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In-Depth カルティエブティック101年の歴史

プラントが建てた邸宅。そしてあの有名な真珠の運命についての余談…

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※本記事は2016年9月に執筆された本国版の翻訳です。

「カルティエがこの一角にやって来たことは、それが自分たちも愛用する老舗の宝飾ブランドであっただけに、この区画を最初に築き上げた豪邸のオーナーたちにとっては苦い敗北を意味した。1905年にこの建物が出来たとき、それは商店や店舗の到来に立ち向かう砦のように見えたのだが、しかしそれはアラモの砦となってしまった」

– クリストファー・グレイ, ニューヨークタイムズ, 2001年

ニューヨークの52丁目通りと5番街通りの交わる角に建つカルティエブティックの横を通り過ぎたとしても、それがどんな意味をもつものであるか、あまりピンとこないだろう。多くの人は間違いなくそうだと思う。大理石と花崗岩を用いたネオルネサンス様式の6階建てで、1905年に完成した見事な建築だ。このブティックは高くそびえるオリンピックタワーの陰となっているが、1917年からカルティエのニューヨークにおける拠点となってきただけでなく、かつては巨万な富と強大な権力を誇るアメリカの名門の邸宅が軒を連ねていた5番街沿いの、今では断片しか残されていない過ぎ去った過去の世界を彷彿させる最後の痕跡のひとつとなっている。

Cartier mansion 1920

1920年のカルティエブティック。

 5番街653番地に建つこの建物は、そのほとんどをカルティエのニューヨークブティックとして過ごしてきたが、出発点はそうではなかった。この邸宅の元の持ち主は、非常に裕福な家庭に生まれたモートン・F・プラントという名のアメリカ人実業家だ。彼の父親はプラントシステムとして知られるようになった鉄道と蒸気船の巨大ネットワークを南部一帯に張り巡らしたヘンリー・ブラッドリー・プラントである。

 ヘンリー・プラントは、抜け目のないやり手だった。生まれはコネチカット州だが、南部の実業界で大きく名を馳せたことから(貨物輸送事業で自身最初の大成功を勝ち取ったのだ)、南部連合国から政府の要職を与えられ、関税を徴収していた。1863年にプラントは、南部連合国大統領であったジェファーソン・デイビスを説き伏せて(病気を口実に)、バミューダへの安全な通行証を作成してもらい、その後、連合国のパスポートを携えてフランスへと渡った。そこでフランス人を説得してジョージア州在住のアメリカ市民であると記載したフランスのパスポートを作成させ、それを携え、南北戦争が終わったアメリカに再入国した。そしてその後、鉄道会社14社を買収し始め(戦後の競売で手に入れたものもあった)、それに伴う莫大な富を築き上げた。

 誰に話を聞いても、1852年に生まれた息子との仲は良好であったとは言えず、亡くなる際にヘンリーは、財産のほとんどを息子のモートンには与えず、孫息子に残そうとした(この時点ですでにモートンは鉄道会社の社長に就任してしばらく経っていたにも関わらずだ。金ぴか時代と呼ばれるこの時代のあまり高尚とは言いがたい泥棒男爵的基準に照らし合わせても、これは少し冷たいと言うしかない)。しかし、モートン・プラントとヘンリーの妻は、なんとか遺書を覆すことに成功し、モートンは、俗に言う羽振りのいい暮らしをし始めたのだ。

Cartier mansion corner view 1920

1920年の5番街通りと52丁目通りが交わる一角。

 父親のプラントは明らかに疑っていたが、モートンは父親と同じく才覚のある実業家であることが判明する。もちろん、大きな資産を手にして始める事業の幸先が良いのは当然ではある。ニューヨークのもっと裕福な不動産王に関して、かつて耳にした陰口を思い出す。「父親の数百万ドルの不動産帝国から出発して、数百万ドルの不動産帝国を築き上げただけだ」というものだ。モートンは、自身がそれほど敬愛していなかった父親に比べて、少し遊びのセンスがあったようだ。彼の最大の楽しみのひとつがヨットで、自身が会長を務めたラーチモント・ヨットクラブを含むいくつかのクラブのメンバーだった。1887年に初めて結婚したが、最初の妻ネリーは1913年に50歳で亡くなった。そのわずか10ヵ月後に、61歳のモートンは再婚。相手は31歳のメイジー・コールドウェル・マンワリングだった。

