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トップ画像:巨匠C.H.メイラン作の懐中時計のセレクションと、復活した同社のプロトタイプ腕時計。
2008年10月、穏やかなニューヨークのある日、サザビーズで歴史的なオークションが開催され、入札者たちが集まった。
そのオークションは、今日の基準からすると奇妙なものであった。手始めにこれである:アストロラーベ(天体観測儀)だ。ゴールド無垢のロイヤル オーク パーペチュアルカレンダーが、雀の涙ほどの金額(2万1250ドル)で落札された。ミラーダイヤルのサブマリーナーは1万4000ドルで落札された。デイトナは全く売れなかった。そして、アメリカ製懐中時計の市場が縮小しているにもかかわらず、オークションの主役は、おそらくアメリカ製で最も複雑な時計であろうウォルサム製のグランドコンプリケーションの唯一の個体だった-永久カレンダー機構、5分単位のミニッツリピーター、ムーンフェイズ機構、スピリットセコンド機構を備えていたからだ。
この時計は、アメリカ製らしいというよりはオーデマ ピゲやヘンリー・キャプト(Henry Capt)、ヘンリー・グレイブスのスーパーコンプリケーション級のコレクションに比肩する驚くべきものだった。この時計は、5〜7万ドルの落札予想価格を大幅に超えた、26万6500ドルという、当時としては最も高価なアメリカ製の時計として販売された。しかし、正確な時計を大量生産する国を出自とするウォルサムが、グランドコンプリケーションを作るためのノウハウはどこから得たのだろうか?
その鍵は、かつて最も偉大な時計職人の一人とされながら、ほとんど忘れ去られた時計職人の存在にあった。
ル・サンティエ -1842年
1842年4月21日、シャルル=アンリ・メイランはスイスの小さな町ル・サンティエに生まれた。この町で9年前にアントワーヌ・ルクルトは、後にジャガー・ルクルトとなる工房を設立する。ジュウ渓谷は、すでに“複雑機構の渓谷”としての名を轟かせつつあった。
シャルル=アンリの名は、時計製造の代名詞ともなっていた。この渓谷初の時計師、サミュエル=オリヴィエ・メイランは遠縁にあたるが、彼は時計師の監督機関が要求する許可証を得ずに1743年に工房を始めた。しかし、彼は反抗的な態度をとりながらも、やがて許可証だけでなく、この渓谷の行政機関を押さえることで、結果としてこの渓谷の未来がもたらされた。
この地域の地理的条件は、時計製造にとって進化の圧力鍋のようなものだった。夏は農作業に最適だが、冬は過酷である。雪でジュラ山脈が通行不能になると、農民は副収入を得るべく自宅に併設した時計工房で時計製造業に従事するようになった。毎年春になると、彼らは何日もかけて山を越え、ジュネーブの一流ブランドや輸出業者が欲しがるムーブメントを売り歩いたのだ。
このような地理的条件は、家系にも影響を与えた。オーベール、オーデマ、キャプト、ゴレイ、ギニャール、ルクルト、メイラン、ピゲ、レイモンド、ルシアン・ロシャットなど、現在でもよく目にする時計メーカーがこの渓谷を拠点に時計製造を行っており、互いの家系が交わることでこの渓谷の歴史が分からなくなることもしばしばである。
シャルル=アンリと3人の姉は孤児で、シャルル=アンリ自身小学校以上の高等教育を受けたことがなかった。しかし、渓谷には何百もの小さな工房があり、時計製造の仕事は豊富にあったため、彼は早くから見習いとして働いていた。
22歳のとき、C.H.メイランはロンドンに移り、ニコル&キャプト社にインターンとして入社した。 かつて有名だったこの会社は、フロッドシャム、デント、ティファニーなど時計本体やムーブメントを提供しており、メイランは完成した時計のチェック、調整、タイミングの修正を任せる最も優秀な時計師の一人、ルパスール(repasseur)として活躍した。4年後、スイスに戻ったメイランは、ジュネーブで3年間、ムーブメント設計の技術を学んだ。こうして培った技術をもとに、彼は新天地を目指したのである。
