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懐中時計と宝飾産業を源流に、独自の歩みをたどったドイツ腕時計史

懐中時計、宝飾産業、そして製造現場の創意工夫から、いかにして独自のドイツ腕時計文化が生まれたのか。

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ドイツ腕時計の歴史は、一直線に進んだものでも、単一の起源から生まれたものでもない。その成り立ちは、ひとつには古典的な時計製造、もうひとつには宝飾産業というふたつの異なる伝統に由来している。何世紀にもわたり、中心にあったのは手首ではなく、まず置き時計や掛け時計などの大型時計、そして懐中時計であった。そこから腕時計へと発展していったのは、当初はためらいがちに、しかしやがては着実な歩みを伴ってであり、その過程で独自の道を切り開き、地域ごとの重心を形成し、幾多の挫折にもかかわらず、最終的には腕時計に対してその歴史を形づくる貢献を果たす産業が築かれていったのである。


ふたつの起点、複数の中心地

 ドイツ腕時計の発展をたどっていくと、早い段階でふたつの異なる系譜に行き当たる。ひとつは伝統的な時計メーカーへ、もうひとつは宝飾産業へと通じる流れである。地域的に見ると、その動きはシュランベルクとシュヴェニンゲン、プフォルツハイムとシュヴェービッシュ・グミュント、さらに東ドイツではグラスヒュッテとルーラに集中していた。

ユリウス・アスマンの懐中時計。Von Holgerloehr57, CC BY-SA 3.0,

 実際には、1920年代後半に至るまで、ドイツの時計産業において腕時計は依然として脇役にすぎなかった。A.ランゲ&ゾーネや、フェルディナント・アドルフ・ランゲ(Ferdinand Adolph Lange)の娘婿であったユリウス・アスマン(Julius Assmann)を擁したグラスヒュッテは、とりわけ高精度の懐中時計によって国際的な評価を築いていた。ドイツのほかの地域では、メーカーの強みは当初、懐中時計よりもむしろ大型時計にあり、さまざまな仕様の振り子時計から目覚まし時計に至るまで、この分野がまず優勢であった。

 変化をもたらしたのは目覚まし時計用ムーブメントや、いわゆる差し込み式ムーブメント(ケースに差し込んで固定し、交換しやすいムーブメント)の進む小型化であった。後者はケースに摩擦嵌めで固定され、必要に応じて容易に交換できるよう設計されていた。そこで蓄積された経験が、ピンレバー脱進機とコルナー式テンプ(簡易な円錐受けを用いるテンプ)を備えた、簡素で安価な懐中時計への道を開いた。これらの時計は信頼性があると見なされたが、特段の高精度を実現するものではなかった。1914年以前には、こうしたタイムピースの一部が海外へ輸出され、別の一部は特別な販売経路を通じて、国内でバザー向けや子ども向けの時計として顧客を得ていた。


ルーラ: 大衆市場に向けた初期のパイオニアワーク

ティール社の工場風景を掲載した広告(1920年頃)。Von Bruno Eppelin (Publisher) - Bruno Eppelin: Ruhla im Thüringer Wald., Gemeinfrei,

 とりわけわかりやすい例が、1862年にルーラで創業したティール兄弟の会社である。当初そこで中心にあったのは時計ではなく金属製品であった。ゲオルク・フリードリヒ・ロスコフ(Georges Frederic Roskopf)が開発した、簡素で頑丈なプロレタリア懐中時計は、ティール兄弟に最初の子ども用玩具時計を開発させるきっかけになったと考えられる。これらには調整可能な針が備わっており、リューズによって望みの位置に合わせることはできたが、ムーブメント自体は搭載されていなかった。1878年以降、これらの製品はドイツ、イギリス、フランス、イタリア、スイス、そしてアメリカにおいて、同社に一種の独占的地位をもたらした。

