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Dispatch 船舶時計に魅せられたポートキャプテン、デビッド・トンプソンを訪ねて

セカンドキャリアとして船舶時計の修理職をみいだした、元ポートキャプテンを紹介しよう。

本稿は2017年10月に執筆された本国版の翻訳です。

「もう75歳になります。いつの間にか、こんなに歳をとってしまいました」と、デビッド・トンプソン(David Thompson)氏は語る。正確な時刻にこだわる時計修理の仕事をしている彼にとって、この言葉はどこか皮肉めいている。「腕時計はつけないし、普段は時間を気にしない。でも、なぜか時計が好きなんです」。ただしトンプソン氏は、いわゆる一般的な時計職人とは一線を画している。彼の専門はチェルシー社製の船舶時計、とりわけ北米五大湖を航行する巨大貨物船の操舵室や機関室で今も時を刻むものだ。この仕事に就いたのはわずか5年前だというが、まるで長い年月従事してきたかのように見える。

スタージョン ベイの造船所にいる冬の船団。

 トンプソン氏は水辺と船に囲まれて育った。子どものころはオンタリオ州キングストンに住み、セントローレンス川からオンタリオ湖へ入ってくる船の写真を撮っていた。10代のころには海洋少年団に所属し、ブリガンティン帆船の建造を手伝った。また、地元の造船所で建造された軍用揚陸艦が川をさかのぼってモントリオール港へ運ばれる際、その船に便乗する機会もあった。1970年代初頭、彼はウィスコンシン州ドア郡へ移住する。そこではベイ造船所が五大湖初の1000フィート級“スーパーレイカー(超大型湖船)”の建造を進めていた。1978年の冬にトンプソン氏はそのうちの1隻の塗装作業を請け負い、氷結した造船所の上に立ち、20フィートの延長ポールを使ってUSスチール社の新造鉄鋼運搬船“エドウィン・H・ゴット”の巨大な船体に何百ガロンもの塗料を塗り上げた。

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 長年にわたる船との関わりが、彼を最終的にウィスコンシン州ドア半島の小さな港町、スタージョン ベイでの船舶管理の仕事へと導いた。冬の氷で航路が閉ざされると、五大湖の航行は一時的に停止し、船はドックや造船所で数カ月間係留される。常勤の乗組員はそれぞれの家へと帰り、一時的に船を離れる。この季節の小休止のあいだに船主は推進機や甲板機械の改修作業を実施し、乾ドック(編注;船体の検査や修理などのために水を抜くことができるドックのこと)での船体検査を行い、船首から船尾までの保守点検を行う。

 船舶管理人として、そしてのちに“ポートキャプテン”として、トンプソン氏は冬季のあいだに係留される最大5隻の五大湖船(そのなかにはエドモンド・フィッツジェラルド号が沈没した悲劇の夜にスペリオル湖をともに航行していた、アーサー・M・アンダーソン号も含まれる)の実質的な船長としての役割を果たした。彼の職務は、配管の緊急対応から乾ドックでの検査監督まで多岐にわたる。そのなかには、船舶時計の年次メンテナンスや修理業務も含まれていた。生粋の船好きであるトンプソン氏はチェルシー社製船舶時計の歴史にすぐに魅了され、冬の作業リストのなかでもこの特別な業務に強い関心を抱くようになった。

チェルシー社製船舶時計の機能的な機構。

 「船が入港するたびに船長のもとを訪れ、どの時計がいくつあり、どれが修理を必要としているのかを確認し、それらをスタージョン ベイの宝石店に持ち込んで修理してもらっていました」。トンプソン氏はそう振り返る。彼は時計を船団事務所に送るとその多くが戻らず、退職する幹部への贈り物として消えてしまうことに最初のシーズンで気づいた。幸運なことにスタージョン ベイにあるドレーブ・ジュエラーズは1910年創業の家族経営の店で、時計修理を専門としていた。こうしてドレーブは、冬に入港する船舶の数十個におよぶ時計のメンテナンスを支えるトンプソン氏の頼れる協力者となった。

チェルシー社製の船舶時計には、極端な温度差、埃、湿気、機関室や操舵室の振動といった過酷な環境にも耐えうる頑丈さが求められた。

 過去30年間で五大湖の航運業は大きく変わり、米国の船団は1950年代や60年代の最盛期と比べてすっかりその姿を変えてしまった。当時は銑鋼一貫製鉄の原材料需要に支えられ、何百隻もの船がスペリオル湖のアイアン・レンジからシカゴやデトロイト周辺の製鉄所へと航行し、一方で穀物はオンタリオ湖やセントローレンス海路を通ってヨーロッパへ輸出されていた。造船業は活況を呈し、世代を経るごとに船は大型化していった。しかしその後の船舶の大型化、1960年代以降に始まった安価な外国鋼材の流入、さらに陸上輸送との競争の激化により、業界は大きく衰退した。今日では、ダルースやマーケットの鉱石ドックで貨物を積み込む五大湖船を1隻でも見かけることができれば幸運なほどである。またかつて船の航行には海洋クロノメーターが不可欠だったが、それもロランC(長距離電波航法)、さらにGPSへと取って代わられた。船の4時間ごとの当直交代をチェルシー社製の時計で知らせる必要もなくなったが、それでもこの伝統的な時計は今もなお船内に残り、1隻あたり5~6個が搭載されている。

