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Found ロレックス初のウィナーズデイトナを日本で発見

日本人で初めてデイトナ 24時間レースを制したドライバーのひとり、鈴木利男氏が手にした記念すべきロレックス初となったウィナーズデイトナの詳細に迫る(しかもブラウンチェンジダイヤルだ!)。

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フォーミュラ1、FIA世界耐久選手権™、ル・マン 24時間レース、そしてデイトナ 24時間レース。世界的に権威のある多くのモータースポーツイベントで公式タイムキーパー・パートナーを務めるロレックスだが、なかでも最も有名なものといえばデイトナ 24時間レース(ROLEX 24 AT DAYTONA)だろう。

 1959年にロレックスはフロリダ州デイトナビーチにあるデイトナ・インターナショナル・スピードウェイのパートナーとなり、それから数年後の62年に初のレースが開催された。そして1963年。ロレックスは、このレーストラックとの繋がりを象徴するクロノグラフとして“コスモグラフ デイトナ”を世に送り出したのである。

 時代によってレースの名称が変わったが、1992年にロレックスがタイトルスポンサーとなったことで現在の“ROLEX 24 AT DAYTONA”の名が定着した(とはいえ、本稿ではなじみ深いデイトナ 24時間レースと表記する)。

1992年のデイトナ・インターナショナル・スピードウェイ。©️日産自動車

 ロレックスがタイトルスポンサーとなった1992年のデイトナ 24時間レースでは、ニスモ(※1)チームからニッサン・R91CP(※2)がエントリーした。このチームドライバーだったのが長谷見昌弘氏、星野一義氏、鈴木利男氏の3人だ(テストでドライバーへの負担が大きいことが判明したため、スウェーデン人レーシングドライバー、アンデルス・オロフソン氏が追加登録されたが実際に彼が走ることはなかった)。

 もともとはル・マン 24時間レースでの優勝を狙ってチームが組まれたが、1991年のル・マン 24時間レースは車両規定変更のため出場を断念。その代わりにターゲットとしたのがデイトナ 24時間レースだった。しかし90年後半に湾岸戦争が勃発したことから91年の同レースも出場を見合わせとなり、ようやく翌92年にエントリーの機会が訪れた。

 その結果はどうだったのか? 詳細は割愛するが、ニッサン・R91CPは2位のジャガー・XJR-12Dに9周の差をつけ、それまでのレース周回数を更新する762周を記録し総合優勝。デイトナ 24時間レース初エントリーにもかかわらず、日本製マシンと日本チーム、そして日本人ドライバーによる初優勝という快挙を成し遂げた。

※1:ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(Nissan Motorsports International co.ltd.)の通称。日産社内のワークスチームが分社化し設立された会社で、日産車をベースに改造を施し販売を行ったほかレースへの参戦も担った。
※2:1991年の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権、そしてル・マン 24時間レース用に日産自動車が製作したレーシングカー。

長谷見昌弘氏、星野一義氏、鈴木利男氏の3名が運転し優勝に導いたニッサン・R91CP。1992年2月1日撮影。Photo by ISC Images and Archives via Getty Images

 その華々しい記録も見逃すことはできないが、時計好きにとってより重要な出来事は1992年以降、デイトナ 24時間レースで勝利したチームのドライバーに特別仕様のデイトナが贈られるようになったという事実だ。その時計は“ウィナーズデイトナ(ウィナーズロレックスとも)”と呼ばれ、まずお目にかかることができないレアモデルのひとつとしてロレックスファンに知られている。

 ウィナーズデイトナ、しかも記念すべき“初の”ウィナーズデイトナを手にした人物こそ、長谷見昌弘氏、星野一義氏、鈴木利男氏(アンデルス・オロフソン氏も手にしたと言われている)という3人の日本人だったのだ(実はその事実に気づいていない人も意外と多いのではないだろうか?)。そんな希少なデイトナをぜひとも自分の目で見てみたい。その一心で筆者は伝手を頼り、1992年のデイトナ 24時間レース優勝ドライバーのひとりである鈴木利男氏に会うことができた。


ロレックス初のウィナーズデイトナはどんな時計だったのか?