 1892年、ルーラで最初の実用時計が誕生した。フィアレス(Fearless)の名のもとに、これらの“恐れ知らず”の懐中時計は、とりわけ英語圏で目覚ましい成功を収めた。需要はあまりに急増し、ティールはスイスから70人の時計師をテューリンゲンへ呼び寄せなければならなかった。安価なロスコフ式時計への集中から、その後の道筋はほとんど必然的に定まった。1908年以降、ルーラでは同じ合理的生産の原則に基づいて、ダーリン(Darling)をはじめとする頑丈な腕時計が作られ、のちにはディヴィーナ(Divina)、スタート(Start)、ヘクター(Hektor)も加わった。

 まさにこうした頑丈なピンレバー式のタイムピースこそが、少ない予算の人々にも手の届く価格であったため、持続可能な構想であることを証明した。より高い水準を求める顧客には、ティールにもシリンダー脱進機やパレットレバー脱進機を備えたムーブメントが用意されていた。もっとも、こうした上位仕様の成功は限定的であった。それでもティールがドイツにおいて果たした先駆的役割は大きい。1925年に同社は腕時計だけを対象とした最初の新聞広告を打ち、1928年にはルーラで流れ作業による量産が始まった。そのために必要な機械の多くは、単純労働者たちの発明の才にも助けられ、自社内で生み出された。


ユンハンス: 廉価な小型時計と上級キャリバーのあいだで

1918年当時のユンハンス工房。

 これとは異なる戦略を追ったのが、シュランベルクのユンハンスである。ドイツ最大の時計工場は、同時にふたつの方向へ進んでいた。一方では、薄く打ち抜かれたプレートを用いる安価な大型時計用アメリカン・ムーブメントで得た経験を小型時計へ移そうとした。他方では、20世紀初頭に懐中時計向けの上級キャリバーの設計へ集中的に投資した。狙いは、中級品質のタイムピースによってスイスのメーカーとの競争に耐えうる存在になることであった。

 1907年、ユンハンスは手巻きムーブメント、7石、アンクル脱進機を備えた懐中時計を発売した。わずか3年後には、ブリッジ式ムーブメント、機能石15個、そして手の込んだ補償テンプを備えた仕様が続いた。自社生産による小型の懐中時計ムーブメントが初めて腕時計ケースに用いられたのは1927年である。1930年、ユンハンスはついにメンズ腕時計の最初のコレクションを発表した。その円形アンクルムーブメントは直径23.7mmで、15石を備え、温度変化を補正するためのバイメタルテンプを搭載していた。


新しい時計の形式は抵抗に遭う

 ドイツで腕時計が比較的遅れて定着した理由は、工業構造だけにあったのではない。それは根強い偏見とも戦わねばならなかった。新しい時計の形式は長く批判にさらされ、とりわけ男性のあいだでは受容が乏しかった。それに応じて、産業側の反応もきわめて慎重であった。

 一方で、すでに1913年には有力なファッション誌が女性読者たちに、好きな装身具を尋ねたところ、回答者の70%が腕時計を挙げた。それにもかかわらず1916年、あるドイツの専門店主は、手首は時計を取り付ける場所として最も不適切だという持論から、腕時計を“女性の趣味の逸脱”と呼んだ。1917年にはハンブルクのヘルマン・ボック教授もこの見解に同調した。「時計を、身体のなかで最も落ち着きがなく、最も激しい温度変化にさらされる部位、すなわち手に着けるというこの流行狂いが、どうか早く消え去ってほしいものだ」

 1925年になっても、その拒否感はなお明確に見て取れた。ベルリンの時計師ブルーノ・ヒルマン(Bruno Hillmann)は、その著書『腕時計、その本質と修理における扱い(Die Armbanduhr, ihr Wesen und ihre Behandlung bei der Reparatur)』のなかで、“女性の男性化”の進行が進めば、やがて“婦人のあいだで紳士用ベストが主流”となり、ついには“時計師にとって腕時計の支配から解放される救いの時”が訪れるかもしれないと期待していた。こうした見解は本気で語られ、業界の内部にも影響を及ぼした。スイスがすでに年間数百万本の腕時計を製造し輸出していたその年に、あるドイツの時計工場は自社のパンフレットのなかで、腕時計を“本来の用途にそぐわない”、さらには“野蛮なもの”とまで呼んでいた。