 二人の求愛については下世話な話がいくつか飛び交っており、そのひとつがこれだ。メイは、プラントと出会った時点でホテル経営者のセルデン・マンワリングと結婚しており、書籍 『Florida's Ghostly Legends and Haunted Folklore: The Gulf Coast and Pensacola(フロリダの幽霊伝説や不気味な民間伝承:湾岸とペンサコーラ』 によれば、モートン・プラントはメイ(メイジーの愛称)に夢中になり、夫のセルデン・マンワリングに800万ドルを支払って穏便に離婚させたという。モートン・プラントは、二人の年齢差や求婚期間の短さが下卑たコメントを引き出しがちであることを忌々しくもよく理解していたようだ。社会風刺雑誌『コリアーズ』 は次のように書いている。「少し前に、 億万長者のモートン・F・プラント氏が……レストラン経営者の離婚した妻と結婚することになったというニュースがこの国を賑わせた。インタビューが叶い、この大富豪から次のような発言が取れた。『いかにも、私は結婚するつもりだが、プライベートなことなので放っておいてくれ』と」

portrait maisie plant with cartier pearls

アルフォンソ・ジャンガーの原画を元に、クラウディア・マンロー・カーが描いたメイ・コールドウェル・マンワリング・プラント夫人の肖像画。

 ここで、すでに濃厚だと言える筋書きがさらに濃くになる。メイ・コールドウェル・マンワリングは、1914年にメイジー・プラントとなり、すぐさま5番街653番地の邸宅へと移った。当時そこは、ただ単にモートン・プラント邸として知られていた場所で、5番街通りのヴァンダービルト邸やアスター邸などの豪邸が連なる地区の一画を占めていた(実は5番街653番地の土地は、ウィリアム・ヴァンダービルトがプラントに売却したもので、以前は孤児のためのカトリック慈善病院が建っていた場所だ)。建築家はロバート・W・ギブソンで、彼は有名な教会や大聖堂なども手がけていたが、しかしプラントのために教会の趣とは一線を画した豪華な6階建てをデザインし、52丁目通りに面して付けた玄関(邸宅の当初の住所は東52丁目2番地だった)には、縦溝彫りの柱で枠をつけ、トップには三角形のペディメントを施した。建物は当時も今も富と権力を誇示しているが、それと同時に、それは審美眼に適う対象を追い求めて富を行使した記念碑でもある。メイジー・プラントは自身にとっての新たなこの邸宅を、この世で手に入る最も美しいものたちで満たしたいと考えていた(そして夫のプラントがそれに異議を唱えなかったのは明らかだ)。

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 だが、プラント夫人が新たな生活を始めたのは、5番街の歴史の転換期だった。長年にわたり、富豪の家が立ち並ぶ5番街通り沿いの59丁目以南は、その特質から争いが繰り広げられていた。一方には、(ヴァンダービルト邸のような)途方もなく裕福な一族が巨大な邸宅を建てて住んでおり、もう一方には、それら豪邸が建っている理想的な立地の土地を欲しがる事業者や不動産開発業者がいたのだ。それは容赦のない、そして結局は避けられない変化だったのだが、モートン・プラントはこの変化を心底嫌い、商売人の店舗のような俗世的なものが通りに並ぶのは必然であるという考えに対して、少なくとも幾分か鼻であしらうように、彼は自分の邸宅を建てたのだった。 

 この争いは、彼の側に勝利が運命づけられているようなものではなかった。5番街通りの南方の風情は徐々に変化し、1893年には5番街通りと33丁目通りの一画に、ウォルドルフホテルもオープンした(このホテルの建設には、叔母のキャロライン・ウェブスター・シューマーホーン・アスターを苛立たせようとするウィリアム・ウォルドルフ・アスターの欲求も動機となっていた。叔母とは長年の確執があり、その叔母の家が隣接していたのだ)。1905年までには、セントレジスホテルとゴッサムホテルも55丁目通りと5番街通りの一画で開業していた。 

 そして1909年、カルティエというフランスの宝飾ブランドが街にやって来たのだ。

waldorf and astoria hotels 1916 postcard

ウォルドルフホテルとアストリアホテル、1916年。

 5番街におけるカルティエの存在について、そしてそこに建つ豪邸にやがて波及する意味について、約1世紀後の2001年に『ニューヨークタイムズ』 が記事を書くことになる。「カルティエがこの一角にやって来たことは、それが自分たちも愛用する老舗の宝飾ブランドであっただけに、この区画を最初に築き上げた豪邸のオーナーたちにとっては苦い敗北を意味した。1905年にこの建物(プラント邸)が完成したとき、それは商店や店舗の到来に立ち向かう砦のように見えたのだが、しかしそれはアラモの砦となってしまった」 