鈴木利男

1992年のデイトナ 24時間レースに参戦し、チームドライバーとして優勝に貢献した。日産のR35 GT-R開発ドライバーとしても有名。現在は日産公認のGT-Rをはじめとする国内外のスポーツカーのメンテナンス・チューニングを行うサービス工場、ノルドリンク(NordRing)の代表を務める。一方、ドライバーとして今も現役であり、2021年には市販車の改造車両で行われるツーリングカーレース、スーパー耐久に参戦している。

4月某日。筆者は鈴木利男氏が主宰するショップ、ノルドリンクを訪ねた。普通なら伝説的なレーシングドライバーと対面できることを喜ぶべきだが、筆者の頭のなかはウィナーズデイトナのことでいっぱいだった(クルマ好きの方からしたら、なんて失礼なヤツだと思われるかもしれないがどうか許して欲しい)。

 ガレージ横にあるミーティングスペースに案内されると、鈴木利男氏との挨拶も早々に筆者の目はテーブルの上に無造作に置かれた時計に釘付けとなった。

 ウィナーズデイトナだ!

時計の横に写るのは1992年のデイトナ 24時間レースでニッサン・R91CPを運転中の鈴木利男氏の写真。実はこの時撮影された写真が後年、10分の1スケールのラジコンカーが作られた際のパッケージに使用された。

 優勝年(1992年)からRef.16520であろうことは予想ができていたが、対面したウィナーズデイトナは想像を超える驚くべきものだった。完璧なものではなかったものの、なんとインダイヤルが茶色に変色したブラウンチェンジダイヤルだったのだ! しかも時計がやたらとキレイだ。もしかしたら取材に合わせてわざわざオーバーホールをしてくれたのだろうか?

デイトナ(Ref.16520)黒文字盤のインダイヤル部分が茶色く変色したブラウンチェンジダイヤル。ブラウンアイ、パトリッツィダイヤルとも呼ばれている。一説には1993年から95年のS、W品番に比較的多く見られると言われている。

 「優勝した時に1度つけてみたのですが、ブレスレットがぶかぶかでしょう? コマを調整しないといけないというので面倒くさくなってしまって。実はそれっきり貸金庫にしまい込んでいたんですよ。今回、何十年ぶりかで引っ張り出しました」と鈴木氏。なんとほぼ未使用状態だったのである。

 ケースを磨いた様子はなく、ブレスレットも極めてきれいな状態だ。ギャランティはもともと付属していなかったのか、紛失してしまったのか、記憶が定かでないとのことで箱のなかには見当たらなかったが、調べてみると品番が箱の前面にでかでかと書かれており、ケースはE品番(1990〜91年製とされている)。優勝年から考えると妥当である。そしてブレスレットはオールサテン仕上げのシングルロックタイプ。ブレスレット番号は78360、フラッシュフィット番号は503で、これは1988年から95年頃にかけて製造されたRef.16520に採用されていたといわれるタイプのものだ。ブレスレットの製造時期も合っている。

 そしてケースバックに目をやると、“ROLEX 24 AT DAYTONA”のロゴと優勝年を示す“1992”の数字。そしてそれらの上には“WINNER”の文字が刻印されている。正しくこれがウィナーズデイトナであることを静かに物語っていた。

1992年2月2日、デイトナ 24時間レース優勝後に撮影された1枚。白いレーシングスーツに身を包んだ4名がニスモチームのドライバーで、左から長谷見昌弘氏、星野一義氏、鈴木利男氏、アンデルス・オロフソン氏だ。鈴木利男氏が手に持っている“ROLEX”と書かれた箱にウィナーズデイトナが置かれている。ただ、これはあくまでも撮影用で、ドライバーにはこれとは別のものが贈られたという。Photo by ISC Images & Archives via Getty Images

