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Second Opinions “ショッピングモールで売っている時計”の話

「君はその言葉を使い続けているが、私はその言葉の意味が君の考えるとおりだとは思わない」– イニーゴ・モントーヤ、映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』より


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私が子供の頃、誰かを怒らせるのに確実な方法は、その相手にばい菌をもっていると言うことだった。これは1970年代の中央ペンシルベニアでの話であり、ソーシャルメディアが発達し、世界的な文化変容を受けた現代の8歳児に見られるような、早熟で高度な嘲笑的な会話はもちろん期待できないが、当時は自分たちなりにやっていたのだ(“ばい菌”という表現は1898年頃から使われているのを確認できるが、この余談は別の機会にしよう)。この言葉について興味深いのは、不潔と汚染をあやふやにほのめかしながら、その言葉が正確に何を意味するのかは誰も知らないという点だ。誰かがばい菌をもっていると言えば、その誰かは仲間外れとなり、拒絶と嘲笑の対象となるということだけ理解していれば十分なのだ。かつて私にばい菌をもっていると言ってきた相手(7歳くらいだったと思う)に、自分にはその言葉の意味が分からないし、みんなもよく分かっていないのではないかと尋ねたことがあるが、彼らはその言葉をもっと大きな声で繰り返すだけだった。

 こんな話をもち出したのは、多くの異なる問題についても同じような表現が存在するからだ。正確に何を意味するかは分からないが、その言葉が示す内容が何かということよりも、その効果の方がよほど重要なのだ。その効果とは何かを軽蔑の対象として拒絶に値する、つまり、一言でいえば、人間社会にふさわしくないという根本の意味で“不浄”というレッテルを貼ることである。我々はある時計を好ましく思わないとき、その時計がばい菌をもっているとは言わない代わりに、他の言葉を使う。そして、時計についての最も漠然としていながら最も痛烈な言葉は“モールウォッチっぽい”ということだ。

ショッピングモール

文化不毛の地という烙印を押されているが、子供の頃の私はショッピングモールが好きだった。ブルース・ブラザーズのジェイク・ブルースの言葉を借りれば、モールには何もかもがあった。市営プールには飽き飽きし、遊び相手にも嫌気がさし、水鉄砲の打ち合いをするにもあまりに気温が高い、そんな暑い夏の日には、モールに出かければ、エアコンで涼めるだけでなく、さまざまな楽しみもあったのだ。ヒッコリーファームズで無料のチーズとソーセージをたらふく食べて、スペンサーギフトに立ち寄り、ブラックライトで照らされたポスターをぼんやりと眺めることができた(それに、ごく簡単に仕切られた“大人用パーティゲーム”のコーナーもこっそりと覗いた)。 

アメリカで3番めに大きいモール、ミネソタ州ブルーミントンのモール・オブ・アメリカ。 Image, Wikipedia.

 それから、買う気はないが買うことを考えるのが楽しいあらゆるものを見ることができた。私がよく見ていたものは腕時計で、その時代はもっぱら機械式時計であったが、クォーツウォッチも多く登場してきていて、日毎にその数が増えていった。時計はどこでも売っており、伝統ある高級宝飾店にもあるが、ホームセンターやドラッグストア、大通りにある専門の屋台など、ありとあらゆる場所で売っていた(とても長い時間を過ごしたので、私はその当時の“ドラッグストアウォッチ”という言葉が、現在の“モールウォッチ”と同じような痛烈な言い回しであったことを覚えている)。

数々の時計

1980年に大学進学のために家を出るまでは、モールは私の生活になじみ深いものであったが、1984年に大学を卒業してマンハッタンに移ると、私の日常からは随分遠いものとなった。だが、私は今もあるショップのことだけは忘れられない。それはWatch Station & Sunglass Hut(ウォッチステーション&サングラスハット)だ。サングラスにはあまり興味がなかったが、ウィンドウショッピングで時計の数々を眺めるのは最高だったし、その品揃えは素晴らしかった。ティソやハミルトン(さらにETAのCal.6824を搭載したいくつかの懐中時計)、その他にも多くのブランドがあり、ファッションウォッチからより高価な“ファイン”ウォッチまで見たことを覚えている。

2013年のサングラスハットの店舗の1つ(Image, Wikipedia)。元はウォッチステーション&サングラスハットで、ウォッチステーション インターナショナルは2007年にフォッシルループに売却された。

 モールに店を構える宝飾店では、ロレックスやオメガに至るまで、あらゆる機械式時計があった。オーデマ ピゲやヴァシュロン、パテックといった多くの一流スイスブランドは置いておらず、少なくとも私は見かけなかったが、当時この3ブランドの流通量はごくわずかであった。つまり“モールウォッチ”とは、特定の種類の時計を指すものではなく、実はこの言葉を使うことに何の意味もなかったかもしれない。実際のところ、主要都市に住んでいるか、例えば、パテックの2499をショーケースに収めるようなこだわりをもった、家族経営の高級宝飾店が近くにない限り、どの時計も“モールウォッチ”だったのだ。

「見れば分かる」– 最高裁判事ポッター・スチュワート氏がポルノ映画の判別について言った言葉。

では、一体どうして我々は“モールウォッチ”という言葉を侮蔑的に使うようになったのか、そしてそれは正確にはどういう意味なのか? “モールウォッチ”が単に“ショッピングモールで売られている時計”を意味する言葉でないのは明らかだ。アメリカのショッピングモールはいまや衰退してしまったが、私が子供の頃にたびたび訪れたモールはまだかろうじて残っていて、シンプルにキャンプヒルモールと呼ばれる、極めてありふれた施設となっている(そうはいっても、2010年初頭あたりに始まり、“デッドモール”という不吉な表現が日常的に使われることにつながった、いわゆるリテール・アポカリプス〈小売業の終末〉を生き残ってきたことは評価するべきだろう)。ひょっとすると2流のモール(ルート15をほんの10分ほど行けば、もっと魅力的なキャピタルシティモールがある)は、2021年において、退屈で安っぽい作りの、完全に使い捨ての“モールウォッチ”の本当の供給源となっているのだろうか?

