンルームに入り、プレゼンテーションのために彼を連れ出して来てくれた。
アトリエの正面にはT0のコンセプトモデルが展示され、その横にはGPHG賞が掲げられ、Kodoのトゥールビヨンとコンスタントフォースケージの特大デモモデルが展示されている。またアトリエ内では時計師たちの簡単な経歴(日英)が紹介されていた。アトリエは “水族館”のような雰囲気で、作業しているチームの邪魔をしているようで、なんだか気恥ずかしさを感じてしまった。7階は完全招待制で、気が散らないように作業するためにチームが応対できるのは週に1組だけだという。ようやくクリーンルームから出てきた川内谷氏は、今度の会議で使うプレゼンテーションのプレビューを務めてくれた。しかしその過程で、私は川内谷氏自身についてさらに多くのことを学んだ。
「工業大学と時計学校で学んだのち、セイコーに入社しました」。川内谷氏は語った。「約10年間、研究開発部門で働きましたが、工学の知識と時計学校で磨いた技術を生かすことができました。研究開発部門の仕事は楽しかったのですが、徐々に違和感を覚えるようになりました。その違和感は、ギタリストとしての経歴というもうひとつの側面があったからです。時計師になる前、私は現役のギタリストでした。10年ほど前から私のなかのアーティストの血が、日本の時計づくりが合理性や機能性を重視しすぎて、人の感情に訴えることを忘れていると訴えていました」
「そこで私は、エンジニアとしての声とアーティストとしての声に耳を傾け、それを時計づくりに生かすことにしたのです。エンジニアとしては、精度や耐久性といった機能性、数字で定量化できるものを追求しました。アーティストとしては時計の外観や音など、感情に訴えかける要素を追求しました。私の軌跡はエンジニアリングとアートの声を調和させるプロセスで、その結果誕生したのがKodo コンスタントフォース・トゥールビヨンなのです」
「時計に表現される芸術性というと、美しく磨き上げられたジャンパーやエングレービングといった職人技をまず思い浮かべますよね。ただウォッチメイキングの芸術性とは、こうした伝統的な技術を超越したものです。芸術とは五感を通じて人の心を動かす表現や作品だと定義しましょう。この場合、時計のメカニズムの動きやメカニズムが生み出す音もまた、時計ならではの芸術表現といえるでしょう。Kodoでは、動きとサウンドというふたつの芸術表現に取り組みたかったのです」
彼の話の続きは省くが、Kodoが芸術的なデザイン、機能性、そしてサウンドというあらゆる面で素晴らしい音(ダジャレではなく)を奏でているのは実に印象的だ。この時計については何度か記事にしているため(新作 “薄明”モデルを含め)、詳しくはそちらをご覧いただきたい。別れる前に、川内谷氏にいくつか質問を投げかけた。マニアが戸惑うポイントとしてよく挙げるふたつが、驚異的な価格とスケルトンデザインだ。
「最初のコンセプトを練っていたときは、オープンプロジェクトというか、社内のどのブランドからこの新機構をリリースするかは決まっていませんでした」。つまり、クレドールからリリースすることもあり得たということかもしれない。「そのため枠にとらわれることなく、シンプルに理想的な時計をつくることが目的でした。今までにない新しい美的感覚と美しさで、傑出したものをつくりたかったのです。コンセプトが出来上がったあと、この新機構をグランドセイコーとして発表することになりました。そこからはやはりクリエーションの美学を生かして、スケルトンムーブメントの美学を保ちつつ、グランドセイコーとして真にユニークで独創的なものを世に送り出したいと考えたのです」
日本では季節外れの酷暑が続いているが、セイコーハウスの屋上で名作時計を見学したときほど、その厳しさを感じたことはない。ただゴジラがこの時計に恨みを抱いて、破壊に執着しているようなのは残念だった。太陽が照りつけるなか、冷房の効いた会場に移動する前に写真を撮った。
次に私たちは和光本店のブティック(グランドセイコーフラッグシップブティック 銀座)に降りていった、1階にはセイコーのほか、IWC、パネライ、ブレゲ、ジャガー・ルクルト、グラスヒュッテ・オリジナル、フランク・ミュラー、ボーム&メルシエ、ピアジェなどの舶来ブランドが並んでいる。和光の内部は撮影禁止だったが、例外的にブランドの歴史を紹介する展示の撮影は許可された。2階はグランドセイコーとクレドールサロンだ。