ニューヨーク -1871年
1871年、メイランはニューヨークに到着した。そこでは、アメリカ式生産方式が本格的に始まっていた。機械化と部品の交換が可能になり、生産革命が起こっていた。アメリカでは正確な時計が求められていたが、それは同時に、アメリカではほとんど見られないものを作るチャンスでもあった。それこそが、複雑時計である。
メイランは、ニューヨークの旧宝石街にあるマセイ・ブラザーズ、マセズ・アンド・カンパニーでエボーシュムーブメントの輸入と仕上げの仕事に就いた。彼は複雑時計の特許を取得し、仕上げとデザインの両方で才能を遺憾なく発揮し、エボーシュメーカーのH.L.マティル、ルイ=エリゼ・ピゲ、ルクルトなどとの関係を深めていった。
1876年までに、メイランの名は広く知られるようになった。アメリカ初の万国博覧会でクロノグラフのデザイン改良に貢献した功績が認められ受賞し、ミニッツリピーターとミニッツリピーター・クロノグラフを発表したからだ。イギリス紙によると、これらの時計は「スイスのマティーユ氏が綿密な設計に基づいて製作したエレガントな構造を持つ複雑時計」と評された。
メイランが到着した頃、ニューヨークにはスイス人時計師のコミュニティが形成されていた。クロノグラフを中心としたヘンリー・アルフレッド・ルグラン、ミニッツリピーターを手がけたジョルジュ・オーベールなどもそれらのコミュニティのメンバーだった。
アメリカを代表する時計メーカー、ウォルサム社は、複雑時計への回帰を試みていた。最初の時計から5年後の1859年、ウォルサムは「改良型スポーティウォッチ」、すなわちクロノドロメーターを発表したが、経過時間を計測するためにムーブメントを停止させなければならないものだった。南北戦争で生産規模が縮小されると、クロノドロメーターはわずか400本しか作られず、打ち切られた。
ルグランの特許により、ウォルサムは安価で信頼性が高く、組み込みが容易なクロノグラフを得ることができた。彼らは主にスイスのエボーシュ・ムーブメントに似た3/4プレートを備えたリュウズによる巻き上げ方式の14サイズのModel.1874と1884ムーブメントをマサチューセッツの工場で仕上げ、ニューヨークの販売代理店ロビンス&アップルトンに送り、高級ゴールドケースに収めるほか、ルグランやオーベールに協力を仰いで、これらのムーブメントに改造を加え、複雑機能を持たせることに成功した。
ウォルサムは1877年にルグラン特許のクロノグラフをオーベール特許の5分ミニッツリピーターとともに発表し、アメリカ初の工業的かつ実用的な複雑機構を実現した。その後10年間にウォルサムは様々なデザインのクロノグラフを製造し、さらに推定200~300個のリピーター(1個100ドル、現在の価格で2500ドル以上)、いくつかの5分ミニッツリピータークロノグラフ、希少なスプリットセコンドクロノグラフ、ごく僅かのフルミニッツリピーター、そして現在も時折発見されている実験作を世に送り出した。
意外な事に、ウォルサムとルグラン/オーベール両氏との蜜月は10年程で終焉を迎えた。メイランの成功と1888年に取得した新しいリピーターの特許がウォルサムの目に留まったことも理由としてあり得ることだ。あるいは、デザイン面の問題もあったのだろう-メイランのクロノグラフとリピーターには、ルグランのブリッジやレバーを多用したものとは異なり、シンプルでエレガントなデザインが施されていたからだ。また、決して普及しない複雑時計の生産を維持するための、最後の悪あがきだったのかもしれない。
メイランの5分間ミニッツリピーターは、1888年頃にウォルサムの時計に搭載され、5分間ミニッツリピータークロノグラフ、スプリットセコンド・クロノグラフ、クロノグラフ・ミニッツリピーター、ラトラパンテ5分間ミニッツリピーター、そしてニューヨークで作られた2つのフルミニッツリピーター・ラトラパンテも知られている。
