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今年の4月某日。日本人で初めてデイトナ24時間レースを制したドライバーのひとり、鈴木利男氏が手にしたウィナーズデイトナの取材が実現した。そのときの様子は記事「ロレックス初のウィナーズデイトナを日本で発見」でご確認いただきたいが、筆者は記事のなかで同じチームでレースを走り、ウィナーズデイトナを手にした長谷見昌弘氏、そして星野一義氏の個体もこの目で見てみたいと書きつづった。それから数カ月。ついにその願いが叶ったのだ! 今度は長谷見氏のウィナーズデイトナである。
ロレックスは現在、フォーミュラ1、FIA世界耐久選手権™、ル・マン24時間レース、そしてデイトナ24時間レースなど、世界的なモータースポーツイベントで公式タイムキーパー・パートナーを務めているが、なかでもデイトナ24時間レースとル・マン24時間レースでは、レースの優勝者(チームのドライバ)にコスモグラフ デイトナが贈られることになっている。その優勝者に贈られるコスモグラフ デイトナこそ、ウィナーズデイトナだ。
デイトナ24時間レースでは1992年から、ル・マン24時間レースでは2001年から優勝者にコスモグラフ デイトナが贈られているが、ケースバックにレースのロゴと優勝年を示す4桁の数字、そして優勝者を讃える“WINNER”の文字が刻印されるという点が大きな特徴である(厳密に言えば、開催年によってロゴのデザインが異なるほか、ロレックスロゴが入るものもある)。時計はその時々の現行モデルであり、基本的に通常販売されるものとデザインや機能に変わりはないが、レースの勝者だけが手にすることができる極めて希少な存在なのである。
「いただいてから普段も身につけていました。特にレース関係者と会うときにはいつもつけています。これまでにオーバーホールをしたことはないですね。だから最近ちょっと調子が悪いんですよ。リューズを回すときに変な感じがあるでしょう?」
そう長谷見氏から言われてリューズを回してみたが、実は特に違和感は感じなかった。むしろ気付いたのは、センタークロノグラフ秒針の針ズレだ。リセットプッシャーを押したときに12時のゼロ位置で止まらず、少しズレた位置に針がリセットされたのだ。これは確かに調子はよくない。だが、外装を見る限りそれ以外は特に問題はなく、むしろこの時計が30年以上前のものだと考えると、とてもキレイなものだった。
自動巻きのコスモグラフ デイトナ Ref.16520は、1988年から製造を開始し、2000年にRef.116520が発表となるまで製造されたが、細かな話をすると製造時期によっておおよそ7種類のダイヤル(マークI〜 VII)が存在していることがわかっている。長谷見氏のウィナーズデイトナはどうだろう? 詳細を見てみたい。
1992年に贈られたウィナーズデイトナということ、加えて時計のディテールを見る限り、長谷見氏のものはおそらく1991〜1994年頃(1990〜1992年頃とする説も)に製造された個体に見られるマークIV(4型)ダイヤルだと思われる。マークIVダイヤルの特徴は、12時位置の5行でプリントされたレターのうち、ROLEXの表記以外がサンセリフフォント(ひとつ前の時期のマークIIIダイヤルでは、すべてセリフフォントだった)、同じく6時位置の“T SWISS MADE T”表記もサンセリフフォント(マークIIIでは、すべてセリフフォント)になっている点にある。さらに最初期から共通のディテールだが、6時側の12時間積算計インダイヤル目盛りの“6”の数字が逆さまにプリントされて“9”のように見える、通称“逆6”になっているのも特徴。このあとに登場するマークVダイヤルでは“逆6”ではなくなり、文字盤の上下を基準に正しくプリントされた通称“正6”となる。
ブレスレットについても確認している。3列リンクのオイスターブレスレットはオールサテン仕上げ、バックルはシングルロックタイプだ。ブレスレット裏側に刻印された番号は、ブレスレット番号の78360(バックルの折り返しプレートにも刻印が見られる)、フラッシュフィット番号の503の数字が刻印されている。これはRef.16520に採用された最初のブレスレットで、1994年頃(95年頃とする説も)に新しいものと切り替わるまで使われたとされているものだ。これについても贈られた時期と一致しているため、当時のままなのだろう。
