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Found 世界に3本しか存在しない、フィリップ・デュフォーのプロトタイプ・シンプリシティ

プロトタイプ・シンプリシティが磯貝吉秀氏の手に渡った真実のストーリーを明かそう。

2023年11月3日から4日にかけてジュネーブで開催されたフィリップス時計オークションに、ある1本の時計が出品された。フィリップ・デュフォーのシンプリシティだ。しかも、ただのシンプリシティではない(シンプリシティ自体がただの時計ではないのだが…)。それはプロトタイプだという。プロトタイプのシンプリシティ? 気になった筆者がオークションのカタログエッセイに目を通してみると、そこには次のようなことが書かれていた。

2023年11月3日と4日にジュネーブで開催されたPHILLIPS時計オークション:XVIIIに出品されたフィリップ・デュフォー シンプリシティ プロトタイプ。落札予想価格:40万〜80万スイスフラン(日本円で約6650万〜1億3300万円)に対して、60万400スイスフラン(日本円で約1億1080万円)で落札された。Photo by PHILLIPS

 フィリップ・デュフォー氏は2000年、当時のバーゼルフェアで3つのプロトタイプ・シンプリシティを発表した。3本のうち、ふたつはギヨシェダイヤルのホワイトゴールドモデル。ひとつはデュフォー氏本人が個人的に所有し、もうひとつはのちにフィリップ・デュフォーの日本代理店であるシェルマンの、当時の社長だった磯貝吉秀氏に贈られたという。そして残る1本が、ホワイトラッカーダイヤルのピンクゴールドモデルだ。これらの時計(デュフォー氏所有のもの以外)は2000年のバーゼルフェア後、フィリップ・デュフォーの時計を求める顧客に見せるための展示ピースとしてシェルマンに預けられたのだという。オークションに出品されたのは、ホワイトラッカーダイヤルのPGモデルだった。そしてオーナーは、その時計をデュフォー氏本人とシェルマンの許可を得て出品したようだった。

プロトタイプの証として、通常はシリアルナンバーが刻印されるプレートに“N.000”と刻印されている。Photo by PHILLIPS

付属のギャランティには“ooo”のシリアルナンバーと“November 2016”という、販売された年と月が記載されている。Photo by PHILLIPS

 磯貝氏に贈られたという、もうひとつのプロトタイプ・シンプリシティはいまも彼が所有していた。別件で磯貝氏にコントタクトを取る最中、筆者は彼が所有するというプロトタイプ・シンプリシティを見せてもらう機会を得た。時計はもちろん素晴らしいものであったが、それ以上に興味深いこの時計にまつわるバックストーリーを知ることができた。

 「コロナ禍もあって僕が仙人みたいな生活をしているあいだに、あのプロトタイプのシンプリシティはそんなことになっていたんですね」

 ご存じの方も少なくないと思うが、磯貝氏は2018年にシェルマンの代表取締役を退任した。その後はどうやら時計業界とは積極的に関わることなく過ごしていたらしく、プロトタイプ・シンプリシティのひとつがオークションに出品されていたことは今回の取材があるまで知らなかったようだ。そもそも2本のプロトタイプ・シンプリシティはどのような経緯で磯貝氏に、シェルマンに贈られたのだろうか。彼は快くその詳細を語ってくれたが、その全貌を知るには、デュフォー氏と磯貝氏の関係についても少し知っておく必要がある。


時計師たちが嬉々としてこだわりの時計を作り発表していたアカデミー黎明期

 1980年代終わり頃からバーゼルフェアを訪れるようになった磯貝氏は、当時スヴェン・アンデルセン、フォルジェという独立時計師ブランドを扱っていた関係で、1987年から出展していた独立時計師アカデミー(通称はアカデミー。1985年に設立)のブースへも当初から通っていた。当時の独立時計師たちの評価はいまとは異なるもので、それほど注目されることもなく、メインホールから離れた倉庫のような会場(ホール5)の片隅で自身のこだわり満載の作品をひっそりと展示・発表しているような状況だったという。

