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懐中時計と宝飾産業を源流に、独自の歩みをたどったドイツ腕時計史

懐中時計、宝飾産業、そして製造現場の創意工夫から、いかにして独自のドイツ腕時計文化が生まれたのか。

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HODINKEE Japanでは2026年4月27日(月)から5月3日(日)まで、German Watch Week 2026としてドイツの時計ブランドや市場に焦点を当てた特集を公開している。このウィークのために用意した新規取材記事やマガジン限定で公開していた記事、編集部員による動画企画まで、サイト上で毎日配信していく予定だ。すでに公開されたコンテンツについてはこちらから確認して欲しい。

ドイツ腕時計の歴史は、一直線に進んだものでも、単一の起源から生まれたものでもない。その成り立ちは、ひとつには古典的な時計製造、もうひとつには宝飾産業というふたつの異なる伝統に由来している。何世紀にもわたり、中心にあったのは手首ではなく、まず置き時計や掛け時計などの大型時計、そして懐中時計であった。そこから腕時計へと発展していったのは、当初はためらいがちに、しかしやがては着実な歩みを伴ってであり、その過程で独自の道を切り開き、地域ごとの重心を形成し、幾多の挫折にもかかわらず、最終的には腕時計に対してその歴史を形づくる貢献を果たす産業が築かれていったのである。


ふたつの起点、複数の中心地

 ドイツ腕時計の発展をたどっていくと、早い段階でふたつの異なる系譜に行き当たる。ひとつは伝統的な時計メーカーへ、もうひとつは宝飾産業へと通じる流れである。地域的に見ると、その動きはシュランベルクとシュヴェニンゲン、プフォルツハイムとシュヴェービッシュ・グミュント、さらに東ドイツではグラスヒュッテとルーラに集中していた。

ユリウス・アスマンの懐中時計。Von Holgerloehr57, CC BY-SA 3.0,

 実際には、1920年代後半に至るまで、ドイツの時計産業において腕時計は依然として脇役にすぎなかった。A.ランゲ&ゾーネや、フェルディナント・アドルフ・ランゲ(Ferdinand Adolph Lange)の娘婿であったユリウス・アスマン(Julius Assmann)を擁したグラスヒュッテは、とりわけ高精度の懐中時計によって国際的な評価を築いていた。ドイツのほかの地域では、メーカーの強みは当初、懐中時計よりもむしろ大型時計にあり、さまざまな仕様の振り子時計から目覚まし時計に至るまで、この分野がまず優勢であった。

 変化をもたらしたのは目覚まし時計用ムーブメントや、いわゆる差し込み式ムーブメント(ケースに差し込んで固定し、交換しやすいムーブメント)の進む小型化であった。後者はケースに摩擦嵌めで固定され、必要に応じて容易に交換できるよう設計されていた。そこで蓄積された経験が、ピンレバー脱進機とコルナー式テンプ(簡易な円錐受けを用いるテンプ)を備えた、簡素で安価な懐中時計への道を開いた。これらの時計は信頼性があると見なされたが、特段の高精度を実現するものではなかった。1914年以前には、こうしたタイムピースの一部が海外へ輸出され、別の一部は特別な販売経路を通じて、国内でバザー向けや子ども向けの時計として顧客を得ていた。


ルーラ: 大衆市場に向けた初期のパイオニアワーク

ティール社の工場風景を掲載した広告(1920年頃)。Von Bruno Eppelin (Publisher) - Bruno Eppelin: Ruhla im Thüringer Wald., Gemeinfrei,

 とりわけわかりやすい例が、1862年にルーラで創業したティール兄弟の会社である。当初そこで中心にあったのは時計ではなく金属製品であった。ゲオルク・フリードリヒ・ロスコフ(Georges Frederic Roskopf)が開発した、簡素で頑丈なプロレタリア懐中時計は、ティール兄弟に最初の子ども用玩具時計を開発させるきっかけになったと考えられる。これらには調整可能な針が備わっており、リューズによって望みの位置に合わせることはできたが、ムーブメント自体は搭載されていなかった。1878年以降、これらの製品はドイツ、イギリス、フランス、イタリア、スイス、そしてアメリカにおいて、同社に一種の独占的地位をもたらした。

 1892年、ルーラで最初の実用時計が誕生した。フィアレス(Fearless)の名のもとに、これらの“恐れ知らず”の懐中時計は、とりわけ英語圏で目覚ましい成功を収めた。需要はあまりに急増し、ティールはスイスから70人の時計師をテューリンゲンへ呼び寄せなければならなかった。安価なロスコフ式時計への集中から、その後の道筋はほとんど必然的に定まった。1908年以降、ルーラでは同じ合理的生産の原則に基づいて、ダーリン(Darling)をはじめとする頑丈な腕時計が作られ、のちにはディヴィーナ(Divina)、スタート(Start)、ヘクター(Hektor)も加わった。

 まさにこうした頑丈なピンレバー式のタイムピースこそが、少ない予算の人々にも手の届く価格であったため、持続可能な構想であることを証明した。より高い水準を求める顧客には、ティールにもシリンダー脱進機やパレットレバー脱進機を備えたムーブメントが用意されていた。もっとも、こうした上位仕様の成功は限定的であった。それでもティールがドイツにおいて果たした先駆的役割は大きい。1925年に同社は腕時計だけを対象とした最初の新聞広告を打ち、1928年にはルーラで流れ作業による量産が始まった。そのために必要な機械の多くは、単純労働者たちの発明の才にも助けられ、自社内で生み出された。


ユンハンス: 廉価な小型時計と上級キャリバーのあいだで

1918年当時のユンハンス工房。

 これとは異なる戦略を追ったのが、シュランベルクのユンハンスである。ドイツ最大の時計工場は、同時にふたつの方向へ進んでいた。一方では、薄く打ち抜かれたプレートを用いる安価な大型時計用アメリカン・ムーブメントで得た経験を小型時計へ移そうとした。他方では、20世紀初頭に懐中時計向けの上級キャリバーの設計へ集中的に投資した。狙いは、中級品質のタイムピースによってスイスのメーカーとの競争に耐えうる存在になることであった。

 1907年、ユンハンスは手巻きムーブメント、7石、アンクル脱進機を備えた懐中時計を発売した。わずか3年後には、ブリッジ式ムーブメント、機能石15個、そして手の込んだ補償テンプを備えた仕様が続いた。自社生産による小型の懐中時計ムーブメントが初めて腕時計ケースに用いられたのは1927年である。1930年、ユンハンスはついにメンズ腕時計の最初のコレクションを発表した。その円形アンクルムーブメントは直径23.7mmで、15石を備え、温度変化を補正するためのバイメタルテンプを搭載していた。


新しい時計の形式は抵抗に遭う

 ドイツで腕時計が比較的遅れて定着した理由は、工業構造だけにあったのではない。それは根強い偏見とも戦わねばならなかった。新しい時計の形式は長く批判にさらされ、とりわけ男性のあいだでは受容が乏しかった。それに応じて、産業側の反応もきわめて慎重であった。