Pierre Cartier

ピエール・カルティエ

 カルティエが最初にニューヨークでの拠点とした場所は、5番街の712番地だった(5番街通り西側沿いの56丁目)。その建物自体にもかなりドラマチックな経緯がある。そこは、フランスのガラスメーカーであるラリックが製造した美しい窓が入った隣のビル(かつてコティがテナントとして入っていた)とともに開発業者たちが取り壊しを希望していた1980年代に、消え去る危機にあった。しかし、そこにあった3軒の建物(712番地、714番地、716番地)のファサードが、主にその窓のお陰で歴史的建造物に認定されたことで、土壇場で取り壊しを逃れたのだ。そして切望されていた高層ビルもやがて建てられたものの、それは通りからかなり距離を置かなければならないとされた。カルティエのオフィスは712番地の建物の4階にあったのだが、そのファサードが保存対象とされたお陰で、ピエール・カルティエがそこからニューヨークの街を見た窓を我々は今でも見上げることができる。

 ニューヨークにカルティエのブティックを構えることになった大きな要因として、カルティエの競合ブランドである宝石商のドライサーの存在があった。ドライサーは5番街通り560番地に店を構えていたが(建物は今も現存しており、1階にオークリーの店舗が入っている)、ハンス・ナーデルホッファーの著書『カルティエ』 によれば、カルティエのデザインを、本家の製品がアメリカに輸入されてくる前にパリのブティックから拝借して真似ていたのだという。ピエール・カルティエは輸送時間を省くために、ニューヨークに工房も構え、自社の職人たちを入れた。そして事業はすぐさま活気づいたが、それは人目を引く見事な広報戦略が当たったせいでもある。その一例が、ホープダイヤモンドの購入、そして売却だ(それぞれ1910年、1911年のことで、購入者は鉱山を相続したエヴェリン・ウォルシュ・マクリーンという女性)。 

「プラント氏は、自宅の売却や賃貸借の話を何度も持ちかけられたが、いかなる提案も検討しようとしなかった。ところが数ヵ月前に、商業化と立ち向かう自身の抵抗は無意味なものだと考えるに至った」

– 「The Real Estate Record And Guide(不動産の記録と案内)」, 1917年7月17日

 1917年には、5番街通りと52丁目通りの交わる一帯は、プラントの手に負えないものとなって久しかった。商業施設の侵入に加え、かつてセントラルパーク以南の5番街通りに豪邸を構えていた一族のほぼすべてが、59丁目通り以北の新たな住所に移り住んでしまったこともあり、プラントは物理的にも社会的にも取り残されてしまっていた。彼はすでにその前年から、86丁目通りと5番街の交わる区域に、さらに規模を大きくした新居を構える計画に取りかかっていた。

 ここで、ある真珠のネックレスが話の筋に入り込み、事実と伝説とが非常に興味深い形で混ざり始める。

 話は次のように進む。プラント夫人は、5番街712番地のカルティエに展示されていた真珠のネックレスをいたく気に入った。それは、肖像画家アルフォンソ・ジャンガーの原画を元にクラウディア・マンロー・カーが描いたメイジーの肖像画の中で彼女が着けているネックレスだ(そしてその絵は今日、カルティエブティック内のメイジー・プラントのサロンに飾られている)。これは実際には2本のネックレスからなるダブルストランドで、短い方は55個、長い方は73個の巨大な天然の南洋真珠が使われている。2本合わせて100万ドル(約1億1145万円)という価格だった。1917年当時は人工真珠がまだ市場に出ておらず、無傷の大きな真珠を使って大きさが段階的に変化していくネックレスを製作するのには、多くの時間と資金を要した。ピエール・カルティエもルイ・カルティエも、必要な時間と資金には事欠かなかったが、それでもこのようなネックレスの製作は、彼らにとっても希少な挑戦だった。