画像提供: Jakes Rolex World

 そのころにはすでに、1908年以降しだいにロレックスの名で知られるようになった高精度の腕時計によって、ハンス・ウィルスドルフがイングランドで成功を収めていたことは明らかだった。そしてウィルスドルフが1927年にケースが実際に防水であることを示したあとでさえ、ドイツにおける懐疑はなお大きかった。1938年、ユンハンスは新聞広告でこの問題を挑発的に取り上げた。「腕時計は男性的か?」。この問いに対する同社の答えは、その立場を明確に示すものだった。「一部の男性は腕時計を退ける。それは時計というより装身具だと見なしているからだ」


グラスヒュッテ: 高度な時計技術、限られた腕時計生産

 グラスヒュッテにおいても、腕時計の意味と有用性をめぐる議論は無視できない影響を及ぼした。おそらくそれが、A.ランゲ&ゾーネが初期に手仕事で製作していた婦人用懐中時計ムーブメントを、高級腕時計として量産へと発展させなかった一因と考えられる。そうした製品は、オーデマ ピゲ、パテック フィリップ、あるいはヴァシュロン・コンスタンタンの腕時計にも匹敵する水準に達していたはずであった。

アルタス社製の10 ½リーニュムーブメント。Photos by Armbanduhren bei A. Lange & Söhne

 とはいえ、このテーマがまったく無視されたわけではない。A.ランゲ&ゾーネは1915年から、婦人用懐中時計向けの繊細なムーブメントを用いた腕時計を合計16本製作した。1927年10月以降は、直径12.5mmの5½リーニュ手巻きムーブメント、あるいは直径23.7mmの10 ½リーニュムーブメントを外部から購入して用いた腕時計も加わった。1930年代には、A.ランゲ&ゾーネはスイスのモントレ・アルタス社(Montres Altus S.A.)によるさまざまなエボーシュ(半完成ムーブメント)も使用した。1915年から1941年までのあいだに、国際的な評価を得ていたドイツの高級ブランドが製作した腕時計は、総計でも4000本を少し上回る程度であった。スイスの業界大手と比べればこれはごくわずかな数字であった。

 これには、ドイツ国防軍向けの大型観測用腕時計は含まれていない。最初の開発依頼はすでに1935年にグラスヒュッテへ届いていた。フライトスーツの上から装着される直径55mmのケースには、その系譜を1920年代までさかのぼる懐中時計用のCal.48.1が収められた。グラスヒュッテの生産能力だけでは足りなかったため、エッセンのディーター(Deiter)、ミュンヘンのフーバー(Huber)、ベルリンのフェルシング(Felsing)、シュトゥットガルトのシェイロン(Schieron)、プフォルツハイムのシュエッツレ&チューディン(Schätzle und Tschudin)、そしてハンブルクのヴェンペ(Wempe)などがケーシングと調整を担った。それでもなお対応しきれなくなると、IWC、ラコ、ストーヴァ、そしてヴェンペが、こうしたジャンボサイズのタイムピースを完成品として供給するようになった。これらのメーカーのうち、ドイツ製ムーブメントを用いたのは、1925年にプフォルツハイムで創業したLacher & Co.(現在のラコ)だけであった。直径49.4mmのCal.D5は、自社のエボーシュ工場、デュローヴェ(Durowe)で製造されたものである。


プフォルツハイムとシュヴェービッシュ・グミュント: 宝飾品から時計へ

プフォルツハイム宝飾・時計技術博物館に展示されている、ジュエリー用のチェーン加工機。© TMP, Foto Winfried Reinhardt

 古典的な時計工場が懐中時計から腕時計へと手探りで歩みを進めていた一方で、プフォルツハイムとシュヴェービッシュ・グミュントおよびその周辺では、別のかたちの時計製造が育っていた。それは宝飾産業から発展したものである。懐中時計ケースや時計チェーンのメーカーは1914年以前から新たな状況に反応し、スイスのブランドに対して、腕時計用のケースやブレスレットを供給していた。