 一方で、すでに1913年には有力なファッション誌が女性読者たちに、好きな装身具を尋ねたところ、回答者の70%が腕時計を挙げた。それにもかかわらず1916年、あるドイツの専門店主は、手首は時計を取り付ける場所として最も不適切だという持論から、腕時計を“女性の趣味の逸脱”と呼んだ。1917年にはハンブルクのヘルマン・ボック教授もこの見解に同調した。「時計を、身体のなかで最も落ち着きがなく、最も激しい温度変化にさらされる部位、すなわち手に着けるというこの流行狂いが、どうか早く消え去ってほしいものだ」

 1925年になっても、その拒否感はなお明確に見て取れた。ベルリンの時計師ブルーノ・ヒルマン(Bruno Hillmann)は、その著書『腕時計、その本質と修理における扱い(Die Armbanduhr, ihr Wesen und ihre Behandlung bei der Reparatur)』のなかで、“女性の男性化”の進行が進めば、やがて“婦人のあいだで紳士用ベストが主流”となり、ついには“時計師にとって腕時計の支配から解放される救いの時”が訪れるかもしれないと期待していた。こうした見解は本気で語られ、業界の内部にも影響を及ぼした。スイスがすでに年間数百万本の腕時計を製造し輸出していたその年に、あるドイツの時計工場は自社のパンフレットのなかで、腕時計を“本来の用途にそぐわない”、さらには“野蛮なもの”とまで呼んでいた。

画像提供: Jakes Rolex World

 そのころにはすでに、1908年以降しだいにロレックスの名で知られるようになった高精度の腕時計によって、ハンス・ウィルスドルフがイングランドで成功を収めていたことは明らかだった。そしてウィルスドルフが1927年にケースが実際に防水であることを示したあとでさえ、ドイツにおける懐疑はなお大きかった。1938年、ユンハンスは新聞広告でこの問題を挑発的に取り上げた。「腕時計は男性的か?」。この問いに対する同社の答えは、その立場を明確に示すものだった。「一部の男性は腕時計を退ける。それは時計というより装身具だと見なしているからだ」


グラスヒュッテ: 高度な時計技術、限られた腕時計生産

 グラスヒュッテにおいても、腕時計の意味と有用性をめぐる議論は無視できない影響を及ぼした。おそらくそれが、A.ランゲ&ゾーネが初期に手仕事で製作していた婦人用懐中時計ムーブメントを、高級腕時計として量産へと発展させなかった一因と考えられる。そうした製品は、オーデマ ピゲ、パテック フィリップ、あるいはヴァシュロン・コンスタンタンの腕時計にも匹敵する水準に達していたはずであった。

アルタス社製の10 ½リーニュムーブメント。Photos by Armbanduhren bei A. Lange & Söhne

 とはいえ、このテーマがまったく無視されたわけではない。A.ランゲ&ゾーネは1915年から、婦人用懐中時計向けの繊細なムーブメントを用いた腕時計を合計16本製作した。1927年10月以降は、直径12.5mmの5½リーニュ手巻きムーブメント、あるいは直径23.7mmの10 ½リーニュムーブメントを外部から購入して用いた腕時計も加わった。1930年代には、A.ランゲ&ゾーネはスイスのモントレ・アルタス社(Montres Altus S.A.)によるさまざまなエボーシュ(半完成ムーブメント)も使用した。1915年から1941年までのあいだに、国際的な評価を得ていたドイツの高級ブランドが製作した腕時計は、総計でも4000本を少し上回る程度であった。スイスの業界大手と比べればこれはごくわずかな数字であった。

 これには、ドイツ国防軍向けの大型観測用腕時計は含まれていない。最初の開発依頼はすでに1935年にグラスヒュッテへ届いていた。フライトスーツの上から装着される直径55mmのケースには、その系譜を1920年代までさかのぼる懐中時計用のCal.48.1が収められた。グラスヒュッテの生産能力だけでは足りなかったため、エッセンのディーター(Deiter)、ミュンヘンのフーバー(Huber)、ベルリンのフェルシング(Felsing)、シュトゥットガルトのシェイロン(Schieron)、プフォルツハイムのシュエッツレ&チューディン(Schätzle und Tschudin)、そしてハンブルクのヴェンペ(Wempe)などがケーシングと調整を担った。それでもなお対応しきれなくなると、IWC、ラコ、ストーヴァ、そしてヴェンペが、こうしたジャンボサイズのタイムピースを完成品として供給するようになった。これらのメーカーのうち、ドイツ製ムーブメントを用いたのは、1925年にプフォルツハイムで創業したLacher & Co.(現在のラコ)だけであった。直径49.4mmのCal.D5は、自社のエボーシュ工場、デュローヴェ(Durowe)で製造されたものである。


プフォルツハイムとシュヴェービッシュ・グミュント: 宝飾品から時計へ

プフォルツハイム宝飾・時計技術博物館に展示されている、ジュエリー用のチェーン加工機。© TMP, Foto Winfried Reinhardt

 古典的な時計工場が懐中時計から腕時計へと手探りで歩みを進めていた一方で、プフォルツハイムとシュヴェービッシュ・グミュントおよびその周辺では、別のかたちの時計製造が育っていた。それは宝飾産業から発展したものである。懐中時計ケースや時計チェーンのメーカーは1914年以前から新たな状況に反応し、スイスのブランドに対して、腕時計用のケースやブレスレットを供給していた。

 1920年前後、スイスは自国産業を保護するため、こうした製品の輸入を制限した。プフォルツハイムの企業家たちはまず、スイスから完成したムーブメント一式を調達し、それを自社のケースに組み込むことで対応した。次の段階では、いわゆるシャブローネ、すなわちムーブメントの組立キットだけを輸入し、それを自社工場内で組み立てるようになった。スイスの生産者たちは、1927年だけでも約70万個のエボーシュがプフォルツハイムへ納入されたと見積ていた。

 その後、一部企業に認められるスイス製エボーシュの輸入は、個数ではなく金額ベースの割当に制限されるようになった。そうなると、次の一歩はほとんど避けがたい。すなわち自社開発である。その際に実績あるスイス製ムーブメントを手本にしたことは言うまでもない。宝飾品製造から時計製造への移行がいかに難しかったかは、1933年のある報告がよく示している。「時計ケースの製造がプフォルツハイムの宝飾産業に近いものであったのに対し、いわゆるシャブローネを組み立てるための熟練工が欠けていたことは、たちまち大きな不利となった。組立工の確保の難しさが、時計産業のより迅速な発展を妨げたのである。当時、時計のエボーシュ自体も、今日ほど技術的に仕上がってはいなかったため、優れた時計を世に送り出すことができたのはほんのわずかな会社だけであった」