この当たり年を祝し、メイランはマセイ・ブラザーズ社のパートナーに就任。 そして、ウォルサムはこの1年後に複雑時計の製造を中止することになるのだが、メイランがアメリカで求めていた成功を手に入れることができなかったことは否定しがたい。
しかし、そんな中、90年後まで忘れ去られていた、メイランとウォルサム両社の偉大な功績があった。
ニュージャージー -1979年
1979年の秋、ウィリアム・スコルニック(William Scolnik)氏のもとに1本の電話がかかってきた。スコルニック氏は、ニューヨークの東53丁目と2番街に店を構え、時計や複雑時計の修理、オークションハウスやコレクターとの仕事、カタログの編集などを手掛けていた。彼は、世界の希少品のほとんどを見たことがあると自負していた。
電話の相手は仕入業者で、スコルニック氏に懐中時計について次のように説明した-ムーンフェイズ付きのパーペチュアルカレンダー、5分間ミニッツリピーター、スプリットセコンド・クロノグラフを搭載している、と。そしてそれがウォルサム社製であると告げた。
「そんなはずはない」とスコルニック氏は言ったのを覚えている。「そんな時計は存在しない」と。
「でも、ムーブメントにウォルサムって書いてあるじゃないか」とその男は反論した。「間違いないようだ」。
驚きながらも興味をそそられたスコルニック氏は、1時間以内にガーデンステートパークウェイを走り、高速道路から外れたレストランで待ち合わせた。その時計は、18Kヘビーゴールドのハンターケースにプッシャーとリピータースライドが付いた比較的地味なもので、その仕入業者はスコルニックにその時計を手渡した。スコルニックが内蓋を開けると、“American Waltham Watch Co.”の刻印が目に飛び込んできた。
「私はそれが本物だと信じることができませんでした」とスコルニック氏は私に語った。スコルニク氏の記憶では、その業者の提示価格は1万5千ドルから2万ドル、現在の価値に換算すると6万ドルから8万ドルといったところだろう。「私は価格交渉もせず、ただ『わかった』と返事をして、すぐに家に帰りました。まるで浮遊しているような気分で運転して帰ったのを覚えています」。
スコルニック氏の前に置かれたのは、彼が見たこともないようなアメリカ製の時計だった。17石、ニッケル製の3/4プレート、リューズ巻き上げ機構、レバーセット、永久カレンダーと5分間ミニッツリピーター用の黄金色のムーブメント輪列である。ダイヤルには4つの段差が設けられ、4つのサブダイヤルがあったのだ。
スコルニック氏は、この時計についていろいろと調べてみたが、なかなか情報を得ることができなかった。彼が聞いたのは、何らかの展示会のために作られた、5つか6つの様々な複雑機構を持つ時計という、真偽不明の与太話だけであった。しかし、ひとつだけはっきりしたことがある。この時計は、C.H.メイランが製造した時計のシリアル番号の範囲に含まれていたのだ。
この時計がなぜ作られたのか、100年近くもどこにあったのか、知る由もないだろう。アメリカの懐中時計専門家、オークションハウス『ジョーンズ&ホーラン』のフレッド・ハンセン氏も困惑した。
「このような時計は、他の印象的な時計を展示していたその種のイベントで紹介されていたと思われるでしょう」と、彼は最近語っている。「コロンブス万国博覧会では、水晶で作られた有名な時計が目立つように展示されていました。それと似たようなものだと思うでしょうが、そのような記述は見たことがありません」。
メイランのコレクターであるイーサン・リピシグ(Ethan Lipsig)氏は最近、ウォルサムのグランドコンプリケーションがメイランの時計の個体と類似していると指摘している。しかし、この時計は他のC.H.メイラン製グランドコンプリケーションとは非常に異なっており、メイランのスイス工場で作られた別のムーブメントである可能性は低いと思われる。実際、受け石やネジの配置はプレーンなModel.1884と一致しているため、この時計がアメリカ国内生産されたことを裏付けている。スコルニック氏は、奇しくもアメリカの傑作時計に出会ってしまったというわけである。
