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10月上旬、HODINKEEがニューヨークで開催したUBS House of Craftのステージで、私はサザビーズのグローバル時計部門責任者であるジェフ・ヘス(Geoff Hess)氏に話を聞いた。“オークションシーズンの洞察”と題されたトークで、私は1時間にわたり時計オークションの運営にまつわる複雑な仕組みについてヘス氏に掘り下げて尋ねた。特に関心を引かれたのは、大手オークションハウスで目録を作成し、キュレーションするプロセスだった。その回答は私の記憶に残り続けるだろう。彼が強調したのは、1000万円以上の高額で売れることが確実な“話題性のある”時計よりも、ストーリーを持つ時計の重要性だった。確かに、トレンドに乗った高額な時計が常に目録に含まれることは間違いないとヘス氏は認めた。ただサザビーズが力を入れているのは、来歴があり、感情や心に響く時計をコレクターに届けることだという。
数週間前に、サザビーズが12月6日に開催予定の“New York Important Watches”の目録を公開した際、そこに示された方針が具体的に反映されているのを確認できた。ヘス氏とそのチームが今週金曜日に出品する時計のなかには、38ロットにおよぶヴィンテージホイヤーのコレクションがあり、その多くがモータースポーツと直接結びついている。
ジョー・シフェール(Jo Siffert)。
モーターレーシングは当時、ホイヤーのDNAそのものを象徴するものであり、現在でもタグ・ホイヤーのブランドアイデンティティに深く刻まれている。LVMHがフォーミュラ1(F1)との10年間のパートナーシップを発表した際に、タグ・ホイヤーが名を挙げられたことがその証だろう。現代の高級産業においては“グローバルパートナー”となること、契約締結時の華やかな写真撮影、そして年間1億ドル(日本円で約150億円)と噂される契約金が必須となる。一方、1968年当時、ジャック・ホイヤー(Jack Heuer)はスイスのF1ドライバー兼耐久レースドライバーであるジョー・シフェール(Jo Siffert)に、年間2万5000スイスフラン(当時の相場で約205万円)を支払い、さらにホイヤーの時計を卸売価格で購入できる特権を与えた。
このパートナーシップは、時計業界で初となるスポーツ選手とのアンバサダー契約だったとされ、ホイヤーの歴史を一変させた。確かに1960年代後半にはホイヤーのカタログの大部分がモータースポーツ向けに特化していた。だがシフェールの影響力(そして個人的な利益への意欲)は絶大で、彼が出会ったほぼすべてのドライバーの手首にホイヤーを装着させたといわれている。レース開始数分前のスターティンググリッドで、シフェールが仲間のドライバーたちに時計を売り込んでいたというエピソードは特に印象深い。
スティーブ・マックイーン(Steve McQueen)、1971年公開の『栄光のル・マン(原題:LeMans)』より。
今日、ヴィンテージホイヤーについて考えるとき、多くの人が思い浮かべるのはスティーブ・マックイーンだ。1971年公開の映画『栄光のル・マン』で、マックイーンが身につけていたのは間違いなくモナコである(撮影に使用された時計のひとつが、サザビーズのロット128に含まれている。この時計の背景についてはこちらで詳しく取り上げている)。しかし、マックイーンにインスピレーションを与えたミューズ、ジョー・シフェールを知る人は少ない。噂によれば、マックイーンはシフェールの姿を真似ることに夢中だったという。彼は本当に、とてつもなく格好よかった。そして“キング・オブ・クール”と称されたマックイーンもそれを認めていた。映画のなかでポルシェ 917からホイヤーのロゴが入った白いレーシングスーツ、たっぷりした髪型、そしてもちろんホイヤーの時計まで、マックイーンの姿はまるでシフェールそのものだ。
つまり、ジョー・シフェールとその影響力がなければ、スティーブ・マックイーンが『栄光のル・マン』でモナコを着用することはおそらくなかっただろう。そしてホイヤーがモータースポーツと現在のような深い結びつきを持つこともなかっただろう。しかし結果的にマックイーンはホイヤーを身につけ、ブランドはレースと深く結びついた。そしてサザビーズが金曜日に出品したこれらの時計のなかには、この直接的なつながりを誇示し、体現しているものが含まれている。
オータヴィア “リンツ” Ref.2446、1966年製。フォードがモンツァで開催したゾディアック耐久レースでジョン・マクレイに贈呈
ロット110。ホイヤー オータヴィア “リンツ” Ref.2446。Image courtesy of Sotheby's
ジョン・マクレイ(John Maclay)は、1966年にモンツァ・サーキットで開催されたゾディアック耐久レースの参加者としてフォード(・モーター社)が選んだ5人のドライバーのひとりである。このドライバーたちは、フォードのセダン型最新モデル、ゾディアック・エグゼクティブセダン(新型エセックス3リッターV6エンジンを搭載)に乗り、昼夜問わず7日間モンツァ・サーキットを全速力で走り続けた。3時間交代制のスティントで、このレースはドライバーとマシンの限界を試す大きな挑戦だった。最終的にマクレイたちは時速161kmを超える速度を維持し、6658周を走破して9つのクラスレコードを樹立した(詳細はサザビーズのロット解説を参照)。
ジョン・マクレイとそのコ・ドライバー。Image courtesy of Sotheby's.