長谷見氏のウィナーズデイトナを見せていただいて気づいたのは、鈴木氏が持つものとは異なり“ブラウンチェンジ”していなかったということだ。一説によると、1991〜1999年頃まで製造されていたというマークIV、マークV、そしてマークVIダイヤルには、インダイヤルのブラウンチェンジが確認されている。長谷見氏の個体も鈴木氏のものと同じタイミングで贈られているため、製造時期は同じはず。であれば、同じようにブラウンチェンジしていてもおかしくないはずだが……。前述の3タイプのダイヤルが必ずしもそうなるというわけではないが、鈴木氏はずっと金庫に保管していたといい、長谷見氏は前述のとおり、普段も身につけていたということを考えると、おそらく使用環境が影響しているのだろう。これはなんとも興味深い事実だ。
1992年からロレックスがタイトルスポンサーとなったデイトナ24時間レース。同年のレースで、初出場ながら初優勝。しかも日本製のマシンと日本チーム、そして日本人ドライバーが初めて達成するという快挙を成し遂げたのが、日産のワークスチーム(自動車メーカーが自己資金でチームを組織したチーム)のひとつだった当時のNISMOだ。そして星野一義氏 、鈴木利男氏、アンデルス・オロフソン氏らとともに同チームのドライバーを務めたのが、今回取材をさせていただいた長谷見昌弘氏である。彼に話を聞くと、デイトナでの優勝の背後には、さまざまな事情があったことがわかった。
1990年のル・マン24時間レースでポールポジションを獲得したNISMOだったが、結果は当時の日本車・日本人ドライバー最高位となる5位入賞。チームは91年の優勝を見据えて準備を進めていた。その後のデイトナ24時間レース参戦の経緯は前回の鈴木氏の記事のなかでも触れているため割愛するが、1991年のル・マン、デイトナ24時間両レースの出場キャンセルを経た92年当時の様子を長谷見氏は次のように話す。
「ル・マンの代わりに出場が持ち上がったデイトナも、直前で出場がキャンセルになりました。これが幸か不幸か、92年のデイトナに参戦するまでに十分な時間ができたため、いろいろとテストもできたんです。だから準備は完璧だった。デイトナ24時間レースの開催は2月1日からでしたが、それに先駆けて1月の1、2、3日にテストデーがあったんです。もちろんレース本番はどうなるかわかりませんが、その時点で優勝の可能性が十分に見えていたという状況でしたね」
デイトナでの優勝は、まさに快挙というべき結果だったが、当時を知るドライバーとしては決して諸手を挙げて喜ぶことはできなかったようだ。長谷見氏はさらにこう続ける。
「当時はル・マンのほうが歴史があり、圧倒的に知名度が高く、ほかの耐久レースよりもアタマひとつ抜き出た存在でしたね。だから日本のワークスチームも目指すのは、ル・マンでの勝利。まずはル・マン。そこで勝てれば、デイトナにも出ようという具合でした」
とはいえ、デイトナももちろん有名なレースであったため、日産ではニッサン・パフォーマンス・テクノロジー(NPTI:Nissan Performance Technology Incorporated)を組織してレースに参戦していた。
「日本から車両を持ち込んで未体験の地で優勝するということは、もちろん難しいことですよ。しかも現地の慣れたアメリカチームを差し置いて優勝することができたんですから、当然、優勝は誇らしかった。帰国後に記者会見をやりましたけど、そこで初めて3人で顔を見合わせて“デイトナも結構人気があるんだな”なんて話をしましたね」
ウィナーズデイトナを受け取ったときはどんな気持ちだったのだろうか? 実はレースを終えるまで、長谷見氏の意識にはほとんどなかったようだ。
「表彰台でデイトナにロレックスの冠が付いていることに気づきました。パドックでロレックスがタイトルスポンサーになっているから、ひょっとしたらロレックスの時計がもらえるのではという話をしていましたね。聞くところによると、今はクラス優勝でももらえるらしいですが、当時は総合優勝、しかもドライバーでないと手にすることができないものでした」
時計についても興味は尽きないが、当時のレースの様子も非常に気になっていた。ル・マンもデイトナも同じ24時間の耐久レースだが、何か違いはあるのかと質問したところ、おもしろい話を聞くことができた。