スコルニック氏はこの時計を手放したくなかった。「運命的なものを感じましたから」と彼は言うが、その後数ヶ月の間に、テキサスやルイジアナのコレクションから珍しい複雑時計のウォルサムが次々と彼の元に届けられたのだ。
彼はすぐに、この時計が手に余るほど価値が高いことに気づいた。スコルニック氏は、多くのレアアイテムと同じように、この時計をイリノイ州の実業家セス・アトウッド氏のもとへ持ち込んだ(彼のコレクションは時計博物館が建てられるほどであった)。そうして、ウォルサム グランドコンプリケーションは、再発見から3ヵ月以内に手放されたのだった。
ル・ブラッシュ -1888年
シャルル=アンリがアメリカへ旅立った時、妻のルイーズはスイスに残り、一人娘のエレンを身ごもっていた。メイランの曾孫によると、エレンが6歳くらいの時、ドアをノックする男に怯えたという。
「ママ、大きな帽子のおじさんがいるわ!」。その男性こそが、彼女が会ったこともない父親だった。
1888年、メイランはル・ブラッシュに居を構え、小さな小川のそばに工房を構えた。近隣にはルイ・エリゼ・ピゲの工房があり、メイランらにエボーシュを供給していた。メイランにとって最大の市場であったアメリカとは、生涯を通じて関係を保ち続けた。1903年、彼は社名を“C.H.メイラン・ウォッチ・カンパニー”と改め、英語圏市場を意識した社名とした。
この頃からメイランは名作を作り始め、その腕前はアメリカでの活躍を凌駕していたことが窺える。1890年から1915年までの間、シャルル=アンリの工房では、おそらく数個まとめて完成させていたが、平均すると隔年で1個のグランドコンプリケーションを製造していた。時間表示のみの高級時計から高級クロノグラフ、スプリットセコンドクロノグラフ、ミニッツリピーター、そして印象的な小型の女性用複雑時計まで、あらゆる時計を製造し、メイランブランドとカルティエ、ティファニー、ヴァン・クリーフ&アーペルなどのプライベートブランドで販売した。実際、メイランのムーブメントは110社以上のジュエラーの時計に搭載された。
1894年、メイランはジュネーブで開催された天文台の計時コンクールで、パテック フィリップやヴァシュロン・コンスタンタンを抑えて優勝を飾った。後にジュール・オーデマやエドワード・ピゲと並んで、メイランの名前と写真が当時の渓谷の最も重要な時計職人として掲載されたのは当然のことだ。
時計師として半世紀を過ごしたシャルル=アンリ・メイランは、1年以上癌と思われる病と闘った後、1916年に74歳でこの世を去った。多くの資料では、会社は彼の息子であるマックスが引き継いだとされている。しかし、C.H.メイランの家系図では、彼に息子がいなかったことが、彼の子孫が協力した調査で判明している。
シャルル=アンリがル・サンティエで生まれる4年前に、近くのル・シュニで別のシャルル=アンリ・メイランが誕生している。その子供たちの中にマックスがいたのだが、彼はおそらく父親と同じ名前の時計職人の下で働いていたのだろう。その結果、いわば歴史上の伝言ゲームのように、C.H.メイランが死ぬや否や、小さな情報の断片が人伝に繰り返し、実しやかに囁かれるうちに分解し始めた。
創業者の死にもかかわらず、C.H.メイラン・ウォッチ・カンパニーは、ジュネーブに新しいオフィスを構え、アールデコの時代に順応しながら、頑強に生き続けた。1920年代には、小型バゲットムーブメント、超薄型ムーブメント、クロノグラフの製造で知られるようになった。しかし、その革新性は、メイランの死後まもなく衰えたように思われた。アールデコの時代に作られたカクテルウォッチ、パースウォッチ、薄型懐中時計は、美しい反面、他のメーカーとの差別化が見られなくなった。