Hope Diamond Cartier 1910

ホープダイヤモンド。ピエール・カルティエが1910年に55万フランで入手し、1911年にエヴェリン・ウォルシュ・マクリーンに売却した。

 プラント夫人は真珠を欲しがっており、プラント氏は5番街52丁目の邸宅を出たがっていた。そして取引は成立した。『THE REAL ESTATE RECORD AND GUIDE(不動産の記録と案内)』の1917年7月21日付け記事に取引の結果が報道されているが、“他の価値ある対価”という言及が目を引く。

 「5番街と52丁目の交わる南東区画にあるモートン・F・プラント氏の住居は、宝飾商を営むパリのルイ・J・カルティエ氏とニューヨークのピエール・C・カルティエ氏に事業用途として数ヵ月前に貸借されたが、その不動産がこの度、両氏に売却された。所有権は先週土曜日に、100ドル及びほかの価値ある対価との引き換えで移譲された。貸借契約の際に、買取選択権が貸借人に与えられており、貸借人はそれを行使した。住居は商業用途に改修されている最中であり、現在は5番街通りのこれより北で営業している会社がまもなく入居できる予定だ。プラント邸は5番街で最も知られる建物のひとつで、ヴァンダービルト家の邸宅とは通りを挟んで反対側に位置し、5番街を北上する商業化に対する防波堤の役目を果たしている。プラント氏は、自宅の売却や賃貸借の話を何度も持ちかけられたが、いかなる提案も検討しようとしなかった。ところが数ヵ月前に、商業化と立ち向かう自身の抵抗は無意味なものだと考えるに至った」

cartier invitation mansion opening 1917

5番街653番地のカルティエブティックのオープン招待状、1917年。

 こうして、プラント夫人は真珠を手に入れ、カルティエはブティック(邸宅)を手に入れた。プラントとの契約に従い、建物の外観は一切変更されなかった。驚くべきことだが、内装についても1917年にカルティエが改修して以来、2000年から2001年の補修を例外として、実質的にそのまま、今年の大掛かりな改修まではほぼ手つかずであったのだ。建物はニューヨーク市の歴史遺産となり、カルティエが入手したときの外観をほぼ保持している。プラントは明らかに、少し前から5番街653番地を立ち去る出口戦略を模索していたのだが、カルティエとプラント夫人がそれを容易にしてくれた。 自分はもはや欲しくもなく、必要としてもいない家から出ることができ(86丁目のプラント邸は、さらに宮殿然としたものとなる)、妻をこの上なく上機嫌にすることに成功したのだ。だが、彼は自身の新居を長らく謳歌することはなかった。豪邸の売却から1年半もしない1918年11月4日に、モートン・フリーマン・プラントは逝去した。この上なく裕福な独身となったメイジー・プラントを後に残して。

「5番街通りから、落ち着いた羽目板張りやクリスタルのシャンデリアが威厳を醸すタウンハウスへ足を踏み入れたとたん、カルティエの客は“お客様”となるのだ。実際、カルティエの店舗とは、当初からそうしたものだった」

– Life Magazine(ライフ誌), 1947年12月22月号
Cartier "Big Apple" pendant, 1976

カルティエのペンダント“ビッグアップル”、1976年。

 非常に刺激的な初期の歴史を経た後、5番街653番地のマンションは、史上最高の高級ブティックのフラッグシップ店のひとつとして、今日まで続く長く安定した時代を過ごしてきた。 それはそれ自体が象徴するもののお陰で、(実に皮肉にも)商業的なアイデンティティを超越した場所となっている。

 5番街の金ぴか時代の豪邸は、遥か昔にほぼすべてが取り壊され、より大きな利益を生むビルへと道を譲る動きは抵抗できない流れであった。59丁目通り以南で最後に陥落したのは、51丁目通りと52丁目通りに挟まれる全域を占めていたヴァンダービルトの邸宅で、1945年に取り壊された。カルティエブティックやフリックコレクションのように今でも残っている建物は、住宅としてイメージするのが難しい。それは、ヴェルサイユ宮殿を訪れたときに、そこで人々が生まれ、暮らし、やがては死んでいった場所というよりも、常にそこは文化的な施設であったかのように感じられるのと同じだ(そして、カルティエブティックはまさしく文化的施設だ)。カルティエブティックは、マンハッタン上流社交界の中心としての存在よりも、大理石の落ち着きを感じさせる場所として、そして独自の伝統を築き続ける場所として知られるようになった。『ライフ』 誌は1947年のクリスマス号で、格別に収益性の高いスイスの民間銀行のコンサルティングオフィスを思わせるような1階のサロンをフルページ写真で掲載し、「カルティエのブティック:そこは高価なジュエリーを威厳のある公平無私な空気で販売する」との見出しをつけている。