 1990年代になると、日本では時計ブームが起こり時計専門誌が次々に創刊されたが、超絶技巧が光るアカデミーメンバーたちの作品は日本の時計愛好家たちの嗜好にマッチ。アカデミーと懇意にしていた磯貝氏が協力して日本のメディアが取材に訪れ、独立時計師の作品が日本に紹介されるようになり、次第に日本以外でも名声を得るようになっていった。そのなかで磯貝氏と付き合いを深めていった独立時計師のひとりがフィリップ・デュフォー氏だった。

 「グラン&プチソヌリ ミニッツリピーター(1992年発表。83年にデュフォー氏が作り上げた懐中時計版ムーブメントを腕時計サイズに縮小して完成)、デュアリティー(1996年発表)と、ユニークな時計を作っていることはもちろん知っていましたが、実はデュフォーさんとのお付き合いが本格的に始まったのは2000年からでした。その年のバーゼルフェアで新作として発表されたシンプリシティにひと目惚れして、ぜひ取り扱わせて欲しいとオファーをしたのがすべての始まりです。そして会場で展示されていたのが、プロトタイプのシンプリシティでした」(磯貝氏)

 当時のデュフォー氏は孤高の人という印象だったらしく、代理店を望まず、直接エンドユーザーに自身の時計について説明し、本当にその時計を理解できた人にしか売らない、というようなスタンスだったそうだ。デカ厚時計が全盛のなか、34mm(37mmモデルも当初から作られていた)という小さなサイズで、ヴィンテージのパテック フィリップのような最高の職人の手で丹精込めて徹底的に作りこまれた、繊細でありながら力強く美しいシンプリシティに感銘を受けた磯貝氏は、自身の時計に対する考え方や、日本の時計愛好家のことなどさまざまなことを熱心に彼に伝え、デュフォー氏の作品を取り扱わせて欲しいとお願いした。それに対し、デュフォー氏は磯貝氏の考え方を高く評価し、その提案を喜んで受け入れてくれたという。

自身の工房から窓越しに外を眺めた様子を再現したバーゼルフェアでフィリップ・デュフォー氏の展示ブース。2000年。写真は磯貝氏の提供。

 シンプリシティの価格は、当時の価格で3万4000スイスフラン(当時の日本での販売価格は約280万円)。いまの感覚からすると破格の印象だが、当時のデュフォー氏は一部の好事家だけが知るような存在で、しかもシンプリシティに比肩する素晴らしい作りを持つパテック フィリップのRef.3796が100万円前後で手に入った時代だ。シンプリシティに関心を持つ人はいても、その価格に尻込みする人は少なくなかった。

 そんな心配をよそに、2000年10月に当時のシェルマン銀座店を会場に開催されたフィリップ・デュフォーのフェアは大成功。そこにはバーゼルフェアの会場で展示されていた2本のプロトタイプ・シンプリシティが日本へ持ち込まれたが、それを見た多くの時計愛好家たちから好評を得たほか、なかでも意外だったのが時計職人たちまでシンプリシティに惚れ込んでいたということだ。

フェアでは販売できる時計がなく工房をイメージした展示がされた。写真は磯貝氏の提供。

 「フェアも成功して、注文も入りました。対してデュフォーさんは当初、1年かけて50本製作すると言ってくれたのですが、結局10数本しかできなかったんです。彼はこだわりの強い人ですからね。ほとんどの作業を自分でやることにこだわるし、作っているうちにここはこうしたい、ああしたい…となって。そうすると3万4000スイスフランという価格設定では成り立たず価格を上げざるを得なくなったり、最初の3年ほどは赤字で時計づくりも大変だったようでした」(磯貝氏)

 注文数は順調に延びていきビジネスとしては順調だったが、時計づくりのほうはスムーズにいかなかったようだ。シンプリシティは200本(当初は100本、その後追加で100本が製作されることになった)製作したらを販売終了としていたが、最後の時計が製作されたのは2013年。2000年の発表から13年もかかったことは、時計好きの方ならご存じだろう。2005年には予約も埋まり、納品は1年、2年と伸びていき、なんと最終的には8年待ちという状況に。そのあいだも、磯貝氏はデュフォー氏の工房をたびたび訪問して彼の時計づくりの状況を伝えたほか、心待ちにしている顧客のためにデュフォー氏からグリーティングカードを送ってもらえるように依頼するなど、心を砕き苦心したという。


