ADVERTISEMENT
ジャガー・ルクルトは1940年代から1970年代初頭までレベルソを製造していなかった。
今では考えられないことだが、最近ではJLCがレベルソの90周年を祝い、昨年ニューヨークでユニークなリバーシブルウォッチに特化した展示会を開催した。しかし何十年ものあいだ、それはメーカーの歴史のなかでほとんど忘れ去られた存在として放置されていた。
その状況が一変したのは、1972年に当時ジャガー・ルクルトのイタリア代理店だったジョルジオ・コルヴォ(Giorgio Corvo)がル・サンティエのメーカーを訪問したときだ。
ジョルジオの孫であり、現在はイタリアにある高級な独立系販売店、“GMTイタリア”を経営するヤーコポ・コルヴォ(Jacopo Corvo)氏はこう話す。「祖父(ジョルジオ)のコルヴォは製造メーカーに行きました」。話によると、祖父のジョルジオがメーカーの引き出しを開けた際、ジャガー・ルクルトが1948年に製造を中止して以来存在を忘れていた、200本のステイブライトスティール製(初期のステンレス合金)のレベルソケースを発見したという。
「祖父が“レベルソは必要だ”と言っていました」とコルヴォ氏は説明する。「当時、マーケットがメゾンに何かをつくってもらうよう依頼するのはごく普通のことでした」。イタリアの代理店から依頼されたオーデマ ピゲのロイヤル オークは、おそらくその最も有名な例だろう。
「その場面を想像してみて欲しい」とコルヴォ氏。「1972年は完全なるクォーツショックのときです。スイスのブランドは次々と衰退し、廃業していきました。みんなクォーツ式のセイコーを買っていたのです」
特に第2次世界大戦後、レベルソのようなレクタンギュラーウォッチは買い手の人気を失い、JLCは40年代後半に生産を停止した。しかしそれらの古いケースを発見したコルヴォはジャガー・ルクルトに、イタリアで販売したいがためにレベルソを復活させるよう働きかけ続けた。JLCは特に反転可能なレベルソケースの製造がいかに難しいかを知っていたため抵抗した。
ジャガー・ルクルトのプロダクト&ヘリテージ・ディレクターであるマシュー・ソーレ(Matthieu Sauret)氏は、「コルヴォがイタリアに持ち帰ったケースはひとつかふたつです」と説明する。アフターサービスを請け負う時計職人や技術者を抱えていたコルヴォは彼らに仕事を振った。1年後、時計職人たちは古いレベルソケースに小さな楕円形ムーブメントのJLC製Cal.840を取り付けるムーブメントホルダーを製作した。その後、コルヴォはこの試作品をジュウ渓谷に持ち帰った。
「スイスの時計職人たちは、イタリアの時計職人が何かを発見していたのに自分たちがそれを理解していなかったことに少し腹を立てていました」とソーレ氏は言う。そこからジャガー・ルクルトはコルヴォのシステムを工業化し、ル・サンティエで発見した200個のケースを用い、レベルソを通常生産できるようにした。
“コルヴォ レベルソ”のために、“ジャガー・ルクルト”のサインが入った美しいホワイトまたはグレーダイヤルにローマ数字という新しい文字盤もデザインされ、それぞれ100本生産された。特にローマ数字とグレーダイヤルは、ほかのレベルソとは一線を画すデザインであった。
ヤーコポ・コルヴォ氏は、「200本のレベルソを3カ月以内にすべて販売しました」と話す。ヤーコポ氏によると、ほんの数年前までJLCの時計は年間200本ほどしか売れなかったという。またジャンニ・ヴェルサーチ(Gianni Versace)やジャンニ・アニェッリ(Gianni Agnelli)など、ミラノで最も著名なVIPの何人かがコルヴォのレベルソを購入したという伝説もある(それを証明する写真を見たことがないが)。
コルヴォ レベルソが成功したあと、ジャガー・ルクルトはすぐにレベルソを世界中で再デビューさせるために取り掛かる。その後コルヴォは1975年まで生産された。その後数年間、ジャガー・ルクルトはレベルソの新しいケース製造に取り組んだ。それはオリジナルよりも複雑であり、防水性も備わっていた。
真のレベルソブーム到来は、1980年代に登場した大型のレベルソケース、“グランド タイユ”がきっかけである。