ふたつのフロアにグランドセイコーの基本的にすべての現行モデル(日本国内市場限定モデルや和光ブティック限定モデルを含む)が展示されているほか、ダイヤルとケースを選んで自分だけの1本をつくることができるオーダーメイドのグランドセイコー ビスポークウオッチも用意されており、納期は1年強ほどだ。これらのモデルはプレシャスメタル(貴金属)でケースをつくらなければならず、オプションの組み合わせで価格は10万ドル(日本円で約1400万円)を超えることもある。しかし一部の(裕福な)グランドセイコーファンにとっては、オーダーメイドの作品を手にすることが、コレクションのアガりになるかもしれない。
和光本店のブティック2階では、メーカーによるメンテナンスや鑑定が完了した「グランドセイコー ファインビンテージウオッチ」も時々取り扱っている。ただこれらの時計の売れ行きは好調らしく、私が訪れたときには完売していた。
セイコーミュージアムは週の後半に訪れる予定だが、2階にある柱の周りには、実に魅力的な歴史的ミニ展示がある。グランドセイコーの歴史の多くが網羅されており、その系譜は“グランドセイコーファースト”から始まっている。
日本でのショッピングの醍醐味のひとつは、米ドルに対する有利な為替レートに加えて、JDM(日本国内市場)モデルや銀座ブティック限定品にアクセスできることだ。柱の両側は、銀座のフラッグシップブティック限定品専用のスペースになっている。これらの時計の多くで、グランドセイコーは“ブレゲ”スタイルのアラビア数字をダイヤルに配するという異例の決断を下した。これは現行グランドセイコーのなかで唯一、数字インデックスを採用した時計のひとつである。サーモンダイヤルを採用した最新の和光限定モデルも見ることができたが、こちらはグランドセイコーのチームでさえ、この時計のことをまだ知らない者もいたほどだ。
また1967年にヌーシャテル天文台のコンテストで入賞したキャリバーも展示されていた。時計業界の常識を覆し、世界の舞台でセイコーの実力を証明した時計だ。賞状のコピーに加えCal.052の実機も展示されていた。
東京での最後の訪問地では、非常にトレンディな表参道にある最新のグランドセイコーブティックに立ち寄った。銀座が日本で最も地価が高いのに対し、表参道は最も物価が急騰しているエリアだ。この新しいブティックは、オープン展示された時計に実際に触れられるようグランドセイコーの新しい試みが盛り込まれている。
2日目: セイコーエプソン塩尻事業所と信州 時の匠工房。スプリングドライブ、9Fクオーツ、マイクロアーティスト工房の本拠地 へ
1日目の予定が終了し、2時間半のドライブのあと、小淵沢町のホテルに到着し、この旅でいちばん長い1日の疲れを癒やした。ホテルを出ると、グランドセイコーの工芸に多大なインスピレーションを与えている大自然を初めて目にした。時差ボケとカフェイン不足で赤松林の写真を撮ることを失念したが、グランドセイコーのダイヤルモチーフになった諏訪湖を見ることができた。
塩尻市に入ると、セイコーエプソン塩尻事業所が見えてきた。セイコーの建物にエプソンの名があることに戸惑うのは、おそらくあなただけではないだろう。多くの日本企業と同様、セイコーも非常に分かりにくい企業構造を持っているが、セイコーエプソンは1942年に設立された前身の会社にさかのぼる。1964年に開催された東京オリンピックの公式計時を担当することになったセイコーは、印刷用タイマーを提供する必要があった。1968年、同社は世界初の小型プリンターEP-101(EPはエレクトロニック・プリンターの略)を製造し、やがて社名は“エレクトロニック・プリンターの息子”を意味するエプソンに変わった。
時計愛好家にとってさらに重要なことは、セイコーエプソン株式会社が信州 時の匠工房を擁することである。この工房はセイコーのスプリングドライブ、クォーツ、GPS関連の全技術の製造および研究開発を担っている。セイコーウオッチ株式会社はクレドール、セイコー、グランドセイコーの販売、マーケティング、製造、研究開発を統括している。信州 時の匠工房は世界でも数少ない完全自社一貫生産のマニュファクチュールであり、そこで行われている事業の一部でも見ることができるのはかなり珍しいことだ。
私たちはグランドセイコーのスプリングドライブとクォーツモデルの組み立てから見学を始めた。クリーンルーム内に立ち入ったり、製造工程を間近で観察したりすることはできなかったが、グランドセイコーでは時計師や組み立てチームの作業風景をライブ映像で紹介している。
ここでは、時計師がバックラッシュ自動調整機構用のバネを加工している。通常、クォーツウォッチは秒針のブレやバックラッシュが目に見える形で発生するため、(いくらクォーツが高精度であっても)時刻表示の精度が落ちる。名取久仁春氏と9F系開発チームは、輪列の一部にヒゲゼンマイを採用することで機構からトルクを緩衝し、よりスムーズにほかの輪列に伝達できるようにした。非常に精密でデリケートな作業だが、そのタスクを達成するための時計師たちのキビキビとした動作には感心させられた。