プロトタイプ・シンプリシティが磯貝氏へ、そしてあるコレクターの手に渡った真相

 「販売が終了したので本来ならプロトタイプは返却しないといけないわけですけど、それこそ何千人という方に紹介してきた時計ですからね。名残り惜しいというか、思い入れが強くなって返すのが惜しくなってしまったんですよ。そこで彼にプロトタイプを売って欲しいと言ったところ、それまでの僕の活動に感謝を込めてプレゼントするよと。どっちがいいかと彼に言われたんですが、デュフォーさんとお揃いになるねということでギヨシェダイヤルのホワイトゴールドモデルをいただくことにしました。そしてもう一方のピンクゴールドモデルも譲り受け、会社に保管しておくことにしたんです」

 そうして磯貝氏の手にやってきた2本のプロトタイプ・シンプリシティ。実は製品版とは異なるところがいくつか存在していた。もっとも大きな違いはテンプ。製品版はチラネジテンプ仕様だったが、なんとプロトタイプはジャイロマックステンプを載せていたのだ。また、通常はシリアルナンバーが刻印されるプレート部分はプロトタイプでは数字がなく、ブランク状態になっていた。

製品版はチラネジテンプ仕様だったが、プロトタイプではジャイロマックステンプが使用されていた。当時の特許の関係で製品版では変更を余儀なくされたらしい。

磯貝氏の名前(Yoshi)が刻印されたプレート。製品版ではこのプレート上部にベースプレート用のネジが見える切り欠きがあるのだが、プロトタイプには見られない。

実はダイヤル部分にもプロトタイプだけの特徴がある。製品版では6時側のダイヤルの縁にはダイヤルサプライヤーを示す“METALEM SWISS GUILLOCHE MAIN”の文字になっているが、プロトタイプでは“SWISS”表記となっている。

 「時計を譲ってもらう際に、製品版と同じように入れ替えて渡そうかとデュフォーさんから言われたんですが、この時計に思い入れがあるから、そのままでいいと伝えました。ただ、もう13年以上も経っている時計でしたからね。じゃあオーバーホールだけはしておこうかということでデュフォーさんに時計を戻したんですが、そのときにシリアルナンバーが刻印されるプレート部分にホワイトゴールドモデルのほうは“Yoshi”、 ピンクゴールドモデルのほうには“000”と彼自ら刻印してくれたんです」

 そして冒頭のPGモデルのプロトタイプ・シンプリシティである。本来であればこの時計はシェルマンに保管されているべき時計のはずだが、磯貝氏のもとに熱心に通っていたあるコレクターの方にどうしても譲って欲しいと頼まれ根負けし、絶対に手放さないことを条件に譲ることになったのだという。

ル・サンティエの工房近くで撮影されたデュフォー氏と磯貝氏の写真。写真は磯貝氏の提供。

 「プロトタイプを譲った方は、かつての時計愛好家を思わせる気持ちのいい方でした。機械式時計がまだ再評価される以前の時計好きの方たちというのは、心からものづくりの素晴らしさに素直に感動していました。彼もいい時計が入ったよと連絡すると喜んで飛んでくるような人で、シンプリシティを見ても本当に心からうっとりとしていましたね」

 変わったのは時計好きだけではなかった。かつてはわかる人だけがわかってくれればいいと、自身のこだわりを込めた時計を作っていた独立時計師たちだったが、ITバブルで新たな顧客たちが市場に現れ、デカ厚や驚くような複雑機構を求める声など新たなニーズの影響を受けるようになる。いろいろなブランドと組んでユニークピースを作って売り出すようになったり、あるいは中東やロシアの富豪たちの注文に応えて宝石がびっしりとセッティングされた煌びやかな時計を作るなど、アカデミーメンバーたちの時計づくりも次第に変わっていった。

 磯貝氏にとってプロトタイプ・シンプリシティは、デュフォー氏と一緒になって時計を販売した大切な思い出の一品であることは間違いない。そして付け加えるならば、時計師がただただ好きな時計をつくり、受け手である時計好きたちもそれに心から感動し、素直に楽しむことができた、過ぎ去りし素晴らしい日々を思い出させてくれる唯一無二の存在でもあるのだ。

Photographs by Yoshinori Eto