 1920年前後、スイスは自国産業を保護するため、こうした製品の輸入を制限した。プフォルツハイムの企業家たちはまず、スイスから完成したムーブメント一式を調達し、それを自社のケースに組み込むことで対応した。次の段階では、いわゆるシャブローネ、すなわちムーブメントの組立キットだけを輸入し、それを自社工場内で組み立てるようになった。スイスの生産者たちは、1927年だけでも約70万個のエボーシュがプフォルツハイムへ納入されたと見積ていた。

 その後、一部企業に認められるスイス製エボーシュの輸入は、個数ではなく金額ベースの割当に制限されるようになった。そうなると、次の一歩はほとんど避けがたい。すなわち自社開発である。その際に実績あるスイス製ムーブメントを手本にしたことは言うまでもない。宝飾品製造から時計製造への移行がいかに難しかったかは、1933年のある報告がよく示している。「時計ケースの製造がプフォルツハイムの宝飾産業に近いものであったのに対し、いわゆるシャブローネを組み立てるための熟練工が欠けていたことは、たちまち大きな不利となった。組立工の確保の難しさが、時計産業のより迅速な発展を妨げたのである。当時、時計のエボーシュ自体も、今日ほど技術的に仕上がってはいなかったため、優れた時計を世に送り出すことができたのはほんのわずかな会社だけであった」

 しかし、その学習曲線は急であった。第2次世界大戦勃発の直前には、プフォルツハイムとシュヴェービッシュ・グミュントに、すでに熟達した専門産業が存在していた。ドイツで完成された腕時計の70%以上が、このふたつの都市で生産されていたのである。1930年以前にはシリンダー脱進機を備えた腕時計がまだ優勢であったが、その後はより高品質なアンクル式腕時計が急速に優位に立った。自社のエボーシュ生産だけではなお需要を完全には満たせなかったため、スイス、シュヴァルツヴァルト(黒い森地方)、そしてザクセンからのムーブメントも引き続き用いられた。


Urofa、UFAG、そして自社製エボーシュの台頭

 鍵となる役割を果たしたのは、1926年創業のUrofaグラスヒュッテである。『ドイツ時計師新聞(Deutsche Uhrmacher-Zeitung)』はこう記した。“グラスヒュッテの腕時計チュチマは、グラスヒュッテ時計製造会社(Uhrenroh-Werke-Fabrik Glashütte、略してUrofa)が最新の製造法に従って製作した、ドイツで完全に製造された最初の腕時計である”。ここで重要なのは区別である。同じく1926年に創業したグラスヒュッター・ウーレン・ファブリーク(Uhrenfabrik Glashütte AG、略してUFAG)は、完成時計のブランドとしてチュチマを用いていた。

チュチマ仕様のCal.58。Photos by Armbanduhren bei A. Lange & Söhne

 直径20mmに満たない最初期のUrofa自社開発ムーブメントは、婦人用時計に用いられた。とりわけ重要なのがCal.58である。大きな香箱、大きなテンプ、そして6時位置の偏心スモールセコンドを20.3×29.3mmのサイズに巧みに収めた、スペース効率に優れたムーブメントであった。これは1934年から1938年までに20万個が製作された。改良型のCal.581は1939年から1945年まで供給。総計およそ30万個のうち、かなりの部分にはドイツ時計師の保証共同体であったアルピナ(Alpina)、アンクラ(Ankra)、ゼントラ(ZentRa)向けの特別刻印が施されていた。

 ほかの企業もまたムーブメント製造に参入した。ヨーゼフ・ビトリングマイヤー(Josef Bidlingmaier)は1928年にシュヴェービッシュ・グミュントで腕時計向け自社製メカニズムの製造を開始し、1934年にはユンハンスとプフォルツハイムのウーレン・ローヴェルケ・ゲーエムベーハー(Uhren Rohwerke GmbH、略してPUW)が続いた。ただし第2次世界大戦中には、開発・生産能力のうち民生用時計に向けられた部分はごく小さかったと考えられる。優先されたのは軍事目的であった。