ファッションなのか、似たようなサプライヤーなのか、それとも完成した時計を買って “メイラン”と銘打つだけの会社なのか、捉え難い。ひとつだけはっきりしているのは、数少ないメイラン研究家のひとりであり、既知のメイラン社製ムーブメントのほとんどを記録してきたイーサン・リプシグが語ったように、1918年より後の年代の複雑機構ムーブメントは存在しないという事実だ。
約60年に渡り推定4〜5万個のメイラン社製時計を納入してきたボーム&メルシエはイタリアでのクロノグラフの需要が高まっていることを知り、1947年9月1日にル・ブラッシュのC. H.メイラン・ウォッチ・カンパニーの大株主となった。ボーム&メルシエの有名な時計師アンドレ・ジュエラ、マーク・ブシャは、マークの甥であるエドモンド・ブシャを雇い、ル・ブラッシュの工場を再編成、そして指揮させた。ボーム&メルシエの社内史には、メイラン社のノウハウに比してブランドが大きく弱体化していたことが記されており、1952年にメイランを完全に買収して吸収し、ボーム&メルシエに独自の自社製クロノグラフキャリバーをもたらしたとある。
やがてボーム&メルシエもピアジェに買収され、その後両社ともカルティエに買収された。やがてメイランは徐々に歴史の表舞台から去っていった。
スイス -現在
シャフハウゼンのライン滝を見下ろす建物の中で、エドゥアルド・メイランは、父ジョルジュ=アンリが同じく著名な時計師で、現在エドゥアルドが経営する会社の創設者であるハインリッヒ・モーザーの時計や書類の袋をゆっくりと解く様子を見守っていた。父と息子はともに、他人の家名を冠した会社を率いて時計業界で名を成したが、2人はより身近な人物について話をするために集まったのである。
ジョルジュ=アンリは、30年以上にわたり、遠い親戚であるシャルル=アンリ・メイランの時計を収集してきた。ジャガー・ルクルトでキャリアをスタートさせる前、H.モーザー&Cie.社を所有するMELBホールディングの会長は、若い頃にこの時計メーカーのことを耳にし、その名に魅了されたことを覚えている。
「この渓谷に長く住んでいると、こうしたブランドについて耳にすることがあるのです」。彼は昼食会での私との会話でこう回想する。「メイランの名は、一般に浸透しているからこそ多くの企業で使われていますから。しかし、シャルル=アンリの歴史は、他の多くの企業と同様なのです-忘れ去られているのです。その名が永続できるのは、記憶されているからこそなのです」。
ジョルジュ=アンリは、20年以上にわたってオーデマ ピゲを率いた。この会社は、シャルル=アンリと同時代の人々によって設立され、歴史的な成功を永続させることができた。ハインリッヒ・モーザーもまた、メイラン家のもとで栄華と衰退、そして復活を遂げたブランドであり、その歴史的背景がどうであれ、ブランドを維持するために必要な努力が払われてきた。
ジョルジュ=アンリはそのキャリアを通じて、懐中時計、腕時計、パースウォッチ、カクテルウォッチなど、現在知られている限り最大のC.H.メイランウォッチのコレクション(200点以上)を人知れず築いていったが、この事実は記事になるまで知られることはなかった。モーザー本社に戻ると、ジョルジュ=アンリは再び時計の梱包を解き、スイス人らしく淡々とした口調で、ある小さな箱に私の目を留まらせた。
そこには、ほぼ手付かずのケースに入ったウォルサムと驚くほどよく似たC.H.メイランのグランドコンプリケーションが鎮座していた。ケースバックには、ニューヨークで最も古いオランダ人でユグノー教徒の一族の子孫にちなんで「Warner M. Van Norden 1908」とエングレービングが施されている。中には、ジョルジュ=アンリの友人であり、オーデマ ピゲの時計修復師、複雑時計師でもあるフランシスコ・パッサンダンが最近洗浄、点検した「新古品」としか思えないムーブメントが収められていた。