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 記事を一部抜粋しよう。「上の写真の優雅な販売活動に示される非商業的な施設は、アメリカで最もエレガントな宝飾店だ。それは長年、店の売り子も気品ある年配婦人も一様に、うっとりするような素晴らしく手の込んだジュエリーの究極を意味してきたブランド、カルティエだ。カルティエを単なる宝飾店と呼ぶのは、不敬罪を犯すことになる。カルティエは、ヨーロッパやアジアのいくつもの王室の御用達となっている。5番街通りから、落ち着いた羽目板張りやクリスタルのシャンデリアが威厳を醸すタウンハウスへ足を踏み入れたとたん、カルティエの客は“お客様”となるのだ。実際、カルティエの店舗とは、当初からそうしたものだった」

 「お客様は人当たりの良い上品な販売員に接客され、販売員はお客様が3万ドルのブローチを値切るとは思ってもおらず、それ以上に、もはやお客様に何かを強いて買わせることすら考えていないのだ」と記事は続ける。記事はまた大真面目に、カルティエは特別注文のジュエリーの依頼を喜んで受けるものの、自身の胆石をゴールドの中に据えて欲しいとのお客様の要望については、あまり適切とは言えないために、丁重に断らざるを得なかったとしている。最後に記事は、別のフルページ写真で締めくくっているが、こちらは“ニューヨーク社交界の” ジュリアン・シャケノー夫人が“カルティエの習慣に従い、常に彼女の接客をしてその好みやこれまでの購入を知り尽くしている販売員のジャック・ヘイジーから、32万5000ドル(約3570万円)のダイヤモンドネックレスを見せてもらっている”写真だ。

 そして、このようにして、カルティエは現代まで続いている。 

Andy Warhol Cartier Tank

アンディ・ウォーホルと、これまであえて巻こうとしたことはないと彼が主張するタンク。

Maisie Plant Salon, Cartier Mansion, 2016

カルティエブティックのメイジー・プラントのサロン、2016年。

「社会秩序が不変に保証されており、富の意味は……それに適切に付属する役得として、美と品格のある環境に変換されるべきであり、ひとたび目が肥えてしまったら、優れた職人技の魅力は抗しがたく、それを所有することを自分の地位が正当化していると心から信じていた人物がここにはいた」

– Parke-Bernet Catalogue for the posthumous sale of Maisie Plant's art collection(メイジー・プラントのアートコレクション 遺品販売のパーク・バーネットカタログ)、1957年。

 カルティエブティックは今回の大掛かりな改修により、実に逆説的ではあるが、個人の邸宅としては過度に荘厳ではあるにしても、とりわけ趣味のよい調度品が備えられているという感覚がそこに復活している。もしそうしたければ5番街に面した入口から入ることもできるが、理想的なのは、プラント家の人々がそうしたように52丁目通り沿いの入り口から入ることだ。そうすれば、全盛期の豊満なメイジー・プラントが、クラウディア・マンロー・カーの絵画から勝利の笑みを浮かべてこちらを見下ろしてくる。そしてその不滅のデコルタージュには、真珠が永遠の光を放っている。左手には大きな螺旋階段があり、今回のリノベーションを担当した建築士ティエリー・W・デスポント氏が開放的な設計を採用したことで、ブティックの端から端までを見渡すことができる。関連のないものが雑然と詰め込まれていた感のある複数のショールームが、ひとつとなってマンハッタンの富の最大の象徴へと生まれ変わり、それは実に記念碑的でありながらも同時に心地よく寛げる規模の空間を贅沢に使っている。 カルティエの話の最後はハッピーエンドであり、これまでにも十分にアットホームであったこのメゾンが、これまで以上に寛いでいるように見える。

cartier mansion renovation 2016

52丁目通り沿いの入り口からカルティエブティックに入ったところにある大階段。

 しかし、この話にはまだ続きがある。

 プラント夫人は86丁目のモートン・プラント邸を相続し、生涯にわたり定期的にそこで暮らした。プラント氏に先立たれてからさらに2度の結婚をし、1957年7月に、メイ・コールドウェル・マンワリング・プラント・ヘイワード・ロヴェンスキー夫人として75歳で亡くなった。その時点の彼女は、世間が急速に変化していくなかで、ある種のゆったりとした昔気質の上品さを備えた過去の人となっていた。彼女の死、そしてその遺品の競売のニュースが“5番街の終焉”と題して 『タイム』誌の記事に取り上げられた。