ハンハルトとUrofaによる、クロノグラフCal.41。

 1945年までにドイツで生まれた、腕時計専用キャリバーのなかでも最も重要なものとして、ハンハルトとUrofaのクロノグラフが挙げられる。ハンハルトは1938年、黒い森地方のギューテンバッハで、ワンプッシャー制御の手巻きクロノグラフCal.40を量産可能な水準へと仕上げ、続いてふたつのプッシャーとストップウォッチを備えるCal.41を送り出した。1941年からはグラスヒュッテでUrofa 59が利用可能となった。もっとも、いずれのメーカーも腕時計用クロノグラフにおいてはこの分野の経験不足ゆえに、なおいくつかのスイス製コンポーネントに頼らざるをえなかった。


1945年以降: 困難な条件下での再建

 第2次世界大戦後、ドイツの時計産業は困難な再出発を迫られた。失われた10年のあいだに、スイスの競合に対して大きく後れを取っていたからである。技術面でも商業面でも、まずは遅れを取り戻さなければならなかったのだ。経験自体は十分に蓄積されていたが、戦時経済に縛られた生産背景から市場競争へと転換することは大きな挑戦であった。

 これに加えて、さらなるメーカーが腕時計の分野に参入した。マウテ(Mauthe)は1946年にシュヴェニンゲンで生産を開始し、カイザー(Kaiser)は1950年にフィリンゲンで続いた。当初の最優先課題は、廉価な腕時計を国内市場に供給することであった。そののち、品質基準の段階的な向上が中心課題となり、とりわけ輸出を視野に入れた改良が進められた。1961年にはプフォルツハイム、シュランベルク、シュヴェニンゲン、シュヴェービッシュ・グミュントで750万本の腕時計が製造され、その37%が海外へ出荷された。

 多くの企業は複合的なマニュファクチュールとして組織されていた。この構造には利点があった。自社で製造したムーブメントを自社の時計に搭載できるだけでなく、ほかのブランドへの販売を通じて、事業拡大のための資本を生み出すこともできたのである。


大衆市場と品質志向のあいだで

 1950年代初頭以降、新しいキャリバーの開発が重要な役割を担ったことは言うまでもない。その設計には、ファッションと実用の両面からの流行が反映されている。長方形ケース向けの変形ムーブメントは、しだいに円形キャリバーに押されていった。恒久的な防水性は円形ケースのほうがはるかに確保しやすく、スポーティーな時計が手首の上で目に見えて存在感を増していたからである。

キンツレ Cal.051/00f。Photos by 17 Jewels Info

 平均的な所得の人々でもMade in Germanyのタイムピースを手にできるようにと、ピンレバー脱進機を備えた安価な腕時計が再び何百万本規模で生産された。この分野の最重要プレーヤーのひとつがキンツレ(Kienzle)である。1822年にC. J. シュレンカー(C. J. Schlenker)が創業し、1898年にジェイコブ・キンツレ(Jakob Kienzle)が完全買収した同社は、1931年に廉価な大量生産のために開発されたピンレバーのCal.051で腕時計生産を開始。その総生産数は最終的に約2500万個に達した。

 キンツレとは異なり、ビフォラ(Bifora)、ハンハルト、ユンハンス、ラコ、ストーヴァは主として価格帯の中間層を担った。自動巻き、クロノメーター認証、クロノグラフ、あるいはアラームを備えた腕時計によって、彼らはより要求の高い顧客を国内につなぎとめ、スイスの競合へ流出させないよう努めたのである。


ドイツの自動巻き時計: キャッチアップを果たす

Cal.J80/12を搭載した、ユンハンス 680.75。Photos by Junghans Vintage

 ドイツにおける自動巻きの時代は1951年に始まった。ビトリングマイヤー(ビフォラの創業者一族の姓)、すなわちビフォラとしてよく知られる会社と、その“B”オートマティックを発表したのである。同じく1951年、ユンハンスは必要に迫られて開発された自動巻きCal.98/5を市場に送り出した。それは戦前の角型Cal.98に、両方向巻き上げのローターを組み合わせたものであった。1952年、ユンハンスはCal.80/12によってスイス産業への接続回復を成し遂げる。このムーブメントは特許取得済みの差動歯車機構を備え、6時位置の窓によってパワーリザーブ表示を行った。

