時計収集の世界では、“ホーリーグレイル(聖杯)”という言葉をしばしば耳にする。この言葉は実質的に“いつか手に入れたい憧れの時計”という意味で使われるようになったが、その“いつか”が実現する可能性は極めて低いことがほとんどだ。これまで多くのコレクターに「あなたにとっての聖杯は?」と尋ねてきたが、その答えは多岐にわたる。たとえばポール・ニューマンダイヤルを備えたロレックス デイトナや、1930年代のユニークピースのカルティエなどが挙げられる。それぞれが自分なりのグレイルリストを持っていると思うが、それを比較し、普遍的な定義に落とし込むとするならば、時計収集の世界における究極の聖杯とはスティール製のパテック フィリップ Ref.1518であることに異論はないだろう。もしこれを聖杯として認識していないコレクターがいるなら、それはこの時計の存在を知らないか、単に目標が低すぎるかのどちらかだと私は思う。
わずか281本しか製造されていないRef.1518は、マテリアルを問わずコレクターにとっての夢の存在である。この時計のケース径は35mmで、バルジューのエボーシュをパテック フィリップが改良し、仕上げを施したムーブメントを搭載している。さあ、いわゆる“基本情報”はここまでだ。1941年から1954年にかけてのカタログに掲載されたこの時計を理解するには、その時代背景を知ることが重要である。Ref.1518は世界初の量産型永久カレンダー搭載クロノグラフであり、同じカテゴリーに並ぶ時計は存在しない。もし類似のモデルを挙げるとすれば、20世紀中盤における永久カレンダー腕時計の名門であるオーデマ ピゲのものが思い浮かぶ。しかし、APが製造した同様のモデルは9本のみであり、そのどれにもクロノグラフ機能は搭載されていなかった。
Image courtesy of Monaco Legend Group.
2016年11月16日、最後に市場に登場したスティール製Ref.1518はケースシリアルナンバー508473(1)の個体であった。オーレル・バックス(Aurel Bacs)主導でフィリップスのオークションに出品され、時計界に衝撃を与えた。この出来事はHODINKEEでも詳細に取り上げられ、最終的な落札価格は驚異の1100万2000スイスフラン(当時の為替レートで約12億1000万円)に達した。当時この価格はオークションにおけるパテック フィリップの時計として史上2番目に高額であり、それを上回るのはヘンリー・グレーブスJr.(Henry Graves Jr.)のスーパーコンプリケーションのみであった。かくしてこのスティール製のRef.1518は、当時のオークションで最も高価なパテック フィリップの腕時計となったのである。
そして先日、モナコ・レジェンド・グループがシリアルナンバー508475(3)の個体をプライベートセールで販売すると発表した。単刀直入に言おう。その価格が知りたい? それならばとりあえず、“2000万ドル(日本円で約30億4700万円)超”という数字を挙げておく。
この価格、もしくはそれに近い金額で取引されれば、本機は史上最も高額で販売された腕時計となる。モナコ・レジェンド・グループの会長であるダヴィデ・パルメジャーニ(Davide Parmegiani)氏は、スティール製Ref.1518の扱いに精通している。価格に異議があるならば、彼に直接問い合わせるといいだろう。ただしその前に知っておくべきことがある。“ビッグ・ボス”として世界中のコレクターに親しまれる彼は、これまでに存在するスティール製Ref.1518の全4本を少なくとも一度は販売しており、この個体も過去に2度取引されていることが知られている。
ケースシリアルナンバー508475(3)は、2005年にパルメジャーニ氏が出版した書籍のために撮影された。 Image courtesy of Monaco Legend Group.