 「今週、5番街の素晴らしい豪邸のうち、一番最後まで使用されていた彼女のマンハッタンの邸宅が競売にかけられる。彼女の遺品を一覧表にするためだけに、マンハッタンのオークションハウスであるパーク・バーネットは313ページのイラスト入りカタログを発行した。1021点の出品物の売却には2週間かかるとされ、167ロットの宝飾品を除いても、100万ドル以上の売り上げが見込まれる。宝飾品のなかには、これまで作られた中で最も有名な、大きさが徐々に変化する調和のとれた真珠を55個、そして73個使用したオリエンタルパールの2本のネックレスもある。これは1916年にロヴェンスキー夫人(当時はプラント夫人)が大富豪の夫から贈られたものだ。プラント会長は、5番街通りと52丁目通りにあった邸宅を売却した際の100万ドル(約1億1145万円)分の支払いとして、それらのネックレスを受け取った」

 「豪邸の購入者は、ネックレスが買われた場所に拠点を構えたカルティエだった…パーク・バーネットのカタログのなかで、その時代への追悼の鐘が鳴らされた。『社会秩序が不変に保証されており、富の意味は……それに適切に付属する役得として、美と品格のある環境に変換されるべきであり、ひとたび目が肥えてしまったら、優れた職人技の魅力は抗しがたく、それを所有することを自分の地位が正当化していると心から信じていた人物がここにはいた』」

Cartier pearl necklace, 2016, created to celebrate the re-opening of the 653 5th Avenue Mansion

カルティエの真珠のネックレス、2016年。5番街653番地のブティックの新装開店を祝して作られた。

 真珠のストランドネックレスは、わずか18万1000ドル(約2200万円)で落札されることになる。実は、プラント夫人が入手したわずか数年後の1916年に、御木本幸吉が養殖真珠を紹介してそれが爆発的な人気を博したことで、そのネックレスの価値は急落してしまっていたのだ。東86丁目通りの邸宅は、1960年に取り壊され、そこに5番街1050番地を住所とするマンションビルが建った。ビルの大きなロビーには、プラント邸の唯一の遺構となる大理石の柱と噴水が備えつけられた。5番街653番地の豪邸が今なお完全な形で建っている唯一の理由が、まさに自分がそれを避けるために北へと逃れた商業の力であるという事実について、モートン・プラントはどのように思っただろうかと考えずにはいられない。

 カルティエブティックの52丁目通りに面した広大な入口に立つと、ノブレス・オブリージュという繊細な霧の向こうからメイジー・プラントがこちらを見下ろし、彼女が暮らしていた世界が実に短命なものであったことをしばし忘れることができる。その世界を可能にした巨万の富のほとんどは、 最初にそれを蓄えた者の子孫たちの浪費によってほとんど使い果たされてしまった。優れた審美眼で収集された一生分の美しい物が詰められた巨大な豪邸は、そのほぼすベてが取り壊され、わずかに残された豪邸も、主に文化的施設や商業施設としての役目のために生き延びたに過ぎない。

 そして、真珠は? オークションで元の価格の何分の1かで落札された後、それは地上から消えてしまったかのように見える。それがどうなったのかを知る人はいないようだ。 2本が別々に分けられている可能性もあるし、分解して真珠が別のものに使われている可能性すらもある。しかし、それらがもしそのままの形でどこかに残っているとしたら、金庫の中に半ば忘れ去られていたり、あるいは膨大ながらも雑然とした誰かのコレクションのなかで見落とされていたりしているかのどちらかであり、プラント夫人が最初にそれを着けてから1世紀近く経った後に、カルティエ史上最大の記念品となる偉大な一品を、誰かが所有しているということになる。

 カルティエがマンションの新装開店を記念して製作した、大きさを徐々に変化させた着色天然真珠のネックレスの価格は“申し込みがあればその時に”となっているが、もし実際に尋ねることがあれば、7桁の答えが返ってくるだろう。メイジー・プラントの南洋真珠のダブルストランドネックレスがどこにあるか知っているかとの我々の問いに対するカルティエの答えは“ノーコメント”であった。“分かりません”ではなかったところが、いかにも想像を掻き立てる。