 しかし、その学習曲線は急であった。第2次世界大戦勃発の直前には、プフォルツハイムとシュヴェービッシュ・グミュントに、すでに熟達した専門産業が存在していた。ドイツで完成された腕時計の70%以上が、このふたつの都市で生産されていたのである。1930年以前にはシリンダー脱進機を備えた腕時計がまだ優勢であったが、その後はより高品質なアンクル式腕時計が急速に優位に立った。自社のエボーシュ生産だけではなお需要を完全には満たせなかったため、スイス、シュヴァルツヴァルト(黒い森地方)、そしてザクセンからのムーブメントも引き続き用いられた。


Urofa、UFAG、そして自社製エボーシュの台頭

 鍵となる役割を果たしたのは、1926年創業のUrofaグラスヒュッテである。『ドイツ時計師新聞(Deutsche Uhrmacher-Zeitung)』はこう記した。“グラスヒュッテの腕時計チュチマは、グラスヒュッテ時計製造会社(Uhrenroh-Werke-Fabrik Glashütte、略してUrofa)が最新の製造法に従って製作した、ドイツで完全に製造された最初の腕時計である”。ここで重要なのは区別である。同じく1926年に創業したグラスヒュッター・ウーレン・ファブリーク(Uhrenfabrik Glashütte AG、略してUFAG)は、完成時計のブランドとしてチュチマを用いていた。

チュチマ仕様のCal.58。Photos by Armbanduhren bei A. Lange & Söhne

 直径20mmに満たない最初期のUrofa自社開発ムーブメントは、婦人用時計に用いられた。とりわけ重要なのがCal.58である。大きな香箱、大きなテンプ、そして6時位置の偏心スモールセコンドを20.3×29.3mmのサイズに巧みに収めた、スペース効率に優れたムーブメントであった。これは1934年から1938年までに20万個が製作された。改良型のCal.581は1939年から1945年まで供給。総計およそ30万個のうち、かなりの部分にはドイツ時計師の保証共同体であったアルピナ(Alpina)、アンクラ(Ankra)、ゼントラ(ZentRa)向けの特別刻印が施されていた。

 ほかの企業もまたムーブメント製造に参入した。ヨーゼフ・ビトリングマイヤー(Josef Bidlingmaier)は1928年にシュヴェービッシュ・グミュントで腕時計向け自社製メカニズムの製造を開始し、1934年にはユンハンスとプフォルツハイムのウーレン・ローヴェルケ・ゲーエムベーハー(Uhren Rohwerke GmbH、略してPUW)が続いた。ただし第2次世界大戦中には、開発・生産能力のうち民生用時計に向けられた部分はごく小さかったと考えられる。優先されたのは軍事目的であった。

ハンハルトとUrofaによる、クロノグラフCal.41。

 1945年までにドイツで生まれた、腕時計専用キャリバーのなかでも最も重要なものとして、ハンハルトとUrofaのクロノグラフが挙げられる。ハンハルトは1938年、黒い森地方のギューテンバッハで、ワンプッシャー制御の手巻きクロノグラフCal.40を量産可能な水準へと仕上げ、続いてふたつのプッシャーとストップウォッチを備えるCal.41を送り出した。1941年からはグラスヒュッテでUrofa 59が利用可能となった。もっとも、いずれのメーカーも腕時計用クロノグラフにおいてはこの分野の経験不足ゆえに、なおいくつかのスイス製コンポーネントに頼らざるをえなかった。


1945年以降: 困難な条件下での再建

 第2次世界大戦後、ドイツの時計産業は困難な再出発を迫られた。失われた10年のあいだに、スイスの競合に対して大きく後れを取っていたからである。技術面でも商業面でも、まずは遅れを取り戻さなければならなかったのだ。経験自体は十分に蓄積されていたが、戦時経済に縛られた生産背景から市場競争へと転換することは大きな挑戦であった。

 これに加えて、さらなるメーカーが腕時計の分野に参入した。マウテ(Mauthe)は1946年にシュヴェニンゲンで生産を開始し、カイザー(Kaiser)は1950年にフィリンゲンで続いた。当初の最優先課題は、廉価な腕時計を国内市場に供給することであった。そののち、品質基準の段階的な向上が中心課題となり、とりわけ輸出を視野に入れた改良が進められた。1961年にはプフォルツハイム、シュランベルク、シュヴェニンゲン、シュヴェービッシュ・グミュントで750万本の腕時計が製造され、その37%が海外へ出荷された。

 多くの企業は複合的なマニュファクチュールとして組織されていた。この構造には利点があった。自社で製造したムーブメントを自社の時計に搭載できるだけでなく、ほかのブランドへの販売を通じて、事業拡大のための資本を生み出すこともできたのである。


大衆市場と品質志向のあいだで

 1950年代初頭以降、新しいキャリバーの開発が重要な役割を担ったことは言うまでもない。その設計には、ファッションと実用の両面からの流行が反映されている。長方形ケース向けの変形ムーブメントは、しだいに円形キャリバーに押されていった。恒久的な防水性は円形ケースのほうがはるかに確保しやすく、スポーティーな時計が手首の上で目に見えて存在感を増していたからである。

キンツレ Cal.051/00f。Photos by 17 Jewels Info

 平均的な所得の人々でもMade in Germanyのタイムピースを手にできるようにと、ピンレバー脱進機を備えた安価な腕時計が再び何百万本規模で生産された。この分野の最重要プレーヤーのひとつがキンツレ(Kienzle)である。1822年にC. J. シュレンカー(C. J. Schlenker)が創業し、1898年にジェイコブ・キンツレ(Jakob Kienzle)が完全買収した同社は、1931年に廉価な大量生産のために開発されたピンレバーのCal.051で腕時計生産を開始。その総生産数は最終的に約2500万個に達した。

 キンツレとは異なり、ビフォラ(Bifora)、ハンハルト、ユンハンス、ラコ、ストーヴァは主として価格帯の中間層を担った。自動巻き、クロノメーター認証、クロノグラフ、あるいはアラームを備えた腕時計によって、彼らはより要求の高い顧客を国内につなぎとめ、スイスの競合へ流出させないよう努めたのである。


ドイツの自動巻き時計: キャッチアップを果たす

Cal.J80/12を搭載した、ユンハンス 680.75。Photos by Junghans Vintage

 ドイツにおける自動巻きの時代は1951年に始まった。ビトリングマイヤー(ビフォラの創業者一族の姓)、すなわちビフォラとしてよく知られる会社と、その“B”オートマティックを発表したのである。同じく1951年、ユンハンスは必要に迫られて開発された自動巻きCal.98/5を市場に送り出した。それは戦前の角型Cal.98に、両方向巻き上げのローターを組み合わせたものであった。1952年、ユンハンスはCal.80/12によってスイス産業への接続回復を成し遂げる。このムーブメントは特許取得済みの差動歯車機構を備え、6時位置の窓によってパワーリザーブ表示を行った。