もうひとつのデリケートな作業は、針のセッティングだ。作業者はダイヤルに傷をつけることなく、手作業で針を配置しなければならない。SBGA211“雪白”のような時計では、針はすべて2mmのスペースに収めなければならず、針と針の隙間はわずか0.2mmしかない。セッティングの様子は下のスクリーン映像で見ることができる。
最後に、最終的な組み立てとケーシング(とブレスレットの取り付け)が行われるエリアを通り過ぎた。しかし次の工程に進む前に、私の目を引いたメダルの展示をお見せしたい。これらはウォッチメイキングの国際技能オリンピックでメダルを獲得したセイコーエプソン社員のものである。セイコーでは技能の継承が非常に重要視されており、個人の技能だけでなく、自分が教育を担当する部下の技能も評価される。
グランドセイコーが得意とするもののうち、ケース製造にはある種の魅力がある。グランドセイコーは、ケース製造にCNC切削加工と冷間鍛造というふたつの異なるアプローチを取っている。グランドセイコーの腕時計の裏蓋にあしらわれた獅子の紋章は、冷間鍛造で作られている。しかしグランドセイコーの主役はなんといってもザラツ研磨だ。
ザラツ研磨について聞いたことがない人向けに、以下に紹介しよう。これはグランドセイコーの完璧な歪みのないケース研磨技術を指すものだ。グランドセイコーのデザイン言語に共通するテーマである光と影の織りなす陰影を表現するために、この研磨法とサテン仕上げの表面を組み合わせることがよくある。しかしその名前とは裏腹に、日本独自の技法ではないと聞いて驚く人もいるかもしれない。
実はこの呼称は、ドイツ語の“Sallaz”の日本語読みに由来している。1950年代、セイコーが初めて手に入れた研磨機には“GEBR.SALLAZ”、つまり『ザラツ兄弟社』というメーカー名が刻印されていた。
この機械は現在もグランドセイコーのケース仕上げ工場で使用されている。スプリングドライブやクォーツに限らず、この技術を採用したすべてのグランドセイコーのケースは、セイコーエプソンを経て、熟練した職人が膨大な経験を生かし公差0.05mmまで磨き上げる。ザラツ機の大きな違いのひとつは、研磨ディスクの側面ではなく大きく平らな面を使う点だ。グレーから始まり、ピンクの部材に移ってバフをかける。最後に上のピンクのディスクで鏡面研磨を行うのだ。
グランドセイコーはこれを機械では不可能というが、その理由も納得だ。ポリッシャーの感性は(周囲の大勢のメディア関係者に我慢しながらも)際立っていた。1度で少しずつ磨きながら、彼は自分の仕事を進めていた。時折、研磨ディスクからケースを引き戻し、表面をチェックしてからもうひと作業と繰り返していた。
サテン仕上げとのコントラストを効かせた表面に仕上げるために、別の職人が角度をつけた面をガイドに、より目の荒いディスクに沿ってケースを水平に走らせる。それはゆっくりとした、入念な作業だった。この工程ではディスクは回転しないので、誰かがバンカーの砂をゆっくり慣らしているのを眺めているようだった。このふたつの仕上げの組み合わせは、ケースにきわめて明瞭なシャープさを与える。
最後に、グランドセイコーが最も得意とする(少なくとも、ぱっと見で最もよく目にする)もの、ダイヤルにたどり着いた。グランドセイコーのダイヤルには厳重に管理された技術や技法が数多く使われている。最新作の“阿寺渓谷”ダイヤルは、見学中に私の心を捉えた。グランドセイコーは雪白ダイヤルの製造工程をステップ・バイ・ステップで紹介してくれたが、ダイヤルの製造工程はモデルによって大きく異なることが分かった。
私にとって飽きることのないもののひとつがパッドプリントだ。私が最後に見たのはF.P.ジュルヌのレ・カドラニエで手作業で行われたものだったが、グランドセイコーではダイヤルとパッドが完璧に並ぶよう、もう少し先進技術を駆使している。グランドセイコーはF.P.ジュルヌよりも年間生産本数が多い(私が聞いたところでは5〜6万本と推定される)。したがってこれには納得できる。大枠は同じだ。
ダイヤルに印刷される表記のレリーフを保持するパッドにインクが引かれる。ゼラチンをパッドに押し付け、インクを浮き上がらせる。機械はパッドをスライドさせ、ゼラチンが文字(この場合“Grand Seiko”の象徴的なゴシック体)を押し付けるのに最適な位置に合わせてダイヤルを移動させる。パッドに余分なインクが残っているとそれもゼラチンに吸われてしまうため、下準備を正確に行うことが重要だ。
