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昨年、開催されるはずだった「東京2020オリンピック」が、ついに幕を開けました。東京での開催は、1964年の前回大会から57年ぶり2回目。今回は、コロナウイルスのパンデミックの影響により1年延期され、開催地東京は今も緊急事態宣言下にあるため、主要会場には声援が響かない無観客という大会史上異例の状況となりました。オリンピックのチケットにはひとつも当選しなかった僕は(結果としてはよかったですが)、自分はあまり縁がないなと思っていましたが、時計をきっかけにオリンピックと特別な歴史をもつご家族とつながりました。それも1964年の東京でのオリンピック開催は、その方の活躍なしには実現されなかっただろうと言われる方のご家族です。今日は時計の話というよりもその「東京にオリンピックを呼んだ人物」についてを中心にご紹介します。
ことのはじまり
2019年の11月に開催されたHODINKEE Japanのローンチパーティーが終了して1週間ほど経ったある日、Instagramで写真付きのダイレクトメッセージが送られてきました。
こんにちは、将治さん。カルフォルニアのフォロワーからHODINKEE Japanの立ち上げをお祝いするDMをお送りします。実は私の家族を紹介したくてご連絡しました。妻は、クリスティ・ワダといいます。あなたも和田さんなので、もしかしたら先祖のつながりや関係があるのではないでしょうか? 彼女の祖父フレッド・イサム・ワダは、ロザンゼルスに住んでいました。祖父は1964年に開催されたオリンピックの日本招致に協力した人物です。祖父に贈られた記念の置き時計や妻はこれの他に彼が愛用していたロレックスを受け継ぎました。私たち家族は、今年の夏の東京オリンピックにも参加する予定です。もしよろしければ、もっとお話してみませんか?
デイヴィッド(@dmcrabtree)より
デイヴィッドさんからメッセージを受け取ったとき僕は、フレッド・イサム・ワダさんがどんな人物なのか知りませんでしたが、同氏が和歌山県にゆかりのある人物だということを知り驚きました。なぜなら僕の祖父が和歌山県出身だったからです。もしかしたら何かあるかもしれないと思い(結果的に県内でも違う地域でつながりはありませんでしたが)、デイヴィッドさんたちが東京2020オリンピックのタイミングで来日する際に直接お会いしてお話ししたいと考えていました。残念ながら来日は叶いませんでしたが、先日オンラインでお話を伺う機会を得ました。僕が知ったフレッド・イサム・ワダさんについてのストーリーは、想像を超えるものでした。
東京へのオリンピック招致に人生を賭けた男
フレッド・イサム・ワダさんは、1907年9月18日ワシントン州ベリンハムで日系人二世として生まれました。アメリカでの生活が困窮を極めたため、4歳からの5年間は和歌山県の祖父母の家に預けられることになります。再びアメリカに渡り、12歳になるとシアトルの農園で働きながら通学、17歳でサンフランシスコの農作物チェーンに移り、20歳になったときには、オークランド市内に野菜や果物小売店を開業。6年後、正子さんと結婚する頃には3店舗を構えるまでになりました。
しかし、フレッドさんに大きな転機が訪れます。1941年12月8日に勃発した太平洋戦争です。日系人たちは強制収容所行きとなりましたが、これをよしとしない同氏は、総勢130人を引き連れてユタ州へ集団移住し、大規模な農園を開設。経営は非常に苦しく結果的に失敗に終わりますが、私財を投げうって苦労する姿を見ていた仲間たちは誰一人恨むことはなかったそうです。その後、同州で別の農地に移りますが、戦争が終わるとオークランドに戻らずロサンゼルスに移住しスーパーマーケットを開業。カリフォルニア州で17店舗を展開するまでに成長させました。
フレッド・イサム・ワダさんがスポーツの世界と関わりをもつようになったのは、終戦4年後の1949年の全米水泳選手権がロサンゼルスで開催されたときです。GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーに出国の許可を得ての遠征でしたが、旧敵国として日本人たちは「ジャップ」と蔑称で呼ばれ、ホテルへの宿泊も拒否されていました。現地の日系新聞が宿舎の提供を広告で呼びかけるとそれがワダ夫妻の目に止まりました。すぐに選手団9名全員の受け入れを申し入れ、自宅を宿舎として提供することになったのです。
フレッドさん家族の献身的なサポートを受けた全米水泳選手権の出場選手たちは、のちに日本のスポーツ史に名を残した古橋廣之進氏や橋爪四郎氏らでした。日本選手団は、同大会で合計9つの世界新記録を樹立。世界中に報道され、敗戦に沈みきっていた日本人に勇気を与えました。また、アメリカ人たちからも正しく「ジャパニーズ」と呼ばれるようになり、日本人に対する目も大きく変わったそうです。
ロサンゼルスの水泳大会から10年後、総理大臣や東京都知事から重大な仕事の依頼が舞い込みます。それは、1964年のオリンピックを日本に招致するために力を貸して欲しいという内容でした。当時オリンピック開催候補地として東京のほかに名乗りを上げていたのは、デトロイト、ウィーン、ブリュッセルの4都市。開催地の決定は、国際オリンピック委員会(IOC)の58人の委員たちによる多数決で決められます。東京開催の鍵を握っていたのは、中南米諸国の票でした。日本政府から中南米のIOC委員たちの説得を要請されたフレッドさんは、日本のためならと快く引き受けることになります。
東京でオリンピックが開けるなら、店のことなどどうなってもええと思うとる。東京でオリンピックやれば、日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を持たせることができるやろう。