 同じ年、ラコは“デュロマット(Duromat)”のCal.552を発表。キンツレは1956年、ピンレバーのCal.57によってフォルクスアウトマティーク(Volksautomatik、大衆向け自動巻きの意)を市場に投入した。これを搭載する腕時計は、すでに65ドイツマルク(当時の相場で約5600円)から入手可能であった。

 このほか、西ドイツでも複数の企業が自動巻きムーブメントを製造した。プフォルツハイムでは、アウグスト・ホール(AHO)、バデニア(Badenia)、ベルンハルト・フェルスター(BF/フォレスタ)、ヘルマン・ベッカー(HB)、ヘンツィ&バッハ(HPP/ヘルクレス)、カイザー、オテロ・ウーレンヴェルケ(エッポ)、そしてプフォルツハイマー・ウーレン・ローヴェルケ(PUW/ポルタ)がそれにあたる。シュヴェニンゲンではカイザーとオスコが生産した。東側では、何よりも1951年に8つの、部分的にはきわめて名高い工場を統合して設立された国営企業グラスヒュッテ・ウーレン・ベトリーベ(Glashütter Uhren-Betriebe、略してGUB)が重要であった。そこに含まれた前身企業は、A.ランゲ&ゾーネ、UFAG、Urofa、ミューレ&ゾーネ(Mühle & Söhn、現在のミューレ・グラスヒュッテ)、ゲッセル&カンパニー(Gössel & Co.、旧Burckhard)、エストラー(Estler)、プレツィズィオーン・グラスヒュッテ(Präzision Glashütte)、そして職業学校マカレンコ(Makarenko)である。GUBは1964年、“スペツィマティック(Spezimatic)”と自社開発Cal.74によって、日付表示なしとしてはドイツ最薄の自動巻き時計を市場に送り出した。


クロノグラフ、アラーム、そしてエレクトロニクスへの一歩

 クロノグラフウォッチにおいて、ハンハルトは古い伝統を引き継いでいた。そこにユンハンスが新たな競争相手として加わる。同時に、ドイツのメーカーは別の付加機能にも挑戦した。1951年、ユンハンスはアラーム腕時計、“ミニボックス(Minivox)”を発表。同年、ハンハルトが自社製手巻きCal.301を搭載する“サンスーシ(Sans-Souci)”で続き、1956年にはギューテンバッハからCal.302が加わった。

 しかしこうした展開にもかかわらず、高度な付加機能の領域におけるダイナミズムは限定的なままであった。スイス製品の大きな多様性や、マニュファクチュールが主導した技術的洗練、そしてそれがもたらすコンプリケーションに対して、ドイツのメーカーは1989年まで全体として肩を並べることができなかった。公式に認定されたクロノメーターは、西ドイツではビフォラ、ユンハンス、ラコでのみ、東ドイツではGUBに限られていた。

 高精度な機械式腕時計の分野にて、ユンハンスが成し遂げた特筆すべき成果が、1957年に発表された自動巻きCal.J83である。その歩度性能は、同年にハンブルクのドイツ水路研究所(Deutsches Hydrographisches Institut)が定めた厳格な精度要件に適合しており、その点で公式認定クロノメーターに対するスイスの要件と肩を並べるものだった。

ユンハンス Cal.J100。Photos by Junghans Vintage

 電子化への一歩は素早かった。1957または58年、ラコ-デュローヴェとウーレン・ヴェルケ・エルズィンゲン(Uhren-Werk-Ersingen)は、腕時計用電気機械式ムーブメントの開発を届け出た。1961年、ユンハンスはトランジスタ制御のCal.J100を発表し、1969年には自社製Cal.J666を搭載した“アストロ クォーツ(Astro Quarz)”が、ドイツ初のクォーツ腕時計として注目を集めた。

 その一方で、機械式の生産は縮小へ向かった。1970年の時点で機械式ムーブメントとして残っていた婦人用は、小型のJ672のみ。さらに1974年には、メンズ向け自動巻きムーブメントもユンハンスのJ625だけとなった。1976年以降、シュランベルクの生産はクォーツ時計に完全移行する。それまでの46年間に、ユンハンスは150を超える独自キャリバーを世に送り出していた。


クォーツ危機と計画経済的な再編

マイクロエレクトローニク・エアフルト内にて半導体デバイスがつくられている様子。Bundesarchiv, Bild 183-1989-0523-018 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE

 スイスと同様、1969年に始まったクォーツ危機がドイツでも多くの時計メーカーを衰退へと導いた。極東からの低価格競争に対して、多くのドイツ企業は持続可能な対抗モデルを見いだせなかったのである。

 東ドイツでは、時計生産はもともと計画経済の原則に従って何度も再編されていた。主要拠点であるグラスヒュッテとルーラもその例外ではない。1978年にはグラスヒュッテ、ルーラ、ワイマールの諸工場を組み入れたコンビナート、“マイクロエレクトローニク・エアフルト(Microelektronik Erfurt)”が成立。1985年までこの統合はさらに進んだ。そして分断の壁が崩壊すると、状況は根本から変わった。


壁崩壊後: 西の衰退、東の開花

 1980年代半ばに機械式腕時計のルネサンスが始まったとき、かつて裾野の広かったドイツ時計産業の姿は、もはやほとんど残っていなかった。ハンハルトがクォーツ危機を生き延びられたのはストップウォッチへの特化によるところが大きい。ユンハンスでは1985年以降、電波式クォーツ腕時計が好調な商売をもたらした。しかしそれでも、2000年に香港を拠点とするエガナ(Egana)ホールディングスへの売却は避けられなかった。1997年のマックス・ビルコレクション再興もこの流れを変えることはできなかったのである。2008年にエガナ社が破綻するとユンハンスも巻き込まれた。2009年以降、この伝統企業はハンス=ヨッヘム・シュタイム博士(Dr. Hans-Jochem Steim)とその息子ハンネス(Hannes)氏の所有となり、いまでは彼が経営の舵を執っている。

当時のラコ Bウォッチをもとに復刻したフリーガーウォッチ。Achim.gucker, CC BY-SA 4.0

 ラコもまた、1965年以降、所有者が変転する不穏な時代を経験した。2009年には同社は破産を申請しなければならなかったのだ。2010年、8人の従業員とともに再出発に成功し、とりわけフリーガーウォッチによって復活を遂げた。ストーヴァでは1996年にヨルク・シャウワー(Jörg Schauer)氏がブランド権を引き継ぎ、2021年以降はプフォルツハイムのテンプス・アルテ社がブランドを運営している。

 今日の西ドイツには、レーゲンスブルクのダマスコ(Damasko)とストップウォッチのスペシャリストであるハンハルトを例外として、完全に自社開発・製造のムーブメントを生み出す真のマニュファクチュールはほとんど存在しない。対照的なのが東側である。再統一後、グラスヒュッテは新たな開花を遂げ、再びドイツ時計の聖地となった。A.ランゲ&ゾーネ、グラスヒュッテ・オリジナル、モリッツ・グロスマン、ミューレ・グラスヒュッテ、ノモス グラスヒュッテ、チュチマ グラスヒュッテが自社キャリバーを展開している。ドレスデンではラング&ハイネも同様の取り組みを行う。そしてルーラではポインテックが、伝統ある名を文字盤に受け継ぐだけでなく、1929年の建物を新たな生産拠点として再生している。


