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カニエ・ウェストもつけていた。タイラー・ザ・クリエイターも。Jay-Zも。
しかし、カルティエのクラッシュは、たまたま数人の有名人の腕を飾っただけの時計ではない。まったく。
あと、忘れていいこと。この時計は決して交通事故の結果の産物ではなかった。交通事故に遭って燃えて溶けたベニュワール アロンジェがカルティエ ロンドンに持ち込まれ、デザイナーがそのシュールな形状にインスピレーションを受けてクラッシュを作った、というのは都市伝説。
実際には(シュールな話?)クラッシュは、1960年代のカルティエ ロンドンと、ロンドンの街に存在した、さまざまな力の集合体だった。「スウィンギング・シックスティーズ」と呼ばれるこの時代は、大胆なファッションやデザインへの関心が高まり、カルティエ ロンドンの工房も独立した革新的なものとなっていたのだ。
ロンドン・コーリング
1902年、ルイ・フランソワの孫であるジャック・カルティエとピエール・カルティエが、パリ以外の場所にメゾンの最初の拠点を開設した。彼らはロンドンの高級住宅街であるボンド・ストリートにカルティエの本拠地を設立し、現在に至っている。
蛍光灯で照らされたガラスのキャビネットに時計やジュエリー、その他の宝物が陳列されている現在の小売店とは異なり、このカルティエの独創的な拠点は、真のワークショップだった。ボンドストリートのタウンハウスの最上階では、デザイナーがコンセプトをスケッチし、ジュエリーを製作し、顧客からの特別な注文や委託を受けていた。カルティエは金細工師や宝石商、その他さまざまな職人を雇い、ロンドンの工房は独立した創作活動を行っていたのだ。王室の戴冠式のために王冠やティアラを制作したこともあった。
この頃のカルティエ ロンドンは、パリやスイスからの時計も販売していたが、独自の時計デザインや製作はまだ手掛けていなかった。
それが変わったのは1960年代半ば、カルティエ ロンドンの責任者であるジャン-ジャック・カルティエ(今世紀初頭にロンドン支店を設立したジャックの息子)が、支店でも自分たちの腕時計を作るべきだと考えたからだ。また、これは1964年にピエール(ジャックの弟)が亡くなったあとのことで、それによってニューヨーク、パリ、ロンドンのカルティエ事業が分割された。
スウィンギング・シックスティーズ
1960年代半ばまでには、カルティエ ロンドンは新たな独立性を手に入れていた。しかし、ボンドストリートのタウンハウスから一歩外に出てみると、そこはカルチャー・リボルーションの真っ只中だった。
「クラッシュを理解するためには、英国の首都がファッション、音楽、消費財のレボリューションの先頭に立っていたスウィンギング・シックスティーズに戻らなければなりません」と、フランチェスカ・カルティエ・ブリッケル氏は語る。彼女は『The Cartiers: The Untold Story of the Family Behind the Jewelry Empire』という素晴らしい本の著者であり、ジャン-ジャック・カルティエの孫娘でもある。「戦後の緊縮財政と抑制に覆われていた1950年代とは対照的に、1960年代は若者が現状に挑戦し、親とは違う存在になりたいと願う、反動の10年でした」
モッズ、ミニスカート、ミック・ジャガー......これらすべてがロンドンの街を闊歩し、戦後の倦怠期からスタイルの中心地へと劇的に変わっていった。
「このような背景から、ロンドンのクラッシュのような反逆的なデザインの時計が人々の想像力をかきたてたのは明らかです」とブリッケル氏は言う。確かに美しい時計だが、堅苦しさや伝統とは程遠いものだ。それは明らかに、カルティエの最も象徴的なモデルの厳格な直角フォルムからの脱却だった。戦時中の恐ろしい武器を思わせる名前を持つその象徴的なモデル タンクである。
クラッシュの創作
クラッシュの場合はこれに尽きる。デザインだ。
「デザインに惹かれます。このような時計は他にありません。ケースの曲線は官能的でソフトな印象を与えます。有機的で自由な形状は、時計のケースのなかでもユニークなものです」と、コレクター兼ディーラーのエリック・クー氏は、クラッシュへの長年の情熱を語っている。
「このモデルへの情熱は、そのミステリアスな起源の物語から来ています。真実はより平凡なものですが、伝説はまだ続いています。腕時計のなかでも最もミステリアスなモデルだと思います」
たしかに平凡かもしれないが、それでも伝える価値のある話だ。
カルティエのブリッケル氏によると、彼女の祖父ジャン-ジャックはデザインのプロセスを愛していたという。カルティエ ロンドンのニューボンドストリートにあるタウンハウス2階のデザインスタジオや宝石事務所、ブリティッシュ・アートワークスの工房などで、彼はカルティエの職人たちと一緒にいることが多かったそうだ。「彼は、ショールームでお客様とお会いするよりも、クリエイティブなプロセスについて話をするのが好きでした」と彼女は話す。
時計に関してジャン-ジャックのお気に入りのデザイナーは、ルパート・エマーソンだった。2人はクラッシュをはじめとする数十種類の時計のデザインを共同で手がけた。