– フレッド・イサム・ワダ(御坊市公式サイトより引用)しかし、当時外貨不足だった日本政府は、フレッドさんに資金を援助することはできませんでした。それでも東京でのオリンピック開催が、日本が自信と誇りを取り戻すきっかけになると確信したフレッドさんは正子さんを説得。メキシコやパナマなど10ヵ国を40日間かけて回り、中南米諸国のIOC委員に東京開催の協力を呼びかけたのでした。委員への手土産を含め、すべて自費で説得に回り続けました。
フレッドさんの熱意が伝わり、58人の委員のうち34人が東京に投票し、東京での開催が決まりました。それから日本がどうなったのかは、みなさんご存知のとおりです。実施までの5年間で日本の経済成長率は10%にも達し、フレッドさんが考えていたとおり敗戦ですべてを失った日本人が、自信や誇り、希望を取り戻すきっかけになったのです。
東京オリンピック以後も、彼の活動は続きました。中南米諸国で最初に東京開催を支持してくれたメキシコへの恩返しをしたいと自らの誘致、開催のノウハウを伝え、4年後の1968年のメキシコシティーオリンピックの実現にも携わりました。また、日系人たちを受け入れてくれたアメリカにも恩返しをと1984年のロサンゼルスオリンピックの招致・開催にも協力。フレッドさんは、2001年2月12日に肺炎のため93歳で生涯を閉じるまで、日本とアメリカふたつの祖国、そして周りへの努力を惜しむことはありませんでした。
フレッドさんに贈られた東京オリンピック1964記念メダル時計
東京でのオリンピック開催に尽力したフレッドさんに日本オリンピック委員会からメダルの形をした置き時計が贈られました。この時計は、フレッドさんの形見として次男であるエドウィンさん(ちなみに彼の名は江戸が勝つから名付けられたそう)に2001年に受け継がれ、2013年にエドウィンさんが亡くなった際に娘のクリスティさんにまた受け継がれたそうです。デイヴィッドさんが実物を画面越しに見せてくれました。
文字盤12時位置には"SEIKO"のロゴと聖火が組み合わさったようなデザインがあり、6時位置には"2 JEWELS"、そして"JAPAN"の文字が印字されています。メダルには、「円盤投げ」の大理石像(おそらく大英博物館所蔵のもの)と「TOKYO 1964」の文字がレリーフで施されています。
スライド式の蓋の裏には、"FRED I. WADA"と"JAPANESE OLYMPIC COMMITTEE"の印字があります。実はこの記念メダル時計は、eBayなどオンライン上でいくつか出品されているものを見つけることができますが、いずれも署名の入ったものは見つけられませんでした。デイヴィッドさんは「精度はおそらく出ていませんが、まだ動いていますし、アラームもしっかりと機能しているんですよ」と実際に試してくれました。通話越しでしたが、60年近く前のものとは思えないほどはっきりと心地よい音が鳴り響きました。
フレッドさんが愛用したロレックス オイスター パーペチュアル デイトRef. 6624(またはRef.6627)
フレッドさんは、18Kイエローゴールドのロレックス オイスター パーペチュアル デイト、デイトジャストの弟分というポジションで販売されていたものを愛用していました。リファレンナンバーは6624(または6627の可能性もあるそう。ラグの間の刻印はほとんど見えなくなってしまっているものの、2014年にデイヴィッドさんがクリスチャン・ダンネマンさんというイギリスの時計師に修理を依頼した際には6627とされたため)。当時の通常モデルがケース径34mmであるのに対して、このRef.6624(またはRef.6627)は直径30mmとやや小ぶりで、ボーイズサイズやミドルサイズと呼ばれています。
あえてこのサイズのモデルを選んだのか、いつどういった経緯でこの時計を手に入れたのか気になるところですが、残念ながらそれはわからないのだとデイヴィッドさんは言います。「私が腕時計に興味をもったときには、すでにクリスティの爺ちゃんは他界していました。新品で手に入れたのか、それとも同僚や訪問者から記念の品として受け取ったのかは、定かではありません」。
「それに文字盤を見るとリダイヤルされているのがわかりますが、その経緯も不明です。この状態で彼が手に入れたのか、それとも違う色の文字盤が欲しくて交換したのか。もしかしたらオリジナルはオーバーホール中に破損してしまい交換されたなんていう理由だったかもしれません」とデイヴィッドさんは話します。「ラグの間のシリアルナンバーから1960年に製造された個体であることまでは突き止めたのですが、そこまででした。フレッド爺ちゃんに敬意を表し、この時計のオリジナルの文字盤を見つけて、彼の栄光を取り戻したいと思っていますが、なかなか見つかりません」。もし読者のなかに助けられる方がいらっしゃれば、ぜひメッセージを。
家族のつながりをもった時計
フレッドさんについてのお話は、いくつかの書籍やテレビドラマも製作されていますが、僕と同じように知らなかったという方も多いのではないでしょうか。これまで時計をきっかけとして本当に沢山の方々にお会いしてきましたが、まさかこんなに特別なストーリーに行き着くとはまったく予想もしませんでした(それも和田という苗字がきっかけのひとつになるなんて!)。
実は僕もデイヴィッドさんとまったく同じく経験をしています。祖父の形見として彼が1960年代にドイツに駐在していたときに購入したオイスター パーペチュアル デイトRef.1500を受け継ぎましたが、僕が時計好きになるよりも随分と前に他界しており、あまり詳細を知ることはできませんでした。時計の針を前に戻せるのなら、どこで、どんな理由で、どうしてこのモデルにしたのかなど直接聞けたらどんなにいいだろうと何度も思いました。
フレッドさんの遺した置き時計とロレックス。これらの時計があるからこそ、僕が交わることができた彼と東京オリンピックとの物語は、知らない時代のことでもやけに親近感を持ち、今の大変な状況も重ね合わせて共感を与えてくれたのだと思います。
Watch photographs by Mr. David Crabtree.