遅れて得られた結実としての多様性

 さらに言えば、腕時計の人気が持続していることによって多くの古いドイツブランドが復活し、同時に数多くの新しいブランドも生まれている。それらをすべて列挙することは、この考察の枠をはるかに超えてしまう。重要なのはそこではない。断絶、偏見、即興、そして再出発に満ちた歴史から、多様で豊かな世界が生まれたという事実である。まさにこの多様性こそが、今日のドイツ腕時計を、この国だけでなく、たとえば日本の愛好家にとってもきわめて興味深いものにしている。


ドイツ時計ブランドを知るための13の名前

ドイツの時計史は単一の系譜では語れない。懐中時計の伝統、宝飾産業の技術、地域ごとの産業基盤、そして幾度もの断絶と再生が重なり合い、今日の多様なブランド群が形づくられてきたのである。後編では、その複雑な歴史をそれぞれのかたちで受け継ぎ、現代のドイツ時計を象徴している主要ブランドを見ていきたい。

A.ランゲ&ゾーネ(A.Lange & Söhne) ― 廃墟からの復活

 ドレスデンの時計師フェルディナント・アドルフ・ランゲ(Ferdinand Adolph Lange)は、1845年にグラスヒュッテで、のちにA.ランゲ&ゾーネへとつながる精密時計製造の基盤を築いた。限られた資金と強い教育意欲のもとグラスヒュッテを恒久的に形づくる工房が生まれ、この街がドイツ精密時計製造の中心地となる道を開いたのである。1945年の空襲と、その後の国有化を経て、この名はしばらく過去の遺産としてのみ残ることになったが、1990年、ウォルター・ランゲ(Walter Lange)とギュンター・ブリュームライン(Günter Blümlein)がブランドを再創業した。こうしてザクセンの高級時計製造の復権が始まったのである。

 この再出発に決定的であったのが、1994年の最初のコレクションである。同年10月24日、A.ランゲ&ゾーネはランゲ1、アーケード、サクソニア、そしてトゥールビヨン“プール・ル・メリット”という4つのモデルを発表したが、これらは新たな方向性を宣言する存在であった。デザインは独創的で、技術面でも意欲的だった。時計としての完成度はきわめて高く、仕上げも申し分ない。そうして生まれたこのコレクションは、スイスのオートオルロジュリーに対するドイツからの明確な回答として意識的に構想されたものである。とりわけアウトサイズデイトとアシンメトリーな文字盤を備えるランゲ1はアイコンへと成長し、一方でトゥールビヨン“プール・ル・メリット”は、(腕時計初の)チェーンフュジーによってコンプリケーションの高い開発力を強く印象づけた。

ランゲ1・トゥールビヨン・パーペチュアルカレンダー “ルーメン”。Image Courtesy A.Lange & Söhne

 それ以来、A.ランゲ&ゾーネは再び明確にマニュファクチュールを自任している。すべての時計には、手彫りのテンプ受けとランゲ特有の2度組みが施された自社製キャリバーが例外なく備わる。2015年には既存施設に加えて新しいマニュファクチュール棟も完成した。スポーティかつエレガントなオデュッセウスには、ブランドのファンから高い支持を集めている。なおWatches and Wonders 2026ではサクソニア・アニュアルカレンダーとランゲ1・トゥールビヨン・パーペチュアルカレンダー “ルーメン”を発表した。

グラスヒュッテ・オリジナル(Glashütte Original) ― スイスのスウォッチ グループの傘下で

 1945年5月8日の空襲はグラスヒュッテに深刻な打撃を与えたが、1946年にはすでに最初のムーブメントが再び製造されていた。新たな社会主義体制は1951年、VEB Glashütter Uhrenbetriebe(GUB)に残された力を束ねた。ドイツ民主共和国において重視されたのは、かつての高級時計の輝きではなく日常用の時計とマリンクロノメーターであった。そのため、グラスヒュッテの名は長いあいだ主として過去の栄光とともに語られる存在となった。

 壁崩壊後、そこからの回帰は困難な道のりであった。1990年代半ば、いくつかの試みを経て、歴史的な志向を備える現代ブランドとしてグラスヒュッテ・オリジナルが形を取るに足る再出発が成立した。同社によれば、このマニュファクチュールのルーツは1845年にまでさかのぼる。未来にとって決定的であったのは、グラスヒュッテ・オリジナルが過去の遺産に頼るだけではなかったことである。スウォッチ グループ傘下の同社は、自社生産比率を着実に高めた。新たなキャリバーを開発し、トゥールビヨン、パノレトログラフ、カレンダーウォッチ、ワールドタイムウォッチといった構成で個性を打ち出した。

グラスヒュッテ・オリジナル パノマティックルナ アニバーサリー・エディション。Image Courtesy Glashütte Original

 今日それは、技術的独自性とガラス張りのマニュファクチュールにおける生産を備えたドイツ精密時計製造を体現している。現在の例としては、限定のパノマティックルナ アニバーサリー・エディション(プラチナ)と、やはり限定で年次カレンダーとレトログラード式月表示を備えるパノマティックカレンダーが挙げられる。

モリッツ・グロスマン(Moritz Grossmann) ― 新たな志を宿す伝統

モリッツ・グロスマン ベヌー37。

 モリッツ・グロスマンは、高い自社生産比率と際立って古典的な時計づくりへの強い自覚を備えた独立マニュファクチュールをグラスヒュッテに根づかせようとする試みを体現している。その土台となったのは、名前のもつ歴史的重みであった。およそ200年前の1826年3月27日、カール・モリッツ・グロスマン(Carl Moritz Grossmann)はドレスデンで生を受けた。彼は単なる時計師にとどまらず、著述家であり、設計者であり、さらにはグラスヒュッテのドイツ時計学校の共同設立者でもあった。1854年には同地で自身の工房を開き、1866年には自由アンクル式脱進機に関する著作がロンドンで表彰されている。

モリッツ・グロスマン パーペチュアルカレンダー。Image Courtesy Moritz Grossmann

 2008年、時計師クリスティーネ・フッター(Christine Hutter)氏がその名を復活させた。2年後、最初の腕時計としてベヌーがデビュー。2013年に新たなマニュファクチュール棟が開設されて以降、このブランドは意識的に、急がず、着実な成長、多くの手仕事、そして伝統的な構造を追求している。設計、試作、仕上げ、そして最初と最後の組み立ては、当然ながらすべてグラスヒュッテで行われる。ゆえにモリッツ・グロスマンは、単なるノスタルジーではなく、グラスヒュッテ精密時計製造の現代的解釈として自らを位置づけている。現在のモデルにはパーペチュアルカレンダーやトゥールビヨン チタン&トレンブラージュがある。