我々は120年前の昔にこんなことが可能だったのかとコレクションを前に心奪われ立ち尽くしていた-ラトラパンテ、極薄ミニッツリピーター、34mmのレディースリピーターやクロノグラフ、宝石をあしらった華麗な作品、ティファニーのサイン入り時計などである。なかでも興味深いのは、ジャンピングセコンドという複雑機構を搭載するラトラパンテ・セコンド・フドロワイヤントで、頭がクラクラする私の様子を見て、ジョルジュ=アンリ氏の顔には喜びが表れていた。それらは、まずオークションで丹念に集められ、やがて他のものはジョルジュ=アンリのもとに直接やってきたという。
有名ブランドではないものの、C.H.メイランの時計はオークションで好成績を収めている。しかし、もっと興味深いのは、どこにも名が刻まれていなくともメイランの手がけた作品が高い評価を受けてきたことである。
ジョルジュ=アンリのグランドコンプリケーションと同じシリアルナンバーが1つ若いムーブメントが、オーデマ ピゲの時計に搭載されている。また、パテック フィリップのグランドコンプリケーションは、スザンヌ・ロールが手がけたエナメルの傑作で、2012年にクリスティーズにおいて72万3000スイスフランで落札された。そのムーブメントは1964年にパテックが組み立てたもので、クリスティーズによれば、パテックにとって戦後最小のグランドコンプリケーションであった。パテック フィリップにとって、とてもユニークな存在だったのも頷ける。エングレービング以外は、メイランのムーブメントと同じである。
パテックは20世紀に入っても渓谷の時計職人に依存していたが、自社製ムーブメントを製造する会社の中には、外部の力を借りて特別注文に応じることもあった。パテックの場合、尊敬するメーカーが閉鎖した際にムーブメントを外部購入した可能性がある。仕上げはパテック フィリップが行ったのは間違いないが、その下地は50年ほど前にメイランが作っていた可能性があるのだ。
2009年、引退を控えたジョルジュ=アンリ氏の脳裏に、シャルル=アンリ・メイラン氏のことがよぎった。
「シャルル=アンリ、ジョルジュ=アンリ、C.H.とG.H.は、まるで誰かが書き間違えたようなイニシャルですね」と彼は振り返った。「この名前で何か作れないかと考えました。でも、オーデマ ピゲのCEOでいる間は無理だったので、待ったのです」。
2012年、彼と彼の子供たちが次の仕事を探している間、C.H.メイランブランドはその候補にあった。実際、ジョルジュ=アンリの情熱は、エドゥアルドとその弟ベルトランの頭上にぶら下がっているようだった。
「彼にとって、メイランブランドを再スタートさせることはとても重要なことでしたが、ゼロから始めることがいかに大変なことか、私たちは実感していました」とエドゥアルドは言う。「モーザーがあったからこそ、私たちはスタートを切ることができました。モーザーでは、人材、建物、機械が揃っていました。アイデンティティも、ムーブメントも、ネットワークもありました。ブランドとしての自分たちのあり方を明確にし、自分たちの価値観を明らかにすることができたのです」。
H.モーザー社の経営は、現代の多くのマニュファクチュールとは異なっている。C.H.メイランの時代とは異なり、エボーシュは見あたらない。ムーブメントに関連するすべての部品は、シャフハウゼン郊外のノイハウゼン・アム・ラインファルで製造されており、エンジニアと時計職人のコラボレーションを促進している。モーザーの姉妹会社であるプレシジョン・エンジニアリング社は、ヒゲゼンマイを含む脱進機部品を製造しており、CNCマシンの近くで組み立てとテストを実施している。このマシンは、プロトタイプを含む部品を製造し、時計職人がすぐにテストできるようにしてから、すぐ近くにいるエンジニアと微調整できるようになっている。ヒゲゼンマイはモーザーだけでなく、MB&Fやカリ・ヴティライネンなど、新進気鋭のブランドにも供給されている。