 デイトナ 24時間レースに参戦した当時の様子を、鈴木氏は次のように話す。

 「デイトナ・インターナショナル・スピードウェイは最大傾斜角31°のバンクを持つのが特徴です。私は初めてのバンク走行だったのですが、10周したところでステアリングを握る手の皮が剥けてしまったんです。それくらい身体に余計な力が入っていたんでしょうね」

 そんな状態でも無事に走り抜き、デイトナ 24時間レース初参戦にもかかわらず初優勝という偉業を成し遂げて手に入れた時計だ。きっと何か思い入れがあるに違いないとコメントを求めたが、鈴木氏の回答は意外なものだった。

 「1992年からロレックスがスポンサーとなったので、時計が贈られるということは事前に聞いていましたが、まったく興味はなかったですね。中学に上がった記念に祖父がコンビのロレックスをくれたのですが、日付表示に付いているボコっと盛り上がったサイクロップレンズがどうにも嫌でね。それ以来、時計に対する興味もつけることもほとんどなくなってしまったんですよ」

 「時計自体に対する思い入れはあまりないですが、優勝した時は勝てたうれしさでいっぱいでしたね。国際レースでの優勝は初めてでしたので。というのも、ル・マンやデイトナのような耐久レースに出ていた当時のニッサンのグループCカー(※3)はすごくよかったんですよ。日本でもずっとチャンピオンをとっていましたから。ただ、ル・マンではトップとの差は歴然としていましたし、表彰台に上がるなんてことはまだ夢のまた夢という状況。まずは完走することが第1という時代です。当初はル・マンに照準を合わせていたわけですけど、レギュレーションの変更や戦争で出られなくなって、やっとデイトナへのエントリーが決まったような印象でしたね。それが初めて出たデイトナで、日本のチームが日本のクルマで優勝できるなんて思いも寄りませんでした」

 実は1992年をのぞくと、後にも先にもデイトナ 24時間レースで日本のチームが日本のクルマで優勝した例はない。2019年に元F1ドライバーの小林可夢偉氏が総合優勝を飾っているが、この時はキャデラックチームでの参戦で、彼以外のチームメイトはすべて海外勢。歴代優勝チームとそのクルマを見ると、いかに92年のニスモチームの優勝が異例だったのかがよくわかる。

※3:かつて存在したスポーツカーのカテゴリー。1981年に国際自動車スポーツ連盟(FISA)によって発表され、従来は1から8の数字で形成されていたレギュレーションを改正。1982年にAからE、そしてNという6つのアルファベットで表されるようになった。

 「優勝して日本に帰国してすぐだったと思いますが、年配のレース関係者の方から500万円で譲って欲しいと言われましたがお断りしました。時計に興味がないとは言っても、やはりこれは自分がやってきたことの大切な証ですから。譲るつもりはないですね。もし自分が死んで、息子が相続したら売られてしまうかもしれないですけどね(笑)」

2時位置のクロノグラフのスタート・ストップボタンのねじ込みが開放されているが、これは撮影時のねじ込み忘れではない。どうやら開放状態のまま保管されていたようで、経年により固着してしまっていたためにそのまま撮影をした。

 鈴木氏のウィナーズデイトナを見て、筆者のなかには沸々とある思いが巡っていた。ほかのドライバーの方のウィナーズデイトナはどんな様子なのだろうかと。

 「長谷見さんは時計好きな方だったから、この時計もちゃんとつけていたと思いますよ。でも星野さんは“こんな重いの俺はしないから”と息子さんに譲ってしまったと言ってましたね(歴史に残る時計ですよ! 今も大切に保管さていますか?)」

 長谷見氏、そして星野氏のウィナーズデイトナも同じようにブラウンチェンジダイヤルなのだろうか? おふたりのデイトナもぜひこの目で見てみたい。鈴木氏にお会いできたことで、筆者の心にはそんな思いが強く刻みつけられることになった。続報に期待して欲しい。

Photos:Kazan Daigo