ホイヤーのオータヴィア “リンツ”は、このモデルの最も有名な着用者であるヨッヘン・リント(Jochen Rindt)にちなんで名付けられた。ここに出品されている個体は、ゾディアック耐久レースでの成功を記念してマクレイに贈呈されたものだ。裏蓋には記念の刻印が施されており、歴史好きのウォッチコレクターを魅了するのに十分な補足資料が付属している。エスティメートは1万5000ドルから3万ドル(日本円で約225万~450万円)。
結果2万1600ドル(日本円で約320万円)で落札。
オータヴィア Ref.3646、1968年製。SCCAドライバー・オブ・ザ・イヤーのトニー・アダモヴィッチに授与
ロット112。ホイヤー オータヴィア “モーターエイジ” Ref.3646。Image courtesy of Sotheby's.
トニー・アダモヴィッチ(Tony Adamowicz)は、アイゼンハワー、ケネディ、そしてジョンソン政権時代に、ホワイトハウスで米国政府職員として勤務していた。一方で1968年のSCCA(スポーツカークラブ・オブ・アメリカ)トランザム・シリーズではポルシェ 911に乗り、はるかに強力なコルベットやカマロとレースで競り合っていた。
シーズン最初のレースであるデイトナでマシンが大破したもののアダモヴィッチは巻き返し、ライムロックパークとブリッジハンプトンで2度のクラス優勝を果たし、さらにウォーボネットとミッドオハイオで2度のクラス2位に輝いた。最終的に“2リッター未満”クラスのチャンピオンとしてシーズンを締めくくった。このクラス優勝に伴い、モーター/エイジはアダモヴィッチを1968年のSCCAドライバー・オブ・ザ・イヤーに選出し、SCCAコンベンション賞の祝宴でこのホイヤー オータヴィアを授与した。
トニー・アダモヴィッチ。Image courtesy of Barry Tenin.
伝統的に、2レジスターのオータヴィア Ref.3646は、3レジスターが装備されたRef.2446よりもコレクターからの評価が低い。しかしこれはロゴダイヤルがすべてを変える。さらに来歴がモーターレースに関係している場合、その影響はさらに大きい。今回出品されるこのモデルのほかに、2本のオータヴィア “モーターエイジ”がタグ・ホイヤー・ミュージアムのアーカイブに保管されている。エスティメートは1万5000ドルから3万ドル(日本円で約225万~450万円)。
結果1万9200ドル(日本円で約290万円)で落札。
オータヴィア Ref.1163、1971年製。ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシング チーム
ロット119。ホイヤー オータヴィア Ref.1163、ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシングモデル。Image courtesy of Sotheby's.
ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシングは、ヴェルコ・“ヴェル”・ミレティッチ(Velko "Vel" Miletich)と、1963年のインディアナポリス500チャンピオンであるルーファス・パーネル・“パーネリ”・ジョーンズ(Rufus Parnell "Parnelli" Jones)が1969年に設立したレーシングチームだ。1960年代から1970年代にかけて、インディ 500はアメリカ合衆国自動車クラブ(USAC)主催のチャンピオンシップシリーズの一部だった。
ジョーンズのチームはUSACシリーズに出場し、1970年と1971年に連続してチャンピオンシップを制覇した。その勝利は圧倒的で、1970年には17レース中10レース、1971年には12レース中6レースで優勝し、両年ともインディ 500を制した。これを祝うために、ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシングはホイヤーにチーム専用クロノグラフとしてオータヴィアを発注した。噂では、この時計は合計12本または15本が製作されたという。
ロット119。ホイヤー オータヴィア Ref.1163、ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシングモデル。Image courtesy of Sotheby's.
