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本記事は、“コスモグラフ “ル・マン”が“デイトナ”になった理由と成功への道のり”の後編です。前編の記事はこちらから。
デイトナへの改名と巧みなイメージ戦略
ロレックスの歴史において、なぜコスモグラフは“ル・マン”ではなく、“デイトナ”となったのか。その由来はアメリカ・フロリダ州のデイトナビーチにあるデイトナ・インターナショナル・スピードウェイとの結び付きを強めたことにある。
ロレックスはコスモグラフ発表以前の1930年代から数々のクロノグラフを手がけてきた実績があるが、この分野では長年苦戦を強いられていた。1963年のRef.6239の登場によって、ロレックスのクロノグラフは大きな方向転換を迎える。当時のアドバタイジングで確認できるル・マンの名を冠したモデル名、ロレックスでは初のタキメータースケールを搭載したベゼルは、華やかなカーレースシーンへの参戦表明と言っていいものだった。そしてもうひとつ言えることは、このいわゆるル・マンの発表時において、ロレックスとル・マン24時間レースとのあいだには直接的な関係はなかったと思われるが、それから数十年後、ル・マン24時間レースの勝者にコスモグラフ デイトナが贈られるようになったことは、実に興味深い事実であると思う。
こちらは1970年のリーフレットだが、写真はル・マンの数年後に発売した年式の異なるデイトナ表記入りが掲載されている。文字盤には“DAYTONA”の名が入り、ベゼルはRef.6239用としていちばん最後に登場したタイプが採用されている。
1967年のリーフレットには、ル・マンのイラストが掲載されている。なぜル・マンのイラストだとわかるかというと、文字盤の12時位置に2行で“ROLEX”“COSMOGRAPH”表記が入り、タキメーターべゼルには“275”の数字が入るからだ。6時位置には“ダブルスイス”表記もある。
「未来とは、今である」。目の前のことに全力を尽くすことで未来は開ける。今の頑張りが未来を創るという意味を込めたアメリカの文化人類学者のマーガレット・ミードの名言だが、まさにロレックスのたゆまぬ努力は確かな結果を残したのだ。
古いアドバタイジングはすべてニック・フェデロヴィッチ氏が所有する貴重な資料だ。右側にあるのは1965年のデイトナ用の広告。この広告以降、ロレックスはデイトナ名を前面に打ち出している。
前述のとおり、1964年からロレックスは世界最大級のマーケットであった北米市場に向けて、文字盤に“DAYTONA”のプリントを入れたRef.6239を投入し始めるが、この戦略がマーケティングとして功を奏して、コスモグラフは成功への道筋を歩むことになる。時計、クルマ、ファッション関連を中心に、古い雑誌やポスターなどを取り扱うアド・パティーナの創業者であるニック・フェデロヴィッチ氏による、ル・マンおよびデイトナに関するアドバタイジングへの考察は以下のとおりだ。
「ル・マンの広告が最初に打たれたのは1964年ごろだと推測しますが、この時点ではデイトナとは呼ばれていなかったことは確かだと思います。翌1965年の広告から正式にデイトナというモデル名が記載されるようになりました。古いロレックスの広告を調べていくにつれて解明できたことは、掲載されている時計の年式と広告が打たれた年は一致しないことです。私たちのようなコレクターやマニアは、時計のディテールにこだわりますが、当時の広告において厳密な表現はさほど重要ではなく、そのモデルの主立った特徴を見せることに重点を置いていた傾向が見られます」
時計の説明よりも、むしろカーレースやスポーツカーの写真を巧みに使いながらイメージを刷り込むことで、ロレックスはレースの世界との距離を縮めたのだ。
このようなブランディングと並行して、1965年に登場したねじ込み式のクロノグラフプッシャーを初採用したプロトタイプ Ref.6240の登場をきっかけに、コスモグラフは段階を踏みながら機能性を高め、防水クロノグラフへと変身を遂げて独自路線を追求していく。
1966年に打たれたロレックスの広告。サブマリーナーならダイビング、ロレックスならスポーツカーなど時計とマッチした背景を使うことで、それぞれの世界を写真を使って表現した。
過酷なレースで育まれたレーシングクロノグラフ
北米市場に迎えられたコスモグラフ デイトナは、ここから新たな物語を紡いでいくわけだが、これに関連する話題とともに、ロレックスならではの防水クロノグラフが完成されるまでのヒストリーもル・マンと同様、極めて興味深い。
コスモグラフ デイトナが台頭した1960年初頭、カーレースは新たな時代を迎えて、かつてないほどの熱気に包まれていた。この時代のレーシングカーへの造詣が深く、希少なクラシックカーを販売するコーギーズのオーナーである鈴木英昭氏に、1960年代のル・マン24時間レースについて話を聞くことができた。