 同じ年、ラコは“デュロマット(Duromat)”のCal.552を発表。キンツレは1956年、ピンレバーのCal.57によってフォルクスアウトマティーク(Volksautomatik、大衆向け自動巻きの意)を市場に投入した。これを搭載する腕時計は、すでに65ドイツマルク(当時の相場で約5600円)から入手可能であった。

 このほか、西ドイツでも複数の企業が自動巻きムーブメントを製造した。プフォルツハイムでは、アウグスト・ホール(AHO)、バデニア(Badenia)、ベルンハルト・フェルスター(BF/フォレスタ)、ヘルマン・ベッカー(HB)、ヘンツィ&バッハ(HPP/ヘルクレス)、カイザー、オテロ・ウーレンヴェルケ(エッポ)、そしてプフォルツハイマー・ウーレン・ローヴェルケ(PUW/ポルタ)がそれにあたる。シュヴェニンゲンではカイザーとオスコが生産した。東側では、何よりも1951年に8つの、部分的にはきわめて名高い工場を統合して設立された国営企業グラスヒュッテ・ウーレン・ベトリーベ(Glashütter Uhren-Betriebe、略してGUB)が重要であった。そこに含まれた前身企業は、A.ランゲ&ゾーネ、UFAG、Urofa、ミューレ&ゾーネ(Mühle & Söhn、現在のミューレ・グラスヒュッテ)、ゲッセル&カンパニー(Gössel & Co.、旧Burckhard)、エストラー(Estler)、プレツィズィオーン・グラスヒュッテ(Präzision Glashütte)、そして職業学校マカレンコ(Makarenko)である。GUBは1964年、“スペツィマティック(Spezimatic)”と自社開発Cal.74によって、日付表示なしとしてはドイツ最薄の自動巻き時計を市場に送り出した。


クロノグラフ、アラーム、そしてエレクトロニクスへの一歩

 クロノグラフウォッチにおいて、ハンハルトは古い伝統を引き継いでいた。そこにユンハンスが新たな競争相手として加わる。同時に、ドイツのメーカーは別の付加機能にも挑戦した。1951年、ユンハンスはアラーム腕時計、“ミニボックス(Minivox)”を発表。同年、ハンハルトが自社製手巻きCal.301を搭載する“サンスーシ(Sans-Souci)”で続き、1956年にはギューテンバッハからCal.302が加わった。

 しかしこうした展開にもかかわらず、高度な付加機能の領域におけるダイナミズムは限定的なままであった。スイス製品の大きな多様性や、マニュファクチュールが主導した技術的洗練、そしてそれがもたらすコンプリケーションに対して、ドイツのメーカーは1989年まで全体として肩を並べることができなかった。公式に認定されたクロノメーターは、西ドイツではビフォラ、ユンハンス、ラコでのみ、東ドイツではGUBに限られていた。

 高精度な機械式腕時計の分野にて、ユンハンスが成し遂げた特筆すべき成果が、1957年に発表された自動巻きCal.J83である。その歩度性能は、同年にハンブルクのドイツ水路研究所(Deutsches Hydrographisches Institut)が定めた厳格な精度要件に適合しており、その点で公式認定クロノメーターに対するスイスの要件と肩を並べるものだった。

ユンハンス Cal.J100。Photos by Junghans Vintage

 電子化への一歩は素早かった。1957または58年、ラコ-デュローヴェとウーレン・ヴェルケ・エルズィンゲン(Uhren-Werk-Ersingen)は、腕時計用電気機械式ムーブメントの開発を届け出た。1961年、ユンハンスはトランジスタ制御のCal.J100を発表し、1969年には自社製Cal.J666を搭載した“アストロ クォーツ(Astro Quarz)”が、ドイツ初のクォーツ腕時計として注目を集めた。