「なぜ最も重要なヴィンテージウォッチを、4月のモナコ・レジェンド・グループの次回オークションの目玉としてではなく、2月のプライベートセールで販売するのか?」と疑問に思うかもしれない。この点についてパルメジャーニ氏自身が説明し、時計販売の最高峰が考えるプロセスの一端を明かした。「私が考えるに、この価格帯に到達するのはオークションでは難しい」と彼は語る。「時計オークションでは、価格が500万、600万、800万ドルまでは上がる。オーレルのオークション(フィリップスのことを指している)でも、この価格帯の時計は見られる。しかし1000万ドルを超えると、一気に難しくなる」。彼は、この販売方法のほうが買い手にとって安心感があり、「じっくりと、どれほどこの時計を手に入れたいのか考える時間を持てる」と考えている
販売プロセスに関する締めくくりとして、彼はこう付け加えた。「今朝から驚くほど多くのメールを受け取っている……私の考えでは、この時計が長く市場に留まることはないだろう」
スティール製パテック フィリップ Ref.1518、シリアルナンバー508475(3) の歴史
前述のとおり、パルメジャーニ氏はこの個体を過去に2度販売している。それゆえに、この時計には非常に興味深い歴史がある。スティール製Ref.1518は時計収集市場が確立された当初から、コレクターズアイテムの頂点に君臨し続けている。そのため、1980年代にその存在が確認されて以来価値は飛躍的に上昇し、所有者が次々と入れ替わる状況が続いている。
この個体は1980年代初頭に、ニューヨークの47丁目で発見されたことで広く知られている。当時の販売価格は4500ドル(当時の為替レートで約100万円)と伝えられており、しばらく店頭に並んでいたという。最終的にスイスの時計ディーラーがダイヤモンド・ディストリクトの片隅に眠っていたこの時計を発掘し、当時伝説的なコレクターであったルイジ・カルヴァジーナ(Luigi Calvasina)に売却した。パルメジャーニ氏によると、このスイスのディーラーはほとんど利益を得ずに時計を販売したという。カルヴァジーナは数年間この時計を所有し、その価値が約1万ドル(当時の為替レートで約220万円)にまで上昇したところで、高額だと感じ売却を決断した。次の買い手はミラノの時計販売店ピサ・ウォッチズのグラツィア・ピサ(Grazia Pisa)であった。この時計はミラノの店舗のショーウィンドウに飾られ、やがてイタリアの高級ファッションブランド、エトロの創業者であるジェローラモ・エトロ(Gerolamo Etro)の目に留まることとなる。
1989年、オリオンのカタログに掲載されたスティール製Ref.1518。Image courtesy of Monaco Legend Group.
エトロはその名を冠したイタリアの高級ファッションブランドを創業し、服だけでなく時計にも優れた審美眼を持っていた。1989年、マッシモ・バラッカ(Massimo Barraca)がエトロを説得し、このスティール製Ref.1518を新興オークションハウスであるオリオンに委託させた。そしてこの個体こそが、史上初めてパブリックオークションに登場したスティール製Ref.1518となった。落札価格は160万フラン(当時の為替レートで約4000万円)。それから5年後、この時計の価値は再び大きく上昇し、シュスター(Schuster)はこれをアンティコルムのオークションに出品することを決定。ヘルムート・クロット(Helmut Crott)博士主導のもとで出品が進められた。
このスティール製Ref.1518は、同オークションのカタログ裏表紙に3本の極めて重要なヴィンテージパテックと並んで掲載された。そのうちの2本は、最終的にジュネーブのパテック フィリップ・ミュージアムに収蔵されている。しかし、ここで思わぬ展開が待っていた。このオークションで、なんと時計は落札されなかったのである。オークション終了後、クロット博士はプライベートセールを通じてこの時計をドイツのコレクターへ53万1869ドル(当時の為替レートで約7290万円)で販売した。
アンティコルムの1995年カタログ裏表紙に掲載されたスティール製Ref.1518。Image courtesy of Monaco Legend Group.
ここで、ついにパルメジャーニ氏が本格的に物語に登場する。彼は1989年の最初のパブリックセールの会場にいたことを語ってくれた。その場で会場にいたエトロが入札し、落札する様子を目の当たりにしながら、「いつかこの時計を所有できたら」と夢見ていたという。そして2004年、その夢は現実のものとなった。パルメジャーニ氏はドイツのコレクターに接触し、最終的に約110万ドル(当時の為替レートで約1億2100万円)でこの時計を購入することに成功した。それ以来、この時計は彼のコレクター仲間のあいだで取引され、イタリア国内に留まり、過去20年間で2度売買されている。
最終的な考察
このアイコニックなリファレンスのスティール製モデルは4本存在するが、そのなかでもさらにランクがある。単刀直入に言って今回販売されているこの時計は、コンディションを考慮すると、特に優れたコンディションを保つ2本のうちの1本となる。ほかの2本のスティール製Ref.1518に対して何か悪く言うつもりはないが、2016年にフィリップスで落札されたシリアルナンバー508473(1)と、今回販売されるシリアルナンバー508475(3)は明らかに優れたコンディションを持つ。さらに興味深いのは、今回の個体が“唯一無二”と言える点だ。それはパテック フィリップのExtract from the Archivesによって、ブレスレット付きで販売された唯一のスティール製Ref.1518であることが確認されているからだ。
Image courtesy of Monaco Legend Group.
パルメジャーニ氏の提示価格、そして彼が比較的早く買い手が見つかると確信している点からも、彼がこれを世界最高峰のヴィンテージウォッチのひとつと見なしていることがわかる。「スティール製Ref.1518はヴィンテージウォッチ界のフェラーリ 250 GTOだ。いつだって、最も訴求力のある“億万長者のためのおもちゃ”であり続けるだろう」と彼は率直に語る。
「最終的にどんな価格で売れるかはさておき、真の意味でこの取引で得をするのは買い手だ」とパルメジャーニ氏は説明する。「5年から8年後には、この時計の価値は5000万ドルに達しているだろう」
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