「ル・マンとデイトナでは過酷さがまったく違うんですよ。ル・マンは直線も多く、前を見てアクセルを踏んでいればいいというシーンが少なくないんです。一方、デイトナのコースはストレートであっても全面バンクなので、常に横と下にGがかかります。クルマにかかる負荷が大きいですが、それはドライバーも同じでまったく気が抜けない。疲労度はル・マンと比べものになりません。ル・マンは基本的に3名のドライバーでレースを組み立てますが、デイトナは3名、ないしは4人以上(場合によっては5名)で組むのが普通です。ル・マンでは、ひとりが体調不良になって走れなくても残りのふたりでなんとかなる。でもデイトナは違います。同じ状況になったらとてもじゃないですが、相当ペースを落とさないと走りきれない。それくらい環境が違うんです。当時はル・マンのほうが世界的には知名度が高くて走りやすいのに、デイトナは日本ではあまり注目されないのに過酷。正直なところ、もう1度走りたいかと聞かれたら、デイトナは2度と走りたくないですね」
実は長谷見氏が時計好きという話を事前に聞いていたため、ウィナーズデイトナ以外にもコレクションの一部を持参いただいた。それが上のロレックスのデイトジャスト、オメガのシーマスター ポラリス デイデイト、そしてブルガリ・ブルガリだ。一見するとゴールドが使われているという以外に共通点がなさそうだが、すべての時計には世界的なレーシングドライバーである長谷見さんらしいエピソードがあった。
まずはロレックスのデイトジャスト。単なるコンビモデルのようにも見えるかもしれないが、ブレスレットに注目して欲しい。よく見るとイエロー、ホワイト、ピンクの異なる3種類のゴールドを使用したトリドールブレスなのだ。時期はいつだったか忘れてしまったそうだが、この時計の購入先はフランス。そう、ル・マン24時間レースに参戦したタイミングで購入したそうだ。ちなみに長谷見氏は、1986〜90年と96年にル・マン24時間レースに出場している。同じくブルガリ・ブルガリも、同レースに出場した際にフランスで購入したものだという。そしてオメガのシーマスター ポラリス デイデイト。これはマカオグランプリに参戦した際に購入したもの。こちらも購入した年は定かではないとのことだが、出場時期からすると1979〜82年のあいだのどこかになる。すべてレースに参戦して海外を訪れた際に手に入れた思い出深い時計ばかりだ。
「基本的に薄い時計が好みだけど、好きなのでなんでもつけますよ。ロレックスはデザインも形も大きく変わらないところが好きですね。時計に興味を持つようになったのは、実はこのデイトナじゃないんですよ。19歳で日産ワークスオーディションに合格して4輪の世界に身を置くようになりましたが、それ以前は2輪の、モトクロスレーサーだったんです。当時、立川にホンダ系のディーラーが持っていたバイクチームがあって、そこに所属していたんですが、そのチームの監督が持っていた時計がきっかけです。それはロレックスのステンレス製クロノグラフでした」
時計はもう手元にないということで、特徴を伺うと、なんとSSのプレデイトナ Ref.6238のシルバーダイヤルであることが判明した。もちろんコンディションによってもさまざまだが、少なくとも今なら600万円は下らない希少なモデルである。
「ずっと監督に譲ってくれってお願いをしていたんですよ。当時も彼がとても珍しいものなんだと言っていたのを覚えています。4輪の世界に入る前、18歳くらいだったと思いますが、監督が譲ってくれたんです。それから5〜6年は持っていましたね。“持っていた”というのは手放したわけではなくて、盗まれてしまったんです。23〜24歳のときなので1970、71年頃ですね。当時のピット(※サーキットに設けられている競技車両の整備を行う施設)は本当に屋根と壁だけの簡素なつくりでね。コースに入る際はレーシングスーツに着替えるんですが、そのときに時計を外してピットに置いていたんです。そしてコースから戻ってみると、なくなっていたんですよ。これだけは本当に残念でしたね。今でも悔やまれます」
監督からやっと譲ってもらえたというSSのプレデイトナは、さぞかし魅力的なものだっただろう。だが、過酷なレースを耐え、苦労の末に手にしたウィナーズデイトナは長谷見氏にとって、30年を経た今でも輝きを失わない、ひと際まぶしい存在になっているのではないだろうか。それと同時に、彼が使い込んだことで唯一無二の存在となったウィナーズデイトナは、我々時計好きにとっても後世に残して欲しい、日本人としてとても誇らしい時計に感じられた。
Photographs by Keita Takahashi