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田窪寿保氏をひと言で紹介するなら、“英国ブランドを日本に根付かせてきた実業家”だろうか。1966年、東京に生まれた田窪氏は、1989年に英国ヴァージン・アトランティック航空の日本就航時に新卒のオープニングメンバーとして入社。その後、グローブ・トロッター ジャパンの代表取締役、2004年には英国グローブ・トロッター社の取締役副社長としても英国に赴任し、現在は自身が興したBLBG(ブリティッシュ・ラグジュアリーブランド・グループ)株式会社の代表取締役として、英国王室御用達ブランドをはじめ、老舗から最旬の英国ブランドが集う日本発のアーケードショップ「ヴァルカナイズ・ロンドン」を運営している。さらには英国とのビジネスの現場における失敗や学習、加えて世界一有名なスパイであるジェームズ・ボンドの英国紳士としての振る舞い、会話術、仕事観を実践的な教材として捉えるようになり、ついには『ジェームズ・ボンド 仕事の流儀(講談社)』という本を上梓(じょうし)するなど、さまざまな顔を持つ。
「もともとはロックが好きで、レコード業界に入りたいという思いからヴァージングループに入社したものの、配属されたのは航空部門。そこでヴァージン・グループの創設者リチャード・ブランソン氏の鞄持ちを経験したんです」
そうしてアッパークラスの世界へと足を踏み入れた田窪氏は、そこから英国文化に深く触れることになった。航空業界に強い関心があったわけではなく、偶然に近いかたちで英国企業、英国的なブランドビジネス、そしてリチャード・ブランソン氏の思想に触れることになったという。
その偶然が、氏の人生を大きく変えることとなる。ヴァージン アトランティックのパイロットたちが愛用していたグローブ・トロッターのトラベルケースに引かれ、やがて同ブランドを日本へ本格的に紹介する立場となったのだ。グローブ・トロッターは1897年創業の英国トラベルケースブランドで、ヴァルカン・ファイバー(編注;コットンパルプや木材パルプなどの天然セルロースを原料とした、非常に硬く強靭なシート状の特殊素材。原料が天然素材のため生分解性に優れ、環境にも優しいサステナブルな素材としても注目を集める)を用いた軽量かつ堅牢なケースを特徴とする。田窪氏にとってそれは単なる旅行カバンではなく、旅の記憶を刻み、修理しながら長く使い続けることのできる“時間の器”だった。
田窪氏の英国に対する深い理解は、マニュアルや教科書による知識として得たものではなく、長年にわたる英国での実体験を通じて形づくられたものだ。その中心にあるのが“時間を織り込んだプロダクト”という考え方である。
氏は、英国製品の魅力についてこう語る。
「英国の製品は、そこに時間を織り込んでいるんですよね。時間とともに自分のものになっていく、リペアをしながら自分が育てていくっていう感覚がとても強いんです」
英国製品は、最初から完成されているものではないということだ。氏はさらに続ける。
「シャツは消耗品だと思いますよね? でもそうじゃないんです。例えば、英国王室御用達ブランド、ターンブル&アッサー(Turnbull & Asser)のビスポークシャツは、5年ほど経って初めて味が出るというんです。仕立てた直後に完成するのではなく、まずは洗濯して生地を落ち着かせ、そこから何十回、何百回と洗濯を重ねることで生地が柔らかくなり、着る人の身体になじんでいく。使い続けた先に魅力が立ち上がるのは、グローブ・トロッターも同じですね」
英国靴についても最初は硬く、履きにくく、決して快適とは言えないが、10年履くことで自分の足型になじみ、“自分のもの”になる。英国のカシミヤやハリスツイードも同様だ。
田窪氏はこの変化を“満足曲線”という言葉で説明する。
「イタリア製品ってカッコいいですよね。デザインも含めて、買った瞬間の満足度がとても高い。でも一方で、時間が経つにつれて高揚感が薄れていく感覚がある。英国製品は買った瞬間は必ずしも完璧ではないものが少なくないですが、使い続けるうちに自分の身体や生活になじんで、自分の“型”になる。満足度が上がっていくものが多いですね」
この価値観は、腕時計に対する田窪氏の姿勢にもそのまま重なる。氏にとって腕時計は、ブランド名やスペックだけで選ぶものではない。むしろ、その腕時計がどのような背景を持ち、自分の生活や記憶とどう結びついているかが重要なのだ。
見せないこと、語りすぎないこと、使いながら自分だけがその価値を知っていくこと。田窪氏の時計観は、そうした英国的なプロダクト観と深く結びついている。だからこそ、手元に残る腕時計もまた、単なる名品ではない。若き日に実用として選んだ腕時計、人生の節目に買った複雑時計、英国工業史への関心を映す腕時計、そしてクルマ好き同士の縁から手に入れた腕時計。それぞれに田窪氏自身の時間が織り込まれている。
