ADVERTISEMENT
私の時計仲間たちは、誰かが私に大きな時計を試してみるようすすめると、本能的に否定的な反応を示すことを知っている。私の身長が6フィート7インチ(約2m)だからといって、どうして大きくて不格好な時計をつける必要があるのかと思う。まあ、彼らが本当に言いたかったのは、“私はこの時計をつけこなせないけれど、君ならできるはずだ”ということなのだろう。理解はできるが、それは私が求めたことでも望んでいることでもない。ただし今回は、“私はこれをつけこなせるが、君たちには多分できないだろう”と言える。そしてそう言えることがすごくうれしいのだ。
これはオーデマ ピゲ(以下、AP)のカタログのなかでも最も希少なモデルのひとつで、ブランドが限定版としてのみ発表するロイヤル オーク グランド コンプリカシオンだ。それだけでなくこの時計はオフショアであり、セミスケルトンデザインが特徴だ。私がこの時計に魅了された理由は、44mm径、厚さ15.7mmのスケルトン仕様で、永久カレンダー、ムーンフェイズ、うるう年表示、スプリットセコンドクロノグラフ、そしてミニッツリピーターまで搭載するというそのとてつもないスペックにある。オリジナルのオフショアが“ビースト”と呼ばれているなら、この時計をどう呼べばいいだろうか。手首を完全に覆い重量を感じさせるこの時計を、北欧神話に登場するヨルムンガンド(自分の尾を食べる別名世界蛇)と名付けることにした。
思いがけない落とし穴は、“オフショア(沖合)”と名付けられているにもかかわらず、この時計の防水性能が20mしかないことで、これは“岸辺に近い(close to shore)”とでも呼ぶべきか。今日のAPが目指す最低限の防水性能である。ただしこれは、ミニッツリピーターを追加するとどの時計でも同じことが起きる。ケースに可動部品が増えるため、防水性能が低下してしまうのだ。しかし、誰がそれを気にするでだろうか? ミニッツリピーターを搭載しているというだけで、十分に特別なのだから。
2013年、ベン(・クライマー)がSIHHで別バージョンのロイヤル オーク オフショア グランド コンプリカシオンを取り上げた。それ以前の2012年では“通常”のロイヤル オークという形で2本のセミスケルトンバージョンを紹介している。そのため、これは過去11年であまり変わっていない時計に再びスポットライトを当てるようなものだ。しかし、私がロイヤル オーク グランド コンプリカシオンやオフショア グランド コンプリカシオンの実物を見かけたのはたった2回しかない。
そしてこのオフショアで3本目になるが、厳密には“実際に見かけた”わけではない。これは今年の春に開催されたモナコ・レジェンド・グループのオークションに出品されていたものだ。本モデルは推定価格35万から70万ユーロ(日本円で約6045万~1億2090万円)が付けられ、結果45万5000ユーロ(日本円で約7860万円)で落札された。2015年にこの時計のブラックプッシャーバージョンが発表された際の推定小売価格は約74万ドル(当時の相場で約8960万円)であった。つまり、この時計は全体的に不条理という意味でとにかくすごく、非常に高価であり、新品を購入したとして必ずしもいい“投資”にはならないかもしれないということだ(時計を“投資”として考えること自体私は嫌っているが)。それにもかかわらず、私はこの時計に完全に魅了されていたし、今でもそうだ。展示ケースから出してもらうよう何度も頼み、この時計はオークションで見つけられる現代の時計のなかでとてつもなくクールなものだと誰彼構わず熱弁した。その理由は以下のとおりだ。
APは複雑機構を得意とする長い歴史を持つ。昨年、APの新しいコンプリケーション部門長となったアンヌ-ガエル・キネ(Anne-Gaëlle Quinet)氏とのインタビューでさまざまな複雑時計を紹介したが、今回のストーリーで重要なのは、スプリットセコンドクロノグラフ、ミニッツリピーター、永久カレンダーの3つで構成されるこのグランドコンプリケーションだ。このオフショアは2016年に製造されたが、時計を動かすキャリバーの歴史は1996年にまでさかのぼる。つまり、Cal.2885を搭載する時計は30年前の時計製造技術に基づいているが、APは新デザインでそれを新鮮に保つ方法をみいだしている。この時計がどこから始まったかを見てみよう。
この時計が注目されたのは、スプリットセコンドクロノグラフという特別な複雑機構のためだ。APによれば、ブランドは1880年代から1890年代にかけて1625本の時計を製造し、そのうち300本以上にスプリットセコンド機能を搭載していた。しかし、最初の腕時計が誕生してから1996年までのあいだ、APが製造したスプリットセコンドクロノグラフウォッチは1949年製の1本のみである。今の市場に数多く存在するスプリットセコンドクロノグラフや、永久カレンダーのような複雑機構の時計が多いことを考えると意外に思える。ミニッツリピーターも信じられないほど複雑だ。実際、IWCは現在Cal.7750をベースにしたスプリットセコンドクロノグラフを250万円以下で提供している。しかし、APのグランドコンプリケーション製造において制約となった技術的要因は、(Cal.2120/2800でAPのアイコンとなった)永久カレンダーでもミニッツリピーターでもなく、スプリットセコンドクロノグラフだったのだ。
その1年後の1997年、APはロイヤル オークの25周年を記念して、初めてトゥールビヨンを搭載したグランドコンプリケーションを発表した。当然のことながら、ブランドはこの成功をルノー・エ・パピ(現在はオーデマ ピゲ ル・ロックルとして知られる)の力を借りて実現した。IWC グランド・コンプリケーションにおいてミニッツリピーターの問題を“クリア”したルノー・エ・パピが、Cal.2885の設計に貢献したのである。この時計はアイコニックなプチタペストリーダイヤルが特徴だが、ダイヤルにはセリフフォントで“Grande Complication”と記されるなど、約30年後の今では少し古く感じられる要素もある。ただ長い年月をかけて微妙な変更を加えることで、ブランドはこのモデルを常に新鮮に保ち続けている。