 その一方で、機械式の生産は縮小へ向かった。1970年の時点で機械式ムーブメントとして残っていた婦人用は、小型のJ672のみ。さらに1974年には、メンズ向け自動巻きムーブメントもユンハンスのJ625だけとなった。1976年以降、シュランベルクの生産はクォーツ時計に完全移行する。それまでの46年間に、ユンハンスは150を超える独自キャリバーを世に送り出していた。


クォーツ危機と計画経済的な再編

マイクロエレクトローニク・エアフルト内にて半導体デバイスがつくられている様子。Bundesarchiv, Bild 183-1989-0523-018 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE

 スイスと同様、1969年に始まったクォーツ危機がドイツでも多くの時計メーカーを衰退へと導いた。極東からの低価格競争に対して、多くのドイツ企業は持続可能な対抗モデルを見いだせなかったのである。

 東ドイツでは、時計生産はもともと計画経済の原則に従って何度も再編されていた。主要拠点であるグラスヒュッテとルーラもその例外ではない。1978年にはグラスヒュッテ、ルーラ、ワイマールの諸工場を組み入れたコンビナート、“マイクロエレクトローニク・エアフルト(Microelektronik Erfurt)”が成立。1985年までこの統合はさらに進んだ。そして分断の壁が崩壊すると、状況は根本から変わった。


壁崩壊後: 西の衰退、東の開花

 1980年代半ばに機械式腕時計のルネサンスが始まったとき、かつて裾野の広かったドイツ時計産業の姿は、もはやほとんど残っていなかった。ハンハルトがクォーツ危機を生き延びられたのはストップウォッチへの特化によるところが大きい。ユンハンスでは1985年以降、電波式クォーツ腕時計が好調な商売をもたらした。しかしそれでも、2000年に香港を拠点とするエガナ(Egana)ホールディングスへの売却は避けられなかった。1997年のマックス・ビルコレクション再興もこの流れを変えることはできなかったのである。2008年にエガナ社が破綻するとユンハンスも巻き込まれた。2009年以降、この伝統企業はハンス=ヨッヘム・シュタイム博士(Dr. Hans-Jochem Steim)とその息子ハンネス(Hannes)氏の所有となり、いまでは彼が経営の舵を執っている。

当時のラコ Bウォッチをもとに復刻したフリーガーウォッチ。Achim.gucker, CC BY-SA 4.0

 ラコもまた、1965年以降、所有者が変転する不穏な時代を経験した。2009年には同社は破産を申請しなければならなかったのだ。2010年、8人の従業員とともに再出発に成功し、とりわけフリーガーウォッチによって復活を遂げた。ストーヴァでは1996年にヨルク・シャウワー(Jörg Schauer)氏がブランド権を引き継ぎ、2021年以降はプフォルツハイムのテンプス・アルテ社がブランドを運営している。

 今日の西ドイツには、レーゲンスブルクのダマスコ(Damasko)とストップウォッチのスペシャリストであるハンハルトを例外として、完全に自社開発・製造のムーブメントを生み出す真のマニュファクチュールはほとんど存在しない。対照的なのが東側である。再統一後、グラスヒュッテは新たな開花を遂げ、再びドイツ時計の聖地となった。A.ランゲ&ゾーネ、グラスヒュッテ・オリジナル、モリッツ・グロスマン、ミューレ・グラスヒュッテ、ノモス グラスヒュッテ、チュチマ グラスヒュッテが自社キャリバーを展開している。ドレスデンではラング&ハイネも同様の取り組みを行う。そしてルーラではポインテックが、伝統ある名を文字盤に受け継ぐだけでなく、1929年の建物を新たな生産拠点として再生している。


遅れて得られた結実としての多様性

 さらに言えば、腕時計の人気が持続していることによって多くの古いドイツブランドが復活し、同時に数多くの新しいブランドも生まれている。それらをすべて列挙することは、この考察の枠をはるかに超えてしまう。重要なのはそこではない。断絶、偏見、即興、そして再出発に満ちた歴史から、多様で豊かな世界が生まれたという事実である。まさにこの多様性こそが、今日のドイツ腕時計を、この国だけでなく、たとえば日本の愛好家にとってもきわめて興味深いものにしている。