「結局、残っている時計は、そういうストーリーがしっかりしているものなんですよね」
田窪寿保氏の4本
ジャガー・ルクルト レベルソ・デュオ ナイト&デイ
田窪氏のコレクションを語るうえで、まず外せないのがジャガー・ルクルトのレベルソ・デュオ ナイト&デイだ。
「購入したのは1996年から1997年頃。25歳前後のことです。今のレベルソはドレスウォッチの代表格として語られることが多いですが、僕の認識は少し違います。この腕時計はドレスウォッチとしてではなく、あくまで日常の実用時計として選びました」
当時、田窪氏は航空会社で営業やマーケティングに携わっていた。海外との往来や時差を意識する仕事のなかで、ふたつの時間を扱えるレベルソ・デュオは自然な選択だったという。ケースを反転させれば、別のダイヤルが現れる。英国にいるときも日本時間を知りたい場面があり、「そんなときにケースを反転させればすぐにわかるのは便利だった」と語る。昼はホワイトダイヤル、夜はブラックダイヤルと、自分なりの使い分けもしている。
もうひとつ重要なのが手巻きであることだ。1990年代当時、手巻きの腕時計を選ぶ人は多くなかった。クォーツや自動巻きが一般的で、今でもそうだが、手巻きは時計好きならではの選択だったという。田窪氏も「手巻きを買う人は、よほどの時計ツウと言われていた時代ですよね」と振り返る。
「手巻きの不便さも魅力です。朝、着けるときにリューズを巻く。その十数秒は、もしかしたら無駄な時間かもしれない。でもデジタル化が進んだ現代だからこそ、その行為が心を落ち着かせてくれるんです。リューズを回すリズムと音がたまらなくいいんですよ。今はデジタルが行き過ぎてしまっているから、アナログな時間は大切だと思っています」
レベルソ・デュオは、田窪氏にとって単なるGMTウォッチではない。若き日の仕事、そして毎朝リューズを巻くという身体的な記憶が刻まれた腕時計なのだ。
ジャガー・ルクルト マスター・パーペチュアル(マスター・ウルトラスリム・パーペチュアルカレンダー)
続く時計もジャガー・ルクルト。永久カレンダーウォッチのマスター・パーペチュアル(マスター・ウルトラスリム・パーペチュアルカレンダー)だ。
「この時計は2002〜2004年頃に、ロンドンのピカデリーにあるブティックで、子どもが生まれたのを機に購入しました。ポイントはホワイトゴールドケースであること。ステンレススティールのように見えながらも、見る人が見ればわかる質感。このアンダーステイテッドなところが気に入っています」
「ステルスウェルス(編注;富を持ちながらも、それをこれ見よがしに周囲へ誇示しないライフスタイルや態度)という考え方がありますが、その概念ではお金持ちであってもそう見せてしまったらダメなのです」
ステルスウェルスとは“気づかれない富”、“目立たない豊かさ”を意味する言葉だ。クワイエットラグジュアリーとともに注目されるようになったが、それは高級品を買わないということではなく、買ったとしてもそれを外側の記号として提示しない、説明しないという立ち振る舞いを指す。価格やブランドを伝えた瞬間に豊かさがわかりやすいサインになってしまうため、それを避ける。そうした態度がステルスウェルスの中心にある。
「今は少し違うかもしれませんが、日本にもそういう部分はありますよね。戦後はアメリカの影響が強くなってアメリカ的価値観が一気に流入しましたが、戦前の日本に大きな影響を与えていたのは英国でした」
田窪氏は見せびらかすラグジュアリーを好まない。この感覚は戦前の日本にあった“伊達”や“いぶし銀”の美意識にも通じると語り、英国と日本には、古いものを大切にする文化や、表に出さない豊かさを尊ぶ点で共通性があるという。
スミス デラックス(エルメスネーム)
田窪氏がスミスに引かれる理由、それはいわゆる高級時計ブランドではないからだ。
「スミスは、かつて英国を代表した実用時計・計器メーカーです。時計店から始まり、その後は自動車用計器や航空・船舶計器、軍用計時機器などを手がける総合精密機器メーカーとなりました。現在、時計製造は行っていませんが、空港のX線検査装置や航空機関連機器などは今もスミス製が多いんですよ。スミスは、スイスの名門マニュファクチュールのように複雑機構や華美な仕上げで語られるブランドではありませんが、英国時計史の象徴的な存在で、実用の文脈に属する時計です」
おもしろいのは、氏がスミスに対して単なるノスタルジーを抱いているわけではないことだ。英国の産業史のなかに腕時計が自然に存在していたこと、そして自動車の計器や航空機と地続きの実用品だったことに価値を見いだしている。氏はそこに英国らしいリアリティを見ているようだ。
スミス デラックスは、田窪氏のコレクションのなかで最も控えめな1本かもしれない。だがその控えめさこそが、この時計の魅力でもある。装飾や権威ではなく工業製品としての出自、そして高級時計ではなく英国の実用と産業に根ざした道具。その背景を知る人にだけ深く刺さる1本と言えよう。しかしながら、この1本がユニークなのは、メイド・イン・イングランドでありながら、エルメスネームのモデルという点だ。