ミューレ・グラスヒュッテ(Mühle Glashütte) ― 伝統に裏打ちされた精度

テイトニア II リングデイト。Image Courtesy Mühle Glashütte

 1869年以来、ミューレの名はグラスヒュッテにおける精密機器を意味してきた。ロベルト・ミューレ(Robert Mühle)は、まず地元時計産業向けの測定器の専門家としてこの家業を創業した。そのあと自動車用計器、タコメーター、航海用機器が加わった。接収、国有化、そしてVEB Glashütter Uhrenbetriebe(GUB)への編入を経て、1994年、ハンス・ユルゲン・ミューレ(Hans-Jürgen Mühle)氏のもとでミューレ・グラスヒュッテとして再出発を果たした。

独自の耐衝撃機構、ウッドペッカーネック微調整機構を備えたテンプ受け。Image Courtesy Mühle Glashütte

 2年後の1996年ミューレ・グラスヒュッテの名を掲げる最初の腕時計が話題を呼んだ。ティロ・ミューレ(Thilo Mühle)氏とそのふたりの子ども、ファニー(Fanny)氏とジャスティン(Justin)氏は、もちろんこの腕時計をふさわしいかたちで祝っている。その雄弁な例が時計見本市インホルゲンタで発表された、自社開発カレンダーモジュールを備えるスポルティーボ ビッグデイトである。2011年に登場した手巻きCal.MU 9411は、真のグラスヒュッテ・マニュファクチュールを自任する同社の姿勢を裏づける好例である。ムーブメント面での旗艦としては、2014年発表の大型Cal.RMK 01からRMK 04も挙げられる。グラスヒュッテならではの付加価値は、とりわけエボーシュムーブメントにも施される独自のウッドペッカーネック微調整機構(Spechthals-Feinregulierung)や、特別にデザインされたミューレローターにも表れている。そして2026年の注目すべき新作として、ひときわ目を引くテイトニア II リングデイトも忘れてはならない。

ノモス グラスヒュッテ(Nomos Glashütte) ― 自社製造による手の届くラグジュアリー

ノモス グラスヒュッテ クラブ・スポーツ ネオマティック ワールドタイマー ベクター。

 本数ベースで見れば、ノモス グラスヒュッテは紛れもなくドイツ最大の時計マニュファクチュールである。1990年、ローランド・シュヴィルトナー(Roland Schwertner)が創業したノモス グラスヒュッテは、純粋なエタブリスールから、搭載するすべてのムーブメントを例外なく自社一貫で製造するマニュファクチュールへと着実に発展してきた。自社生産比率は95%を超える。それに重要な貢献をしているのがノモス スウィングシステムである。これは、自社設計の脱進機と、機械式ムーブメントに不可欠な調速機(テンプとヒゲゼンマイ)を指す名称である。

 すなわち工業的能力、明快なデザイン、そして比較的手の届きやすい価格の結びつきが、ノモス グラスヒュッテならではの魅力を形づくっている。自立への第一歩となったのは手巻きCal.アルファであり、これは最初の、そして今日に至るまで非常に人気の高いタンジェントラインのさまざまなモデルに命を吹き込んだ。自動巻きキャリバーでは、薄型のCal.DUW 6101がネオマティックコレクションを支える人気ムーブメントとなっている。2025年発表の手巻きCal.DUW 4601は、ふたつの日付表示を備える特異なタンジェント 2デイトを駆動。そして現行のクラブ・スポーツ ネオマティック ワールドタイマーは、ワールドタイム表示を備える腕時計としては世界でも最薄クラスを誇る。それを可能にしているのが、厚さわずか4.8mmの自動巻きCal.DUW 3202である。さらにマニュファクチュールとしての国際的評価は、ウーヴェ・アーレント(Uwe Ahrendt)氏の指揮のもと、ノモスが2022年に発効したグラスヒュッテ規定の実現に強く関与したという事実からも生じている。

チュチマ(Tutima) ― グラスヒュッテからグラスヒュッテへ

チュチマ NATO クロノグラフ。Image Courtesy Chrono24

 チュチマの起源は、1927年にドクター・エルンスト・クルツ(Dr. Ernst Kurtz)がグラスヒュッテで設立したUROFAとUFAGにさかのぼる。とりわけ高品質な時計には、ラテン語の形容詞であるtutus、すなわち“安全な、守られた”に由来するその名が与えられていた。生産スペクトラムの頂点を成したのは、フライバックのCal.Urofa 59を備えるフリーガークロノグラフであった。第2次世界大戦後、この歴史は西ドイツへと移る。ドイツ・ガンダーケーゼーにてディター・デレケイト(Dieter Delecate)氏率いる企業は、フリーガーウォッチとクロノグラフによってグラスヒュッテの伝統を生かし続けた。その雄弁な例がNATO クロノグラフ Ref.798である。

チュチマ M2 コーストライン。

 グラスヒュッテ駅近くの目立つ建物を取得したことで、チュチマは2011年5月以来、過去の遺産を見つめ直しながら、新たな歩みを進めている。建物を徹底的に改修し、最新鋭の機械設備を整えたのち、技術者、設計者、時計師、そのほかの専門職たちがそこに入った。ザクセンでの再始動と結びついたのは、マニュファクチュール活動への回帰でもあった。頂点に立つのは、ミニッツリピーターを備える極めて複雑な手巻きCal.T800である。Urofa 59の伝統を継ぐのが、類似した構造を持つCal.T659である。時・分・秒への時・分・秒表示に徹した完成度の高い構成を特徴づけるのが、手巻きのCal.T617である。その特徴としては、グラスヒュッテ式4分の3プレート、自社で曲げたブレゲひげゼンマイ、そして約65時間のパワーリザーブなどが挙げられる。この繊細な手巻きムーブメントは、2026年に発表されたチタンケースのパトリアに搭載されている。

ラング&ハイネ(Lang & Heyne) ― ドレスデンの最高級手工芸

ラング&ハイネ ハインリヒ。

 2001年以来、ラング&ハイネはドレスデン近郊ラーデベルクで製作される、自社開発マニュファクチュールキャリバーを備えた腕時計を核とする、意識的に小規模できわめて少量生産の高級マニュファクチュールを意味してきた。年間生産本数は200本未満であり、その多くは完成する前にすでに売れている。すべては家族的な雰囲気のなか、受け継がれてきた職人の規範に従って製作されるのだ。ベースとなるのは、現代的な加工技術の助けを借りて作られる地板、ブリッジ、コック、歯車、ピニオン、ガンギ車、アンクル、さらには針に至るまでの構成部品である。この高い自律性こそが、小規模ながら高い完成度を誇るブランドを決定的に規定している。要求の高いエナメル文字盤もまた、その職人的能力の現れである。手作業による細密な仕上げの割合がきわめて高いことが、このザクセンのタイムピースに少量生産と独特のオーラを同時にもたらしている。