両社の間には、現状を打破するためにリスクを負うことを厭わないという、一貫した素養が存在する。メイランが他の時計メーカーのムーブメントに搭載される 複雑機構のためのエレガントなモジュラー式ソリューションを開発したのに対し、モーザーはさらにエレガントなソリューションを追求した結果、モジュラー式脱進機が誕生した。これはモーザーの時計職人が新しい脱進機ごとそのまま交換することで時計のメンテナンス時間を大幅に短縮することを可能にする斬新なソリューションである。
さらに彼らの理念に共通するのは、「作品はそれ自体で語られるべき」というものだ。エドゥアルドは、父親のコレクションであるC.H.メイランの懐中時計を見て育ったが、よく見ると初めて、当時の偉大な時計に欠けているものがあることに気づいた。
「メイランの時計は、私が本当に詳しく見た最初の本物の懐中時計で、それらを研究した結果、ダイヤルにロゴがないものが多いことに気づきました。19世紀、20世紀当時、メイランの名作時計にはロゴがないものがあったのです。なぜだろうと不思議に思ったのを覚えています」。エドゥアルドは語る。「ふと、昔は時計屋に行けば、何が手に入るかわかったものだと思ったのです-だから名前など要らなかったのです。だから私は、モーザーにその経験のエッセンスを感じてほしいと思ったのです」。
モーザーの成功が拡大するにつれ、一家は他のブランドを立ち上げるのは時期尚早であることを悟った。エドゥアルドは、「希望はまだありますが、モーザーだけで生産能力以上の顧客の需要があり、一家は全力を尽くさなければならないのです」と認めた。
その翌日、私はシャルル=アンリの故郷であるル・サンティエに到着し、地元の有力時計メーカーが支援したヴァレ・ド・ジューの時計製造の歴史を紹介する体験型博物館、エスパス・オルロジェを訪れた。時計職人の人生について何か答えが見つかるかもしれないと思いながら、展示されている時計をひとつひとつ丁寧に見て回った。ティファニーのために製作されたグランドコンプリケーションを前に立っていると、美術館の運営マネージャーであるタニア・コッティング氏が、「美術館のアーカイブの中の、メイランに関する唯一の資料をご覧になりませんか」と尋ねてきた。
タニアが大きなフレームを抱えてやってきて、ジョルジュ=アンリ・メイランがそれに続いた。額縁をめくると、シャルル=アンリがアメリカで頭角を現すきっかけとなった1876年の万国博覧会で授与された賞状が現れた。ジョルジュ=アンリは、この発見に興奮し、真のコレクターらしく、ジャケットから携帯電話を取り出して、この歴史の一片を撮影していた。
翌日、ジョルジュ=アンリはジュウ湖畔のホテルまで私を迎えに来てくれた。私たちはもっと時計を見ようと、3日目には私たちを魅了した時計師について話をするつもりだったが、その前に彼は私に見せたいものがあったのだ。
ジュウ渓谷をドライブしながら、ジョルジュ=アンリ氏は時計製造の歴史とシャルル=アンリ氏が生涯を過ごした場所を指差して教えてくれた。シャルル=アンリが多くのエボーシュを購入し、ジョルジュ=アンリがキャリアの初期を過ごしたジャガー・ルクルトや、1901年の設立時に副会長を務めた時計技術学校などがあった。マイクロマシン製造のメイラン・フレールや、この渓谷で最も優れた配管工であるメイラン&ズーラーへの道を示す街路標識もあった。ロリアン(L'Orient)にはブレゲの工房、オーデマ ピゲの本社とその工場、そしてパテック フィリップの小さな工房があり、いずれも10分以内の距離に集まっている。
ジョルジュ=アンリは狭い道を素早く車で駆け抜け、ル・ブラッシュの繁華街からすぐの小さな小川と古い工場を通り過ぎ、ブランパンのマニュファクチュールの前で停車した。彼は車から降りると、道路の向こう側を見た。