裏側からはCal.2885のムーブメントがよく見える。ゴング、クロノグラフ機構など、すべてが現代の視覚的嗜好に合わせてアップデートされている。以前のバージョンでは、イエローゴールド製のローターが使用されており、それらは手彫りで装飾されていた。これはきわめて1990年代的で今ではとても古めかしく見える。現在は、ブリッジの面取りを維持しつつ、より現代的にスケルトナイズされている。ただひとつ、歯車に内角がないことだけは気になる。74万ドル(当時の相場で約8960万円)の時計には期待されるかもしれないが、ここでは見られないのだ。
ロイヤル オークのミニッツリピーターがこれほど早く当たり前の存在になったことは驚きだ。現在、APはロイヤル オークコレクションに4種類、コンセプトラインに1種類のスーパソヌリを展開している。これらのリピーターは素晴らしく、音が大きくて印象的で、手に持っているときよりも手首につけたときのほうが音が大きく聞こえる。まるでマジックのようだ。しかし1997年当時、これらのグランドコンプリケーションはロイヤル オークのケースに初めて搭載されたリピーターであった。それゆえ左側にあるリピータースライドを見ると、“初”の系譜には何か特別なものがあるとしか考えられない。このオフショアは19年後につくられたが、同じキャリバーを使用しているという事実がとてもクールだと思う。
リピーターの音は理論上、音を抑えるはずの重厚なローズゴールドケースにもかかわらず、とても力強く響く。しかし20m防水の“オフショア”であることがこの時計の制約となっているかもしれない。それが私にとっての魅力の一部でもある。私はこのような矛盾が大好きなのだ。水に浸けたくないオフショアというのは、もしかしたら最大の矛盾かもしれない。
前述したように、本当に注目すべきはスプリットセコンドクロノグラフだ。ロイヤル オーク コンセプトや最新のスプリットセコンドクロノグラフ GMTについての記事でこのことに触れたが、ここで簡単におさらいする。このオフショアが製造された当時、APは年間最大13本のスプリットセコンドクロノグラフしか製造できず、それらすべての機構がグランドコンプリケーションに使用されていた。価格に加え、このような時計をコレクションする人が限られていることもあり、こうした時計が3本や4本のセットでつくられた理由のひとつである。
ムーブメントを見ればその理由が分かる。1本のクロノグラフ針を止めながら、ほかの針を動かし続けるために必要なブリッジやレバーの数々は、美しくも混沌とした光景だ。私は時計職人でもデザイナーでもないが、このクロノグラフを機能させるために必要な部品をすべて配置するのがどれだけ難しいかはひと目で分かる。そしてこれこそ、新しいコンセプトがAPにとっていかに革新的であるかを示す好例でもある。
コンセプトに関する記事で述べたように、(RD#4から受け継がれた)本モデルにおける最大の功績はスプリットセコンド機構とローターの再構築である。スプリットセコンド機構はセンターホイールをつかんでクロノグラフ針の一方(または両方)を止めるが、以前はこれをローターとベアリングの下に配置し、ローターが自由に回転できるようにしていた。しかし、これらの機構を重ねると厚みが増してしまう。そこでAPの新しいデザインでは、これらの機構をローターベアリングの内部に収めることで構造を簡素化し、より薄いプロファイルを可能にしたのだ。
こうした変更やスーパソヌリの革新性により、APが密かにこれらのイノベーションをすべて統合している可能性がある。特に、永久カレンダームーブメントの2120廃止(ジョン・メイヤーの永久カレンダーとともに発表された)に続く、新しいグランドコンプリケーションの開発を密かに進めているかもしれない。すでにRD#4でスーパーソヌリとスプリットセコンドの組み合わせを見ているので、これは非常に現実味がある。その間も、このような時計はオーデマ ピゲの最高傑作であることに変わりはない。
この特別な時計には、私が本当に気に入っている細かいディテールがたくさんある。ダイヤルは特定の光のもとで“反転”することで、ムーブメントを垣間見せながらも視認性を確保している。少し傾けて影を捉えると、セミスケルトンダイヤルを通して内部が見える。確かに大きくて重い時計だが、これをつけていると少しカッコよく感じるのは嘘ではない。オークションプレビューが行われる会場の少し暗い場所に足を踏み入れると、まるでクリスマスツリーのように夜光が光るのを見て驚いた。それはその瞬間まで見落としていたディテールであり、頭をかしげながらも思わず笑みがこぼれた。暗闇でスケルトンのグランドコンプリケーションを読みたいが、チャイムを鳴らしたくない人であれば、APはそのニーズを満たしている。
ロイヤル オーク グランド コンプリカシオンは、もはやAPのトップに君臨していない。そのタイトルはRD#4 スーパーコンプリケーションの登場によって(大きく)奪われてしまった。しかし、ロイヤル オークにはやはり何か特別な魅力がある。
この時計は万人向けではない。正直なところ、中古市場で約50万ドル(日本円で約7940万円)という“お買い得”なモデルなので、ほとんどの人にとって現実的ではないだろう。無限の予算を持ち、無意味で幻想的なもの、存在すること自体が目的のもの、すべての論理に反する時計を楽しめる人だけが、この時計の真価を理解できるのだ。そして、サイズに関係なくどんな時計でもつけこなせる手首(と体格)を持つ人も。どうやら私はその多くの条件に当てはまるようだ。ただひとつ、予算という点を除いて。