ハインリヒに搭載されているCal.V。

 ラング&ハイネは手巻きムーブメントに集中しており、すべてのキャリバーは最高水準の伝統的なウォッチメイキングを体現している。特徴的なのは、1万8000振動/時(2.5Hz)というゆったりしたテンプ振動数、妥協のない仕上げ、錫板研磨によってスティール部品に与えられる黒く見える高光沢、そして美と機能が緊密に結びついた設計である。とりわけ長方形の地板を持つCal.VIIIは、伝統とアヴァンギャルドの総合と見なされている。提供されるモデルの名、たとえばフリードリッヒ・アウグスト、ヨハン、ゲオルク、あるいはヘクターは、かつてのザクセン統治者の一族に由来している。

ルーラ(Ruhla) ― 伝統、技術、そしてスペース・コントロール

ルーラ Holz 1701。Image Courtesy Ruhla

 ルーラは、初期の大量生産、実用本位の技術志向、そして変化への対応力によって特徴づけられる、ドイツの産業史と時計史の一断面を象徴している。すべては1862年、まず金属製品を生産していたティール(Thiel)兄弟に始まり、そこから簡素な子ども用玩具時計、さらにのちのフィアレス(Fearless)懐中時計を経て、重要な時計産地が育っていった。1908年以降、ルーラではダーリンやディヴィーナのような頑丈で手の届く腕時計が作られ、1928年には流れ作業生産が始まった。これにより同社は早くから、合理的な生産、高い生産量、そして少ない予算の人々にも買える時計を体現していた。

 1929年には、バウハウス様式の管理棟によって、ルーラは建築上のランドマークも得た。戦争、接収、そしてソ連または国営体制への組み込みを経ても、ルーラは有力な時計生産拠点であり続けた。伝説となったのが、1963年に導入されたCal.24-xxファミリーであり、1980年代末までに1億3000万個以上が生産された。電子式タイムピースや現代クォーツ時計の前身も、そのプロファイルの一部であった。今日のルーラは、新たな体制のもとで、そのアイデンティティを受け継いでいる。2019年にミュンヘンのファミリー企業であるポインテック社が事業を引き継いで以来、1929年創業という伝統あるブランドは新たな歩みを続けている。その生産拠点となっているのが、歴史的なバウハウス建築である。スペース・コントロール “ジークムント・イェーン 1978”は、そうした場所の記憶を背景に、宇宙への連想を喚起しつつ、スポーティかつエレガントなデザイン、一体型ブレスレット、そして定評あるミヨタ製自動巻きCal.8215を組み合わせたモデルだ。

ダマスコ(Damasko) ― レーゲンスブルク発のドイツ時計製造

ダマスコ DK30OC L。

 レーゲンスブルク近郊バルビングに拠点を置くダマスコは、頑丈な計器時計のブランドである以上の存在である。同社は高い自社生産比率を誇り、ケース、リューズ、プッシャーだけでなく、多数のムーブメント部品も自社で製作している。とりわけ重要なのは、自社製機械式キャリバーの製造者としての役割だ。ケースおよび部品のメーカーからムーブメントメーカーへの歩みは、ダマスコにとって一朝一夕に成し遂げられたものではない。そうした取り組みは2010年、初の自社製自動巻きマニュファクチュールCal.A35として実を結び、2012年には手巻き仕様のH35もこれに続いた。以後、そのラインナップはさらに拡充されている。A26-2もまた自社開発と位置づけられるキャリバーで、その技術的基盤にはETA 2824-A2がある。

 ベースとなったETA 2824-A2との主な違いとしてまず挙げられるのは、自社開発の自動巻きユニットである。そこには減速機構と爪による双方向巻き上げ機構が組み合わされている。この機構により、セラミック製ボールベアリング上を回転するタングステン重金属ローターは、ふたつの回転方向のいずれでも香箱のゼンマイを非常に効率よく巻き上げることができる。いわば長寿命を志向した硬化部品の支持機構は、摩耗が少なく保守の負担も軽い。

 そこには、ムーブメントの手巻きに関わる部品も含まれている。片持ちで固定されるだけのテンプ受けに代わって、地板の両側にねじ留めされる、はるかに安定したテンプブリッジが採用されているのだ。リング状テンプには金メッキのグルシデュール製が採用され、ヒゲゼンマイにはアナクロン(Anachron)が用いられている。パワーリザーブは約42時間である。

 一方、バルジュー製Cal.7750に基づくのが、ダマスコで複数の仕様が用意されるCal.C51というムーブメントファミリーであり、テンプ振動数は2万8800振動/時(4Hz)である。Cal.C51-1の特徴は、センターに回転する60分積算計にある。Cal.C51-6にはこれに加えて24時間表示が備わる。Cal.7750と同様に、ボールベアリング式ローターは一方向にのみ巻き上げを行う。したがってダマスコは、注目すべきムーブメント能力と外部ブランドへの限定的な供給を備えた、小規模ながらかなり高く統合された西ドイツの時計マニュファクチュールと呼ぶにふさわしい。

ハンハルト(Hanhart) ― クロノグラフの伝統とストップウォッチの実力

ハンハルト パイオニア タキテレ。

 ドイツの伝統ブランドのなかでも、とりわけハンハルトは印象的な赤いリセットプッシャーを備える機能本位のクロノグラフ、そして今日まで生き続けるストップウォッチの能力を象徴している。1882年に創業した同社は時計・宝飾店から出発し、やがて機械式ストップウォッチにおける世界最大のメーカーへと発展した。決定的な推進力を与えたのはウィリー・ハンハルト(Willy Hanhart)であり、彼は1924年、最初のドイツ製大衆向けストップウォッチによって市場の空白を埋め、そのあと手ごろな懐中時計や腕時計もラインナップに加えた。

 ブランドの時計技術的中核を形づくったのは、1938年以降の自社製ムーブメントである4xファミリーであり、コラムホイールと水平クラッチを備え、1プッシャーまたは2プッシャー。軍用パイロットにとってはフライバック機能が重要であった。激しい任務の最中に誤って押すことを避けるため、ある軍用パイロットの心配性の妻が、彼女の赤いマニキュアでそのボタンをさっと塗った。こうして、回転ベゼルの刻み部分にある赤いアクセントともども識別のしやすい、時を計る道具にまつわる、ひとつの伝説が生まれたのである。このふたつは、紛れもない認識記号へと発展した。