その後、1990年代はレベルソの黄金時代となった。1991年、レベルソ誕生60周年を記念して、JLCはレベルソに初めて機能を搭載した。最初に登場したのは60 ème(60周年記念)で、パワーリザーブインジケーターと特徴的な日付表示を持つ、金無垢ムーブメントのグランド タイユ レベルソであった。
「60周年記念モデルは私のお気に入りのレベルソです。すべてを変えた1本です」とヤーコポ氏は私に語ってくれた。
その後の10年間、JLCはパワーリザーブ、トゥールビヨン、ミニッツリピーター、クロノグラフ(昨年のヘリテージ レベルソ クロノグラフのベースモデル)、ジオグラフィック、パーペチュアルカレンダーという6つの“伝統的なコンプリケーション”それぞれを搭載した、6本の限定レベルソを生産した。それぞれ500本限定のこの複雑なレベルソは、特にイタリアでヒットした。
コルヴォ氏は「イタリアは多くの時計ブランドにとって、世界最先端のマーケットであり、イタリア市場は多くのブランドが今日のような地位を築くのに役立ちました」と話す。「非常に成熟した市場だったのです。人々は1940年代から50年代にかけて、同市場で時計を収集しました。そしてそれは時間を読むためだけではなく、ファッションの一部でもありました。彼らは今日の時計コレクターの先駆者なのです」
その間、ジャガー・ルクルトには多くの熟練時計師が在籍し、輩出をしていた。最初はフィリップ・デュフォー(Philippe Dufour)氏、そしてエリック・クドレ(Eric Coudray)氏やマックス・ブッサー(Max Büsser)氏のような伝説的な時計師が登場し、さらにギュンター・ブリュームライン(Günter Blümlein)がこの時代の大半をリードしていた。レベルソが復活したこの時代については、別の記事にする価値があるだろう。
コルヴォ レベルソ収集の現在
長いあいだ、コレクターはコルヴォ レベルソの背景にあるストーリーを知らなかった。だが2021年、イタリアのWatch Insanityがジョルジオの息子 (ヤーコポ氏の父親)であるミシェル・コルヴォ(Michele Corvo)氏の素晴らしいインタビュー記事を掲載したことで、状況は一変した。リシュモンがジャガー・ルクルトを買収した直後、コルヴォファミリーはイタリアでの同ブランドの流通を止めて、インディーズに軸足を移し、F.P. ジュルヌ、MB&F(ブッサー氏がJLCに在籍していた頃をよく知っていた)など、彼らを初期から支えていた。
しかし今日でもコルヴォ レベルソで検索すると、ローマ数字ダイヤルを持つコルヴォ レベルソ唯一の画像がヒットする(この記事に掲載している)。ここ数年、コルヴォファミリーやこの物語、レベルソの復活におけるこの時計の役割について言及されることなく、いくつか販売されているのを目にすることがある。
コルヴォ レベルソ自体が過小評価されているのか判断するのは難しいが、ストーリーが過小評価されているのは間違いない。多くの人はこの時計がどんなもので、ジャガー・ルクルトの歴史にとってどれだけ重要なものなのかを知らないのだ。確かにコルヴォモデルのあと、JLCは80年代~90年代にかけてより印象的で複雑なレベルソを製造した。しかし、コルヴォはレベルソを文字どおり再生させた時計であり、これまでに200本しか生産されていないのだ。
実際、これらのケースの性質上(忘れてはならないのは、1940年代製のケースはステイブライトスティール製であった)、長い年月のあいだにディーラーがコルヴォダイヤルをその時代に適した文字盤と交換した可能性さえある。なお私が見た数少ないコルヴォ レベルソのシリアルは467xxxで始まっている。
レベルソの持つアール・デコと美しいサーモン文字盤、スケルトンムーブメントを除けば、コルヴォは私のお気に入りのレベルソになる。ローマ数字文字盤は美しく、コルヴォにはほかの多くのレベルソにはないヴィンテージカルティエに匹敵する優雅さを与えている。
しかしそれ以上に、コルヴォ レベルソのストーリーとその歴史的な重要性が、たとえブランド自身がそのアイデアに懐疑的であったとしても、私がジャガー・ルクルトウォッチのなかで最も好きな時計のひとつにしている理由なのだ。
コルヴォ レベルソの物語を語る上で協力してくれたヤーコポ・コルヴォ氏とマシュー・ソーレ氏に感謝する。