見学では、インデックスが所定の位置にセットされる様子なども紹介された。顕微鏡で見ないと分からないほど小さな穴がダイヤルに開いている。この穴の位置を間違えると、ダイヤルに傷がついて使えなくなってしまう。また、針がどのようにブルーに変わるのかにも魅了された。グランドセイコーの秒針の青い色合いが熱処理によるものだということは知っていたが、それが直火で炙る類ではないとは考えもしなかった。熟練した職人が発熱体の上に置かれた小さなプレートの上に針を置くのだ。彼は3本ほどの針を順番に、ほどよいタイミングで外していくのだが、色の変化を実際に確認することができる。
さまざまなセッティングスタイルと技法を駆使し、熟練の職人が1日に約50個の宝石をセッティングする。SBGD213では、プラチナケース(ホワイトゴールドよりもはるかに加工が難しい素材)に112個、ベゼルに60個のダイヤモンドがセッティングされており、工房での作業には6日以上を要することになる。
グランドセイコーの熱狂的なファン(そして裕福なコレクター)にとって、マイクロアーティスト工房の訪問は、おそらく誰もが待ち望む瞬間だろう。セイコーで最も熟練しつつ才能にあふれた、芸術的な職人たちによって工房で行われる素晴らしい作品づくりのため、工房内にあるこのアトリエは伝説的存在だ。それだけでなくここで実践されている技術のいくつかは、下の写真にこっそり写っているものも含め、別のレジェンド級職人から受け継がれたものである。
マイクロアーティスト工房を知らなくても、おそらく彼らが生み出す作品は知っているだろう。約8日間巻きのプラチナ製SBGD201からクレドール 叡智II、そして信じられないほど複雑なクレドール ソヌリまで、このトレイには現行の製品群のなかでも最も貴重なものが置かれている。
クレドール 叡智IIのダイヤルは、エナメル加工、ハンドペイント、焼成、ポリッシュを何度も繰り返し、ダイヤルに深みと立体感を与えることで知られている。工房を訪れているあいだ、チームはホワイトとブルーのダイヤルの両方に取り組んでいた(私たちがラッキーだっただけなのか、それとも最高の見せ場を作るために仕事を調整していたのかは分からないが)。この写真を、叡智IIの歴史やダイヤルに詳しくない(しかしエナメル細工のファンである)友人に見せたところ、彼はダイヤルのインデックスからロゴに至るまで、すべてが手描きであることに仰天していた。信じて欲しいのだが、実際に見るともっとすごいのだ。
前回の工房のワイド画像でお気づきになったかもしれないが(あるいは、この画像はかなり象徴的なので、ほかの場所でご覧になったかもしれない)、そう、すべての作業は今でもフィリップ・デュフォー氏が“監修”している(少なくとも精神面にはおいて)。チームは作業台の上に座っているスイス人巨匠の写真を飾ることで、工房で使われている多くの技術を伝授した彼への象徴的な敬意を示している。
工房から生み出される傑作時計の組み立てと仕上げは、グランドセイコーが得意とする芸術性と技術性を融合させた高度なレベルで行われる。たしかに、画像によっては時計師たちは実験室の助手のように見えることもあるが、それでも技術はすべてそこに詰まっている。このような素晴らしい仕上がりのスプリングドライブムーブメントを組み立てる時計師の姿を見て、スプリングドライブは“劣った”ムーブメントではなく、高精度と時計技術の融合を追求した集大成そのものだという事実が強く心に刻まれた。
ムーブメントについてさらに深く掘り下げるべく会議室に戻ると、私たちは直接見学することができなかったクォーツ製造の最後の要素、水晶そのものを見ることができた。下の画像にある巨大な水晶の塊は、セイコーの自社工場で半年間かけて成長させたものだ。この施設を実際に見ることができればよかったのだが、説明を受けたところでは、非常に背の高いサイロで二酸化珪素の分子同士の結合を促しているだけだという。長さ約45cm、高さと幅が15cmほどのこのようなブロックから約10万個の水晶振動子を作ることができるそうだ。その断片はエイジングされ、使用前にテストされ、下の9Fムーブメントのように最高品質のものだけがグランドセイコーのムーブメントに使用される。
セイコーエプソン塩尻事業所には、セイコーの製造工場の一部しか見られないかもしれない訪問者のために、セイコーの電子時計(および機械式時計)の偉業を紹介する小さなミュージアムも併設されていた。しかし、週末には銀座のセイコーミュージアムを訪れる予定だったため、最初の新幹線移動は省略し、そこで塩尻(と長野市)に別れを告げて次の目的地へと向かった。