「ダイヤルを見てください。エルメスの文字がプリントされているでしょ? これはかつてスミスがエルメスのために特別に製造したものなんです。スミスネームのヴィンテージウォッチは今でも見かけることができますが、エルメスネームのモデルは珍しいです。これはヴァルカナイズ・ロンドン名古屋店のオープニング用に販売するつもりで仕入れたんですが、自分で欲しくなってしまい購入しました。2007〜2008年頃ですね」
ショパール ミッレミリア GT XL クロノグラフ
ショパール ミッレミリア GT XL クロノグラフは、田窪氏にとって“クルマの時計”である。もちろんショパールのミッレミリアコレクションは、イタリアの伝説的なクラシックカーイベント、ミッレミリアとの関係から生まれた時計として知られるが、そういう意味ではない。氏にとってこの時計は、単にモータースポーツをテーマにした腕時計というだけでなく、カール=フリードリッヒ・ショイフレ氏との個人的な縁、そしてクルマ好き同士の記憶が重なった1本なのだ。
「この時計は手に入れた経緯がちょっと特殊なんです。2013〜2014年頃ですね。きっかけは、ショイフレ氏との食事の場に呼ばれたことでした。大学院の同級生がショパールのCFO(当時)をしていたんですが、その紹介でショイフレ氏と会うことになったんです。ともにクラシックカー好きで、ロータスに乗っているという話からすぐに意気投合しました。僕は当時グローブ・トロッター アジアパシフィックの代表をしていたんですが、展示会にショイフレ氏を招待してオレンジ色のスーツケースをプレゼントしたんです」
すると後日、ショイフレ氏から銀座のショパールに来るように誘われたのだという。
「好きな腕時計を選んで、って言われたんですよ。なんでもいいの? と聞くと、なんでもいいよ、と」
そこで田窪氏が選んだのがこのミッレミリア GT XL クロノグラフだった。もっと高価な腕時計を選ぶこともできたはずだが、氏はそれを選ばなかった。理由は単純明快。ショイフレ氏との共通項がクルマだったからだ。
田窪氏自身、長くクルマやレースに親しんできた人物である。そしてショイフレ氏もまた、自らクルマを走らせる愛好家として知られる。つまりこの時計はクルマ好き同士の会話から自然に選ばれた1本なのだ。氏は、近い将来、本場のミッレミリアへ参加したいという思いも語ってくれた。
「1956年製のロータス11をイギリスで所有しているんですが、それに乗って本場のミッレミリアに出場したいんです。12年越しの夢ですね。でも実現したらおもしろいと思いません?」
この時計には過去の思い出だけでなく、未来の予定も含まれる。いつかこの腕時計を着けて、自分のクルマでミッレミリアを走る。その夢までを含めて、この腕時計は今もその出番を待ち続けている。
もうひとつ
ホンダ 初代NSX
クルマについても田窪氏の価値観は一貫している。レンジローバーや、数台のロータス、なかにはレーシングカーや英国に置いている車両もあるほどのクルマ好きだが、お気に入りの1台として紹介してくれたのが、ホンダの初代NSXである。購入は1991年。新車で家族のもとにやってきて以来、現在まで受け継がれてきたワンオーナーの個体だ。
「もともとは父が、母のために購入したクルマだったんです。でも、僕が結婚する際に譲り受けてからはずっと僕が乗り続けています。ほぼフルノーマルですよ」
田窪氏は、このクルマにそうした長年の歴史があることに価値を見いだす。手を入れて自分好みに作り替えるよりも、オリジナルの状態を尊重しながら長く乗り続ける。腕時計や英国靴、グローブ・トロッターと同じく、NSXもまた時間をかけて自分のものになっていったプロダクトなのだ。
NSXは、田窪氏にとって単なるスポーツカーではない。そこには性能や希少性だけでは測れない価値がある。新車で買った瞬間よりも、30年以上を経た今のほうが、むしろこのクルマは氏のものになっている。
それは、田窪氏が語る英国製品の価値観とも響き合う。最初から完璧に完成されたものではなく、時間をかけてなじみ、記憶を重ねて、やがて代えがたい存在になる。NSXもまた、氏にとって“時間を織り込んだプロダクト”なのだ。
時計もクルマも、田窪氏にとっては同じ地平にある。買った瞬間の満足ではなく、使い続けた先に立ち上がる愛着。修理し、自分の生活になじませながら時間をかけて育てていくもの。氏のコレクションは、数や価格では語ることはできない。手元に残った4本の腕時計と1台のNSX。それらは氏の人生のなかで、確かに時間を刻んできた何にも代え難い愛用品なのである。
Photographs by Keita Takahashi
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