ポートキャプテンとしての任務を退いた後、トンプソン氏はいわゆる“HITマン”、つまり時計師の訓練生(Horologist In Training)になった。

 五大湖の航行はこの数十年で劇的に近代化されたが、船員たちはいくつかの伝統を今も大切にしている。実用面では、電話やデジタルクォーツウォッチ、コンピュータ化された航行装置が時刻を知らせ、機器の自動制御を担っている。それにもかかわらずこれらの機械式時計が船内に残っているのは、そうした伝統が根強く息づいているためだ。今もなお多くの五大湖船では、同期されたチェルシー社製船舶時計が機関室の制御ステーションや操舵室、調理室、船長や一等航海士の居室、さらにはゲストラウンジやダイニングルームに設置されている。淡水環境の穏やかな影響と毎年冬のあいだに実施される保守点検により、五大湖を航行する船舶には何十年も前に建造されたものも多く残っている(2013年に退役した由緒ある五大湖船は、1906年に進水したものだった)。現在でも、それら多くの船にはオリジナルの船舶時計が残されている。これらの時計は8日巻きの機械式ムーブメントを備え、週に1度の巻き上げで動作する。もともとは当直交代の合図として4時間ごとに鐘が鳴るように設計されていたが、現在では主に装飾的な存在となっている。しかしながら時刻を正確に示し、ひと目で視認できるうえ、機関室や操舵室の温度変化、埃、湿気、振動といった過酷な環境にも耐えうる頑丈さを誇っている。

 チェルシー・クロック・カンパニーは、アメリカの航海発祥の地ともいえるボストン港の近くで創業し、その歴史は1800年代後半にまでさかのぼる。20世紀初頭には、米国政府が海軍艦艇用に同社の時計を発注していた。バード(Byrd)提督は1936年の南極探検でチェルシーの時計を使用し、第2次世界大戦中には大西洋戦域と太平洋戦域の軍艦向けに数千個が製造された。ホワイトハウスのマントルピース(暖炉の飾り棚)にもチェルシーの時計が飾られており、歴代の要人や国家元首にも贈られてきた。時計業界では“アメリカンメイド”という言葉がしばしば強調されるが、チェルシーはそのなかで見落とされがちな存在である。これは惜しまれることだ。あらゆる意味において、この純粋な国産企業は“アメリカの世紀”を正確に刻んできたのである。

トンプソン氏はあとで参考にするために、作業中に時計のムーブメントのスケッチをよく描く。

トンプソン氏が修理する時計のほとんどは、1950年代から60年代に使われるようになったものだ。

 チェルシーの最大の功績は、“船鐘”機構の発明だ。海上を航行する船は伝統的な勤務体系に則っており、1日を4時間ごとに6つの周期に分けた“当直”というルーティンに従っている。1900年以前は“当直士官”が順番に鐘を鳴らし、時刻を見る必要もなく、どの当直が始まるかを乗組員に知らせていた。チェルシーの画期的な発明は船鐘を時計に組み込んだもので、定期的に巻き上げれば同じ機能を果たした。船内のすべての時計が同期されていれば、時計の鐘は全員に聞こえるのだ。

 チェルシーは頑丈な時計で美しく、実用性に富んでいる。現在同社はクォーツ版の製造・販売を行っているが、機械設計は1世紀以上にわたってほとんど変わっていない。デビッド・トンプソン氏が修理する時計のほとんどは、1950年代とから60年代に使われるようになったものだ。修理のために回収される時計には壊れたゼンマイ、割れた文字盤、または動作時の過酷な条件により許容範囲を超えたムーブメントなどの作業指示書が添付されている。トンプソン氏は現在、ドレーブ・ジュエラーズにある自身の作業台ですべての時計を修理している。5年前、70歳でベイ造船所のポートキャプテンの職を退いたのちにドレーブ社から仕事のオファーを受け、オーナーのジョージ・ドレーブ氏の下で彼が言うところの“HITマン”、つまり時計師の訓練生(Horologist In Training)として鍛えられた。

作業指示書には、壊れたゼンマイ、割れた文字盤、または許容範囲を超えて破損したムーブメントといった内容が記されている。

 「もしかすると、70歳にしてようやく本当にやりたかったことを見つけたのかもしれません」。トンプソン氏はそう語った。「チェルシーの時計修理の専門家を名乗るつもりはありませんが、気がつけばいつもこの仕事に勤しんでいます」と、中西部の人間らしい控えめな態度で続ける。つまり正式な時計師としての訓練を受けたわけではなく、多くの人が悠々自適な余生を送る年齢にもかかわらず、トンプソン氏は“水”と“時”を愛する心を結びつける新たなキャリアを見つけたのだ。

「もしかすると、70歳にしてようやく本当にやりたかったことを見つけたのかもしれません」— デビッド・トンプソン

 長年にわたりチェルシーの時計に触れ、修理を重ねてきたトンプソン氏だったが、ついに自分のコレクションにひとつ加えることができた。自分で購入するには少し高価すぎると感じていたが、ある日、修理のために停泊していた鉱石船の隅に置かれたチェルシーの時計を見つけた。船長に尋ねると、それは以前に修理を試みたものの結局動かなかった時計だった。「欲しいなら持っていっていい」と言われたトンプソン氏はそれを引き取り、数え切れないほどの時間をかけて試行錯誤を重ね、ついによみがえらせた。そして今、その時計はドア郡の自宅に大切に飾られている。

 「これは船乗りの習性のようなものかもしれませんね」と彼は言う。「やはり、いい時計が欲しくなるものです」

Photos: Christopher Winters