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本日は、初期のパルミジャーニ・フルリエのストーリーと、HODINKEEのプライベートセールスチームを通じて販売された初期のパルミジャーニウォッチを2本紹介しよう。
なぜここまでやるのかと思うほど、過剰な作りのものが世のなかにはある。私のなかで“やりすぎ”の最たる例は、クルマの世界だ。耐久性という点では、レクサスのLS400を走らせればいい。また、画期的なメルセデスの300SL “ガルウィング”のために、膨大な研究開発と技術を投入するビジネスセンスを理解するのは難しい。まあクルマの話はこれくらいにして、今回はパルミジャーニ・フルリエの話をしよう。フルリエ(別名“花の村”)で操業する、年齢的には20代の時計ブランドである。
ミシェル・パルミジャーニ氏が自身の名を冠したブランドを設立したエピソードは、ひとりの男についての話であると同時に、ひとつの村の物語でもある。ラグジュアリースポーツマニアや“展示会専用品”、クリプト(暗号)が登場する以前の時計界に話を戻そう。1996年、スイスの機械式時計産業もそうだが、特にフルリエという小さな町の状況は暗澹(あんたん)たるものだった。
初期のパルミジャーニ・フルリエについて
かつてニューヨーク・タイムズ紙は、2016年にパルミジャーニ氏がフルリエに与えた影響について報じた(ぜひ目を通してほしい)。600人規模の時計職人を抱えた時計製造業のおかげで、1800年代後半には小さな花の村に「スイスで最も多くの億万長者が集まっていた」とミシェル・パルミジャーニ氏のコメントが引用されている。それから1世紀後のクォーツ危機以降、パルミジャーニ・フルリエの時計職人となったブノワ・コンラス氏はタイムズ紙に「当時、時計職人になるのは失業することと同義でした。機械式時計は誰も欲しがらなかったし、わざわざ馬車で移動するようなものでした」と語っている。今では3500人ほどの住民が暮らすこの町が、100年に1度の没落を経験したときであった。
ミシェル・パルミジャーニ氏はフルリエの時計学校を卒業後、最初の数十年間は修理の分野で活躍。自分の工房を構え、モーリス・イヴ・サンドスのコレクションを修復するなどの野心的なプロジェクトに取り組んでいた。現在ではオートマトンや初期のタイムピースがル・ロックル時計博物館において常設展示されており、これらは世界最高のコレクションとして広く知られている。このプロジェクトは時計職人としてのキャリア上、極めて重要なものだった。サンドス家の非営利団体であるサンドス・ファミリー財団の支援を受けて、1996年にパルミジャーニ・フルリエは誕生した。
フルリエで最も古い時計製造家であり、現在も高級時計部品を製造しているヴォーシェ家が所有していた邸宅に、ブランドは店を構えた。ミシェル・パルミジャーニ氏が行ったフルリエの町への貢献は、ブランドの設立だけに留まらない。ショパールがフルリエに現在まで続く時計製造の拠点を置くことを説得、実現してみせたのだ。ミシェル氏の娘で、現在はパルミジャーニ・フルリエのデザイン・プロジェクト・マネジメントの責任者であるアンヌ=リール・パルミジャーニ氏は、「人々は道端で、彼を呼び止めてお礼を言ったのです」と回想している。サンドス・ファミリー財団、ヴォーシェ家、そしてフルリエ全体の支援を受けて、ミシェル・パルミジャーニ氏は初の作品となるトリック メモリータイムを発表した。
その2年後の1998年、パルミジャーニ・フルリエは、クラシックなフォルムのユニークなスタイル、トップクラスの仕上げに焦点を当てた96ページの時計カタログを発表した。カタログには、パルミジャーニ・フルリエが有する“要求の厳しいコレクターや芸術愛好家との国際的なネットワーク”と“伝統と遺産の継承”について、誇らしげに書かれている。このころ、パルミジャーニ・フルリエの年間生産本数は1000本にも満たなかったという。
また、カタログでは各時計のオーダーメイド性を明確に打ち出している。例えばトリック クラシックは、“イエローゴールド、グレーゴールド、ピンクゴールド、プラチナ”から選べて、“スレート、エッグシェル、オニキス、ラピスラズリ、マザー・オブ・パールの文字盤でご用意することができます ”と記載があった。チャプターリングに施す装飾のスタイルも、“ギリシャ風”、“ダイヤモンドシェイプフラワー”からそれらがないものまで、選択肢がある。カタログをめくると、“パルミジャーニのジャベリン時針・分針”という、現在まで不変のものも見られた。1998年、パルミジャーニ・フルリエは “紳士”のためだけでなく、“婦人”市場に向けた幅広いエレガンスな選択肢を提供していたのだ。
パルミジャーニ・フルリエの最初の数年間は、近年の小規模な時計製造において、最も純粋なスタイルのひとつを象徴するものであった。この時期の時計は今日、コレクター間でますます人気が高まっており、はっきり言ってほとんど売りに出されることはないだろう。特に最初の時計であるトリック メモリータイムは、現在では最高の評価を受けている。チャールズ3世が愛用したクロノやトリック クラシックも、過小評価されているトルスやイオニカと比べてコレクション性という意味では大きな差はついていない。
今の市場をイメージしてもらうために、少し話をしよう。初期のパルミジャーニが売りに出されることはめったにないため、価格は売り手の意向によって変動することがある。とはいえ、トリック メモリータイムは3万ドル前後から、より大きな40mmのトルスとクロノは2万ドル近くで取引され、トリック クラシックとイオニカは1万5000ドル台で推移している。1998年のカタログにはトリックのケースを使用したミニッツリピーターが掲載され、その後もトリック トゥールビヨンやトリック ウェストミンスターといった複雑機構が、ごく少数ではあるが提供された。
