本稿は2022年6月に執筆された本国版の翻訳です。
Illustration by Andy Gottschalk
腕時計の広告、さらには最近の腕時計写真全般で最も顕著な特徴のひとつが時・分針の位置である。それが手ごろなスウォッチであろうと、最高級のパテック フィリップであろうと関係ない。針は例外なく10時10分、もしくはそれに近い位置にセットされている。そして驚くべきことに、この配置にはあなたがその時計を買いたくなるよう誘導する仕掛けが隠されているかもしれないのだ。
この隠されたメッセージの背後にあるのが“パレイドリア(pareidolia)”という現象である。これはギリシャ語に由来する言葉だ(特筆すべき用語はたいていギリシャ語が起源だ)。パラ(para)は“近しい”や“代わりに”という意味があり、エイドロン(eidolon)は“イメージ”や“形”を指す。この言葉は人間の心(おそらくその他の動物の心も)が、視覚的なイメージのなかに意味のあるパターンを見出そうとする傾向を表している。そうやって認識したパターンには実際に意味がある場合もあれば、特になく思い過ごしである場合もある。具体例を挙げるなら、雲を見つめているうちに顔や家畜の形が見えてくるうようなものだ。また、過去に火星の表面で観測された“運河”も思い浮かぶ。これもパレイドリアの典型例だ。火星にはこの現象を刺激する要素が豊富なようで、以前話題になっていた“火星の顔”もその一例だろう。
バイキング・オービターが1976年に撮影した“火星の顔”(写真中央上)。
2001年にマーズ・リコネッサンス・オービターによって再撮影された同じ地形(2007年公開)。
パレイドリアがなければ絵文字はうまく機能しなかった、あるいは少なくとも今ほど便利には使われなかっただろう。たとえば、😕という絵文字について考えてみてほしい。私たちはこれをごく自然に、そして瞬時に“困惑”や“軽度の悲しみ”、“失望”を表現する顔として解釈する。この解釈は本能的すぎて、脳が実際にはどれほど少ない情報でそれを行っているかを意識するのが難しいほどだ。この絵文字には塗りつぶされた円が描かれている。しかし冷静に考えると、この幾何学的な円は人間の頭の実際の形とほとんど共通点がない。もしこの両者がイコールなら、コンパスさえあれば誰でもレオナルド・ダ・ヴィンチになれるはずだ。そこにふたつの点と左右非対称にカーブした1本の線が描かれているだけで、それ以上の情報はない。
絵文字や少しでも“顔らしい”ものを目にしたときに起こるのは、顔認識に特化した脳の一部が活性化するという現象だ。この領域は“紡錘状回顔領域(fusiform facial area)”と呼ばれ、脳の下部後方(側頭葉の腹側面)に位置する(神経解剖学に興味のある人ならおなじみだろう)。興味深いことにこの紡錘状回顔領域は、実際の顔よりも絵文字のような単純な形状に対して素早い反応を見せるようだ。この現象は進化の過程で、人間がごくわずかな情報から表情を読み取り、感情を判断する能力を発達させた結果だと考えられている。
ロレックス オイスターの広告(1927年)。針が10時17分に設定された例だ。Image, Rolex.org
腕時計広告における針の設定が“10時10分”と関係する理由は一体何なのだろうか? 話はここからさらに深まる。2008年、ニューヨーク・タイムズでアダム・アンドリュー・ニューマン(Adam Andrew Newman)氏が同テーマについて執筆した記事で、この慣習が普及している実態について触れた。当時ユリス・ナルダンのマーケティング責任者であったスザンヌ・ハーニー(Suzanne Hurney)氏は、この記事のなかで「10時10分の針の配置はスマイリーフェイス(顔文字の笑顔)のような印象を与えてくれるので、可能な限りその配置を採用するようにしている」とコメントしている。ここでも再びパレイドリア(視覚的錯覚)が登場するわけだ。また、当時タイメックスの社長だったアダム・グリアン(Adam Gurian)氏はニューヨーク・タイムズに対して「弊社では常に針を10時9分36秒に設定して撮影している。たとえその配置によって、時計の一部の機能や特徴を隠してしまったとしてもだ」と語っている。