 結論から言えば、NOだ。集客の核となっているテナントは、ボスコフスと呼ばれる百貨店で、そこには驚くほどバラエティ豊かな時計がある。確かに、ジェフリービーン、フォッシル、インビクタ、トミーバハマといった低価格帯の商品もある(さらにこの4ブランドの中に膨大なバラエティのデザインがあり、機能面での選択肢も豊富だ)。しかし、時計ファンお気に入りのブローバやG-SHOCK、シチズン、そして大人気のセイコー5を含むセイコーも売られている。“モールウォッチ”を“モールで売られている時計”として解釈すれば、これまで同様、いや、これまで以上に説明に困ることになる。

 それでもなお、この言葉は使われている。私は今年に入ってからシャネル J12に関する記事のコメント欄でこの言葉を目にしたのを覚えている。そのときから私は、この言葉を使うときに我々は何を言わんとしているのかと、考え始めた。そんなとき、私が生きる業界に対する評価が年々辛辣になってきた息子のザックが、私にこう言ったのだ。「本当にモールウォッチの意味が分からないの? 聞いたこともない言葉だけど、僕には意味が分かるよ」と。ごもっとも。しかし、この言葉は単純に言葉どおりの意味ではないし、字義どおりの意味と、表す意味が違っているのだ。

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これがファッションだそうだ。ご覧あれ

さて、もし“モールウォッチ”が“モールで売られている時計”という幅広い意味ではないならば、きっといかにもモールで売られていそうな種類の時計を指しているのではないだろうか。私にはどちらにしても意味がはっきりしないが、話を進めるために、それは“ファッションウォッチ”であると仮定しよう。まず第一に、もしあなたがある時計を“モールウォッチ”として中傷するとき、その時計がファッションウォッチっぽいということを意図しているとしたら、結局のところ、“モールウォッチ”という言葉に行き詰まるのとほとんど変わりはない。ファッションウォッチの歴史を詳しく知りたいなら、ジョー・トンプソン(Joe Thompson)による 歴史紹介を手放しでオススメするが、デザインによって選ばれる安価に作られた時計は“ファッションウォッチ”という言葉よりずっと以前から存在していたということは、覚えておいた方がいいだろう(例えば、1920年代のピンレバー式キャラクターウォッチのように)。

 そのため、ある時計を軽蔑して“ファッションウォッチ”と呼ぶときは、以下のようなものを指しているかもしれないと覚えておいてほしい。

あるいはこれだろうか。

ゲスの世界。

もしくはこれか。

私とカルバンクラインの間には何もない。

あるいは、こんなものかもしれない。

コレクションしたくなる、愉快で極めてバラエティに富んだフォッシルの時計。 

 ふー。さて、“モールウォッチ”がダメならば、“ファッションウォッチと言い換えられるモールウォッチ”はなおさらダメだ。では、時計愛好家がある時計を大雑把に蔑むには、一体どうすればいいのだろう?

 ところで、いわゆるファッションウォッチやモールウォッチと呼ばれる時計にも、ファンがいるということは忘れてはならない。人々が好みでない時計に対して使う別の呼び名に“マイケル・コースウォッチ”がある。マイケル・コースやその同種の時計は、ゴム製のアヒルのおもちゃと航空母艦の関係ほどに、良質な時計づくりからかけ離れていることは分かっている(この業界に携わって30年以上経つが、 良質な時計づくりの意味するところも理解している自信はないが)。しかし、そういった時計は300ドル以下で、世界中のパテックの5711を合わせたよりも、おそらく何百万もの純粋な喜びを与えてきた。私は常々、 べっ甲のRef. MK5839 “ブラッドショー” クロノグラフがちょっと洒落ていると思っていたのだ。

 確かに、モールウォッチの中には、19世紀に酔っぱらいがこぞって飲んだ安酒のジンのごとく、突然、軽々しく登場したものもあるが、どんな価格帯にも、個性がなくてぞっとするような、軽率でありふれた陳腐なデザインは存在する。平凡さほど大衆的なことはないのだ。何はともあれ、多くの人が“モールウォッチ”というときに意図するものの多くは、現在のモールではほとんど手に入らない。日和見的で軟弱な時計デザインはキックスターター(アメリカのクラウドファンディングサイト)に場を移して久しいようだ。しかし、私はモールウォッチという言葉は使い続けられるのではないかと思っている。というのも、より多くの時計ファンの間で「ありがとう、でもそれは嫌い」の短縮形として日常的に使われるようになってきたからだ。

 私は2ドルのワインを2005年のドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ ラ・ターシュや何かと同じように崇めるべきだと言う気はない。しかし、もし安くて素晴らしいものの価値を認めて尊重できないならば、問題なのは時計ではなく、我々が面白みのない気取り屋になってしまっているということであり、たまには蔑まれるショッピングモールに出かけてみるといいかもしれない。