Photos by Mark Kauzlarich
しばらくのあいだ、自身がニューヨークでアイスランドに行かなかった最後の人間のように思えた。というのも私の心の一部が、なぜほかの人たちと同じことをするのかと抵抗していたからだ。家族の出身地であるノルウェーか、ドラマチックな山岳風景があるパタゴニアに行きたい。でも私がアイスランドを訪れないのは、みんなが好きなテレビ番組を見るのを我慢するようなものだった。アイスランドは大げさに宣伝されていて、期待に応えられないのではないか? と。
時計ではよくある話だ。熱狂という列車が街中を疾走し、誰もが乗車できる。ほかの誰もが疎外感に苛まれる。金銭的な理由の場合もあれば(誰もが今話題の時計を買えるわけではない)、自分が遅すぎるということもある。いずれにせよ、時計収集の悲しみの段階のようなもの、つまり否定、怒り、駆け引き、憂鬱、そして受け入れを経験する。しかし長い目で見ることができないのは、時計収集の世界において最大の敵である。熱狂が薄れていくと、最初に物事を偉大にしたものだけが残されるのだ(そして価格が必然的に下がり、時計が小売店から入手できるようになり始める)。
基本的にヴァシュロン・コンスタンタンのオーヴァーシーズのどのブルーダイヤルも、ここしばらくのあいだは入手が困難だった。パテックやオーデマ ピゲのアイコンと同様、オーヴァーシーズはスティールブレスレット一体型の高級スポーツウォッチとして、独自に細かい工夫を施しながら成功を収めてきた。ヴァシュロンのプレスチームは、腕時計を“バンドル”(何かとセットにして売る)していないし、もっとお金をかければブルーオーヴァーシーズを早く手に入れられるわけではないとも断言している。しかし、もし手に入れることができなければ、過剰な宣伝だと自分自身を納得させることができる時計のひとつであることは確かだ。
ただ不思議なことに、これは高級スポーツウォッチのラインナップのなかでも、言葉は悪いが、実際に“使える”と感じる時計のひとつでもある。ほかの主流であるロイヤル オークは、ケースの打痕や傷の摩耗を考えると登山に携行したい時計ではない。ノーチラスは美しくエレガントだが、実際にはスポーティさを強調するには程遠い。その点、オーヴァーシーズの3針モデルは358万6000円(税込)と高額だが、少なくとも150mの防水性能を備えている(どちらの競合モデルよりも防水性が高い)。さらにこのパッケージは薄くて快適に装着できるほか、レザーやラバーストラップにすぐに付け替えられるクールなブレスレットも備えている。そして、サンバーストのブルーダイヤルは今でも素晴らしいものであり、それがそもそも人々が欲しがる理由でもある。
そこで私は、手首に新しいヴァシュロンのオーヴァーシーズ・ムーンフェイズ・レトログラード・デイトをつけて、アイスランドに赴いた。ただこれは、防水性わずか50mであり、オーヴァーシーズのなかで最も頑丈な時計ではない。実際、3月の時点で私はこれをヴァシュロンの“象徴する複雑機構”と呼んでおり、スポーツをする上で特に役立つものではない。価格も629万2000円(税込)と3針よりかなり高い。しかし、私がやろうとしていたことではそれは相応しかった。何よりも私の大きな疑問は、“スポーツウォッチ”がどこまで“ラグジュアリー”に近づけば、そのふたつの考え方が衝突するのかということだった。
これは正統なHands-On記事ではないだろう。実際にこのモデルのスペック(41mm径×10.48mm厚のSS製ケース、約40時間のパワーリザーブ、122年先まで修正の必要がないムーンフェイズという事実以外)を詳しく知りたい人は、こちらのIntroducing記事を参照して欲しい。その代わりこれから先の記事では、スポーツウォッチはどこまでラグジュアリーになり得るのかという問いに(そっと)答えるので、これは視覚的な口直しだと思って欲しい。でもその前に、なぜ私がアイスランドにまで来たのか、その理由を説明しよう。
ヴァシュロンは先週、アーティストのザリア・フォーマン(Zaria Forman)氏をブランドの新しいパートナーとして発表した。ほとんどの場合、ブランドパートナーには著名人が起用されるが、彼らがイベントに参加できるのは年に数回、数時間に限られる。しかしフォーマン氏は、ヴァシュロンが彼女に注目するきっかけとなった、気候を意識した彼女のアートワークを深く理解して欲しいと、娘と夫から離れてアイスランドに1週間滞在する予定だった。彼女の大規模なパステル調の風景画や、氷が溶ける様子を細部まで描いた繊細なアートは、“写真のようにリアル”なのではなく、リアルで気候変動が起きているのを見ているような気分にさせる。そして、その作品にさらに命を吹き込むために私たちはアイスランドを横断し、彼女の最新作のインスピレーションの源泉となった風景を見に行く旅に出た。私たちはアイスランドの首都、レイキャビクにあるハルパ(コンサートホール&会議センター)から出発し、ザリア氏の作品を見てこれからの旅に備えることにした。