このオータヴィアは、その12本から15本のうちのひとつで、裏蓋にはしっかりと刻印が施されている。またヴェルズ・パーネリ・ジョーンズのチームメンバーであるスティーブとの直接的なつながりを持つ時計でもある。さらにこの時計には、チームがスティーブに支給したコートも付属している。これだけの来歴と付属品が揃った状態で、完全な“スティーブ”ルックを再現することができるだろうか? エスティメートは1万ドルから2万ドル(日本円で約150万~300万円)。
結果1万8000ドル(日本円で約270万円)で落札。
カレラ Ref.11553、1974年製。マクラーレンF1世界コンストラクターズ選手権制覇記念品
ロット122。ホイヤー カレラ Ref.11553、マクラーレンF1チーム記念品。Image courtesy of Sotheby's.
マクラーレン・レーシングは、1963年にブルース・マクラーレン(Bruce McLaren)によって設立されたチームである。このチームは、現在も活動しているF1チームのなかで2番目に長い歴史を持ち、成功度においてもフェラーリに次ぐ2番目の地位を誇っている。今回のホイヤー カレラは、マクラーレンが1974年に初めてF1世界コンストラクターズ・チャンピオンを獲得した際に関連するモデルだ。このシーズン、エマーソン・フィッティパルディ(Emerson Fittipaldi)とデニー・ハルム(Denny Hulme)のマルボロ・チーム・テキサコ・マクラーレン-フォードM23のマシンにはホイヤーのロゴが施され、チームはホイヤーの計時機器を使用していた。
もしマクラーレン M23をガレージに加えるための約100万ドル(日本円で約1億5000万円)を持ち合わせていないなら、このカレラは現実的に手に入れられる最上級の選択肢だ。この時計は約20本が特注され、1974年の選手権での勝利を祝ってマクラーレンチームのドライバーやその他のメンバーに贈られたものだ。推定価格は1万5000ドルから3万ドル(日本円で約225万~450万円)。
結果1万8000ドル(日本円で約270万円)で落札。
オータヴィア ダッシュボードタイマー2機を備えたタイミングボード。アバクロンビー&フィッチのダブルネーム入り、アイザート・レーシング・エンタープライズが使用
ロット126。ホイヤー 計時セット。Image courtesy of Sotheby's.
世界で最も情熱的で熱心なホイヤーコレクターとして知られるジェフ・スタイン(Jeff Stein)氏のコレクションから直接提供されたこの計時セットは、単なるボードではなく、モータースポーツの歴史そのものといえる。このボードはタイマーの年代から推測すると1950年代に購入されたと考えられており、1973年まで使用されていた。
スタイン氏の調査と計時ボードに付属している資料によれば、このセットは多くのアイザート・レーシングの車両で使用されたという。具体的には、1964年のパイクスピーク・ヒルクライムでのアル・アンサー(Al Unser)の勝利、1960年代のインディアナポリス 500、1973年のクレイ・レガッツォーニ(Clay Regazzoni)のフォーミュラ5000レースなどが挙げられる。この計時セットについてさらに詳しく知りたい場合は、非常に詳細なロット解説をぜひ読んで欲しい。
改めて述べるが、これはモータースポーツの歴史の一片である。エスティメートは1万2000ドルから2万4000ドル(日本円で約180万~360万円)。
結果1万5600ドル(日本円で約240万円)で落札。
聖杯級のカレラ2本、Ref.2447SNとRef.2447NS
ロット106。ホイヤー カレラ Ref.2447SN。Image courtesy of Sotheby's.
ロット107。ホイヤー カレラ Ref.2447NS。Image courtesy of Sotheby's.
正直に言うと、見出しは少し大げさかもしれない。ここには10本の時計を取り上げている(計時セットを2本の“時計”と見なせば11本になる)。それでもこの2本を特別に取り上げたのは、連番で出品されているうえに、リバースダイヤルという珍しい特徴を持っているからだ。ホイヤーのコレクターにとって、SNとNSは1960年代の手巻きカレラのなかでも特に人気が高いモデルだ。2447や3647の大半が文字盤に合わせたインダイヤルを持つなかで、この2本はパンダ文字盤と逆パンダ文字盤を採用し、従来のデザインとは一線を画している。その結果としてカレラでありながら“デイトナ風”といえる仕上がりを見せている。これは多くのHODINKEE読者がご存じのように、カレラとデイトナが当時、同じムーブメント(バルジュー72)とダイヤルメーカー(シンガー社製)を共有していたことによるものだ。
カマロ Ref.73343。チャンピオン・オートパーツ向けモデル
ロット109。ホイヤー カマロ Ref.73343、チャンピオン・オートパーツ向けモデル。Image courtesy of Sotheby's.