初期のパルミジャーニ・フルリエのデザインは印象的だが、その真骨頂は時計のオーバービルド(作り込みすぎ)とオーバーフィニッシュ(仕上げすぎてしまう)の特性にある。パルミジャーニのコレクションのムーブメントはイオニカを除いてすべてエボーシュだが、同ブランドは独立する前に、ステファン・サルパネヴァ氏やカリ・ヴティライネン氏といった時計師を擁する工房ですべてのキャリバーの組み立てと装飾を行っていたのだ。
18K ピンクゴールド製トリック クラシック ブラックオニキスダイヤル
パルミジャーニ・フルリエで最もスタンダードな時計であるトリック クラシックは、直径36mmのケースにギリシャの円柱をイメージしたローレット加工のベゼルを備え、18Kのピンクゴールドで製作されていた。“ギリシャ文字”が刻まれたフランジはカーディナルアワーに注目させるだけでなく、円柱にインスパイアされたベゼルとも巧みに調和している。
ミシェル・パルミジャーニ氏は建築への情熱を持ち合わせており、それはトリックのデザイン、とりわけ今回紹介するモデルにもよく表れている。時計職人の道を歩む前に、パルミジャーニ氏は建築家としてプロになることも考えていた。トリックの発想の原点はギリシャの古典建築ににあると同時に、黄金螺旋の曲線、つまり黄金比によって相互に関連づけられた一連の長方形の内部に螺旋を刻むとできる形にもある。知れば知るほど、おもしろい。
このトリック クラシックに使用されたブラックオニキスダイヤルは、30個しか作られなかったうちのひとつと言われており、この時期のコストを度外視したブランドの設計・製造理論を物語っている。オニキス石にするつもりなら、なぜブラックダイヤルにするのか? その考え方は、豪華かつシンプルな漆塗りの木箱にも表れている。時計を実際に手にしてみてもそうだが、セットの内容を鑑みても、たった25年前の時計でありながら「もうこのようなものは作れない」という思いが感じられるのだ。
18K ピンクゴールド製イオニカ
トリック クラシックがパルミジャーニのスタンダードな時刻表示専用モデルを代表するものだとすれば、イオニカはブランドのコレクションにおいてとりわけ大胆で革新的な腕時計を象徴するものだ。イオニカには日付とパワーリザーブインジケーターが搭載されているものの、 “複雑機構”とはほど遠い。
初期のパルミジャーニ・フルリエのエッセンスを見事に体現したのが、自社製ムーブメントを搭載した初代モデル、トノー型のイオニカだ。ブランドを立ち上げるにあたり、最も明快な研究開発費の使い道は、トリック クラシックや、場合によってはイオニカのようなトノー型の腕時計に搭載される円形の時刻表示専用キャリバーだろう。当時だろうが今だろうが、レクタンギュラーやトノー型の腕時計に円形キャリバーを使用することはそれほど罪深いことではない。しかし、ミシェル・パルミジャーニ氏にとってこの通例は許されるものではなかった。
Cal.PF110は厳密に自社製であるだけでなく、コート・ド・ジュネーブや面取りなどその仕上げは別次元であり、愛好家垂涎の価値がある。このキャリバーのデザインは控えめに言ってもユニークで、最も顕著なのはゼンマイを格納した香箱の上に設けられた独立したプレートだ。香箱を隠すためだけでなく(あのおっかないパーツを見なければならないなんて考えられない)、このプレートからは、隣接するプレートのカーブしたエッジと完璧にフィットさせるために極めて精度の高い加工がなされていることもわかる。Cal.PF110は現在もパルミジャーニ・フルリエ(正確にはヴォーシェだが)が製造しており、時代を超えて活躍できる高機能なもので、共有の精神からピアジェやティファニーにも採用されている。もしあなたが“オリジナルに勝るものはない”という説を支持するのであれば、今回紹介するのはおそらく、ケースに封入された最初のCal.PF110のひとつであることを伝えておく。
初期パルミジャーニ・フルリエについての最終的な見解
パルミジャーニ・フルリエの創業にまつわるストーリーは、まさに“物語”である。腕時計に特化したブランド初のカタログをめくれば、それはより鮮明なものとなるはずだ。だが、1998年当時のコレクションよりこの2本を手にとってみることで、その物語にはさらに命が宿る。私が初めに主張した、“もっといいものができるのになぜそうしないのか"という理由だけで作り込みすぎ、仕上げすぎてしまっている感覚がどうしても拭えないのだ。
しかし、パルミジャーニ・フルリエの1998年のカタログには、スポーツウォッチが1本も掲載されていないという明確な欠落がある事実からは目をそらせない。この全96ページのカタログに掲載されている時計はすべてがドレスウォッチであり、これは偶然ではないと確信している。ミシェル・パルミジャーニ氏には、『マイ ウェイ(原題:My Way)』(フランク・シナトラの声で言ってほしい)を貫くという確固たる意図があり、私はその姿勢をとても気に入っている。そして、よりいっそう時計に愛着がわくのだ。商業的な成功が時計づくりの第1目標ではないという感覚こそ、パルミジャーニの時計が愛される最も大きな理由のひとつである。メルセデスはガルウィングだけで何百万もの利益を得たわけではないのだ。
今回紹介したパルミジャーニ・フルリエのトリック クラシックとイオニカは、この記事が掲載される前にHODINKEEのプライベートセールスチームを通じて販売された。これらのようなネオヴィンテージクラシックな時計、あるいは一般に入手困難な時計に興味があるなら、ぜひ privatesales@hodinkee.com まで連絡を入れて欲しい。