ハンハルトを着用するスティーブ・マックイーン。

 現在では復活を遂げ、大きな成功を収めているハンハルト 417 ES フライバックの有名な愛用者のひとりに、アメリカの俳優スティーブ・マックイーン(Steve McQueen)がいた。1962年、腕時計の製造はいったん打ち切られ、機械式ストップウォッチに重点が移されるが、それが困難な数十年においても同社の独立を守ったのである。今日、かつてと同じくギューテンバッハに拠点を置くこのブランドは、歴史的アイデンティティと現代的な製品政策を結びつけている。現行の腕時計クロノグラフであるプリムス、レースマスター、パイオニアは、そのクロノグラフの遺産を現在へ翻訳している。同時にハンハルトは、真のストップウォッチマニュファクチュールを今も維持している。年間およそ1万2000個の機械式モデルが、真のマニュファクチュールキャリバーを備えて生産され、クラシックタイマーとして、オールドタイマー愛好家やヴィンテージ・ラリー・クラブ(ヴィンテージカーやクラシックカーでラリーイベントに参加する愛好家クラブ)から高い評価を受けている。

ユンハンス(Junghans) ― シュランベルクから世界へ

ユンハンス マックス・ビル バイ ユンハンス。

 ユンハンスは、産業史、革新力、そしてデザイン上の連続性という、まれなバランスを体現している。1861年にシュランベルクで創業した同社は懐中時計ではなく、黒い森の時計向け廉価部品から出発し、早くからアメリカ式、すなわち大量生産の方法を採り入れた。そこから国際的な規模を持つ工業企業が生まれたのだ。

 1903年、ユンハンスは従業員3000人超、1日9000個のタイムピースを生産する、世界最大の時計メーカーであった。腕時計の分野で、このかつてのファミリー企業は、機能的なクロノグラフ、公式認定クロノメーター、そして大きな音を響かせるアラームウォッチによって名を成した。手巻きであれ自動巻きであれ、ほとんどすべてのムーブメントは自社内で製造されていた。1956年12月15日にカール・ディール(Karl Diehl)がブランドの過半数株式を取得したあとも、同社は技術革新の原動力であり続けた。1970年代には、アストロクォーツによって電子の時代に応答した。

マックス・ビルがユンハンスのためにデザインしたオリジナルウォッチの初期のデザイン画。

 1972年、ユンハンスはミュンヘン五輪の公式タイムキーパーを務めた。1976年、150を超える異なるキャリバーを経て、腕時計用機械式ムーブメントの製造は終了した。その後は1990年のメガ1や1995年のメガソーラー セラミックといった電波式クォーツウォッチが続いた。21世紀初頭、ユンハンスはイガーナ・ゴールドファイル(Egana-Goldpfeil)の傘下に入る。外部調達による機械式への回帰に際しては、偉大なデザイナーマックス・ビル(Max Bill)の遺産がとりわけ大きな価値を持つことが明らかになった。逆説的なことに、2008年のイガーナ破綻は好機へと変わった。2009年初頭、シュランベルクの企業家一族スタイム(Steim)が同社を引き継ぎ、伝統、デザイン、そして手の届くドイツ時計製造という明快な哲学へと引き戻したのである。とりわけマックス・ビル バイ ユンハンスとユンハンス マイスターが、その後のブランド像を形づくっている。

マイスタージンガー(MeisterSinger) ― 1本の針で十分である

マイスタージンガー サルトラ・メタ。

 この25年、マイスタージンガーはきわめて首尾一貫したひとつのアイデアによって独自の地位を築いてきた。マンフレッド・ブラスラー(Manfred Brassler)氏が形にした1針式腕時計は、ゆったりした時間感覚の表現である。時・分・秒の針を文字盤上で回転させるのではなく、マイスタージンガーは決定的な単位として“時”に集中する。これは単なるギミックではなく、ひとつの姿勢である。

 この明確な哲学の根は初期の機械式時計にまでさかのぼり、それが今日では現代的で見紛うことのない造形言語へと翻訳されている。始まりにあったのはNo. 01であった。2桁の時数字、印象的なニードル型の1本針、そして精密に構成された文字盤が、高い識別性に寄与し、いまも寄与し続けている。この文脈において、ドイツのデザインは意識的にスイスの時計技術と結びつけられている。マンフレート・ブラスラー氏は、自社生産能力を教条としたことは一度もないが、デザイン上の首尾一貫性は徹底して追求した。まさにそれが、なぜマイスタージンガーが国際的な名声を獲得し、忠実なファン層を築くことができたのかを説明している。

 四半世紀のあいだに発展したモデル群には、ルナスコープ、アストロスコープ、ペリグラフ、プリマティック、シンギュラリス、ベルホーラ、あるいはパンゲアのような目を引く作品が含まれている。それぞれが独自のスタイルを持ちながら、根本の思想を失ってはいない。いまやターニャ・ブラスラー(Tanja Brassler)氏が父の後を継ぎ、その歩みを受け継いでいる。2026年のアニバーサリーイヤーには、まずジャンピングアワー表示を備えるパンテロが焦点に置かれる。そして同じく新作のアルカオによって、マイスタージンガーは強いアクセントを打ち出す。力強く造形され、本質へと絞り込まれたそのモデルは、記念年を迎えるブランドの輪郭を目に見えるかたちで鋭くしている。

ストーヴァ(Stowa) ― プフォルツハイムの時計

 ストーヴァの歴史はほぼ100年におよぶが、その全貌をたどる資料は限られている。その主な理由は、1945年2月23日のプフォルツハイム空襲で企業アーカイブが破壊されたことにある。同じ年、1927年にヴァルター・シュトルツ(Walter Storz)が創業した会社はラインフェルデンで再出発した。ブランド名は、彼の姓と名の最初の音節から作られている。

 ホルンベルクでの初期を経て、1935年以降はドイツ時計産業の重要な中心地であったプフォルツハイムへと拠点を移した。そこでストーヴァは、いわゆるエタブリスールとして活動した。ムーブメント、ケース、文字盤、針は専門サプライヤーから供給され、デザイン上の署名だけはオーナー自身が与えたのである。1930年代の時点で、ヴァルター・シュトルツはすでにトレンドに対する鋭い感覚を示していた。バウハウス様式の簡潔な腕時計は、男女向けの長方形モデルと並んでラインナップに含まれていた。

パイロットウォッチシリーズのフリーガーより、ヴィンテージ感あふれるブロンズケースを採用したモデル。

 アイコンに数えられるのが、高精度の観測用時計である。ドイツ軍当局は、バウムスター B(Baumuster B)に準拠する、大型で視認性に優れたフリーガーウォッチを調達した。それが、ストーヴァが今日まで頼みとしている評判を打ち立てたのである。第2次世界大戦後、このブランドは製品スペクトラムを一歩ずつ広げていった。自動巻き時計、クロノグラフ、そして1963年に導入されたダイバーズウォッチ、シータイムが、独自の輪郭を形づくった。現在、ストーヴァはドイツのテンプス・アルテ グループに属している。現行プログラムには、歴史的なラインであるフリーガー、マリーン、アンテアが含まれる。伝統と現代が矛盾しないことを物語っているのが、フリーガー・クラシック サンレイ・ブルーとサンレイ・グリーンである。このふたつは、古典的なフリーガーウォッチという主題に、よりエレガントで未来志向の強いニュアンスを与えている。