この記事の終盤、モータースポーツに直接関係のない時計を紹介するセクションにこの時計が含まれているとはいえ、わずかではあるがそのつながりは存在している。チャンピオン・オートパーツはスパークプラグで有名なメーカーであり、かつて文字盤にロゴを入れた時計を頻繁に発注していた。我々がよく目にするのは、1930年代から1960年代にかけて製造されたチャンピオンのロゴが入ったギャレット社製クロノグラフのいくつかであり、その一部はインディアナポリス 500の優勝者に贈られたものだ。今回紹介するチャンピオンのホイヤー カマロは1970年代までさかのぼるモデルであり、チャンピオンの地球ロゴはデュアルレジスターレイアウトによく調和している。
私は、Bring A Loupeの2024年復刊号の初回でシルバーダイヤルのチャンピオン カマロを特集した。この時計はひどい写真にもかかわらず、eBayにて1万1025ドル(日本円で約165万円)で落札された。一方、今回サザビーズに出品されたブラックダイヤルのチャンピオン カマロはシルバーダイヤルよりもロゴが際立つため、より人気が高いとされている。エスティメートは1万ドルから2万ドル(日本円で約150万~300万円)。
結果は1万5600ドル(日本円で約230万円)で落札。
モナコ Ref.74033N、“ダークロード”または“ブラックモナコ”
Lot 124 - Heuer Monaco Ref. 74033N "Dark Lord." Image courtesy of Sotheby's.
スティーブ・マックイーンが映画『栄光のル・マン』で着用したことで知られるモナコだが、製造期間はわずか5年間であり1974年に生産終了となった。ただしRef.74033Nは例外である。1977年か1978年にごく少量生産されたブラックコーティングのモナコは、いまや伝説的な存在となっている。きわめて魅力的かつ個性的な外観を持つ時計が少量生産された場合、それは数十年にわたってコレクターの的になる条件がすべて揃っているといえる。“ダークロード”と呼ばれるこのモデルもまさにそのとおりである。ただし、タグ・ホイヤーはこの愛称を避け、“ブラックモナコ”という呼称を好んでいる。
ヴィンテージホイヤーのなかでも最もコレクタブルなモデルのひとつに入札できる希少な機会であり、エスティメートは3万ドルから6万ドル(日本円で約450万~890万円)。
結果は3万6000ドル(日本円で約540万円)で落札。
カレラ Ref.1158CHN。ブレスレット付き 18Kイエローゴールド
ロット127。ホイヤー カレラ Ref.1158CHN。Image courtesy of Sotheby's.
ここまで記事を書いてくると、今回出品されている時計がどれほど希少で特別なものかについて、あまりにも多くの称賛の言葉を使っているのではないかと心配になる。本当に、この興奮には正当な理由があるのだ! 私はヴィンテージホイヤーの愛好家であり、市場を熱心に追い続けている。その経験から言わせてもらえば、これらの時計のなかには見つけること自体が難しく、まして購入するのは非常に困難なものも含まれている。誇張に聞こえるかもしれないが、このカレラは間違いなくヴィンテージホイヤーのなかでも最も重要で興味深いモデルのひとつだといえる。
Ref.1158CHNは、モータースポーツとホイヤーのつながりを象徴する最高峰の逸品だと私は考える。オータヴィアの“シフェール”や“リンツ”も素晴らしいが、1158CHNはホイヤー自身がレース文化における功績を讃え、その成功を純粋なイエローゴールドの大胆な記念碑として具現化したモデルだ。この時計はスイス証券取引所でのホイヤー株式上場を記念して1970年に発表された。そして1971年、ジャック・ホイヤーがスクーデリア・フェラーリの技術パートナー契約を結ぶという革新的な取引を通じて、ホイヤーの伝説に名を刻むこととなった。契約の一環として、ニキ・ラウダ(Niki Lauda)やクレイ・レガッツォーニ(Clay Regazzoni)といったフェラーリのドライバーには、それぞれ1158CHNが贈られた。さらにほかのF1ドライバーたちがこの時計を羨ましがったため、ジャックはパドック内で追加の取引を行い、最終的にマイク・ヘイルウッド(Mike Hailwood)、マリオ・アンドレッティ(Mario Andretti)、ロニー・ピーターソン(Ronnie Peterson)、アルトゥーロ・メルツァリオ(Arturo Merzario)、デレック・ベル(Derek Bell)といったドライバーたちの手首にもこの時計がはめられることになった。
商業的には、1158CHN、特にブレスレットタイプの販売は困難を極めた。重量のためにブレスレットの製造コストが時計本体を上回っていたからだ。そのため、市場に出回っている1158CHNのなかには、価格が高すぎて1度も販売されなかったホイヤー代理店が抱えていた在庫品が含まれているものもある。販売不振は少ない生産量を意味し、その数は数百本にとどまるといわれている。この時計のエスティメートは3万5000ドルから7万ドル(日本円で約520万~1050万円)。
結果は7万2000ドル(日本円で約1080万円)で落札。