しかしながら、認知科学的な根拠が明確に示されたのは2017年のことである。この年、心理学の専門誌『Frontiers In Psychology』が「なぜ時計広告の針は10時10分に設定されているのかという心理学的実験(Why Is 10 Past 10 the Default Setting for Clocks and Watches in Advertisements? A Psychological Experiment)」と題した研究を発表した。この研究では「10時10分に設定された時計は、観察者の感情や購入意欲に対し顕著にポジティブな効果をもたらした。しかし8時20分に設定された時計は、感情や購入意欲に何の影響も与えなかった。また10時10分に設定された時計は、男性よりも女性において、より強い“喜び”の感情を引き出した」との結果が示された。
検証の方法はシンプルである。研究者たちは20種類の時計をそれぞれ10時10分、11時30分、8時20分に設定して撮影し、計60枚の写真を作成した。この写真を最初の実験では男性20人、女性26人、2回目の実験で男性11人、女性12人に見せた。その結果10時10分の配置がほかのふたつの設定よりも最も高い“喜び”の感情を引き起こすことがわかった。また10時10分は唯一、笑顔に見える配置として認識された。
検証の際に使用された時計の画像。ブラッドリー・ラング自己評価マネキンと対応。『Frontiers In Psychology』より。
正確を期すために補足すると、ジェームズ・ステイシーが指摘していた興味深い事実がある。それは時計の針を“10時10分”に設定すると口では言うものの、実際には針が“10時8分”から“10時10分”のあいだに設定されていることが多いという点だ。これは分針の先端がちょうどインデックスの上に来ると分針の先端が見えにくくなるうえ、微妙な非対称性が生じてスマイリーフェイス効果を損なう可能性があるためである。
10時10分の配置は時計を購入する際の抵抗感を減らす効果があるものの、この小規模な実験ではその配置だけで実際に購入を決断させるほどの強い効果は見られなかった。ただし競争の激しいアナログウォッチの販売市場では、どんな小さな優位性も活用する価値があるだろう。研究論文にはこう記されている。「この研究は、10時10分のようなスマイリーフェイスに見える時刻設定を用いることで、観察者の感情的な反応や時計の評価にポジティブな影響を与えられるという事実を初めて実証的に証明した。ただし観察者は、時刻設定がこの効果を引き起こしていることに気付いていない」
時計広告で針を10時10分に設定する習慣が一般的になり始めたのは、1950年代以降のことである。それ以前の広告では、時刻設定はもっと雑然としていたようだ。たとえば1927年のロレックスの広告(メルセデス・グライツのイングランド海峡横断泳を題材にしたもの)では、時計の針が10時17分に設定されている。この時代にも10時10分の設定が使われることはあったが、現在ほど広く普及していたわけではない。また“8時20分”という配置も人気の選択肢だった。これは少し不機嫌そうな顔に見えるものの、時計が贅沢品ではなく必需品だった時代には“時を刻むことは真剣な行為である”という印象を与えるのに役立っていたのかもしれない。さらにこの位置では、針がブランドロゴを隠さないという実用的な利点もあった。
左リューズのGMTマスター II。
デジタルウォッチについてはどうだろう? 網羅的な調査をしたわけではないが、驚くべきことにタイメックスのデジタルウォッチもアナログと同じく“10時9分36秒”に設定されている。一方、カシオのG-SHOCKはデジタルディスプレイの時刻が一律で“10時58分50秒”に設定されており、日付は常に“6月30日 日曜日”だ。アナログとデジタルが組み合わさったアナデジモデルでも日付は同じく6月30日だが、針の時刻は“10時9分36秒”に設定されている。この点ではタイメックスとの差別化が図られているといえる。
なぜ6月30日なのか? 最初はまったく見当がつかなかった。もちろん、6月30日にはいろいろな出来事が起きている。グレゴリオ暦が採用された1582年以降6月30日は実に440回存在しているし、ツングースカ大爆発のおかげで“国際小惑星デー”にも指定されている。しかしこの記事を公開する前に同僚のマイルズ・クサバが指摘してくれたのは、1957年6月がカシオ計算機株式会社の設立月であり、その年の6月30日は日曜日だったということだ。現在カシオに事実確認中だが(記事執筆当時)、ひとまずこの説で間違いないといえるだろう。Q.E.D.(証明終了)。