「ここが、C.H.メイランの工房です」彼は微かに笑った。私は何カ月もその建物を探していたが、メイランの時代には住所は必要なかったようだ。私たちは通りを渡ってその建物に向かった。“Aubert Mecanique”と書かれた看板と、窓際のいくつかの植物を除いては、ひっそりとたたずむ建物だった。「ここは時計師の工房だったのですよ」と彼が言う。「大きな窓がぎっしり並んでいるでしょう。小さな部品を作るのに最も適した明るさだったのです」。
私たちはジュウ湖の西岸にあるジョルジュ=アンリの別荘に向かった。大きな窓が暖かく、彼はまたもやお気に入りの時計を取り出しながら、私たちは話をした。温かい雰囲気の小さなH.モーザーのフュメの掛け時計だけが、時計に関するキャリアを証明する存在だった。私は祖父のナイフで時計の裏蓋を開けた。子供の頃、祖父と向かい合って座り、祖父が重要だと思いながらも、ほとんど質問されることのなかった時計の話を聞いたことを思い出した。
別れ際にジョルジュ=アンリは2本の時計を取り出した。ひとつは、1920年代頃に作られたメイランのジャンピングアワー機構を備えた腕時計。もうひとつは、フドロワイヤントセコンド付きのジャンピングアワーウォッチで、彼の魅惑的な懐中時計と同じだが、より現代的なものだった。ダイヤルは8の字型をしており、上部の円周上に時間、その外側に分表示が周回している。下のサブダイヤルには“C.H.メイラン”と表記されていた。
「数年前にこの時計と他の2本のプロトタイプを作りました」とジョルジュ=アンリ。「シャルル=アンリがやっていたことからインスピレーションを受けつつ、現代的な手法でできることを示したかったのです」。
プロトタイプとはいえ、比較的薄型でモダンなプロポーションを持つこの時計は魅力的だった。ムーブメントは予想以上に複雑だったが、たとえそれが実現しなくても、あり得るかもしれないという驚きを与えてくれた、と彼は語った。
その夜、ル・ブラッシュを去る前に、ジョルジュ=アンリや私以外の誰が最後に表に立って、この時計師に思いを巡らせたのはいつだっただろうかと考えながら、シャルル=アンリの工房に戻った。実際その時とC.H.メイランがル・ブラッシュへ帰還した間隔の方が、サミュエル=オリバー・メイランが工房を設立した時とC.H.メイランがル・ブラッシュへ帰還した間隔よりも、近かったのである。それほど遠くない歴史に囲まれているような気がして、とても力強く感じたものだ。
ニューヨークでは、シャルル=アンリ氏の昔の住処は、かつての面影はなく、彼の古いオフィスは荒れ果てた静かなビルで、1階にはサブウェイのサンドイッチショップが入っている。HODINKEEのオフィスからほど近いRobbins & Appletonビルは、現在1階が画材屋、上がコンドミニアムになっており、1室が現在900万ドルで売りに出されている。
そして、ウォルサムのグランドコンプリケーションウォッチについては、またしても謎が残されたままである。しかし、フレッド・ハンセンは、この時計が見納めではないかもしれないと考えている。メイランの天才的な才能は、まだ残っている可能性があるのだ。
「同じデザインのウォルサムのパーペチュアルカレンダーの噂を聞いたことがあります」と彼は言う。
「90%が公にされていないコレクションがあると言われています。信じられないことですが。私たちが時計について知っていることは、氷山の一角であることを肝に銘じるべきです。これらのコレクションが明らかになり始めたら、時計の学術的な見地が完全にひっくり返るかもしれませんね」。
取材に協力していただいた次の情報提供各位に感謝します。イーサン・リプシグ(Ethan Lipsig)氏、ジョルジュ=アンリ(Georges-Henri)氏 とエドゥアルド・メイラン( Edouard Meylan)氏、スティーブン・フォスケット(Stephen Foskett)氏、ヤン・シミング(Yang Shiming)氏、 アントニオス・ヴァシリアディス(Antonios Vassiliadis)氏 、ハンス・ウェイル( Hans Weil)氏、 ボナムズとサザビーズのオークションハウス、そして長年に渡るNAWCCの執筆者達。