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本稿は2019年5月に執筆された本国版の翻訳です。
もし1960年代後半にNavy SEAL(米海軍特殊部隊)に所属していたなら、軍用ダイバーズウォッチのMIL-W-50717仕様がリリースされる前に、チューダーの7928を支給されていたかもしれない。チューダーの7928は市販モデルであり、必ずしも戦闘用として特別に製造されたものではないが、アメリカ海軍特殊作戦コミュニティ内のさまざまな部隊に支給されていた。元SEAL隊員のモキ・マーティン(Moki Marti)氏は、Talking Watchesに出演した際に次のように語っている。「最初の時計を万が一紛失しても新しいチューダーが支給されるが、それも紛失した場合、3本目を高額な64ドルで購入しなければならなかった」
任務の性質上、SEALチームのメンバーに時計が支給されるのは納得がいくが、海軍のほかの隊員はどうなのだろうか? 実は全員に時計が支給されるわけではない。我々は支給された装備品について頻繁に耳にするので、それが一般的な慣行であると信じてしまうのだが、実際に時計を支給された軍人はほとんどいない。ほとんどの軍人、水兵、航空兵は自分で購入していたのだ。
そこで活躍するのが、このグライシン(グリシン) エアマンのような時計である。これらの時計はシアトル、サンフランシスコ、ハワイに拠点を持つ人気の海軍用品メーカー、クローセンズ(Kroesen's)を通じて製造、販売されていた。海軍が独自の制服を発行するようになる前は、クローセンズのようなサードパーティのサプライヤーが、若い(または年配の)水兵が必要とするすべての装備品を製造していたのである。クローセンズは1907年に設立され、現在もシアトル周辺の法執行機関や消防組織に制服を供給している。同事業は何度か所有者が変更されており、1940年に売却され、2012年にも再び売却されている。しかし1960年代には制服と並んで、時計も小売店で提供されるようになった。
ローターには“Gus Kroesen's”と刻印されており、グライシンのサインはないものの、ケースとデザインコードはエアマンのものを流用している。このモデルは、60年代に大陸横断の民間パイロットや軍用飛行士に献身的に奉仕した定番モデルのエアマンと並んで、クローセンズの契約下で生産された可能性が高い。エアマンは、おそらくベトナム周辺の“国内”に駐留する軍人のあいだで、最も人気のある時計だった。この時計は、ベトナム戦争が勃発した60年代後半に、軍事基地内の小さな店舗であるポストエクスチェンジショップ(通称PX。軍人やその家族が日常生活に必要なさまざまな商品を購入できた)で売られていた。エアマンは同時に、24時間スケールでツータイムゾーンを簡単に追跡できることから、ユニークなモデルとして愛されていた。このクローセンズの時計はPX(ポストエクスチェンジショップ)ではなく、海軍の制服サプライヤーで販売されていたものだ。もしPXで販売されていたら、セイコー 6105やゾディアック シーウルフのような、典型的なベトナム戦争の個人購入時計のレベルと同じような普及率に達していたかもしれない。
クローセンズはこれらの時計を何本販売したのか、正確な数字はわからない。謎めいた時計だが、現在は閉鎖されているウェブサイト“Glycintennial”が公開していたシリアルナンバー表によると、この時計は1966~1967年に製造されたものである。クローセンズの時計には、グライシンのものと一致するシリアルナンバーが付けられている。
この時計を特に興味深いものにしているのは、ベンラス タイプIで使用されている無名文字盤でおなじみの、三角・長方形ドットのインデックスを使用していることだ。皮肉なことに、クローセンズはベンラスとの契約に基づいて時計も製造しいた。クローセンズが契約したこの時計は、ベンラスのタイプIよりも前のもので、タイプIは同じく無名のブラックダイヤルとインデックスのデザインを採用しているため、ある意味でベンラスの精神的な前身となっている。タイプIは、70年代初頭に発表された前述のMIL-W-50717仕様に基づいて製造されたが、クローセンズの時計はそれを先取りしたのだ。無名文字盤にはいくつかの機能がある。まず、最も効率的なユーザーエクスペリエンスのために、焦点を直接、針とインデックスに当てている。これは実用主義の“必要なものだけ、必要のないものは持たない”設計思想の産物である。さらにマーキング(ブランドサイン)の欠如により、敵の陣地にいる際にも着用者は匿名性を保つことができる。
私はクローセンズに電話をかけて、まだ時計を販売しているか聞いてみたのだが、残念ながら販売はしていなかった。ホイヤーはもうアバクロンビー&フィッチのブランド名で時計を製造していないし、ハミルトンはオルビスのために時計を製造していないので、プライベートブランドウォッチの受託生産の時代はほとんど過去のものとなった。クローセンズのエアマンは、ベトナム戦争のさなか、軍隊が時計に頼っていた時代を捉えているだけでなく、スイスメーカーが自社ブランドのないプライベートブランドの時計を製造し、その代わりに時計の製造に資金を提供している組織を宣伝することもあった時代に登場した。クローセンズのエアマンの場合、クローセンズとの唯一の関わりはローターにしかない。もし捕虜が時計の裏蓋のネジを外して、ルーペを使ってローターに刻まれた小さな文字を調べるようなことがあれば、おそらくもっと大きな問題が発生していただろう。目に見えるブランドが存在しないため、組織のメンバーが何らかの所属を隠すのに最適であり、その意味ではチューダーの7928よりも、これはさらにいい選択かもしれなかったのだ。