ル・マン24時間レースの競技はフランス中部にあるル・マン市のル・マン24時間サーキットで行われていた。写真は1925年から始まったル・マン式スタートの様子。シートベルトを閉めないドライバーが多かったため、1971年から通常のローリング式スターティングを採用するようになった。
デイトナ24時間レースは、ル・マン24時間レースの形式を踏襲しているが、高速オーバルコースの特性に加え、途中に組み込まれたテクニカルセクションが存在することからマシンやドライバーにかかる負担の大きいレースである。バンクではマシンに外方向と下方向でのGがかかることからサスペンションのセッティングにも苦心したという。
「この時代は、空気抵抗の測定精度が向上したことで、レーシングカーのデザインが劇的に変わります。ル・マン24時間レースでは、フォードがフェラーリを買収しようと試みたことから両社の対立が始まり、1960年から1965年までフェラーリが6連勝を飾る一方、フロントエンジンからミッドシップエンジンに切り替わり、戦力を増強。1966年はフォード GT40が初めてフェラーリを打ち負かして4連勝しますが、1970年には徐々に実力を高めてきたポルシェが初勝利します。1969年からレースで使用したポルシェ 917を見ればわかるように、レースの世界では当然のこととして認識されていますが、かつて大活躍したフェラーリ 250TR(テスタロッタ)のようなデザインはこの頃には一切見当たらなくなります。アメリカにおけるレースシーンはというと、1962年からデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで開始されたデイトナ24時間レースは、まだ知名度は低かったのですが、レースの報酬が高かったことを理由に、ヨーロッパから多くのレーサーが参加するようになりました」
同じ時代、レースの世界を走り始めたコスモグラフ デイトナにおける進化の過程はレースに相通じるものがある。苛烈を極めたデイトナ24時間レースを耐え抜くためにレーシングカーはスタイリングを洗練させ、スペックを高めていった。そんなレースにふさわしいクロノグラフとしてコスモグラフ デイトナに求められたのは耐久性を高めること。特に当時のクロノグラフ全般の弱点であった防水性能の向上だった。1965年に登場したRef.6240はプロトタイプのねじ込み式クロノグラフプッシャーを採用し、1969年から登場した(1970年、71年とする説もある)Ref.6263は、それを正式に採用したモデルだ。12時位置のプリントの2行目には、防水性能を示した“OYSTER”の文字が加わる。このRef.6263の製造が1989年まで続いたことからもクロノグラフとしての信頼性の高さがうかがえる。
さらなる完璧さを求めたロレックスは、40㎜径のオイスターケースにリューズガードを与え、初の自動巻きクロノグラフムーブメントとなるCal.4030を搭載したRef.16520を1988年に発表する。文字盤の2行目のプリントには、“OYSTER”のほかにデイトナ初となる“PERPETUAL”の表記が入る。このアップデートの結果、コスモグラフ デイトナはクロノグラフという複雑機構でありながら、そのほかのプロフェッショナルモデルと同等クラスの防水性能や耐久性を手に入れた。もうひとつ、コスモグラフ デイトナとカーレースの結び付きを考察するうえで、俳優ポール・ニューマンの存在はやはり欠かせない。ご存じのように、レーシングドライバーとしても活躍した彼の腕には手巻きのコスモグラフ デイトナがよく巻かれていた。そのため彼が身につけていたエキゾチックダイヤルと呼ばれる文字盤が入るコスモグラフ デイトナは、のちにポール・ニューマン モデルと呼ばれるようになるわけだが、その人気は衰え知らずで現在も価格の高騰が続いている。
つまるところ、カーレースの世界や第2次世界大戦後にアメリカの好景気が絶頂を迎えていた北米市場に勝機をみいだしたロレックスのマーケティングは、結果論として正解だったわけだ。歴史に“もしも”はないが、ロレックスがデイトナではなく、ル・マンへの道を目指し続けていたとしたら、コスモグラフと名付けられたクロノグラフの運命は、今とはまったく違う道を歩んでいたかもしれない。
Photographs by Tetsuya Niikura, Keita Takahashi, Nicholas Federowicz (Ad Patina), Courtesy One Minute Gallery, Vintage Watch - Libertas, Vintagerolex D