「祖父は私に、当時カルティエ ロンドンで最も人気のあった時計のひとつであるオーバルを、スウィンギング・シックスティーズという反抗の時代にふさわしい新しいものにするにはどうしたらいいか考えていたと説明してくれました」とブリッケル氏は語る。
「彼は、オーバルのデザインを "両端を一点でつまんで、真ん中にくびれを作る "というアイデアを私に話してくれました。そのアイデアをエマーソンに相談したところ、彼はいくつかのバリエーションを提案してくれました(なかには、"クラッシュ "の効果を高めるために文字盤をひび割れたようにしたものもありましたが、私の祖父には少しやりすぎだったみたい!)。こうしてクラッシュのデザインが誕生したのです」
このデザインが具体化してからも、カルティエの時計職人チームは、正確に時間が読めるように時計を組み立て非対称の文字盤を塗装し、何度も試行錯誤を繰り返した。
ジャン-ジャックは、主任時計師に「多くの頭痛の種を作った」と認めたが、1967年、ついにカルティエ クラッシュが誕生したのである。その後、1970年代初頭までにカルティエ ロンドンで製作されたクラッシュは、数十本にも満たないと考えられている(ロレックスと同様、カルティエもヴィンテージウォッチの製作数についてコメントしてもらうのは難しい)。
それ以来、カルティエはクラッシュを限定生産してきた。1980年代のロンドン クラッシュの限定モデル、1990年代初頭のプラチナ製パリ クラッシュの超限定モデルなど。おそらく最大の生産数となったのは、1991年にカルティエ パリで発表された400本の限定モデルだろう。
現代のマーケット
しばらくは、これでクラッシュの物語は終わりだと感じていた。60年代にカルティエ ロンドンで生まれた奇妙な形の時計は、クー氏のような筋金入りのコレクターの情熱は刺激するかもしれないが、それ以上のものではなかったのだと。
しかし、数年前にあることが起こった。カニエ・ウェストが彼のクラッシュの写真をツイートしたのだ。キム・カーダシアンも1本手に入れた。カルティエは、ロンドンのブティック限定で現代版のクラッシュを復刻し、ヴィンテージバージョンも話題になったようだ。オークションの落札価格も上がってきた。それまでオークションで3万ドル(約340万円)で売られていた1991年のカルティエ パリ クラッシュが突然10万ドルで売られ、そして20万ドル(約2260万円)になった。
「私たちカルティエファンは、何年も前からこのブランドのよさを説いてきました。数え切れないほど言ってきたように、カルティエはデザインがすべてであり、それは彼らの "コンプリケーション "なのです。彼らのようにできるところはありません。それに、コレクターのあいだでは、パテックがどうのロレックスがどうのという話はもう終わっていると思います。最近のオークションの結果から学ぶべきことがあるとすれば、世界にはパテックとロレックス以外にもたくさんのものがあるということです」とクー氏は言う。
「最近のオークション結果」としてクー氏の頭にあるのは、サザビーズが最近、ロンドン クラッシュのオリジナルを80万6500スイスフラン(約9950万円)で落札したことだ。過去25年間でロンドン クラッシュが公にオークションに出たのはまだこれで3回目だった。また、私の知る限り、これまでにオークションに出品されたヴィンテージ・カルティエのなかで最も高額なものの一つとなっている。
クリエイターとクラッシュ
クラッシュは今後どうなる? ロンドン クラッシュが100万ドル近くで落札されたあとでは、これ以上上がる余地があるとは考えにくいが、クー氏はそれに備えているという。
「カルティエのヴィンテージ、特にロンドンのモデルは非常に希少です。価格は上昇し続け、関心も高まり続けるでしょう」
だがクラッシュは、有名人のアクセサリーやオークションの結果として目を引くだけの存在ではない。何世代にもわたって変化するファッションに耐えてきたユニークなデザインであると同時に、製造された時代を反映したアイコンでもあるのだ。
ブリッケル氏は、10月にモナコ・レジェンドで開催された「88カルティエ」オークションで、タイラー・ザ・クリエイターがクラッシュを身につけていたことがいかに楽しかったかを語る。「祖父の時代に作られたデザインがリバイバルしているのは素晴らしいことです」
「私の祖父は、根っからの芸術家でした。祖父のスタイルやプロポーションのセンス、古典的なデザインの原則を理解していたことなど。実験的なことにも果敢に取り組んでいたので、(身内びいきかもしれませんが)他の追随を許さなかったのだと思っています」
50年以上経った今でも、この完璧なスタイルのセンスとちょっとした勇気が、我々をクラッシュへと向かわせているのだ。
トニー・トレイナ氏は、時計コレクターであり、「A Collected Man」や「Highsnobiety」などに寄稿している時計ライター。また、「Rescapement」というニュースレターをほぼ定期的に執筆している。
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カルティエの時計についての詳細は、ウェブサイトをご覧ください。